第十五話 父母
浩宇とは来週また会う約束をして店を出た。
夕暮れの通りを歩きながら、整理しきれない感情を志乃は持て余した。私なんかが助けになるのだろうか。授業で学んだだけの薄っぺらい知識。何の経験も積んでいない福祉士の卵が、いったい何の役に立つというのだ。そう思いかけて志乃は気付いた。浩宇が期待しているのはそんな事ではない。むろん同情でもない。そんな感情は無礼に思えた。志乃自身のリーシャンに対する想いを何と呼べばいいのか、今一つはっきりとは分からない。それでも、二十歳の志乃にとってリーシャンは、今現在で世界一大切な存在であることに変わりはない。きっと、それでいいのだ。今は、それで。
秋の気配は急激にやって来た。先日までの残暑が跡形もなく消え、時おり冷たい風が吹く。もう少し気温が下がれば、あの部屋と同じになるなと志乃は思った。
待ち合わせたパーラーで買ったケーキを田舎のお土産と一緒に後部座席に置いて、ベンツの助手席に座った志乃は「よろしくお願いします」と浩宇に頭を下げた。
「気負わなくていい。いつも通りで構いません」
バックミラーに目をやったまま、浩宇は笑った。
リーシャンに会うのは一か月振りだ。その間にCDデビューの話があり、今日は午後からレコード会社の人が来るのだそうだ。リーシャンに付いていてやってくれと言われた。あの子が動揺しないように、側にいてくれるだけでいいからと。
深呼吸をした。心臓の音が聞こえる。緊張がピークに達した頃に、車はマンションの駐車場に停まった。
エレベーターで最上階に上がり、屋上に出た時、女性の声が聞こえた。耳慣れない発音に男性の声が重なる。リーシャンの声ではない。低音の、大人の男性の声だ。どこかで聞いたような。
「爸爸」
浩宇が放心したように呟くのが聞こえた。
中国語の会話が飛び交い、志乃は蚊帳の外に置かれた。浩宇の表情を見る限り、あまり良い状況ではなさそうだ。
その時、浩宇の携帯が鳴った。
「はい。そうですか。……いえ、上がって来てもらってください。はい」
そう言って電話を切った浩宇が、中年男性に向かって何か言った。志乃を促して非常階段に入る。四人はそのまま一階下に降り、8451室に入った。
ペントハウスと比較にならないほど広く豪華なリビングは、けれど人が住む世界に違いなかった。レースのカーテンを通して秋の日差しが降り注ぐ。キャビネットには高そうな酒類。開け放された扉の向こうには、大型のディスプレイがたくさん並んでいるのが見えた。
「浩宇、このお嬢さんは?」
志乃に向かって会釈した後、女性が日本語でそう尋ねる。
「莉静の友達です」
浩宇が答えると、女性は目を丸くした。驚いた顔が、何ともいえず嬉しそうな表情に変わる。
「そう。莉静の」
優しい微笑に、気持ちが吸い込まれそうになる。テレビで見たよりもずっと綺麗だ。
「ありがとう」
彼女はそう言うと、「浩宇と莉静の母です」と自己紹介した。同じく「父です」と言った隣の男性が志乃に握手を求めた。大きな、温かい手だった。
インターホンが鳴り、来客の到着を知らせた。レコード会社の人はスーツを着た男性が一人と女性が一人。そしてもう一人、カメラを持った若い女性がいた。
「うちの広報です。契約の話と一緒に取材をさせていただこうと思いまして」
スーツの男性が笑顔でそう言うのを聞いて、浩宇の表情が曇った。
「仕事の話の邪魔をしてはいけないから、私たちは先に行っているよ」
博文がそう言って立ち上がった。カメラの女性が一瞬「おや?」という顔をしたのが見えたが、カードキーを取り出すのに鞄を探っていた浩宇は気付かなかったようだ。
「行きましょう、お嬢さん」
翠蘭が志乃に声を掛け、優雅に立ち上がる。少し気後れしながら志乃は後に続いた。