ヨルノオドリコ
ラウン編、もうじきクライマックスです!
「トオル、まだ時間ある?」
「まだ深夜だ。明け方までに帰るとするなら、まだまだ余裕はあるよ」
ポケットから財布を取り出しながら、トオルは背後の少女の顔を見ずに答える。久しぶりの外食で持ち合わせが足りるか一瞬ヒヤリとしたが、杞憂だった。
「あのさ、最後に行きたい場所があるんだけど、いい?」
「構わないけど。どこ?」
「案内してよ、トオルが昔行ってた舞台に!」
身を切る寒風に身体を震わせながら、二人は目的地まで歩いた。車の方が良いんじゃないか、と不平を述べるラウンに対して、歩いた方が近い旨を説明しつつ、トオルは歩道橋から月を眺める。
目の前の巨大なビルと比べると控えめな月は、直線的な街並みの中で、ただ丸みを帯びて佇んでいる。青白く輝きながら、この街に住む人々を鳥瞰して嘲っている。トオルはそのように感じ、月なら上から目線も致し方ないと笑った。空に二つと無いなら、それくらいの横暴は許されていい。
「着いたけど、ボロボロだなぁ……」
目の前にそびえる廃墟同然の建物に、二人は驚いた。ことごとく割られたガラスに、壁にスプレーで殴り書きされたグラフィティ・アートは、不満を募らせる若者に陣取りゲーム感覚でなされたものだろう。二年前でも『歴史ある』や『伝統』といった修飾語が良く似合う外観だったが、現在の立ち姿は痛々しかった。それは二年の月日による変化の限度を超えていて、肥大化した街が変わらないまま足を止めた建物に裁きを下したようにも感じられた。
「えーっと、ここで合ってるよね?」ラウンが怪訝そうな顔で呟く。「合ってるなら入るけど!」
「間違いない、と思う。実際、俺も驚いてるよ」
「そっかー。じゃあ、入りますか!」
言うが早いか、ラウンは鉄柵を飛び越え、内側から鍵を開く。
「待って、不法侵入なんだけど!」
「暗いから大丈夫だって!」
街灯の明かりの死角を縫うように、ラウンは躊躇なく駆け回る。その様子に不安と眩しさを覚え、トオルは駆け出した。
劇場内は外観ほど荒廃していないので、トオルは最前列に腰掛けた。今までは舞台袖で見ていた景色を、逆の視点で見ることに僅かな違和感を感じている。
幕が上がり、トオルは反射的にブザーの音を聴いた。もちろん、廃墟と化した劇場にブザーが設置してあるとは考えにくく、彼は根強い職業病的なものだと納得した。
舞台袖からゆっくりと現れた少女は、たった一人の観客に向けて一礼をする。茶番めいた拍手が響き、ラウンの独り舞台が始まった。
少女は、廻り続けた。壊れたオルゴールの上で運命を受け入れる機械仕掛けのバレリーナのように、彼女は普段着のままくるくる、くるくると廻っている。決して優雅だとは言えない我流のダンスに、トオルは目を奪われている。
優雅ではないが、華麗だった。ワルツは流れていないが、音響は邪魔だ。静寂こそが、彼女の花のような可憐さを遮らない。トオルは、自らの心拍音でさえ邪魔だと思った。
ふと、窓から延びる光がスポットライトのようにラウンを照らしていることに気づく。よく見れば、それは先ほどの青白い月光だった。宛もなく廻り続ける少女に、陰鬱さを湛えた月は最適な組み合わせだ。
やがて、少女はか細い声で歌う。メジャーコードのオペラ歌劇にも関わらず、不思議とトオルは心にざわついた『何か』を感じる。
歌い続ける少女の頬が濡れる。ラウンは涙を流しながら、声を震わせて歌う。退屈や絶望に声帯が追いつかないのだろうか。徐々に嗄れはじめる歌声を聞き、トオルの胃は収縮した。
このまま、世界が終わっても良い。ラウンの可憐な姿を見て、トオルはそのようなことを考え続けている。少女の自殺願望を受け止め続け、それでもなお、心のどこかで彼女に死んでほしくないという想いを育て続けていた。どうせ彼女が死ぬ気なら、このまま世界は滅びればいい。トオルは迷いながら目をつぶり、耳を塞いだ。脳内で、先ほどのダンスが巡っている。紅いドレスを着たラウンが、廻りながら救いを求めている。彼は自らの思考と彼女の価値観の間で揺れ動き、僅かに涙を流した。慟哭するまでもいかない、霧雨のような涙を。
「ありがとう、ありがとう……。最高の舞台だったよ」トオルは歩道橋を渡りながら、隣の少女にそう呟く。
ラウンは欄干に背中をもたれながら、真顔で頷いた。
「トオル。ボク、外の世界に出ることに期待してたんだよね」眼下で走り続けるトラックやバイクの群れを気にも止めず、ラウンがぽつりと呟く。「でも、期待しすぎてたのかなぁ?」
そろそろ夜が明けそうだ。朝靄が気だるげなベールのように空を包み、太陽が残酷に顔を出しはじめる。トオルは、昇る太陽を小声で呪った。
「結局、何をやっても退屈なんだよね、ボク」ラウンは冷たく笑う。そして、欄干から身を乗り出し、少女は墜ちた。「だから、さ。サヨナラ……!」
トオルは二段飛ばしで階段を駆け下りた。出来の悪い映画のようにチープなスローモーションで落下する少女を助けようと、もつれる足を無理矢理にでも前に出し、往来の激しい車道に飛び込んだ。
ラウンを抱き上げた瞬間、彼の意識はぷつりと切れた。
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