第十七話 風見鶏
やめて!
時間が止まったような気がした。リーシャンは不思議そうに首を傾げ、彼女を見た。
「僕は莉香だよ。莉静じゃない。莉静は海の底にいるんだ。罪を、犯したから」
一瞬、すべての音が消えた。リーシャンの表情が変わる。大きく目を見開き、青い闇に目を凝らす。此処にはない何か別のものを見るように。おぼろげに輪郭を現す鬼胎から目を逸らすことが出来ずに、その正体を見極めようとするように。
声のない叫びが聞こえた気がした。慟哭するテルミンに似たそれは、絶望を孕んだ音のない悲鳴だった。誰もが金縛りに遭ったように動けない中を、一つの影だけが揺らめくように移動する。その動きはゆっくりなのに、誰も後を追うことができない。
リーシャンは志乃の目の前を通り過ぎ、躊躇いも無く玄関の扉を開けた。呪縛の鎖を引きちぎるように立ち上がった浩宇が後を追う。動かなくなってしまいそうな脚を無理やり引きずり、志乃も部屋を出た。
風の音。風見鶏の軋み。
強い風に、リーシャンの髪がなびいていた。蒼ざめた顔で、途方に暮れたように、リーシャンは屋上に立っていた。膝までしかない低い柵に凭れるようにして。
「リーシャン!」
呼びかける浩宇の声に、リーシャンはこちらを見た。
「ごめんなさい」
リーシャンの眼に涙が溢れる。
「リーシャン、動かないで」
志乃はそろそろと近付いた。リーシャン駄目、戻って来て。そっちへ行かないで。
リーシャンの眼が志乃を捉え、表情が微かに変化する。
「ユキノ」
こちらに手を伸ばそうとしたように見えた瞬間、強い風が吹いた。
「危ない!」
誰かの叫びの後、いくつもの悲鳴が響いた。
リーシャンの身体は風に煽られ、柵の向こうに大きく傾いた。足が地面から離れる。舞い上がるように、リーシャンは空に投げ出された。
吠えるような浩宇の声が聞こえた。
そのとき何をしたのか、何故そうしたのか、自分でも分からない。志乃は柵を蹴り、空中に飛び出していた。リーシャンの手が目の前にある。精いっぱい腕を伸ばし、その手を掴む。離さないで。此処にいるから。ちゃんと側にいるから。
リーシャンの口元に幸せそうな笑みが浮かんだ。志乃もそれに笑顔を返す。互いの身体を引き寄せ、かたく抱き合って一つになる。
そして二人は、空に落ちた。