38.ルチアの後悔
「お姉ちゃん、起きて!!」
「ん……」
ユサユサと揺さぶられ、ルチアはゆっくりと目を開けた。
目の前には笑顔のエリクが覗き込んでいる。
「エリク?」
「おはよう、朝ごはんだから母様が起こしてきてって」
「……もうそんな時間?」
ルチアは慌てて起き上がった。
「珍しいね、姉様が寝坊するの」
「うん……そうね」
「じゃあ、僕、先に行ってるね」
「ええ、起こしてくれてありがとう」
エリクはパタパタと足音を鳴らしながら部屋から出て行った。ルチアは思わず部屋の中を見渡す。
自室が既に懐かしいと思えるようになってしまった。ここで過ごした日々がとても昔に感じる。
「そっか……帰って来たんだったわ」
ぼんやりとした思考がはっきりとして、ルチアは溜息をついた。
ルチアは衝動的に家出して来たことを後悔していた。
アラーナの死、レオポルトとのこと、自分が思っていた以上に情緒不安定だった。
カファロ家に戻ってきて、家族と過ごすことによって少し冷静に考えられるようになり、自分のしでかした事の愚かさに打ちひしがれる日々を過ごしている。
突然手紙一つで家出をして、レオポルトだけでなく使用人達にも迷惑と心配をかけているだろう。
申し訳ない気持ちがルチアの中で日に日に大きくなっていた。
アラーナに対しても申し訳ない気持ちで一杯だった。約束を守れず逃げた自分を見て何を思うのか。ルチアはとても恥ずかしかったが、どうすればいいのか分からなかった。
カファロ家に戻ってからもう五日になる。戻って来た時、家族は温かく迎えてくれた。
ルチアが戻るまでにコンスタンツィ家から遣いの者がやって来て、彼女がこちらに戻ろうとしている事を伝えられたそうだ。
戻ってきた当日、離縁することになるとルチアは家族に伝えている。
全て自分の責任で、逃げ出してしまったと話した。
ヴィーゴはそうかとだけ言い、マグリットは頑張ったわねと労った。エリクは黙ってルチアと手を繋いだ。
その後は気を遣ってか誰も何も聞いてこない。ルチアはそれがありがたかった。
彼女はゆっくりと考える時間が与えられたのだ。
このまま何もせず過ごしていれば、その内レオポルトから離縁の申し出があるだろう。ルチアはもう愚かな事をしたくなかった。
しかし、今のままでは離縁の申し出を冷静に受け入れられるとは思えなかった。
いずれそうなるにしても、もう少し時間が欲しい。
ルチアは着替えた後、食堂に向かい家族と食事をとった。
結婚する前に並んでいた食事よりも内容が豪華になっている事に気が付いた。
それだけではなく、ところどころ痛んでいた壁も綺麗になっており、調度品も新しいものが増えている。
ここは自分の実家であるはずなのに、どこかしこにレオポルトの存在を感じさせた。
彼のおかげでいい風に変わったこの家が彼女のせいでまた窮地に立たされる事になるかと思うと、ルチアは胸が痛んだ。
食事の時間が終わり、ルチアは皿洗いをする。
「ご飯美味しかった?」
ルチアが洗った皿を受け取り、布巾で拭いていたマグリットが聞いてくる。
「うん。お母様の料理が一番ね。とっても美味しいし、懐かしい気がする」
「そう。愛情がたくさん詰まってるからよ」
「……うん、ありがとう」
マグリットの愛情はいつも温かく、彼女を優しく包んでくれる。
「ねぇ、ルチア。私はあなたが帰って来てくれて嬉しいわよ」
「お母様……?」
「ヴィーゴは何も言わないけれど、同じ気持ちよ。エリクはルチアが大好きだから、言わずもがなね」
「……ありがとう」
マグリットはルチアに向かってニコリと微笑む。だがルチアは笑えず神妙な表情に変わった。
「お母様、ごめんなさい。私のせいで……また貧乏な暮らしに戻るわ。レオ様に援助して貰った分も時間が掛かっても返そうと思っているの」
援助して貰った分を全部返すのにどれだけの時間がかかるか分からない。以前よりももっと厳しい生活になる可能性もある。
家族に苦労を掛けさせてしまうことにルチアは罪悪感を覚えた。
しかし、マグリットは気にした様子もなく笑顔で答える。
「いいのよ。そんなこと……あなたが気にしなくてもいいのよ。いざとなったらどこかに雲隠れしちゃえばいいわ」
マグリットがパチリとウインクをすると、ルチアは思わずクスリと笑ってしまう。
「ヴィーゴは、ルチアが離婚を決意して戻って来るなんて、一体あの男はあの子に何をしたんだ!!って怒ってたわ」
ルチアは慌てて首を横に振る。
「……違うわ!私が悪いのよ」
マグリットはクスリと笑って人差し指でルチアの鼻をポンっと突いた。
「それもルチアが我慢してそんな風に言ってるんだって、プンプンしてたわ」
「お母様……」
「娘を嫁にやる了承はしたが、ルチアを泣かす了承はしてない!とも言ってたわね」
ルチアは困ってしまい眉を下げる。けれどヴィーゴの気持ちはとても嬉しかった。
マグリットが温かな眼差しをルチアに向けてくる。
「でも、私は違う気持ちよ」
「え?」
「ルチア、あなた本当にいいの?」
「…何が?」
「コンスタンツィ卿のこと、好きなんでしょう?」
ルチアは驚愕してしまい、震えた声で聞き返す。
「な、何で……」
目を丸くするルチアに対して、マグリットはフフッと笑う。
「最初は、援助のために受けた結婚だったわよね。ルチアも彼を恩人だと思っていたけど、それだけだったわ。
でもこの前、王宮の舞踏会でルチアに会った時思ったの。
こんなに綺麗になったのは、恋をしてるからなのねって」
ルチアは完全に動揺していたため、上ずった声が出てしまう。
「こ、恋って」
「ルチアのコンスタンツィ卿を見つめる目を見たら分かるわよ」
マグリットが楽しそうにクスクスと笑うと、ルチアは恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にする。
「お母様には……敵わないわ」
「長年あなたの母親をやってきたのだから、当たり前でしょう?」
「……うん」
全て見透かされてしまいルチアは落ち着かない気持ちになったが、直ぐに小さく溜息をついて俯いた。
「でも、私……レオ様に軽蔑されてしまったの」
「それは彼にそう言われたの?」
ルチアは首を横に振った。
「軽蔑したとは言われてないけど、軽蔑されるような事をしてしまったの」
「……そう。でも言われてないなら彼が何を思っているかなんて分からないわよ」
「それは……」
言葉の意味は理解できる。彼がどう思っているのかを尋ねて、軽蔑したと直接言われてしまったらルチアは立ち直れそうにない。
しかし母親であるマグリットは容赦がなかった。
「それにルチアはちゃんと気持ちを伝えたの?」
「気持ち……?」
「好きですって言ったの?」
その質問にルチアは慌てて首を横に振る。
「なら、ちゃんと伝えないとね。いいこと、夫婦だからって気持ちを伝えることを疎かにしてはいけないのよ」
「……お母様もお父様に気持ちを伝えたの?」
「ふふ、それは秘密」
質問をはぐらかすように人差し指を唇に当てて微笑むマグリットはとても可愛らしく見えた。
気持ちは伝えないと伝わらない。それは至極当然の話だった。
気持ちを伝える事は、レオポルトを困らせるだけだと思っていたルチアだったが、伝えなければ何も変わらないし、始まらない。
例えそのせいで離縁になったとしても、もう既になったも同然なのだ。
援助も返すつもりならルチアには怖いものはない。
それならば一度くらい当たって砕けても良いじゃないか。
ルチアは今こそ覚悟を決めるべきだと考えた。
「……ありがとう、お母様」
「ルチア、少し屈んで」
言われたまま少し屈むと、マグリットは彼女の頭に口付けをしてくれた。
「幸運の口付けよ。
いい、あなたは私の大切な娘。ルチアの幸せが私の……いいえ、私達家族の幸せなの。大好きよ、ルチア」
マグリットの口付けはルチアに勇気を与えた。
「……私も大好きよ」
ルチアは涙が出るほど嬉しかった。




