第十三話 莉香
指定されたのはカフェではなく、会員制のバーだった。入り口で困っていると浩宇が現れ、志乃を中に誘った。個室に案内され、飲み物とつまみが提供される。浩宇が目で合図すると、ウェイターは黙礼してドアを閉めた。
BGMの流れない、何の音もしない部屋だった。暗い照明。沈み込んでしまいそうなソファ。
「君から連絡をくれてありがたかった」
目を合わさないままで志乃の話を聞いた後、浩宇はポツリとそう言った。
「いつかは話さないといけないとは思っていた。けれど踏ん切りがつかなくて、今になってしまいました」
浩宇はミネラルウォーターのグラスを空け、大きく息を吐いて顔を上げた。
「志乃さん」
縋るような、睨み付けるような視線だった。
「リーシャンを大切だと思ってくれますか」
志乃が頷くと、浩宇は重ねて言った。
「何を聞いても、あの子の味方でいてくれますか」
志乃は大きく息を吸い、吐き切った。姿勢を正して浩宇を睨み付ける。
「約束します」
浩宇の目が潤んだように見えた。目を伏せ、また顔を上げる。
「あの子の本当の名前は、莉静といいます。琳 莉静。それが、あの子の名前です」
悲し気な眼差しで遠くを見つめながら、浩宇は語り始めた。
私たちの父は、琳 博文、母は翠蘭。あなたがテレビで見た通りです。若くして起こした会社が軌道に乗りかけた頃、長男の浩然……兄が生まれました。二年後に次男の私が生まれた頃から業績は急上昇し、父は実業家として名を馳せるようになりました。父は日本に拠点を置き、あのマンションで私たち家族は暮らしていました。そして私が十一歳のとき、年の離れた兄弟が出来ました。男と女の双子でした。男の子の名前は莉静、女の子の名前は、莉香。
莉香は美しい子供でした。周りの大人たちはその微笑に心を奪われ、聡明で愛くるしい彼女の虜になりました。一目見て愛さずにはいられない。莉香はそんな少女でした。一方、莉静は臆病で引っ込み思案で、いつも莉香の後ろに隠れているような子供でした。その差は圧倒的で、両親の愛情も、より多く莉香に注がれました。会社の業績は順調で、後継ぎとなる長男は優秀、次男―僕という予備もいる。もう男の子は必要なかったんです。
もう一つ、大きな理由がありました。残念なことに莉香は生まれつき腎臓に欠陥があり、医者からは二十歳まで生きられないと言われていました。そのせいで両親は莉香を溺愛するようになり、次第に莉静は顧みられなくなっていきました。
四歳の頃、莉香と莉静は幼児教室でマトリョミンを習いました。莉静の才能の片鱗が見えたのはその時でした。莉静の紡ぎ出す音は、他の子供とも、先生たちとも全く違った。あまりにも鮮烈に、魂に響く音。天賦の才能と言えました。
けれどコンクールに出たのは莉香の方でした。両親に気を遣った先生たちは莉香を誉めそやし、莉静の才能から目を逸らしたのです。
その頃からでしょうか。幼児が物心ついて、自分と他人の区別が分かってくる頃です。莉香は、あざとさを身に着けました。自分が愛されていることを理解した上で、より多くの愛情を手に入れようとした。悪いことは莉静のせいにして、自分は被害者となり、また救いの手を差し伸べる女神を演じました。大人たちは、それを信じ、莉静を叱りました。気の弱い莉静は弁明することも出来ず、ただ泣いていました。いや、無実を訴えても無駄だったことでしょう。大人たちは分かっていました。その上でなお、莉静に大人と同じ忖度を要求したのです。幼い莉静に理解できるわけがない。さぞかし辛かったことでしょう。
六歳になる少し前から、莉香は体調を崩すことが多くなりました。医者からは早急に移植をしなければ命に係わると言われました。莉香の状態を鑑みると適合率の高いものでないと危険だとのことで、両親は血眼になってドナーを探しました。あらゆる国に提供者を求め、時には闇ルートも含めて探しても、莉香に適合する腎臓は見つかりませんでした。一年かけて探しても見つからない。絶望に沈みかけた時、一条の光が見えました。
それは残酷な光でした。双子の弟、莉静に白羽の矢が立ったのです。
白血球の型が完全に一致する確率は、兄弟で四分の一だそうです。検査の結果、兄と私は不適合でしたが、莉静だけは見事に適合しました。両親は涙を流して喜び、大人たちは掌を返したように莉静を持て囃しました。母は莉静を抱きしめて言いました、「あなたは私の誇りよ」と。