第十八話 西日
縁側には西日が差していた。
見覚えのないリクライニングチェアの上で、志乃は目を覚ました。実家の縁側。夢を見ていたのだろうか。夏の終わりに実家に帰って来て、それから……。身体を起こした志乃は、ふと違和感を覚えた。蝉の声が聞こえない。皮膚に感じる空気も違う。庭に目をやると、つつじが咲いているのが見えた。季節が分からなくなり、志乃は混乱した。
足音が聞こえ、エプロンを着けた美波が姿を現した。エプロンの下には、長袖の白いブラウスを着ている。
「しーちゃん」
優しい声で、囁くように声を掛ける。どうしたんだろう?
「お姉ちゃん」
そう言って顔を向けると、美波はぽかんと口を開けた。みるみる両目が赤くなり、涙が盛り上がる。
「お母さん、しーちゃんが喋った!」
美波はそう叫ぶと、志乃に抱き着いて泣きじゃくった。
半年が過ぎていた。
両親と姉の話によると、志乃は強風に煽られてビルの屋上から落ちたのだそうだ。幸運なことにセーフティネットに引っ掛かり、辛うじて一命を取りとめたのだという。
「お医者様には記憶障害だって言われたの」
志乃は半年もの間、口をきかず、ぼんやりしたまま過ごしたそうだ。
「どれだけ心配したか。あんた何でビルの屋上なんかに居たの」
そう言って母に泣かれた。
助けてくれた人は探しても見つからなかった。ビルのオーナーが責任を感じて治療費をすべて負担してくれたのだと聞いた。
「一緒に落ちた人は?」
リーシャンがどうなったか心配で尋ねても、二人とも訳が分からないという顔をするだけだった。
一年間、大学を休学した志乃は、後期カリキュラムが始まる秋になって、漸くキャンパスに戻って来た。なじみの顔がない学食のテーブルでスマホの電源を入れた志乃は、当てもなく画面を遷移した。以前使っていたものは事故のときに紛失してしまった為、新しく買い替えたスマホの中身は、まだ真っ新に近い。同学年だった友人たちは専門課程に進級し、別の学舎に移ってから疎遠になった。
連絡先に浩宇の名前はない。検索を掛けても、リーシャンのユーチューブも見つからなかった。あれは夢だったのか。そう思う程に、何もかもが跡形なく消え去っていた。
時折り冷たい風が吹くようになった。午後の講義が休講になり、時間が空いた志乃は、自転車で海沿いの道を走っていた。もうすぐ琳タワーが見える。
確かめようと思った。裏の駐車場を入り、エレベーター横のスチールの扉を開ける。見上げた螺旋階段は遥か上まで続いているように見えた。
よく登れたものだと思う。自分の脚を褒めてやりたい。ガクガクと笑う膝をなだめながら、志乃は屋上の扉を押した。
強い風が吹き付けた。
コンクリートだった筈の地面には芝生が生い茂っていた。一面の芝生に風が波を立てる。少し茶色の混じる波頭が綺麗に並んで流れていく先に、胸のあたりまでに高くなった柵が見えた。屋上には芝生の波と風の音だけ。吹きぬける風の音に、風見鶏が向きを変える軋んだ音が混じる。
ペントハウスはなかった。リーシャンは、消えてしまった。