第十四話 告白
小児の生体腎移植です。すべて極秘のうちに計画は進められました。金を積んで、法の目の届かないアンダーグラウンドで手術をしてくれる医者を手配し、飛行機ではなく船舶で、ある国に向かいました。
莉香と、何も知らない莉静を乗せて、家族は船に乗りました。凪いだ海でした。夜遅くに出航したので海面は真っ暗で、波頭ひとつ見えない。そんな海でした。
何時ごろだったか、まだ深夜にはなっていなかったと思います。船内の廊下を歩いていた私は、船室から飛び出してくる莉静を見ました。真っ青な顔で私を見て、何も言わず階段を駆け上がっていきました。尋常じゃない様子に急いで追いかけると、莉静は甲板から身を乗り出し、海面を覗き込んでいました。
「莉静?」
声を掛けた私を振り向いた莉静の眼から、涙が零れるのが見えました。
「……嫌だ」
風があれば消えてしまったであろう程に小さな声でそう言って、莉静は柵を乗り越えようとしました。ちょうどその時でした。突然吹き付けた風に船が揺れ、莉静は海に落ちました。一瞬のことでした。小さな体が宙に舞い暗い、水面に吸い込まれるように消えるのを見ながら、私の身体は鉛のように重くて動くことすら出来ませんでした。
あの子が飛び出してきた船室は、莉香の病室でした。何も知らされていない莉静と違って、莉香は自分の病気の事も、移植の事も知っていました。莉香はあの子に話したに違いありません。今から何が行われようとしているかという事を。
何も知らずに自分に臓器を提供してくれる弟に真実を伝えておきたいと思ったのか、それとも、自分を差し置いて大人たちにチヤホヤされている莉静に嫉妬したのか、今となっては確かめる術はありません。あの子は莉香から真実を聞かされた。起きたことは、それだけです。
考えてみてください。今から自分の腹が割かれ、臓器が取り出されると聞かされて、七歳の子供が冷静でいられるでしょうか。恐怖にかられた莉静は逃げ出した。そして、海に落ちた。
「莉静はすぐに助け上げられましたが、何日も意識が戻りませんでした」
浩宇は、そこで言葉を切った。辛そうに唇を震わせ、微かに息を吐く。言葉も出ない志乃を暫く見詰めた後、両手の指を組み合わせ、その上に額を乗せた。
「悪いことは続けてやって来るものなのか、その後、莉香の容態が急変しました。そして懸命な治療の甲斐なく、莉静が目を覚ます前に、莉香は帰らぬ人となりました」
組み合わせた指が震えている様に見えた。言葉を絞り出すように、浩宇は続けた。
「何日も死線をさまよった莉静が漸く病院のベッドで目を覚ました時、母から掛けられた言葉は『兇手』でした。人殺し、という意味です。『ごめんなさい』、そう言った莉静の顔を、私は忘れることが出来ない」
浩宇の喉が震え、微かな声が漏れた。それを噛み殺し、感情を押さえつけるように、浩宇は肩を上下させた。
「母も後悔していました。けれど一度口にしてしまった言葉は取り消せない。覆水難収、もう、どうしようもなかった」
苦しそうな声が途切れ、浩宇は再び顔を上げた。
「溺水による低酸素のせいなのか、莉静は少しおかしくなってね。自分を莉香だと思っている。そして莉静は、今でも深い海の底にいるんだ。あの部屋の青い色は医師の指示で、莉静を落ち着かせるためのものです。あそこにいる限り、あの子はリーシャンとして人格を保っていられる」
何も言えなかった。解離性障害。心的外傷への自己防衛として自己同一性を失う神経症だ。強いショックから心が壊れてしまうのを防ぐ為に自分の精神を分断する。莉静は自分の心と記憶を海に沈めた。あの部屋は海の底、莉静を閉じ込める深海の牢獄なのだ。そして、莉静は莉香になった。愛されたかったから。
「父が海外へ拠点を移すことになった時、私は莉静と此処に残ることにしました。あの子が不憫で仕方がなかった。何とかしてやりたかった。二年ほど前、ふと思いついて、あの子にテルミンを弾かせてみました。才能は消えていなかった。私は彼の演奏をユーチューブに流すことにしました」
浩宇は少し落ち着いた口調になり、志乃に向かって小さく微笑みかけた。
「君が見たユーチューブは初期のものです。ホラーな噂が立ったことは予想外でしたが、そのお陰で登録者が少しずつ増えていきました。それに今年の夏、君に出会ってから大きく変化が見られたんです。感性がより豊かになり、音の幅が広がりました。登録者は桁違いに増え、先日ついに、CDデビューの話が舞い込みました」
浩宇は先程の沈鬱な表情とは打って変わった優しい眼差しで、また遠くを見た。
「あの子が元に戻ることは、もう無いのかも知れない。一生あの部屋から出ることは出来ないのかもしれない。けれど、それでもリーシャンが幸せを感じる瞬間があるのなら、一時でも笑顔でいられるのなら、私はそれで良いと思っています」
真摯な眼差しが志乃を射る。
「あの子を、支えてやってはくれませんか」