第一話 日常
ある日の夏、とある集合住宅にて整然と並んだ部屋の中で一室、ドアが開いた。出てきたのは一人のやや小柄な女学生。長い焦げ茶の髪をツーサイドアップに纏め、白いブラウスに青いチェックのスカートの夏制服をしたその学生は薄汚れた白いマンションの階段を軽快に下って行く。
階段の入口を出た彼女の行く先は自宅のすぐ下にあるバス停、彼女はそこに着くと時刻票と横にある時計の時間を照らし合わせた。バスはあと5分で到着するらしい。
「…ふぅー…」
そうだるさの混じった息を吐くとベンチに腰を掛けた。
辺りにはセミの鳴き声が響いている。響いているといっても朝なので昼間程ではなく鳴いているのは精々、2匹程であろう。気温もそこまで高くない。
少女は自分の顔を軽く揉むと屋根の日影で心地良さそうに目を瞑って到着を待った。
……
遠くから聞き慣れた排気音が聞こえる。
それが丁度彼女の目の前で停車すると「やっと着いたか」という顔でバスを見上げベンチから腰を上げた。
……ふと、窓の奥から何やら妙な視線を感じた。そちらに目をやると母親に連れられた幼い男の子が指を咥えてこちらを見ていたのだ。それを可愛らしく感じた彼女は控えめなつり目を綻ばせ柔らかく微笑みかけると車内に乗り込んでいった。
バスで10分、電車で15分程走ったところに彼女の学校はある。
その道中はぽつぽつと建てられたビルやマンション、家々の屋根があった。学校周辺の街の風景であるが閑静な団地の自宅と比べると賑やかなところである。
その街の駅から徒歩でいくらか歩いたところに学校名が刻まれた石札のある校門がある。その先の校舎までの道にはグリーンフェンスが設置してあり、その合間合間には木が数本立ち並んでいる。所謂、ここが彼女の通う高校だ。
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「あっ薫ちゃんだー」
教室に入り鞄を机に置くや否や一人の少女が声をかけてきた。
「薫ちゃん」と呼ばれた彼女の名前は瀬戸内薫。声をかけてきた少女は渡辺葵といった。薫の友人であり、今年の春に入学してから知り合った仲であった。
「ん、おはよぅ」
「昨日めっちゃかわいかったーっ!弟君」
「イヤイヤー大変よぉ?あの子世話すんの」
「えー?いいじゃんあれだけ愛らしかったらさぁ。話かけたらあの素っ気ない感じとかぁー」
「ああ、年上の女の前では大人しいんですよ?あの子。……私以外にはね」
どうやら昨日は葵が薫の家に遊びにお邪魔していたようだ。彼女が子供好きなのも相まって薫の弟の話で持ちきりである。
薫は笑いながら話していたが、最後ににやけながら流し目で返すと視線を下に下ろした。
弟を良く言われると嬉しいような、違うと言いたくなるようなどちらとも言えぬ心境。普段の弟の姿を思い出すと尚更複雑な気持ちになるのであった。
「あはは、そりゃ薫みたいなお姉ちゃんがいたら甘えたくもなるじゃん?」
「どうだか」
そう、続きを言いかけたところで朝礼のチャイムが鳴る。葵が時計の方に振りかえると案の定時刻は朝礼開始の8時35分を指していた。葵は薫に「またね」と軽く手を振ると薫もはにかみながら同じように返した。
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授業中、少し騒がしい教室、セミの鳴き声、窓からは木々の枝棚と鮮やかな葉が覗いている。そんな中、薫は頬杖をつきながらぼんやりと黒板の方を見ていた。教室にエアコンが導入される前におそらく気休め程度に設置されたであろう扇風機が薫の髪をなびかせている。
明るい性格ではあるが誰かと盛り上がってはしゃぐのはあまり好まない彼女は授業中などでは大人しかった。見た目の割には穏やかであると友人にはよく言われるようだ。ただ、だからといって勉強がよくできるわけではない。
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放課後、自宅に帰ると向かう先は小さな畳の部屋。そこには一つの小さな仏壇があった。薫はお線香を鉢に立てると丁寧に手を合わせる。目の前の写真には薫に似た女性の姿。それは彼女の母親であった。
「(ただいま、お母さん)」
他の誰かに聞かれるのが恥ずかしいのか、心の中で呟いた。母親に挨拶する時は彼女はいつも寂しげに、昔を懐かしむような表情をしている。
自分の机に鞄を置くと、しんみりとした気持ちを切り替えるようにリビングに向かった。そこには弟である裕樹の姿があり、テレビの前でテーブルに肘を乗せながらコントローラーをカチャカチャと動かしている。
「ただいまー」
「...」
ゲームに熱中しているのか返事はない。薫が不満そうに口を尖らせているとテレビ画面の車がいきなりひしゃげたと思うとクルクルと宙を舞って爆発した。どうやら彼がやっているのはレースゲームのようだ。
「あああああああああーー!!!」
「あんたいつもそれやってんね...楽しいの?」
「あたりめーーだろ!バーーカッ」
「なに?バカァ??こんのっっ」
いきなりバカと言われてムッときた薫は足元にあったクッションを拾うと裕樹の頭に"ぼふり"と叩きつけた。
「うにゃっ。なにすんだよ」
「ふん。(生意気な奴ー!)」
腑抜けた声を出す弟をよそに薫は頬を膨らませ、キッチンの方へスタスタと歩いて行く。棚に手を突っ込みチョコ棒を取り出すと乱暴にそれを毟り齧った。
裕樹はというと横目で姉に睨みを効かせている。前のテレビ画面では未だにクラッシュして黒焦げになった車が炎上しており、それが段々面白くなってきた薫は口をモグモグさせながらクスリと笑った。
学校でのあのおしとやかさはどこへ行ったのか。
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「ヒローー?私これからコンビニ行くけど、何か買って欲しい物ある?」
「アイス買ってー」
「なんの」
「ソーダ味のやつ」
風呂上がり、コンビニに行くついでに弟のアイスを買い行くことになった。すっかり暗くなった外、いつくかの街灯でオレンジ色がかかったその中を彼女は一人、歩いて行った。
「"ソーダ味のやつ"ってなんだっけ…」
「ヒロったら…肝心なとこ忘れちゃうんだから」
あらかた買いたい物は買い終わり、最後に頼まれた物をと、冷蔵庫の中を探しているが中々思い当たるアイスがない。「名前は忘れた」と弟に言われたが物を見れば思い出すだろうと一人で来てはみたものの、それは甘い考えだったようだ。
「これでいっかー」
こんなことなら連れてくれば良かったと後悔しながら当てずっぽで拾ったそれをかごに入れる。この後のことを思いながら半ばモヤモヤした気持ちで帰路に就いた。
来た道を辿っていると、すでに閉まっているであろう建物に差し掛かった。一階の入り口はガラス張りになっており、通りかかる薫の姿をうっすらと映している。
「…?」
その入り口の前を通り過ぎようとしたその時、薫は朝に感じたような妙な視線を感じた。彼女は少々恐怖を感じながらも立ち止まり、そちらへ視線を向ける。辺りが真っ暗であることも不気味さに拍車をかけていた。
視線を向けた先ははっきりとはわからないが大きい影が見える。ただそれは、明らかに人間ではない"なにか"であった。