帰タラー 足早(3章)
三章
「なー、あーしはやー。一緒に帰ろうぜー。いいだろー? なぁーなー」
「は、はやくしろっ! 足早! 他の奴らにバイ……帰ってること見られたらチクられるかもしれん」
後ろの席と横から俺をグイグイ引っ張ってくるのは、韋駄と轍先輩。帰りのSTの挨拶が終わったってのに、こいつらのせいで未だに席から動けん。何が面白いのかクラスの連中が俺を見てニタニタしてやがる始末だ。俺の不幸がそんなに嬉しいか? 下種め。
「おっけー。そうと決まればさっさと行こうぜー」
「そうだ。授業が終わったのにいつまでもクラスに残ってる必要はない」
二人は勝手に話を進めていく。やけに息ぴったりなのが余計頭にくる。
一度バイクで送ってもらって以来、轍先輩が頻繁に帰ろうと誘ってくるようになったこの頃。韋駄も一度は諦めがついたと思ったら、更にしつこさが増して戻ってきやがった。
韋駄は俺の脇を抱えて無理やり立たせて――っておい。
「お、落ち着け! ……少し考えろ。いつの間に俺たち一緒に帰ることになった?」
「えっ……一緒に帰んないん?」
心底驚いた表情をして俯く韋駄。
そんな顔しても駄目なもんは駄目だ。こればかりは一切譲る気はない。
誰かと一緒に帰るとか、自転車の速度合わせて帰らないといけないだろ? 信号でどっちかが渡りきれなかったら待たないといけない。そんなこと耐えられるかっての。
俺にとって一緒に帰るとか足枷でしかないんだよ。まぁ、こんな連中じゃ俺の足元にも及ばないだろうけど。それにもし俺が本気で自転車を漕いでいる所を見られでもしたら、確実に俺が帰タラーだってことがバレる。そうなったらこいつら徹底的な妨害工作をしてくるに違いない。
「これだから勘違いした奴は困るんだよな、足早」
轍先輩が余裕のある笑みを見せ、俺と韋駄の間へと強引に押し入ってきた。
「ほら、お前はもう用はないぞ。あっちにいけっ」
「えぇーーっ! それはないでしょーに」
叫ぶ韋駄を無視して轍先輩が突き飛ばすと、俺の肩に手を置いてエスコートを始める。
「それじゃあ足早、行こうか」
あんなねっちっこい韋駄を一瞬で……いざとなったら頼れる先輩だな。でも――。
「何言ってるんですか? 俺は轍先輩とも帰りませんよ? 前だって送ったきりで結局朝は迎えに来てくれなかったし……もう一緒に帰る気、ありませんから」
轍先輩が肩に置いていた手を、一本一本丁寧に指をはがしてやって後ろへ払いのける。
「なっ――そ、それは、つい寝すぎてだな。いやでも……」
痛い所を突かれてか、轍先輩はしどろもどろになりながら言葉足りずの反論をした。
少しばかり冷たい対応かと思わないこともない。正直言うと、轍先輩と帰るのは嫌か嫌じゃないかと聞かれたら嫌だけど――あぁ、もちろん韋駄は無理。論外だ。
帰る方向が違うのに用もなく家まで付いてきそう。それで図々しく上り込んで、挙句の果てに今日泊まっていい? とかいいそうだからな。こういう奴は害でしかない。
ぽかんとする韋駄と轍先輩をその場に残して、俺は教室の前扉の方へと歩き出す。
横目で隣の天ノ上に視線を送るが見向きもしてこない。今日は俺に絡む気はないらしい。なんか朝から機嫌が悪そうだったしな。屋上で喋りそうになったことバレたか?
にしても、あの日は災難だった。
全ては、轍先輩に大人しく着いて行ってしまった俺のミスだ。
どうしてか解らんが、あの日を境に轍先輩が急に俺を構うようになった気がする。
確かにバイクに乗るまで少しかかった割には、なかなかのタイムで帰れたけどさ。早く帰れた喜びで互いの壁でも取れたのか? そこはさすが帰タラー同士だな。
でも次の日の朝は、迎えに来るって言った癖に来なかったよね?
時間いっぱいまで待ってたのに、電車とバスを駆使して学校行くハメになったじゃないか! なんとか遅刻ギリギリで教室へ着けたけど。
肝心な轍先輩は毎度のこと寝坊をしてしまったらしく、学校に来たのは昼過ぎときた……もう同じ轍は二度と踏まない。轍先輩と一緒に帰ると、どうせまたこのサイクルの繰り返し。こういうタイプの人種のテンプレだ。
「なんでだよ……不公平じゃないかぁーーっ!」
「ぶへぇっ! ――ふ、不公平ってなにがだっ!?」
後ろから奇声が聞こえてきたと思えば、韋駄がタックルしてきた。
舌噛みそうになったろっ! 急に大人しくなった気がしたらこいつ……もうゆるさねぇ。
憤る、とまではいかないが、韋駄が食ってかかってくる。
「だって前、足早と轍先輩は一緒に帰ってたじゃん! 今まで俺はずーっと誘ってきたのに、ちょっとエロっそうな年上に誘われたくらいでほいほいついて行きやがって、見損なったぞーっ!」
「ち、違うわっ! 変に誤解を生むようなこと言うなっ!」
「足早、こいつ落とそう」
青筋を立てて眉をぴくぴくさせた轍先輩が、韋駄の襟もとを掴み窓へ引きずっている。
「轍先輩。それはやめておいた方が……。そんな奴でも一応人一人として数えられてる命ですから。それと問題になるのは不味いです」
面倒なことになったら早く帰れなくなるでしょっ!?
「一応とかひどいなっ!」
暴れもがきながらも叫ぶ韋駄は、すでに窓の外へ頭まで出されていた。
そろそろ止めに入った方がいい? と考えてると、どういう風の吹き回しか、轍先輩はあっさりと手を放す。
「そ、そうだな。問題を起こすのは……。すまない、つい熱くなってしまって。……エ、エロいなんて初めて言われたから、つい」
「気にするほどじゃないですよ」
今まで韋駄を抑え込んでいたからか、轍先輩の制服は肩が見えそうなくらいにはだけている。韋駄の野郎、どさくさに紛れて体触ってないだろうな?
さりげなくフォローを入れつつも、照れているのか、顔を背けて隙だらけな轍先輩の身体に、舐めまわすような視線を浴びせる俺。
ごめんなさい。最近轍先輩に慣れてきた俺の印象は、エロ怖い人です。
「そうですよ、亜矢先輩。女にとってエロはステータスですよ?」
「韋駄、お前は黙れ。しかも勝手に下の名前で呼ぶんじゃない」
「いいじゃないですかー、一緒に足早を誘う仲じゃないですかー」
「なんか、その言い方だと違う意味に聞こえるんだが……」
徐々に韋駄のペースに乗せられつつある。轍先輩ですら苦笑していた。
でもそんなことはお構いないしと、韋駄は手をポンっと打ち鳴らす。
「――あ。もしかして俺が毎回誘っても断られる理由って、まさか他に一緒に帰る奴がいるから?――そうだな。よし、ちょっと手当たり次第にそこらで数人狩って来るぜっ!」
『やめんかいっ!』
轍先輩とハモった。
やっぱり常識はあるらしいな。不良なのに口調も特別悪いわけでもないし……ほんとに不良なの? 綺麗な顔立ちのおねぇさんが、目つき悪くして派手なウイッグつけてるようにしか思えないんだけど。
勘ぐりながらも時計を見ると、挨拶をしてからすでに五分近くたっていた。
――もう限界、タイムリミットだ。
実はさっきから、一人一人教室を出て行くのを数えてた。イライラが半端じゃない。寝れない時に羊を数えるくらいストレスがたまる。
誰だよ、あれ考えたの。頭使ってたら寝れるわけないだろ。
ふざけんなよ。寝れたとしても、それは数えるのめんどくさくなったときだわ!
「あしはやー、早く帰ろうってー。自分がやりたいと思ったことはすぐやるに限るぜ?」
「いや、俺は一瞬たりとも一緒に帰りたいなんて思ったことない」
「ならなんで一緒に帰りたくないんだよー、帰り道も同じ方向だしいいじゃんかよー。なんか嫌な理由でもあるのかよー?」
韋駄め。いつまでダラダラと絡んでくる気だ。絶対帰る気ないだろ
このまま教室で時間を食ってると、生徒がどんどん外に放たれていくことになる。他校の生徒も増え始めるし、時間が遅くなるになるにつれて人通りも増えてくる……。
これkら毎回、韋駄にこの絡みをされることをシュミュレーションすると、五分×学校に登校してくる日。月、火、水、木、金。五日分――ニ十五分。
それが大体月に平日は二十日ほど、月にだいたい百分程度の……。
「……今日だけ。今日だけはいい」
「――えっ?」
まさか許されるとは思ってもみなかったらしい。韋駄は愕然としていた。
せっかく譲歩してやったってのに、失礼な態度をとる奴だな。
「今日だけは一緒に帰ってもいいって言ってんだよ!」
「きたーーっ! 足早おちたーっ! よっしっ!」
毎回絡んでくる時間×数か月分を計算しても、一回だけ一緒に帰ってやるほうが効率がいい。一回帰れば後は黙るようになるだろう。そうすればもう絡んで来なく――って。
「うっさいわっ! 騒ぎ過ぎだ! ただ途中まで帰って、お互いの家への分かれ道が来たら即さよならだから。それだけだからなっ!」
「うーん、どうしよーなぁ。あそこに行くのも……いや、やっぱいつも通りに――」
「全く話聞いてねぇな……」
一人、生涯に一度として実行されることのない予定を呟いていた韋駄が、ふいに思い出したように顔をあげる。
「あ、そうだ。俺、和気先生に呼ばれてたんだったわ。すぐ行くから、駐輪場で待っててくれよー」
「わかった。持ち時間は五分、五分だけだぞ。それ以上は待たんっ!」
韋駄は俺の返事が聞えたのか? 返事もせずに教卓の方へと行ってしまった。
和気先生に呼ばれてるってなんかやらかしたのか? ――いや違うか。教卓に女子の委員長がいるのを見るに、委員長の仕事かなんかだろう。
……そんな正当な理由でも五分以上は待たないぞ? 帰宅に特例はねぇよ。
俺はまっすぐ扉に向かって行って教室を出――なんで轍先輩ついてきてんの?
「轍先輩は駄目だから」
「なっ――なんだとっ!」
にやにやしていた轍先輩がきょとんとした顔をして、俺を見てくる。
「……はぁー。仕方ないですねぇ」
仕方なく同行を許した。
轍先輩が小さくガッツポーズを決めたことと、自分だけ帰る手段が違うことには突っ込まないでおこう。これも今日だけだ、今日だけ……。
下ばきに履きかえた俺と轍先輩は、人目を避けるようにして駐輪場へ向かっていた。
「そういえば」
俺の二、三歩前をたったと歩く先輩が、ふと思い出したように呟く。
「韋駄はなんで……和気先生のとこに行ったんだ? あんなに急かしてたくせに」
「あー、男子のクラス委員長の仕事でも頼まれてんじゃないですかねぇ」
轍先輩はイライラしているのか皮肉をこぼした後、いつの間に出したのか、指先でもて遊んでいたバイクの鍵を落としそうになった。
「ちょっと、こんな所で出さないでくださいって! 誰かに見られても知りませんよ?」
「足早がつまらん嘘を吐くからだっ! もう少しで排水口に落とすところだったじゃないか。それに――」
えっ、どうして俺が怒られんの? てかこの人、そんなことも知らないのか。
どんなけ無関心、クラスに馴染んでないんだ。俺も人のことは言えないけどさ。
「あんな責任感の欠片もなさそうな男が委員長なわけ……そんなことお前の親でも信用しないぞ?」
轍先輩は小馬鹿にしたような口調で言ってきた。
だから俺どんなけ周りから信用ねーんだ! なんかしたかよっ!
この理不尽さにはいい加減に腹が立った。……いかんいかん。いくら不良といっても相手は女子だ。俺は震える拳を抑え込む。
「確かに信じがたいことですけど、あいつ責任感の欠片もありませんしね。でもそれなりに委員長の仕事はこなしてますよ」
「そうなのか? ……意外だな。私からしたら常にヘラヘラしててサバイバルとかになったら真っ先に殺される奴にしか見えんが」
親指で首を斬るポーズを取って、ふっと鼻で笑う轍先輩。
サバイバルて。そう言ってる先輩も案外序盤でやられそうなタイプじゃ……。
「わかりませんよ。あーいう奴に限って終盤まで生き残りそうなじゃないですか? 実は黒幕とつながってましたみたいな。主人公以外全員と結託してましたみたいな?」
俺の本心が顔に出てしまっていたのか、轍先輩は怪訝そうな目つきで睨んでくる。
「……なんだ? ずいぶん韋駄のこと評価してるんだな」
「そ、そういうわけじゃないですけど。ただ粘着質でしつこそうじゃないですか?」
「はっは、それはあるな。足早に帰ろうって毎日のように付きまとってるしな」
口元を緩ませてつつも轍先輩の目つきは和らいでいった。どうやら警戒を解いてくれたみたいだ。相変わらず、スイッチの入り方がわかりにくいんだよな……。
にしてもこの人は自分がその内の一人になってること。気づいている?
てか、ここまで一緒に着いて来てるけど本当に一緒に帰る気なの?
「……毎日って。今まで絡まれてたの見てたなら助けてくださいよ」
「ん? 助けてほしかったのか?」
「当たり前ですよ。はしゃいでんじゃねーぞ、くらいな感じで韋駄だけにガン飛ばしてくれてもよかったんですよ」
「あぁ、何回か本気で耳障りだったからしたことあるぞ? でも足早、意外と満更でも――おい」
轍先輩がニヤニヤしながら何か言いかけたが、ふいに警戒した口調に変わった。
「どうかしたんですか? バイクでもパクられてました?」
「……足早。冗談にしても笑えないぞ。それはバイク乗りに対しての喧嘩売――って話をややこしくするなっ! あそこ、人がいるから気をつけろ」
テンション高いのか、先輩は一人で乗り突っ込みをしていた。
人一人でそんな警戒することでも……。なら大人しく自転車で来ればいいのに……。
目的地が目と鼻の先くらいまで来たところで轍先輩が指す方を見ると、確かに二年の駐輪エリアで一人自転車へ跨っている生徒がいた。
「少し時間立ってますし、数人くらいは対して気にするほどじゃないですよ。それに轍先輩だってバイクとめてるのは外でしょ? 見られる心配ないじゃないですか」
どうせ韋駄を待ってないといけないしな。このまま帰ってやってもいいが、そしたら今日ここまで浪費した時間が無駄になる。それなら今日でキリ付けて終わらせてやった方がいい。
「そうだな。ばれない様に外に止めてるんだ。それで見られてたら元も子も――ちょっと待て。……もしかして足早、今日は自転車で帰るのか?」
「あー、いや……当たり前じゃないですか。今日どころかこれからもずっと自転車で帰るつもりですけど?」
ケアレスミス。話振る方向間違えた……こりゃ絶対に駄々こねだすな。逃げるか。
先輩をさり気なくスル―して、準備しておこうと自分の自転車へ駆け寄る。
「待て待て待て。そ、そうすると私は一人で帰らなきゃいけないんじゃないか? なぁ?」
「………………何してんの?」
質問に返事をする気はなかったが、無意識に言葉を発していた。
でもそれは当然、轍先輩への返事じゃない。じゃあ誰かって?
それは俺が聞きたい……勝手に俺の自転車に跨ってるお前のことだよっ!
なんかぶつぶつ呟いているけど、聞こえてんの?
「うん……このペダルのフィット具合はなかなか。でもこのハンドルはマイナスね。カマキリハンドルだと立ち漕ぎの瞬間だけはペダルに体重かけやすいけど、風の抵抗が大きくて力も入れにくい。それにあとワンインチ上のタイヤなら、いやこのインチだからこそ取り回しが――」
真横に近づいても俺を気にすることなく、自転車の分析? らしきものを続けている。
いかにもマニアらしく額に脂汗を浮かべた野郎が、呼吸を荒くしつつべたべたと自転車に触れてやがったら、一発くらいどついても文句は言われんだろ。
相手が女子だからそれが出来ないのが残念だ。
でも頼むから、はぁはぁ言いながら触れるのやめろ……。
「――足早っ! 聞いてるのかっ!?」
無視したことにイラついてるのか、わざとらしく足音を立てて先輩が寄ってきた。
でもこの光景を見てか、何とも言えないような顔をして首をかしげた轍先輩は、内緒話をするようなかすれ声で訊ねてくる。
「どうしたんだ? これ、足早のチャリだろ? こいつ何やってんだ?」
「確かに俺のですけど……それは逆に俺が聞きたいですよ」
「なら、ガツンと引きずり降ろしてやれば早いぞ?」
轍先輩はやってやれと言わんばかりに、拳を前に突き出してニヤリと笑う。
「それはちょっと……なら轍先輩お願いしますよ。キャラ的にそういう役目でしょ」
「キャラってな。私も好きでなった訳じゃ……それに知らない奴にいきなりそんな……私は人見知りなんだ」
「ちょっと、めんどくさいからってそんな嘘つかないで助けてくださいよ!」
「う、うそじゃないわ! 前に言ったじゃな――」
「おーうっ、あしはやー。終わったぜぇーぃ」
不良の癖に何を急に萎縮してしまったのかと思ったとき、後ろからこっちの空気もまるで読まない能天気な声が聞こえてきた。
偉そうに大股で歩きながら、手を振っているのは韋駄だった。
持ち時間ギリギリだぞ、走れや。
手振ってるのは帰ってもいいってことか? バイバイってことだろ? 帰るぞ?
「おぉっ、馬鹿が来たな。よし、あいつにどうにかしてもらおう」
「……ですね」
さすが轍先輩。やっかいごとは他人に押し付けようとは、やっぱり不良だ。
あいつは確実に人見知り知らず。他人でも年上年下関係なく老若男女いけるはず。
「おい韋駄っ! ちょっと!」
知らぬ間に、「何トロトロ歩いてるんだ」と轍先輩に尻を蹴られている韋駄へ、声を掛けつつも後ろにいるチャリジャック女の、
「――あれ?」
存在を知らせるためだけのつもりだったが、不用意にも振り返ってしまった。
刹那にして、さっきまでいた女の子が消えていたからだ。
「いない……」
『は?』
二人が戸惑う俺に疑念を抱いて、小走りで近寄ってくる。
状況を知る轍先輩と共に二人周りを見回すが、さっきの女子の姿はどこにもない。
その中で一人、俺たちを変なものでも見るような目で見ていた韋駄が口を開く。
「……二人とも何探してんの? 早帰ならとっくに向こう行ったぜー?」
韋駄が自分の歩いて来た方向を指すと、さっきまで俺の自転車に乗っていた女子が、頭頂部の髪をふぁさふぁさと跳ねさせ駆ける姿が見えた。
「あ、あいつ。いつの間に!」
先輩がふいに地面を強く踏みにじって、いつでも駆け出しそうな臨戦態勢を取る。
いつもより増した鋭い目つき。ゴーサインを出したらすぐにでも獲物を捕まえてきそうな猟犬のよう。あの……さ、佐々木? ていう子の小柄な体躯も手伝ってか、駆ける背中がウサギのように見えてきた。
そこにやっぱり空気の読めない奴が、溢れんばかりの殺気を出す先輩に突っこむ。
「――あっはははっは。あ、亜矢先輩「い、いつの間に!」とかなんのマネっすかっ。誰のか解らんけど全然似てないなー。ったははっ――はぐぅっ!」
「黙れ。名前で呼ぶなと言ってるだろ。馴れ馴れしいっ!」
韋駄の腹に、轍先輩がひねりをきかせた拳を打ちこんだ。
そして、そのまま倒れる暇も与えずに続けて数発。
前にやられた傷が疼きそう……。早退したいがため、これを求めるのは金輪際やめようと、思いしらされるほどに強烈な打撃打撃打撃……。
あまりの痛々しさに目を背けていると、いい汗かいた、とでも言いたそうな爽やかな表情をした轍先輩が、ふぅーっと呼吸を整える。どうやらシバキ終えたらしい。
「あ、あの子。いついなくなってたか見てました?」
俺は床でボロ切れになっている韋駄から意識をそらすため、話を振る。
息をついた先輩は軽く咳払いをして、わからないといった様子で首を左右に。
「私は、お前らが一緒に帰れないよう韋駄の尻を壊すのに一杯一杯で――あ、間違えた。うん、そうだ。完全に意識していなかっただけ。それに足早の自転車が悪戯されて使えなくなった方が、私としては好都合……なわけがない。そうなったら私が後ろに乗せて帰らないといけなくなるだろっ!」
「あんた悪知恵働かしすぎ……」
どんなけ一人で帰りたくねぇんだ。ならいっそのこと自転車で来ればいいのに……。
心が捻くれてしまってる不良には、恥ずかしがらずに素直になることを教えてあげないといけないな。しゃんとするのをかっこ悪いと思ってるだけなんだ。
このままじゃ、毎日帰りに誘われる羽目になりかねん。
俺は多少の恥ずかしさを堪え、先輩の両肩に手を置き諭す。
「無理に自分の思い通りにするのはよくないですよ。それが他の人に迷惑を掛けるのならなおさら……」
「なっ。な、なんなんだいきなり! 悟ったようにして。や、やめろ! そんな哀れんだ顔して触るなっ!」
咄嗟に腕を振り払われて、太ももにローキックをかまされた。
今度は俺の足つぶす気っ!?
どうしてそっぽ向いてるか知らないけど、よそ見して蹴ってきたからか全く痛くない。
空気が悪くなっているのは、どことなくわかる。……もしかして俺のせい? でも話くらいはしても大丈夫でしょ?
「ようするに、見てなかったんですね?」
「……あぁ、たぶん足早と同じ。気づいたときにはいなくなってた」
くるりと身を振り戻した轍先輩は頬を掻きつつ答えたが、目は合わせてくれなかった。
「しっかりしてくださいよ、もぉ」
「す、すまない……」
毒を吐いても、自分から詫びてくる始末。いつもなら、
「なんだと!? 隣に癖に気づかなかった奴は誰だっ!」
とか言いそうなのに。反省してくれたのか? 自分で諭しておいて言うのもあれだけど、調子狂うな……。
でもそうなると、あとは知ってそうな奴なんて、もう一人しかいないよな。
「おい起きろ。さっきから薄目でチラチラ見てるのバレてるからな」
「…………ふぅ…………はぁ………」
横向きにぐったり横たわる韋駄は、聞こえてるはずなのに起きない。
「韋駄。寝てふりするなら出来るだけ息止めろよ」
「――ふぅっ!? ゃべぇっ……………………」
「もう置いていくからな、じゃあな。もう二度と一緒に帰ることはないだろう」
「――あ、ちょっとタンマ。それはなっ…………しだっ」
やっぱり起きてた。でも足腰立たないのか、生まれたての子馬みたいに膝をがくがくさせながら、近くの自転車を衝立代わりにして立ち上がる。
「出来るだけ聞こえないように押えてたんだけどなー。せっかくいい感じな雰囲気だったのによー」
はぁーあ、と軽いため息をついて呆れ口調で俺たちを流し見てくる。
「いい感じって? むしろ気まずいんだけど?」
俺が怒らしたのか? 轍先輩は一人でぶつぶつ言って、相変わらずそっぽを向いてる。
「……足早って天然なのか?」
韋駄は身体の砂埃を払うと、いきなり突拍子もないことを言い出した。
「天然ってなんだよ。俺がボケてるって言いたいのか?」
「いやー、そーいうのがもう天然っていうかねぇ」
「自分が天然じゃないって自覚がある時点で天然じゃねーから。帰タラーなめんなよ」
「えっ、なんて言った? キタロー? ゲゲゲのやつ? 妖怪なんていねぇよ?」
「お前が天然だろ」
自覚があるのか、韋駄はうーんと腕を組んで思考しはじめる。
おそらく自分の行動で思い当たる節を探っているに違いない。そうであって欲しい。
でも二秒と経たないうちに顔を上げる。
「まぁいいやー。でも意外だったなー。あいつ、いっつも一番に教室出てくから何やってんのかなーって思ってたら、足早たちと交流があったとわねぇー」
あっさりと放り投げ、意味深なことを言う。
あいつって佐々木とかいう奴のことだよな? いっつも一番最初に出てくって、同じクラス?
「――ちょ、ちょっと待て。自慢じゃないが、最近クラスで一番に出て行くのは俺の筈だろ?」
「おいおい、足早リアル天然? いつもどころか、二年になってからクラスでいつも最初に出てくのあいつだろー?」
「そ、そんなわけないっ!」
心ともなく大きな声を出してしまった。
「ど、どうしたんだよ足早。……とりあえず俺、自転車取ってくるわ」
そう言って韋駄は若干困ったような顔をして、辺りをふらふらし、列から一台自転車を引っ張り出そうとする。
おかしい……。どうやって瞬間移動まがいのことをしたかわからんけど、もっと気になるのは、今までずっと教室を一番に出ていたのが佐々木って奴になってることだ。
佐々木なんて奴クラスに居たか? あんまりクラスメイトは覚えてないけど、佐々木なんて苗字どころか、近い名前すらいなかったような……何かの間違い?
――まっ、どうせ韋駄の言うことだ。一年の頃かなんかと勘違いしてんだろ。
「準備できたし、いきますかーっ!」
「あ――お、おう」
韋駄は俺の横に引っ張り出してきた自転車を並べていた。面倒事はごめんだから何も言わなかったが、無作為に引っ張り出してきたかのように見えた自転車は韋駄の物らしい。備え付けの鍵にはきちんと鍵がささっていた。
俺も自分の自転車に鍵をさして跨る。
特に違和感もなく、いつもとなんら変わらない。悪戯されたわけじゃなさそうだ。
「……なぁ、轍先輩はいいのかー?」
忘れてた。おいてくとキレるだろうから声くらいは掛けとかないとな。
「ちょっと轍先ぱ――」
「いつまでも苗字で呼ぶとは固いな。お前は名前で呼んでもいいんだぞ」
「いや、それはちょっと恥ずかしいです……」
「異性に対しては最初はそんなものだ。むしろ私は躊躇なく呼んでくる奴の方がひくな」
「そ、そうですか……? なら努力してみます」
誰のマネなのか、独り芝居を始めていた。もちろん俺は見てみぬふり。
轍先輩はおいていくことが決まった。
「……大丈夫だろ。どうせ一緒に帰れないし」
「全然大丈夫そうに見えないんだけど……。あーでも、バイクじゃ一緒に帰れないしなー」
「――は? ……韋駄、お前なんで轍先輩のバイク通学のこと知ってるんだよ」
誰かが必死に隠し通そうとしてることを、さらりと言いやがった。
「ん? いやーむしろ、学校で知らない人いないんじゃね? あんなでかい音出したバイク、学校の隣に止めてたらいくらなんでも気づくだろ。神社とバイクとかミスマッチにも程があるってー」
「……確かにな」
なんか轍先輩がちょっと可哀そうな人に見えてきた。
心の中でごめんなさいをして、俺は自転車を漕ぎだした。
いつも通り、旧道の坂道を下りきってすぐの一直線上の道を自転車で走る。
目の前には人もおらず、時間的にも今日は羊飼いが出てくる心配も――いかんいかん。今日はオフなんだ。気にせず普通に帰ればいいんだ普通に、普通に……。
「なぁー、あしはーやー。ちょっと寄りたいところあるんだけどぉー。だめぇ?」
シャカシャカ自転車を漕ぐ音と共に、後ろから気持ちの悪い猫なで声が聞こえてきた。
「やっぱり一緒に帰るの嫌になったか? ならいいぞ、別に俺は一人でも」
今まさに韋駄の頼みで一緒に帰ってるのに、これ以上要求してくる気か? どんなけずうずうしいんだよ。お願いは一生に一度だけでしょ?
「そんなこと言ってないだろ? 拗ねるなよー。俺はこれでも結構楽しんでるんだぜっ!」
韋駄が少し強くペダルを踏んだのか、後ろのシャカ音が近くに聞こえると思ったら、右肩に手が置かれていた。俺の苛立ちを感じ取ったらしく猫なで声はしてこない。
「どうして俺が拗ねないと――はっ、やめろよ煽てんの。そんなんで俺が機嫌よくなるとでも思ったか? ふふっ、何がこれでも結構楽しいだ。この……ふんっ」
「……なぁ、足早それ照れ隠しなのかー? 俺には皮肉言うつもりだったけど、照れちゃったようにしか見えないんだけど」
「う、うるさいなっ! 男に照れるとか俺はそんな趣味ないぞ!」
「俺はって、俺だってそんな趣味ないけどー?」
「当たり前だろっ! てか行きたいところ言わないならこのまま真っ直ぐ帰るからな!」
少しペースを上げて韋駄と距離をあける。
俺だってこのまま韋駄が黙って帰るとは考えてなかったさ。明日からのために今日はしかたなく付き合ってやるんだ。別にデレたわけじゃない。
「おぉっ! ちょい待ち、ちょい待ち! ……あーでも、このまま真っ直ぐ行けば着くじゃん。足早の言った通り真っ直ぐでいいわー」
「真っ直ぐ帰るってそういう意味で言ったんじゃ……」
どうも韋駄の声が近いと思えば、前に出たはずなのにまた並走してきている。
俺は再び距離を保とうとペダルを踏み出したところで、重要なことに気が付いた。
「――ちょっと待て。まさか、あのショッピングモール行くとか言わないよな?」
「ん? 違うけど。足早あそこに用でもあった? 後でもいいなら付き合うぜー?」
「いい。別に俺も用はないから……」
危ない危ない。もし寄るって言ってたら全力で逃げてたわ。
あんな店の多い所連れてかれたら、無駄に連れまわされた挙句に時間まで大きく消費される。まさにここら辺一帯の市民を誘い込むトラップだからな。忌々しい。
「でさでさー、その今から行くところがさぁー」
「なぁ……」
「ああっ、ごめん。どしたー?」
俺の一言から発する雰囲気を感じ取ってか、韋駄が素直に聞き手へと回る。
「さっきからずううぅぅぅっと気になってたんだけど、いいか?」
やっぱり隣に来ている韋駄は、俺に言いたいことを吐き出させたいのか、息が詰まりそうなほどの強さで背中をバンバン叩いてきた。
「そんなに気になってることあんならもっと早く言ーえーよーっ!」
とかいいつつも、反対車線のバス停にいる子連れのお姉さんを見てない? 聞く気あんの?
「……さっきからなんで並走してくるんだ?」
「えっ? なに、なんだって?」
やっぱり聞く気ねーじゃん。
「えっ? じゃねーよ。どうしてわざわざ隣に並んでくるんだよ!」
わからない。いくら考えたって答えが出てくる気がしない。
前にも見た商業高校の子たちだってそうだ。並走って楽しいのか?
自転車が隣と接触する可能性もあるって操縦範囲を狭める、前方後方からの接触範囲をも自分たちで広げているだけ。むしろリスクしかない。そんな恐ろしいことを、平然とやってのける神経の図太さときたら命知らずなことこの上ないな。
考えているのか、何も考えてないのか、ピクリとも表情を変えずに韋駄は俺を見ていた。
「ん? ダメなん?」
「べ、別にダメとまでは言ってないって。いや、ダメなんだけど交通ルールで……」
てっきり知ってる上でやってるもんだと、反応を見る限りじゃ無意識のうちにとしか思えない。
「あぁ、そういえばそんなんもあったなー。足早と喋りたかったからつい忘れてたわ」
「今どきの奴らはそんな理由で危険を犯すのかよ。ただ単に脳みそが空なのか、根っからのイカれて野郎どもなのか……」
「そんなだいそれたことじゃなくね? 足早はおかしいやつだなー。それに今の反応は普通照れるとこじゃんかー?」
「なんで照れる必要が――だからそんな趣味ねーよっ!」
そっちの趣味はないとか言っときながら思わせぶりなセリフ……全然うれしくない。むしろ身の危険を感じるわ。
「俺だってないけどー。あっ、てか今思えば並走ダメって言ってる足早もしてるよな」
「それはお前が並んでくるからだろがっ! 屁理屈言うなっ!」
「そんな怒んなよー。ちょっと雰囲気和まそうとからかっただけじゃんかー」
……俺があやされてる気がするのは気のせいか? でも今の俺は冷静。
「いいから先いけよ。目的地とやらの場所はわからんからな」
「おぉ、場所を聞かずに黙って着いてくとは足早は焦らされたいタイプか」
何納得してんだ。目的地がわからんのが楽しいとかミステリーツアーかよ。俺はあーいう類にはワクワクもドキドキもしない。むしろはよ場所教えんかいって思う。
今どき幼稚園児でも「どこいくの?」くらい聞くっての。
「違うわ。場所言われたら余計行きたくなくなるから聞かないんだ」
「なんだよーそれ。今から行くのめっちゃいいとこなのにー。ならどこがいいんだよ?」
「一番いい所は自宅に決まってる。んな当たり前のこと、お前義務教育受けてないのか?」
不平、不満、文句を垂れる韋駄があまりにも常識的なことは聞いてくるもんだから、俺は高々と言い放ってやる。
頭の回転が悪そうな韋駄もこれは流石に納得したようだ。なるほどと言った様子。
「義務教育はバッチリよー。俺はいじめられてないから普通に学校通ってたしー。」
「なんだよ、俺はって。まるで誰かはされてるみたいな物言い……」
俺のことかよっ! 全然納得してない上に、回答に負けたからって嫌味行ってきやがって……。
「そんなに帰りたくなる足早の家って、どんなけ楽しいとこなんだよー。夢の国?」
「夢の国……確かにそう言っても過言じゃないな。良い表現だ、早く帰ろう」
「マジかー、ちょっと言い過ぎたくらいだと思ったのに。そうだな、早く行くかー」
韋駄がポケットから携帯を見たが、慌てた様子ですぐにしまう。
「あっ、やべぇなー。本気でいそがねぇと」
「どうした? 閉店時間とかでも近いのか? まだそんな時間でもないだろ」
今日は六限授業だった。あんまり早く校舎を出なかったとはいえ、まだ今は夕方前だ。そんなに早く閉めるような所は銀行くらいでしょ?
「閉店とかじゃないけど、早く行くに越したことはないからなっ!」
珍しく韋駄がやる気になってるように見える。そんなに好奇心が沸くような所なのか? 少しだけ気にならないことも……。
「はいはい。じゃあ勝手に突っ走ってくれて構わんぞ。後ろから着いてくから」
「おぉーっ! 足早、随分余裕だな。名前だけに脚力に自信とかあんの?」
「それよく言われる。でも期待に添えなくて残念だが、人並みよりはちょっとあるくらいだな」
「そりゃー頼りになる。ずーっとこのまま真っ直ぐ行って途中でちょっと小道に入るくらいだから、もしはぐれたりしても大丈夫よーっ!」
はぐれたりしても大丈夫だぁ? はんっ、帰タラーなめんなよ。
俺が毎日どれだけ帰宅に力入れてると思ってんだ。謙虚に言ったのは、逆に韋駄を抜きさって「いつの間にか居なかったから目的地もわからないし帰った」って言い訳にするための策略だっ! それで次に誘われても、前に一緒に帰ったの一点張りでオッケー。俺が帰ることに関して妥協するわけないだろ? 隙さえあればいつでも寝首を掻いてやるつもりだっての。
「はいはい、一応ちゃんとついてくから黙って前見て走ってろ」
これで最後の仕込みが終了。
「ほんじゃ、いっくぜぇぇぇぇいっ!」
威勢よく韋駄は吠えると、立ちこぎをして勢いをつけ出した。
ペダルがギシギシ乾いた音を立てている。大きく足踏みするように漕ぐ後ろ姿を見るに体重を利用しているのがわかる。俺も同じく体重をのせて立ち漕ぎ。
スタートダッシュは、韋駄はそれなりに早い方かもしれない。無骨な漕ぎ方だけど、脚力が強いのか体重の掛け方が上手いのか、結構なスピードが出てる。
あくまで一般人レベルの話だが。
立ちこぎのままで漕ぎ続けてるとモロに風の抵抗を受けるし、体勢的に体力の消耗が速い。疲れて立ちこぎをやめた時点が限界点だ。そこを衝けば――。
「足早……とばすぞ」
後ろにピッタリとマークしていた俺には微かにそう聞こえた。
韋駄はまるで俺の考えが聞えてたかのように立ちこ漕ぎをやめ、歩道から車道へと移る。
「なんだ韋駄、お前ルール知って」
――るじゃんか。と言おうとしたが、韋駄はいなかった。
俺の吐いた言葉だけが行き場を無くして戻って時には、韋駄は数メートル近く先に行っていた。駐輪場でのことを思い出させるような瞬間移動に思えたが、それとは違う。
恐ろしいほどの漕ぎっぷり。ペダルどころか離れていても車体全体がガタガタ軋んでるのがわかるほどの推進力で進んでいるのだ。
その漕ぎ方はペダルを回すというより地面に叩きつける。
なるべく空気抵抗を受けないためか背中を丸めていて、ぶっ壊すほどの勢いで交互にペダルを叩きつける脚。叩きつけられた片方のペダルが下に下がると、もう片方があがり、上がってきたペダルも叩きつけると片方があがる。
回すことは一切考えず、単純にただ脚を叩きつけるだけのゴリ押しの力技だった。
速すぎて逆に遅く見える、実は遅い。みたいなことなら笑えるんだが……。
「う、うそだろっ!?」
俺が現実逃避をしていると、韋駄はすぐ間隣に走るいかにもスピードの出そうな車高の低い車と張り合っていた。
俺は即座にスピードメーターの画面を見る。
二十八.四キロ
俺の走っている速度でこれだぞ。その俺を追いつかせないほどの速度で走るあいつは……ありえん。ここは最高法定速度五十キロだぞ。まさかホントにあいつは五十近く出して走ってるってのか?
思考している間にも、韋駄はどんどん先に行ってしまっていた。
俺は帰タラーだぞ。韋駄と違って毎日帰ることに力を入れてるんだぞ。
なのになんで俺が負けてるんだっ!? おかしいだろ、なんかの間違えだっ!
……このままじゃ、このままじゃ終われない。帰タラーとしてプライドの掛けて。
一直線上の道を高速でぶっちぎる韋駄は、そのままの速度で切れ目の横断歩道を渡りきった。
俺もせめてあれだけは渡りきろうと必死に自転車を漕ぐが、まだ数十メートル近くある。それなのに行く手を阻むかのつもりか、もう歩行者信号が点滅し始めた。
「っくそ。ここで置いてかれたら帰タラーの名折れだっ!」
俺が再び加速するため立ち上がった瞬間、建物で死角になっていた左の脇道からふいに車が――。
なんとか自転車に乗って登校してくることが出来た。少し早めに出てきたのはやっぱり正解だったな。にしても体中が痛い。ひどい筋肉痛というか、全身打撲というか体中がジンジンして熱を持っているような痛みがする。
手を伸ばすと、指先から手首、肘、肩へと節々が悲鳴を上げているのが解る。
この体を拘束するかのような気持ちの悪い痛みに耐えつつも、扉へと手を添えた。
「あっ――足早っ!」
教室の扉を開けたとほぼ同時。いきなり名前を呼ばれた。
声のした方。眼下には床へと膝をついた韋駄がいる。
「き、昨日事故ったってほんとかよーっ!? だ、だだっ大丈夫か?」
「事故……」
どうしてそんな話……? 昨日俺を置いて行ったはずの韋駄がこんなこと言うってことは、話が広まってるのか? ていうか声がデカいわっ! みんなこっち見てるじゃん。
「…………お前のほうこそ大丈夫かよ」
韋駄は頭をぶつけたのか後頭部を擦っていて、いつもセットしてきてる髪も所々寝癖のように跳ねている。おまけに肩を出るほどにYシャツが肌蹴ていて、追剥にでもあったようだ。
「うっ! ……だ、大丈夫」
今、横を通った女の子が片足上げたと思ったら、韋駄の身体がくの字に曲がった。思いっきり韋駄の横っ腹蹴とばしたように見えたんだけど……気のせいだよな。
それに教室の雰囲気がいつもと違う。どうしてか空気が重いような気がする。
「あぁ――悪いなーっ」
少し惨めに思った俺は、痛みを堪えつつも韋駄に手を貸して立ち上がらせた。
そういえばこいつ、さっき事故とか言ってたな。どうしてそんなこと……。
「事故ってなんだ? どっからそんな話が――」
「いや、聞いたんだけどよ。昨日俺と別れた後に車とぶつかったんだろ? ……見た感じ怪我とかはしてなさそうだけど大丈夫なのか?」
韋駄はいつものようにダラダラと喋らず、硬い面持ちは懸念しているようにも思えた。負い目でも感じているのだろうか?
「ぶつかっ……た? なんだよそれ……」
「おっおい、まさか記憶にないとか言わないよな? 記憶喪失じゃないよな?」
「そんなことない。一片たりとも記憶は抜けてないぞ。昨日韋駄においてかれたこともな」
昨日の悔しさを思い出して、つい嫌味を言ってしまったが韋駄は何故か安心したようだった。
「なら覚えてるだろ? 天ノ上さんが昨日の帰りに、倒れた足早に軽トラに乗ったおっさんが慌てて駆け寄ってるとこ見たって言ってたぞ」
は? 天ノ上……? あの尼、どうしてそんなことまで知ってんだ。てか見たって何? まさか俺って普段からずっと見張られたりしてないよな?
思わず教室中を見渡すが、天ノ上の姿はなかった。
「あっ、ああそれか。別にたいしたことじゃねーよ」
韋駄が目の前で息絶えそうな生物でも見るように、憐れむような視線で見てくるものだからはぐらかしておく――わけでもない。
昨日は車が視界に入った瞬間、ハンドルを切り返してさけようとしたけど、地面が砂っぽかったせいで勢いを殺せなくてこけた。でもそのおかげで車とぶつからずに済んだけどな。……なんて言えない。これはきっと帰タラー特有の加護だ。安易に口に出すべきじゃない。
その上、おっさんにかなり心配されて、車に自転車つんで家まで送ってもらったことは口が裂けても言えない。そのおかげで早く帰れたのも俺の実力。運も実力のうちでしょ。
「おらっ、そんなんじゃたりねぇだろ! もっと感情込めて言えやっ!」
「足早くん困ってるじゃん。もっときちっと言わないとわからないよ!」
「お前そんなんで本気で悪いと思ってるのかっ! もう死ねよっ!」
「俺たちの痛み、足早の痛み、世界中の痛みを知れっ!」
いつの間にか韋駄が囲まれていて、ボールを取り合うかのように足蹴にされていた。
「いっ、痛いって――ちょっと足早助けてくれよっ!」
俺は出来るだけ関わりたくないので、聞こえてくる悲鳴を無視して自分の席へと向かう。
あいつらなんで韋駄にあんな蛮行を? しかもみんな俺の顔を見た後、感情的になって韋駄に殴る蹴るを繰り返して――俺だと思って殴ってるのか?
いつの間に俺はそんなに本格的な嫌われ者に……。
「足早くん。昨日は散々だったみたいだね」
その一声が聞えてきた瞬間、即座に帰りたくなった。
俺の隣の席の奴が今か今かと目を輝かして待っていたからだ。
おかしいだろ。さっき居ないこと確認したから席に来たんだが……ここで引き返すのも逃げてるみたいで癪に障るし、どうせ席には着かないといかん。
それにこいつには聞くことがあるからな。俺は逃げずに席へとつく。
「昨日ってな……やっぱりお前かよ! なんで昨日のこと知ってんだっ!?」
「なんでって、私を誰だと思ってるの?」
クラスには結構人がいるからか、今の天ノ上は猫を被るつもりらしい。
どうせ問い詰めても簡単には吐きはしないだろうな。弱みも握られてるし、調子づいてきそうだ。でもあれはあれ、これはこれだ。あえて今日は攻めの姿勢でいってやる。
「誰って、ただの糞アマだろ?」
「昨日転んでたとき、「ふぇぇ」みたいな声出して泣きそうな顔してたの……ばらすぞ?」
誰のマネかは知らないが、天ノ上が小動物のような可愛らしい、保護欲をそそられるような甘い声を出す。でもすぐに鬼のようなドスのきいた声を出してきやがった。
「そ、そんな声出して――ほんとすいません美優様。マジ改めますんでお許しを」
「はいはい。あんまり私の機嫌を損なわないようにね」
くっ、こいつにどこまで弱みを使いまわす気だよ。ちょっとしたボケくらい許せや。
「足早くんも、あぁなりたくなかったら気を付けるんだね。出る杭は打たれるよ」
そう言って天ノ上が指した先には、さっきの韋駄が囲まれていたとこ。
教卓の隣に、うつ伏せの全裸が転がっていた。おそらく韋駄だ。
「――はっ!? 尻汚なっ! なんか病気持ってそうだな、あれ」
「驚くとこはそこじゃないでしょ!」
別に驚くほどのことでもないだろ。あんな痣だらけの尻……じゃない。
韋駄って周りからちょっとウザがられてそうな面倒な奴だ。それをよく思ってない連中にやられても別におかしくはない。
ていうか実際めんどくさいしな。それでさっきリンチされてたのかは知らないけどさ。
「俺、あんなの助けに行くの絶対嫌だからな」
「あれ? ぼっちなのに誰かを助けようって思考が出来るなんて意外。逆に助けに行けばこれからなれ合うことも出来るんじゃない? 行かないの?」
ぼっちは人助けしちゃいかんのかよ。余計行く気なくしたわ。そんな気更々ないけど。
「それに全裸で倒れてる奴に近づくなんて人としてどうだろうな」
「逆にそれを見捨てるのも人としてどうなの? ていうか、ぼっちって人なの?」
「知るか。そんなのぼっちに聞けよ」
「だから足早くんに聞いてるんだけど?」
「…………あ?」
「あ? じゃねぇだろ」
「すいません……」
「ほら早く行って。いつまで私にあんな汚ねぇもん見せる気なの?」
汚ねぇはさすがに可哀そうだろ。しかもさっきからちょくちょく本性出てるぞ、おい。
「待て待て。まさかとは思うけど俺が片付けるのか?」
「足早くん以外に誰がいるの? 掃除屋も葬儀屋も居ないんだから、足早くんしか居ないよ?」
お前なんで全部この場から消すこと限定なの? せめて救うタイプの役職選んでやれよ。
「……マジで俺が片付けるの? 俺吐いちゃうかもよ?」
「吐いたらその吐しゃ物も片付ければいい。自分で汚したら自分で片付けるんだよ」
ならあれを転がしていった連中に片付け出せろよ……。
「やるにしてもせめて外に捨てて来るか、自分で面倒見るかにしてね。最悪、あんなものでもバイオマス燃料くらいにはなるでしょ?」
天ノ上は子供がペットを拾ってきたかのような対応で、俺を働かせようとする。
ペットどころか、全裸の男子高校生を拾いに行くという、このやる気の出なさは異常。せめて性別が逆だったら話は別なんだけど……。
天ノ上がまた何かしら要求してきそうだったから、俺は慌てて韋駄の下へと向かった。
「いやぁー、まっさかぁー足早が一緒に帰ろうって誘って来るとはねぇー」
理由はわからないけど、隣を走る韋駄はあきらかに高揚した口調だった。
「別に特に理由なんてないぞ? ただ昨日の約束を果たすだけだ」
早いうちに片付けておかないと、またグダグダ絡んでこられるからな。
それに、こいつのあの爆発的な自転車の加速力……興味がないわけでもない。
「それにありがとなー、足早―っ! 朝は助かったわー」
「ちょ、ちょいっ! 危ないからやめろって」
かなり機嫌のよさそうな韋駄が、肘で俺の脇腹あたりを小突く。
「自転車乗ってる最中はやめろっての! 俺を田んぼに叩き落す気かっ!」
「ったくー、相変わらず大げさだなー。最近補助輪外したばっかなのかよー」
あ? 舐めてんだろ。帰タラーだぞ、俺は。補助輪とか何それ? 見たことすらない。今ついてるこの二つの車輪が補助輪? ってくらいのレベルなんですけど。
「それに、やっと足早が心を開いてくれたと思うとねぇ」
「心開く? 下手に勘違いで美化されても癪だから言わしてもらうけど、別に好きで助けたわけじゃないし、クラスの問題にでもなられたら無駄に時間を取られて帰りに影響が出るって考えて動いただけだから」
「はいはい、出たよツンデレー」
何か楽しいことでもあったのかわからんけど、韋駄がニタニタしてるとなんかムカつく。
それにツンデレじゃねーよ。俺がデレるとしたら、帰宅の手助けをしてくれてる和気先生くらいだ。韋駄のことだって朝に助けてやったって言っても、何故か校舎中に隠されてた韋駄の制服を見つけてやっただけ。そこまでしたのだってあの尼のご機嫌取り。その内寝首かいてやるつもりだ。
「影響って? そんな帰る心配して寄るとこでもあんのー?」
何回か違う言い回しで聞かれたようなことを聞いてくる韋駄。
もちろん俺はいつも通りの正答を言ってやる。
「まっすぐ家に帰るだけだ」
「じゃあ影響とかないじゃんっ! 足早おもしれーな」
「じゃあって何だよ、殴るよ?」
「ひぃっ――って痛っ! マジで殴んなよぉー」
お前が「はい、どうせ殴らないんだろ?」みたいな態度とるからだ。
それにそろそろお灸をすえとかないと調子に乗り出すからな。
「何言ってんだ。むしろ影響しか出ない……おい、まさか今日もどっか寄るつもりなのか?」
「あったり前よー。今日は行こうぜっ! 昨日は俺も足早来なかったから行かなかったしよー」
まさか俺と一緒に行きたかったのか? 韋駄って実は結構友達思いな奴なんじゃ……。俺たちは友達じゃないから当てはまらんけど。
それにあんな急いで韋駄が行きたがるようなところ……。
「そんなに面白い所なのか?」
俺が食いついたことが嬉しいのか、韋駄は目を輝かしている。
「うーん、おもしろいってジャンルで考えると違うけどー、俺はほぼ毎日通ってるぜっ!」
「まぁ、着くまでに気が向いたら言ってもいいわ」
いつもって……もしかしたらあのスピードの原動力はそれなのか?
そこに行けば俺もあの加速力が手に入るかもしれないな。
韋駄は俺の顔を見ると、やっぱり嬉しそうに笑んだ。
「おっ、なんか今日はノリ気じゃない?」
「そうか? 別にそんなこともないけど」
「いやいやー。なーんかいつもと違うって」
やっぱり韋駄は学習能力がない。危ないって言ってるのに、また背中を叩いてきやがる。
「でも途中でめんどくなったとか言って帰るのはなしだからなー」
振り払うため、俺は背中の方へと腕を回す。が、それは空を切った。
にへらっとしていた韋駄の横顔はきりりとした表情に変わって、両手でしっかりとハンドルを握り、先を見据えていた。
「よし、そろそろ行くかー」
今のが飛ばすという合図だったらしい。徐々にスピードを上げ、前へと出る韋駄。
俺は韋駄の背中を目で追って後へとつく。
精神を極限まで高め、いつでも強く漕ぎ出せる準備を整える。
すると、カチッと韋駄がギアを一段階上げた音が聞こえた。
俺も同じく変則を二から、最大ギアの三まで引き上げる為にギアグリップを握って――あれ? 気のせいか、いつもに比べてハンドル周りが寂しいような……なっ!
「す、スピードメーターがないっ!」
左右に伸びる金属。ハンドルの中央には、画面を固定する台座だけが残っていて、ついているはずの小ディスプレイが無くなっている。
今日の朝登校して自転車を停めたときにはついてたはず! いつの間に盗られたっ!?
「――ちょ、ちょっと韋駄! 止まって……」
「おおおおぉぉりゃああああーーーっ!」
俺は状況を整理するため、韋駄にいったん止まってもらうことに。
くっ……韋駄のペースに乗せられて、こんなことにも気がつかないなんて……。
だが、奇異な叫びをあげる韋駄は、すでに十メートル近く先まで行ってしまっていた。
俺の声は届いてない。見向きもせずにがむしゃらに漕ぎ続けている。
「おいっ!」
少しは人の話を……ちょくしょーっ!
ここでスピードメーターのこと、雑念を持っていたらまたおいてかれることになる。
今度は後れを取るわけにはいかない。
頭よりも体を動かせっ! じゃないと昨日の二の舞だ。
このことは後回し、今はとしてでも着いて行ってやる!
俺は更に遠くなった韋駄の背中を見据え、ペダルを力いっぱい踏みしめた。
もう脚が動く気がしない。太ももからふくらはぎにかけて感覚がなく、真夏でもないってのに、サドルに跨ってるだけで体中から汗が出てくる。下敷きとタオル。どころか、人一人包み込めるほどのバスタオルが欲しくなる。
あれからは無我夢中。もう狂ったように、ただひたすらペダルを回すことだけを考えて漕いだ。疲れだとか暑さだとか、感じることすら忘れるほどに頭がからっぽになっていたらしい。それほどに漕ぎ続けた。決してスマートな帰宅じゃなく、醜くむさ苦しい気合いという信念で動いていたが、その結果こうしてついていくことが出来た。
隣では額にうっすらとかいた汗を袖で拭った韋駄が、大きく息をついていく。
「はぁーっ、やっとついたー。結構速かったことないかー?」
そう言って自転車を降りる韋駄を見るに、ここが目的地のようだった。
「そう……か? 時間見てなかったから、わからん……」
「足早大丈夫かよ。汗ヤバいぜー? はっはっは、それ自転車サビんじゃない?」
「うるせーよ! 久々に全力で漕いだから疲れただけだっての」
なんでお前は袖一拭きで済むくらいの量なんだよ。
起きてから一回も水分とってない奴くらいだろ、その量は。
両手で自分を仰ぐようにしてこっち来いとサインをしてくる韋駄。
「とりあえず着いたんだし降りろーっ! あー、ちなみに時計ならあそこにあるぜ」
指さす方にはお城のような三角屋根? みたいな建物の頭が見え、そこには丸い時計がついていた。
自転車からおりて辺りをふらふら見渡すと、それを大きくグルっと囲むファンシーな動物たちが描かれたコンクリート塀があり、近くに見える入り口には『かすがのようちえん』と書かれた石版が埋め込まれていた。
明らかに俺らが来るような場所じゃない。ここから歩いて近い所にあるゲームセンターに行くとかじゃないのか?
「……ここ幼稚園だぞ? ほんとにここなのか?」
「ああ。ここであってるけど?」
おかしなことでもあるのかと言いたげに、韋駄は珍らしく真面目に答えてくる。
幼稚園になんの用だ? 弟か妹の迎えでも頼まれてるのか?
なら俺を連れてくる必要はないんじゃ……。
「てゆーか、ここで俺の兄貴が働いてるんだわー」
どうして幼稚園に用があるのか。こっちは今日の帰宅を犠牲にしてまで来たってのに。
だんだんと苛立ち始めていたが、韋駄の言葉によって繋がった。
「そういうことか。わざわざ兄ちゃんに会いに来るとか、仲いいんだな」
「いや、兄貴に会いに来たわけじゃないって。それに仲いいってか普通だなー」
それなんだっていうんだよ。
もっともらしげな顔をして否定してくる韋駄。
こいつに兄弟がいるとは意外だったな。適当で自分勝手な性格からして、ひとりっこで甘やかされてんだと思ったけど。
「なんだよ普通って。普通の基準が解らん」
「普通は普通だろー? 男兄弟ってそんなもんだってー。足早は兄弟いないの?」
「いない」
きっぱりそう答えてやると、韋駄が意味深な顔をする。
「あぁだから……」
「なんだよ、だからって」
絶対失礼なこと考えてんだろ、こいつ。俺は一人っ子だからって我がままだとか世間知らずなんてことはない。帰タラーだぞ? 帰タラーほど出来た人間はいないっての。就職活動でもしてみろ、即採用だわ。
「まぁー野郎の話なんてやめよーぜー」
俺の質問はスル―しやがった。韋駄は馴れ馴れしく肩を組んでくる。
そのまま韋駄に連れられ、塀の方へと近寄る。
塀は頭よりも少し高い位置にあるが、背伸びすればなんとか中の様子が見えた。
中にある建物の大きな出入りらしき扉が開いていて、中から先生と子供たちが出てきているのを見るに、ちょうど下校の時間だったようだ。ちらほら母親らしき保護者の姿も見える。
「せっかく女の子に会いに来てんだからさー」
「え、……何? 女に会いに来たのか?」
幼稚園といえば、俺も幼稚園に通ってた頃は先生が好きだったな。
――あれ? 待てよ。そういえば……
「おい韋駄。お前って天ノ上のこと好きなんじゃなかったっけ? そんなこと言ってていのか?」
忠告したつもりなのに、韋駄は微塵も慌てたり罪悪感を覚えたりはしない。
とぼけた面をして首を傾ける。
「あれ? 俺、天ノ上さんのこと好きだっけ?」
「いや、知らんって」
どうして俺に聞くんだよ。自分でそんなこともわからんのか。
韋駄は思い出したらしい。はっと目を開け、捻っていた首を戻す。
「あ、あーあー。あのことー。確かに天ノ上さんは可愛いし、ぶっちゃけタイプではあるけどねー。足早の彼女でしょ?」
「お前、また俺その説明しないといけないのか? 違うって言ったよな、おい」
「うわー、めっちゃキレるじゃん。少しは恥ずかしがったりくらいしろよー。前みたいによー。可愛くないなー」
問答無用で韋駄の腹に拳をめり込ませた。
「はぐっ――」
ぐりぐりと抉り、再び拳を引き上げ力を入れる。
「ちょっとごめんって。わかってるから、足早と天ノ上さんが付き合ってないことくらい知ってるから」
「わかってんなら言うな」
仕方なく、拳を納めるてやることに。カロリーを無駄にしたな。
もう殴られたくないのか、韋駄は必至な目をして訴えかけてくる。
「天ノ上さんとはほんとに仲良くなりたいだけで、俺の好きな子はここにいるんだって!」
「……マジかよ」
ここに居るって、こいつほんとに先生のこと好きだったの? 年上好きか?
そういえば、この前一緒に帰ったときも小さい子連れてるお姉さん見てたな……。
まぁ保母さんって優しい人多いからな。子供が好きな人に悪い人なんていないだろ。子供好きって言っても、犯罪臭がする子供好きってのもいるが。
この際、ロリコンが正義か悪かなんて話は無粋か。
「お前、年の差とか気にしないのか? ていうか喋ったことあるの?」
「おぉ。それなりに面識はあるぜー」
「そりゃ意外だな。まだ話しかけてすらいないと思ってたわ」
「そこまで奥手じゃないってーの」
自慢げに胸を張っている韋駄。そのぶった口調で語るのやめてくれない?
何こいつ。愛に生きてるみたいな感じで鬱陶しいな。
俺の向けている冷めた視線を華麗にスル―し、韋駄は俺の肩をゆすってくる。
「ほ、ほら見ろって! あれあれっ!」
出てきた子供たちの方を向けて指をさす。
「きれいだよな、ほんと。あんなかでも飛びぬけて一番大人っぽいわー」
韋駄はニヤニヤして涎が垂れてきそうなほど口がだらけていた。
これは十八禁。Z指定に区分されるほどに気持ち悪い顔だ。通報されてもおかしくない。
女の子の手を引いて出てきた先生は髪の毛こそ短めだけど、雰囲気は何となく天ノ上に似ていた。もちろん素じゃなく、猫をかぶってる方にだけど。あの人は絶対あいつみたいに腐った性格じゃない。この離れたところからでも、女の子に微笑みかける笑顔でわかる。
「まぁ確かに綺麗、てか可愛い系だな」
「だろー。まほちゃんって言うんだぜ。ほんと可愛いよ、あぁ~」
完璧に自分の世界に入ってるらしい。壁にもたれ掛る韋駄は、くねくねと身悶えるような気味の悪い動きをしていた。今すぐ射殺されてくれないかな?
「はいはい。それに大人っぽいんじゃなくて、もう大人だろ。周りが子供ばっかりだからそう見えるんだって」
確かに先生も、若干童顔なせいか子供っぽくは見えるけど。
「ん? ちゃん付け……? なんだよ、ずいぶんフレンドリーなんだな」
いくらなんでも年上の女性にちゃん付けは失礼じゃないか?
特に意識することなく、何となく気になったので聞いてみた。
すると韋駄はめずらしくも少し照れてるのか、髪を必要以上に触っている。
「あぁ、実は家に遊びに行ったこともあるんだよ」
「そうか……って、はっ!? お前、それ結構進んでるだろ! それなりに面識ある程度じゃないじゃん!」
外から隠れるように覗いてるってのに、思わず大きな声が出てしまった。
「そりゃなー。七限の月曜と火曜は時間が遅いからあれだけど、それ以外は毎回来てるからよー。アピールする機会は多いんだってー」
「そ、そうか。意外と頑張ってんだなお前」
ちょっとだけ嫉妬。韋駄がこんなにも青春を謳歌していたなんて……。
茶化してやろうと思ったけど、やめるか。帰タラーだって空気は読む。
でも月曜、火曜だって、こいつのあの速さなら十分間に合うような気がするけど……。
先生は児童と同じ時間に帰れるわけじゃないんでしょ?
じーっと先生のいる方を見つめた韋駄が、微かに聞こえるくらいの声でぼそっと呟く。
「……なぁ。俺、本気で好きなんだけど、足早はどう思う?」
「ど、どうって言われてもな……。相手のこと良くわからんし、気になるとしたら年の差か? やっぱり」
「年の差なんて関係ないって。俺はいくつ離れてたって一人の女性として見てる」
いつも鬱陶しいだけの韋駄が、ちょっとかっこよく見えた。
いつになくおちゃらけることなく真摯に話してくるせいか、俺の言葉にもも少し熱がこもってきている気がする。
俺はあえて賛同はしずに、反した意思表示をする。
「でもさ、お前がそう考えてても向こうがどう思ってるかわからんだろ? 大人しそうな顔してガキには興味ないよとか思ってるかもよ?」
「まぁ、確かになー。俺はまだまだガキっぽいところあるけどさー。気持ちは誰にも負けないつもり」
てっきり反論してくると思った。
でも韋駄は俺の意見を否定することはなく、今度は少し照れながらもはっきりと自分の意思を述べる。
なんでいつもお前を拒絶してる俺なんかを、帰りにつき合わせてこんな相談を……。
こんなこと対して親しくない人間に言えることじゃないだろ?
こいつ、もしかして俺のこと友達だと……。
ふいに鐘のような音がして俺は現実に引き戻される。
幼稚園の校舎。さっきの三角屋根の方から音が鳴っていた。子供たちがわらわらと親たちに連れられ、残っている子供がずいぶん少なくなっている。
韋駄の好きな先生は、先ほどから隣にいる女の子と手をつないで、未だに迎えが来るのを待っていた。韋駄はその姿をまじろぎもせずに見据えている。
どうやらこれは認めるしかないな。
「お前、ほんとに好きなんだな」
「もちろん。好きで好きで仕方ねーよ」
韋駄はぎゅっと胸のあたりを掴み、やきもきしたようにそう言った。
「俺さ、韋駄のことどこか知ったつもりでいたわ。ただ何も考えずヘラヘラしてて、毎回内容のないしょーもない絡みをしてくるやっかいな野郎だってさ」
「うわっ、ひっでなー。俺の足早に対しての気持ちも知らずによー」
いつもだったらこの気持ち悪い絡みもリアルに引くところだけど、今は不思議と嫌な気はしなかった。ニタニタ見てくるのだけはやめてほしいが。
「――でも勘違いだったかな。お前みたいないい奴だったら、あの人みたいな年上の女の人とでも上手くやれるだろ。可愛いじゃん、あの先生」
なんだか俺まで照れくさくなってきた。……でも俺の思いすごしだったのか?
いつも韋駄は俺と喋りたい、と考えて声を掛けに来てたのかもしれない。
もしかしたら、普段俺に話しかけてくる連中だって敵じゃないのか?
てっきり俺の帰宅どころか、学校生活すらも潰しに掛かってきてると思ってたけど。
そう考えると、俺が思ってるほどクラスは居心地悪く――。
「なぁー。足早なんか勘違いしてるようなー……?」
こめかみを押え、悩ましそうにした韋駄が俺の肩に手を置く。
「ん、どうした? 勘違いって何の?」
前までは心の中で、俺の帰宅の邪魔をしてくる奴と言うくくりで見てたせいか、自然と言葉も強く返していた。でも今はいい意味で違う見方に変わったおかげで、韋駄に返す口調も自然とやんわりしたものになった気がする。
中から子供の「ばいばーい」と言う可愛らしい声が聞こえてきたから覗いてみると、先生と手をつないでた女の子がお母さんに連れられ歩いていた。
「お! あの子お母さん迎えに来たな。――ほらチャンス。先生戻ってっちゃうぞ」
戸惑っているのか、踏ん切りのつかなさそうにしている韋駄の背中を、俺は押してやった。やっぱりこいつでもこういう場面じゃ照れるのか。立ち止まった韋駄はもどかしそうな顔で振り返る。
「いや、だから違うんだって。俺の好きな人はあの先生じゃなくて――あの人だよ」
韋駄は校舎に帰っていく先生から、入り口の方にいる女の人を指す。
そこに居たのは、子供を迎えに来ている若い母親だった。
「…………は?」
「なぁー。可愛いだろ? 先生も確かに可愛かったけど、ほら見ろって。黄色い帽子がまた似合ってて可愛いんだよー。あの後ろに二つに結んでくりっとした目もまたあどけなくてさー」
言ってることと母親の容姿が全く合ってなくて、俺は頭がごっちゃになりながらも見ていると、まさに韋駄の言う容姿ぴったりの人――小さな肩に通園リックを背負った女の子が門の外へ出てきた。
母親と一緒に出きた女の子は、さっきまで先生と手をつないでいた……。
「ただのロリコンじゃねぇかっ! 今すぐ通報してやる!」
三日くらいかけて積み上げてきたジェンガを、いきなり目の前でに蹴り飛ばされた気分だ。
俺が今まで持っていた韋駄に対しても評価には狂いはなかったらしい。
韋駄はまくしたてるように、俺へと詰め寄ってくる。
「ロリコンじゃないってーのっ! 俺は幼女だから、とかで好きなんじゃねぇよ。あの子を本気で一人の女性としてだな――」
「そんなこと言っても無駄。お前はロリコンなんだよっ! 捕まってしまえ!」
「あー、くっそー。足早ならわかってくれると思ったんだけどぉー」
韋駄は悔しそうに拳と手のひらを打ち合わせる。
韋駄はやっぱり韋駄だった。なんの考えもなしに好き勝手行動して好き勝手に生きているような野郎で、帰りは俺の邪魔ばかりして来るし、普段の学校生活での絡みようを考えるに意図的にやってるのは明白。それにすぐ物事へと首突っ込んできては俺の邪魔をする。全く何を思って生きてるのか考えもつかないような無神経野郎だ。
俺の冷ややかな視線を感じ取ったらしく、ある提案をしてきた。
「よーし。じゃあ違うとこ、もう全く違うところに行こうぜ! そこもなかなか楽しい所で、俺が最近通いだした保育園なんだけど。なかなか可愛い子が居て――あー、でもこれ中々の隠しスポットだから秘密なーっ」
「やっぱり鬱陶しいな。もう俺に近寄るなよ……」
俺は出来る限りの力を持って韋駄の股の間に膝蹴りをいれる。
思いっきり気持ちの悪いむにゅっとした感触が、膝から全身に伝わってくるような気がして身もだえしたくなった。
「ふんぐぅっ! ………………」
その場に崩れ落ちる韋駄の姿を確認した俺は、韋駄の自転車から鍵を抜き取って、幼稚園の隣にある精神科の病院へと投げ込む。
帰宅のためにはならないことをしたけど、明日の平和すら守ったような気分になった俺は、自転車に跨っていつもの帰宅ルートへと戻った。