ソイユ―スの蒼玉使い
古来より、人々は霊体と深く関わってきた。
霊体は時として生物の身に宿り、進化を促し、国づくりの頃より魔物と呼ばれた。
霊体は時として物体に宿り、蒼玉と呼ばれる力を発揮した。蒼玉を扱う者達は、混沌の時代より国づくりを支えた。蒼玉を扱う者達は、あらゆる魔物を破壊し、森や台地を切り開いた。エストランド王国に伝わる、蒼玉開拓記の歴史はここより始まっている。
しかし遥か昔のこと、北西の島々や極東の国々では、魔物と会話し、調和を築こうとする賢者達がいた。賢者の教えは様々な形で、僅かな人間に受け継がれている。語られることもなく、他の蒼玉使いと距離を置き、静かに暮らしているのだ。
エストランド王国の南側、テンパイユ山脈の麓にあるソイユ―スという町にも、隠れるように暮らすアーテルという男がいた。国や町に雇われ、宮殿暮らしの蒼玉使いも多い中、男は町の中央に位置する民家に住んでいた。今も、そしてこれからも語り継がれることなく、彼はエストランドの蒼玉使いとして一生を終えることになる。
いびきをかいて、よく寝る男だった。着慣れている茶色い上着姿は、森で修行する異教徒とさして変わらない、貧相なものだ。
彼を起こす役目を受けているのは、弟子のミレイ。
「師匠! 気持ちの良い朝ですよ!」
足の形が良く分かるズボンを履き、少し膨らんだ赤い半袖を着る彼女。弟子の格好ではない。
男は伸びている顎鬚をいじりながら、赤色の丸いマットレスから起き上がる。窓辺の光をしばらく見てから、ミレイに挨拶する。
「おはよう。今日も、その服か」
「ふっふっふ……気に入りましてね。師匠も服買ったらどうです」
「汚れちゃいないからな」
エストランド王国では妖精避けという風習から、朝日を浴びないようにして起きる。貴族は天蓋付きのベッドまで使う。庶民は窓に鍵をかけて目覚め、すぐに窓を開ける。しかし、アーテルの家は窓さえ常に開けてある。
寝床にも使っている自室は、薄黄色の朝日に包まれている。机の上にある青色のインク瓶が光を反射、ミレイの不敵な口元も光る。
「馬車がうるさいのによく寝れましたね」
「ハンスのとこのボロ馬車か。慣れてるよ」
「あんなガタガタした音じゃないですよー」
「町長のお客さんか?」
「そういえば家の前で止まりましたね」
その言葉にアーテルは慌てて窓を見た。
ソイユ―スは既に動き出し、石畳の通りを見慣れた農民や薄汚い恰好の行商人が歩いている。もしかすると裏に馬車を入れたのかもしれない。そう思い、家の台所にある裏手の扉へ急いだ――思わず踵を返し、本棚に立てかけてある剣を確認し、また裏手へ走った。
台所の椅子に乗せてあった黒色のローブを着込んだ。ミレイのものだが時間がない。長めに揃えた後ろ髪を整え、必死になって精悍な顔つきに固定する。目の前の扉がノックされ、アーテルは勢い良くドアを開けた。
「ご機嫌よう! その。淑女様」
「……ご機嫌よろしいようで。手紙もなく、突然失礼」
アーテルが最初に見たものは、汚れたフリル。雨が降ってぬかるんだ地面に沈んだ小さな靴。どんな人形よりも人形らしい白い顔。銀のツインテール。
深紅のドレスを纏う少女だった。
高身長のアーテルを、青く鋭い眼が見上げていた。
「その。申し訳ありませんがどういった方で」
「私はソフィアと申します。エストランド国王の元、貿易商を営んでいるクルーディエットの長女にございます。父のことはご存知で?」
「それは、勿論……アルトゥール様で」
クルーディエット一族は、国王の血も流れている。今まで訪問してきた誰よりも身分が高いことに加え、アーテルは子どもとあまり話したことがない。今年で三十歳となるにも関わらず、固まってしまった。
出生も分からない田舎の地主よりも遥かに礼節を重んじるソフィアは、何も言わずに待ってくれた。
「とりあえず、どうぞ中へ」
アーテルはどうにか声を出した。
ソフィアが中へ入ると、馬車の中に隠れていた騎士も付いて来ようとするが、彼女の視線を感じ取り、歩みを止めて動かなくなった。
ソフィアは動揺した顔を見せなかったが、台所を見た瞬間、立ち止まったことにアーテルが気付く。表と裏口の区別がついていなかった為に、舗装もされていない馬小屋から入ってきたのだ。
応接間に入ると、ソフィアは深紅のドレスの下部を外し、アーテルに手渡した。貴族に流行している、二重ドレスだ。深紅の部分を脱いだソフィアは、黒色の目立つ、レザーの混じった動きやすい恰好となっていた。細い素足は、高価な革のブーツで見えない。
羽毛の入ったクッション付きの椅子に座り、テーブルを挟んで二人は対面する。
「わざわざありがとうございます。バウル・シェトからですよね。向かいましたのに」
バウル・シェトという主要都市が、馬車で一日かけたところにある。このソイユ―スという町が生活に困らないのも、近くに大きな街があるからだ。
その街の貿易をほとんど引き受けている商売人の令嬢が目の前にあることには、商売と無縁のアーテルに違和感しか与えない。
ソフィアは顔に似合わない不敵な笑みを浮かべた。笑みさえも人形のそれだ。
「私の屋敷に招いても、それは失礼ですが、要らぬ礼節であると心得ております。それに今回頼みたいことは、あくまで個人の依頼。こうして直接会えば、分かっていただけそうだと思いまして」
「私に、依頼? 私にですか」
「勿論、魔物狩りです。数週間前に王都で起きた爆発事故をご存知で?」
「伝言板で知りました。貿易船が停泊中に爆発したと」
「犠牲者は一人。私の兄でした」
「それは。そうですね。書いてありました」
「爆発が起きる前の夕暮れ時、王都内で魔物が目撃されています。歌姫と呼ばれる魔物です」
アーテルは顎鬚を触る。
「歌姫は滅多に街に現れようとはしません」
「歌姫はこの町の近く。つまりあなたの管理するニンベルの森の歌姫であると分かっております」
「それこそ、あり得ないことです」
「……私には魔物のことはよく存じません。何にせよ、唯一の手掛かりですから、これを狩っていただきたいと思います」
「待ってください。事故ではなかったのですか」
アーテルは眉間に皺を寄せる。緊張感は薄れ、つい昔の依頼をポツポツと思い出してしまう。
ソフィアは目を伏せ、悲哀の仕草を取る。
「爆発事故は火薬の引火が原因だと伝書に伝えておりますが、実はまだ分かっておりません。いくら調べても、手がかりが出てきません。あるとすれば、歌姫くらいのもの」
アーテルはテーブルに乗せた自分の両手を見つめる。
話が早く進んだせいでお茶を出すことも忘れていた。アーテルが謝ると、ソフィアは不要だと言った。ソフィアは沈黙をもってして、アーテルを促す。これ以上は時間稼ぎもままならない。
半ば覚悟を決めてから、アーテルは食い下がる。
「確かに、王都に魔物がいることは問題でしょう。しかし、王都には高名な蒼玉使いがたくさんいるでしょう」
「あなたの噂はバウル・シェトでよく聞きます。蒼玉を使わずに、剣のみで魔物を狩るとか。この小さな町を一人で守っていることも驚きます」
「ただの未熟な蒼玉使いに過ぎません」
「最初に申した通り、これは個人の依頼。是非、お願いします」
ソフィアは静かに立ち上がり、胸に両手を当てて頭を下げる。エストランドの正式な礼だ。
ソフィアは報酬金や目撃された場所などを伝え、昼前にはソイユ―スを出た。
豪華絢爛なソフィアの馬車を遠くで見物していた町の人達は、アーテルの家を何度も訪問した。いつもは隣町から客が来るくらいのことだ。貴族の依頼などは、いつもこちら側が赴く。噂はすぐに広まってしまうのだ。
十二人目の訪問客である隣人のおばさんが、野菜を渡しつつ重要な情報を教えてくれた。
「ニンベル村にも、クルーディエットの手紙が届いたって。アンタ、すごい騒動になってるよ」
「おばさんの野菜で元気を出すとします」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないの。昼ご飯どうしたんだい?」
「これからひと眠りしようかと。干し肉をかじってね」
「これだから蒼玉使いは! ただでさえ変な目で見られるんだから嫁を早くもらいなさいな!」
「うるさい弟子で十分です」
世間話を済ませてから、ミレイも帰らせて、アーテルは再びマットレスに横たわった。目を閉じると、全ての音が一つの規則的な旋律に聞こえるのだった。
起きたのは夕日の落ちる時間。さっぱりとした空気に、そのままの太陽が映し出されるソイユ―スの町並み。
ソイユ―スは、南へ至る町と呼ばれる。エストランドの南部は大きな農業地が続き、香り豊かな果樹園も多い。太古の森がすぐ傍に広がっているため、北部とは比べ物にならないほど魔物が群生しているが、南の地方は極上の農作物が取れる土壌だ。人も自然も、極上の土地から離れることは出来ない。行商人は危険な道を切り開き、やがて多くの町と、商業の拠点であるバウル・シェトが生まれた。
太陽の似合う風景を、アーテルはとても気に入っていた。
町の街灯が灯った。アーテルは台所に置かれた鍋からスープをよそい、食べる。大きな机に置かれた本の内から適当に選び、読み始める。外が暗くなり、ランプを灯した。質の悪い本の表紙が、水面のように光った。
夜は長い。本を数冊読み終わっても、まだ時間があった。部屋の整理をし、ニンベル村に持っていく本を選ぶ。蒼玉使いとしてアーテルが管理する森の近くに、ニンベルという村があり、用事がある度に、村の子どもに本をあげていた。
アーテルはようやく服を着替える。白い服の上に、黒いなめし皮を着て、腕や肘、膝に黒く塗った鉄のガードをベルトで取り付ける。採集用の布袋を腰に巻き、三本のナイフを、なめし皮に付いている穴に差し込む。全身を黒く染めた、傭兵の出で立ちである。
最後に、机の引き出しに仕舞われている青色の粉が入った小瓶を三個、布袋に入れた。
引き出しには、十字架の形をした、錆び切った鉄棒がある。アーテルはしばらくそれを見つめ、いつものように言った。
「今日もお前の出番はないようだ。じゃあなロダン」
引き出しを閉め、本棚にかけてあった剣を持って、裏口に出る。家の裏手には馬小屋があり、一頭の黒毛の馬がいる。足が少し太いが、ある程度の速さが出る。
「今日も元気が良いな。相棒」
鞍を付け、そこに剣を布でくくりつける。ゆっくりと鞍に乗り、迷惑がかからないように、出来るだけ静かな音でソイユ―スを出た。隣の家に住んでいるおばさんが素晴らしい耳を持っていて、小さな物音でも起きてしまうからだ。
歩いたとしてもソイユ―スから半日もせずに着くニンベル村。今日の様子はいつもと違う。幾つもの巨大な焚火が外周を覆っていた。レザーアーマーを付けた若い村人が、猟銃と松明を持って巡回している。火に浮かんだ若者の目は怯えていて、村の端から広がるニンベルの森を見ていた。
村人へ馬を進ませる。アーテルは苦笑して言った。
「火にあたるような季節にはまだ早いが」
「もう来てくれたのですか。村長を起こしましょう」
「いや、おそらく、すぐに済むことだ」
アーテルは容易に想像が付いた。魔物を知らないあの令嬢が、かしこまった言葉で大袈裟なことを村の人間に言ったのだと。
「村に被害はないようだ」
「はい。ですが放牧してた豚がいなくなってしまって。そっちの方が恐ろしいです」
「豚も探してみよう。今すぐ辺りの火を消して、それを脱げ。朝には戻る」
アーテルは馬に巻いてあった剣と、子どもにあげるための本を村人の両手に乗せる。
「重いですよ、アーテルさん……」
「すまないな。良ければ布を貸してくれ」
村人から借りた長い布を頭に巻き付け、耳にかぶせる。歌姫に会う為には、音が聞こえないようにしなくてはならない。
「アーテルさんにデュガの加護があらんことを」
「聞こえないからって異教の名は危険だよ」
「え!?」
「口の動きで分かる」
誰にも言わないと約束して、一人森へと向かうアーテルの背を、村人が心配した顔で見送る。やがて森の影に飲み込まれる。強い風が草地と木々を揺らし、淀んだ月の浮かぶ静かな夜だった。