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Muse Night:origin  作者:
砂海編『路傍のトゥレチェリィ』
18/25

toast ~乾杯~

砂海さん編。新たな視点から書きたかった。

 グラスに注がれたシュヴァルツ・ビールの泡が、アンニュイな夜を加速させた。反射した暖色の照明すら呑み込む黒を観察し、カウンター席に腰掛けた男は満足そうに笑う。

「泡立てたホップ液なんて無粋な物、本当に美味しいかい?」隣に座るスーツの男にそう小突かれ、男はぶっきらぼうに言葉を返す。「お前、全国三千万のビールフリークを敵に回したぞ?」

「へぇ、アルカトピアの総人口は四千万人居るけど、大半が成人だなんて初めて知ったよ」

「馬鹿。比喩だよ、比喩」

「キミヒトが比喩を言えるなんて……それも初めて知ったよ」

「それ以上馬鹿にするなら、今日も奢ってもらうぞ?」キミヒトと呼ばれた男が歯を剥きだして笑うと、相手は観念したかのように財布を取り出し、コップの水を一口飲んだ。


 シンの姿を見ると、誰しもがエリート会社員と勘違いする。そうでなければ、国政を動かす官僚だ。気品のあるグレーのスーツに銀のフレームの眼鏡を着けた彼は、やはりそれなりのインテリジェンスを持ち、それなりの大学を中退した過去があった。かつて砂海がそれを茶化した時に、彼は苦笑しながら「敷かれたレールから、気づいたら滑落してたんだよね……」と

言った。その時の挫折を経験したような表情を、砂海は忘れられずにいる。

 砂海キミヒトの表情は、いつも険しい。常に不機嫌そうに眉根を寄せ、黒いライダースを着こなす偉丈夫は、若気の至りから粗相を繰り返し、喧嘩に明け暮れていた。

 心に湧いた焦燥感とフラストレーションを持て余し、繁華街の裏路地で人を殴り続ける彼は、居場所を渇望していた。

 何の因果か、二人は同じ時期に出会い、同じ組織に所属することになる。


「それにしても、お前がこんないい店知ってるとはねぇ……」

「私はビール嫌いなだけで、カクテルはいけるからね!」

 口元を緩めるシンに、砂海は辺りを見渡し、そっと耳打ちをする。

「それより、この店は大丈夫か?」

 少し狭い店内には、小粋なジャズと客の話し声が空気よりも濃く充満している。砂海には曲の詳細はわからなかったが、その不規則なリズムに合わせて肩を揺らす周りの客に、少し驚いていた。二つ隣に座った赤ら顔の男は高価な酒を自らを鼓舞するように煽っていて、その様子を不安そうに見つめる弱気な店主の姿まで異質だった。

「これだけ騒いでるなら、盗み聞きの心配はないだろう?」

 シンから「話がある」と言われた時の砂海は怪訝な表情をしていたが、今カウンターでビールを飲んでいる彼は、ただ当惑した表情を浮かべるだけだ。その理由は、このバーの立地にある。

「いや、ここって確か龍醒会の……」

 シンの耳に言葉が届く直前に、店内がどよめいた。赤ら顔の男が、コルクの詰まったビンテージワインを小脇に抱え、逃げるように店を出たのだ。

「あの、お金を……!」店主の弱々しい叫びも虚しく、男は裏路地に入ろうとしている。砂海とシンは同時に立ち上がり、代金をカウンターに置いて走り出した。


 逃亡者を袋小路に追い詰めるのは簡単だった。土地勘のある二人と、千鳥足の男。追い詰めた先の壁の質感まで知っている二人にとって、その差をじわじわと詰めていくのは造作もないことだ。

「頼む、見逃してくれ」男は顔を赤らめ、壁に背を向けて後ずさりする。その表情が焦りによるものか、アルコールによるものかは、砂海には判別できなかった。

「商品に対価を払うっていうのは、市場経済の常識だと思うんですよ」シンはへたれ込む男に視線を合わせると、眼鏡に遮られた眼を曇らせた。標的を設定した猛禽類のような瞳だ。

「財布を家に忘れてきたんだ! 今から取りに行こうかと……」

「へぇ、それなら鞄の中に隠した酒は、返してもらって構いませんね」シンは目配せをし、砂海はそれに従って男が後ろ手に抱えている革の鞄を物色した。

「シン、ここにあった」未開封の酒瓶とくすんだ長財布を取り上げ、砂海はニヤリと笑う。

「あれ、財布持ってるじゃないですか?」シンの言葉から感じる温度が、数度下がる。それに気圧されたのか、男は額に汗を滲ませながらぶつぶつと言葉を発している。

「返せよ……返せって言ってんだ……!」砂海の腕から財布を取り上げ、男は吐き捨てた。「お前ら警官か!? 国家権力なんて怖かねぇんだよ!」

 虚栄心が染み込んだ言葉に、シンはぴくりと眉を上げた。「あんな奴らと一緒にしないでもらえませんかね……」と呟くと、ネクタイをわずかに緩めた。首筋に巻きつくように彫られた、尾を喰らう蛇の刺青が露わになる。

「お前……ヴェルディゴの所の……!?」男はそう言ったきり、先ほどまで赤かった顔色を信号機さながらに青白くした。

「で、どうします? 警察沙汰にしても構いませんよ。私たちに喧嘩を売るのも一興でしょうね」

 どうします、とシンが繰り返すと、男は観念したかのように頭を垂れ、財布から抜き出した紙幣の束をシンに押し付けるように渡した。

 彼らが所属している組織の名前は、この街で暮らす者が思わず耳を塞ぎたくなるほどの影響力と悪名を持っている。即ち、男は財産と身の安全を交換したのだ。

「確かに頂きました。それでは、良い夜を」呆然と立ち尽くす男を尻目に、二人は夜の街を踏み分けて歩いていた。


「マスター、代金は足りるね?」

「あっ……ああ。おそらく間違いないと思う」

 営業時間をとうに過ぎた店内では、シンが店主に支払いの確認をしていた。砂海はその様子を見つめながら、店主が彼らの目を見て話をしないことに疑問を感じていた。

「あの、すまないが帰ってくれないか?」

「すまない、マスター。もう夜も深いしね」

 店主はだまって首を降り、「いや、もう来ないでほしい」と呟いた。何かを恐れ、躊躇しながら言葉を紡ぐ様子が見て取れる。

「えっ?」

「うちの経営は安定していない。みかじめ料も用心棒代も払えないんだよ……!」声を振り絞り、店主はそう叫ぶ。「お前らマフィアにも、この辺を牛耳ってるヤクザにも、金なんて一文も流さないぞ。お前らの仕事に存在価値なんてないんだよ……!」

 辺りの空気が、ぴんと張り詰めた。見えないピアノ線が張り巡らされ、動くと傷つきかねない、砂海はそう思った。少なくとも、店主は自分たちの仕事に良い印象は抱いていない。

「キミヒト、帰ろう」

「えっ、でも……」

「いいから、帰ろう……」

 シンが小走りで店を出たので、砂海はその背中を急いで追いかけた。彼の脳内で、店主の本音がリフレインしている。一旦こびり付くとなかなか取れそうにないな、と彼は思った。


 シンは野心家だ。酒を飲むと、度々「組織でのし上がる」ためのプランを楽しそうに語る。周りから奇異な目で見られようが構わない、と彼は度々(うそぶ)く。

 求める物のためなら何を犠牲にしようと進み続ける。その思想は、砂海とシンが組織の上層部に気に入られ始めてから顕著になった。

「遠慮するなよ、好きなものを頼めばいいさ……」

「ありがとうございます、父君ファーザー

 砂海がメニュー表に明記された料理の値段に面食らっている間に、シンは手際よく前菜を頼む。彼らが少し覚悟をしないと頼めない価格帯で、その適切なチョイスに砂海は舌を巻いた。

 レストランに入る客はまばらで、清掃が細部まで行き届いているとは言えない。ただ、白を基調とした内装はシンプルで、閑散とした店内と相まって落ち着いた雰囲気を醸し出している。このような店を常連にする上司の姿が、砂海には意外に思えた。

「良いだろ? 美味いんだよ、この店」乱雑に切り分けたリブロースを口に運びながら、暗い色のサングラスを掛けた上司が語りかける。「混んでない、っていうのも高評価できるんだよな」

 顔が写り込むほど磨かれた金の腕時計に隠された腕の傷は、正面で座る砂海を小さく威嚇している。上司自身にそのつもりは無いが、見えない緊張感を常に与えていた。

父君ファーザー、一つだけ質問してもよろしいですか?」シンは目を伏せ、背筋だけを正して訊ねた。父君と呼ばれた上司が頷くと、彼はせきを切ったように言葉を並べる。

「私たちの仕事は、世間に必要とされているのでしょうか?」

 彼らの所属しているヴェルディゴ一家の頭領ボスであるバルトロメオ・ヴェルディゴは、シンの疑問に何も答えない。静かな空間で流れる空気は重く、砂海は訳もなくそわそわと椅子から腰を浮かせた。

 そして、ヴェルディゴは笑った。「俺らの仕事に、価値なんてねぇよ」

 ニヒルに口元を緩めて言い放つ言葉に、二人は言葉を失った。シンが真意を確かめようと口を開いた瞬間、ヴェルディゴは目を細め、語り始める。

「カタギの人間が言ったんだろ? なら、そう思うのも納得できる。だがな、価値がないものは蔑ろにしていいなんて誰が決めた?」シンの視線が跳ね、それを見たヴェルディゴは愉しそうに言葉を重ねた。「俺に言わせりゃ、価値のあるものしか大事にしないヤツの人生なんて、わかりやすく無価値だよ……」

「……つまり、どういう事ですか?」堪らず尋ねた砂海に、皿の上のキャロット・グラッセをフォークで弄びながらヴェルディゴが答える。

「俺たちは、この付け合わせの人参みたいなものだ。ろくでなしの愚連隊じゃ、決して日の目は見れない。メインの食材を引き立てるしかできないんだよ」

 フォークに串刺しにされた人参がなす術なく口に運ばれ、咀嚼の間に会話が止まる。

「だけどな、肉ばっかり食ってても胃もたれするだろ? それと同じなんだよ。俺らの入る余地のない社会なんて、住みづらくて嫌になる。価値のない物を必要としなくても、価値のない物がある余裕は必要なんだよ」

 砂海は口元を綻ばせ、シンはさらに背筋を正した。それを見たヴェルディゴは、何気なく野望を語る。

「俺はな、道を外れたヤツの居場所を作りたいんだよ。貧しかろうが、孤独だろうが、世間で居場所を無くそうが、そこにいれば生きていける場所を……!」

「そのために、この街の路地裏をまとめようとしているのですか?」シンが尋ねると、ヴェルディゴは小さく頷いた。

「ああ。ただ、それをやるにはこの辺りは窮屈すぎる。龍醒会が邪魔なんだよ……!」

 サングラスの奥の瞳に殺気が宿り、砂海の手に反射的に汗が滲んだ。この人は、常人をはるかに超えた修羅場をくぐり抜けている。そんなただならぬ雰囲気が、心の隙間に潜り込もうとしている。彼はそう考え、気づかれないように紙ナプキンで手汗を拭った。

「なぁ、乾杯しないか?」

「乾杯、ですか?」聞き返すシンの前に、ワイングラスが置かれる。砂海の前にも同じものが置かれ、追加で注文した赤ワインがそこに注がれる。

「俺たちの進む道程みちのりに、乾杯」

 彼らの目の前で、三つのグラスがぶつかった。


「ウェイター。申し訳ないが、シェフを呼んでくれないか?」食事の精算をしながら、ヴェルディゴが不意に尋ねると、ウェイターはあたふたと焦りながら厨房に向かった。

 十分後に現れた恰幅の良い男を、ヴェルディゴは手を上げて迎える。

「料理を担当させていただいた丑川です。お客様、私の料理がお気に召しませんでしたか?」ツヤのある頬を僅かに強ばらせながらシェフが尋ねると、ヴェルディゴは腕の時計を外す。

「ウシカワ、君は秘書とかはやってないよな?」シェフが細い目を見開いて否定すると、ヴェルディゴは冗談だ、と笑った。

「美味い料理だった。これは感謝の気持ちだ……」

 シェフに渡した時計は、誰が見ても高級品だとわかるような代物だ。受け取れません、と突き返すシェフに対して、ヴェルディゴは顎に手を当て、ニヤリと笑う。

「それなら、君が独立して店を開いた時に、優先して飯を食わせてほしい。この時計は、その時の代金の代わりだ。これでいいか?」

 片手を上げて去っていくヴェルディゴの姿を、シェフは丁寧に見送っていた。


「シン、悪いが車を呼んできてもらえないか? タクシーでいい」ヴェルディゴがそう提案すると、シンは小走りで店を出ていった。

「さて、砂海……。一つだけ、話したいことがある」

「……わかりました、ボス」

前ほど長くはないですね!

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