シカイ、セカイ、スカイ
今週は早め!4000字!割と自信ある文章!
「あのさ、外に出たいんだよね」
トオルが働き始めて二年が過ぎたころ、少女はそのようなことを呟いた。
ずいぶん、唐突だな。そう彼は思うが、脳内ですぐに否定する。厳密に言えば、兆候は最近目立ち始めていたのである。
「どうした、何か嫌な事でも?」
ラウンにとって、外に出ることは死に直結する事象だ。いつもの「退屈が誘発する希死念慮」が発作的に再発したのかと、トオルは身構えた。
「ここに居続けて嫌なことがないって、それ本当に思える?」彼女の返事は素っ気ない。
『誰かと話す』という鎮痛剤の効き目は、二年が限度だったようだ。いや、もしかしたら自分の行為は、末期の癌患者の手をずっと握っているような、気休め程度の効果しかなかったのかもしれない。トオルはそう思い、自嘲したい気分に襲われる。どちらにしろ、薬の効果は切れてしまったんだ。
「死ぬために心残りなことは、なるべく排除したいんだよ。あわよくば、外で死ねるといいね!」
最後の一言はおどけてはいるが、本音だろうと彼は察する。この部屋に居続けて感じる閉塞感を打ち払うには、死を選ぶしかないのだろうか。
「とりあえず、ボルゾーさんに話してみるよ。今日は、ほら、晩ご飯食べよ?」
置かれたローストチキンに、時間稼ぎをする役割を本気で託していた。
「まあ、こういう事なんです」
「そうか……。ラウンがそんなことを?」
寒々しい地下室の奥で、ボルゾー氏は牛の死体を処理していた。適合しなかった、それだけの理由で死んでしまった牛の姿を、トオルは不憫に思う。
「反抗期かな? どうしよう」
「どうしようって……」
この地下室に住む動物も、部屋で孤独を紛らわす少女も、本質的には何も変わらないのかもしれない。トオルは昔読んだ小説を思い出す。強いて言うなら、彼女は山椒魚だ。あの小説の冒頭を借りるなら、「ラウン・ボルゾーは悲しんだ」と言えるだろう。ただ、その終わりを失念してしまった。最終的に、山椒魚は抜け出せたのだろうか?
「とりあえず、私には娘を外に出すつもりが毛頭ない、と言っておこうか」
彼女を閉じ込めた張本人は、淡々と自らの主張を通す。親というものは、子の命を守るためなら非情になれるのだろうか。子のたっての希望を無視してまでも。
「あっ、一つ頼みたいことがあるんだけど」
麻袋を持ち上げつつ、ボルゾー氏は呟く。その中身に少年少女の魂が増えていることを、トオルは気付いていた。
「今日ほど作戦決行に適した日は無いと思うんだ」紅いキャスケットを被ったラウンは、グレーのダッフルコートをクローゼットから取り出しながら、宣言した。「家出しよう!」
キュロットスカートからすらりと伸びた脚はアーガイル柄のタイツに覆われ、トオルをはっとさせる。
「家出するって、どこへ?」
「そこなんだよ。トオル、アルカトピアを案内してよ!」
暗がりの中階段を降り、二人はエントランスに立つ。足音を立てないように玄関を開け、外に出た。
「ボルゾーさん、寝てた?」トオルが尋ねると、ラウンは悪戯っぽく笑った。
「それはもう、ぐっすりだよ。死んだように寝てる」
夜風が身を切り、トオルはコートを羽織るべきだったと後悔する。冬の足音がうるさいクリスマス前の週末であるなら、寒いのは当たり前だった。
愛車のエンジンを掛ける。二年のブランクがあり、やはり運転には不安が付きまとう。助手席の少女を不安がらせないよう、慣れた手つきのふりでカーラジオを付けた。車内にボサノヴァが響く。落ち着けるメロディで良かった、これがハードロックなら、フルスロットルで公道に突っ込んでいたかもしれない。トオルは安心する。
ヘッドライトを点けると、視界は急激に冴えわたっていく。真っ黒い虫の群体を光線銃で薙ぎ払っているようだ。
田舎町とスポーツカー、ボサノヴァ。それらを集めた風景はミスマッチな物の極致で、それが却ってハイセンスな映画のワンシーンのようだ。国道に出さえすれば、違和感は消えるのだろうか。トオルのハンドルを持つ手に力が入る。
夜の街を駆ける赤い車体は、ラウンの閉塞感を打ち破る弾丸に変貌していた。トオルは後部座席に座るラウンの姿を一瞥し、ほっと胸をなで下ろす。日光が当たらなければ、外に出ても平気なようだ。今は地球の裏で輝く太陽に初めて感謝しようと、彼は思った。
二年が経っても、都会は都会のままだ。赤信号の向こうに見える駅前広場の喧騒を、トオルは嫌なものを思い出すような表情で見つめる。
薄暗い空と拮抗するように伸びる黒いビルが長身の巨人であるなら、そこから漏れ聞こえるクラブ・ミュージックは心臓の鼓動だろうか。巨人の群れは空を支えるように両手を突き上げ、瞬く星の輝きを遮ろうとしている。トオルはその頭を見上げようとしたが、首が痛くなりそうで、やめた。
不夜城、眠らない街。そのように形容される街は、人間の欲望を喰らい尽くしてさらに成長しようとしている。この街自体がディークではないだろうか。不意に湧き上がった冗談も、裏路地でパンクしているライトバンが視界に入り、立ち消えた。そこから逃げるように飛び出した男が、いかにも堅気ではない容貌をしていたので、トオルは思わず目をそらす。
「ねぇ、映画館行こうよ!」助手席に座るラウンが、不意に声を上げた。
「映画?」
今話題の映画はなんだっけ、そう思ったトオル自身も、流行とは隔絶された環境で生きていたことに気づく。
「確か、近くのショッピングモールに映画館があったから、行ってみる?」
「おー!」
「トオル! この映画観たい!!」
「これさ、五年くらい前の映画だぞ? ビデオ借りた方が良くない?」
「君は映画館の魅力をまったくわかってない! まぁ、ボクも初めてだから良くわかってないんだけどね!」
ラウンが指さした映画は、トオルが大学生の頃に上映されていたもののリバイバル上映だ。ノストラダムスの予言が世間を騒がせていた頃の、小惑星だか彗星だかが地球に落ちてくるというものである。金曜日の夜に地球が崩壊する映画をリバイバルする事に若干違和感を覚えたが、『週末』と『終末』を掛けていることに気づき、トオルは吹き出した。
「いやー、茶番劇だったねー……」
「あんなに楽しそうに見てたのに?」
実際、ラウンは中盤まで目を輝かせてスクリーンに釘付けになっていた。ラスト間際になってから目を伏せがちになり、ファミリー・レストランで食事を取っている間もほとんど話さなかった。
「泣かせようとし過ぎてなんかダメだったし! 結局、衝突は回避されたし!」ラウンは唇を尖らせ、シナリオへの不平を漏らす。
「じゃあ、地球は滅びてしまえば良かったの?」
「そうとは言わないけど、少なくともあれがハッピーエンドなんて認めないよ!」
ラウンの人生哲学に照らし合わせれば、人類滅亡を望む者がいる限りはハッピーエンドとは認めないだろう。二年寝食を共にしていれば、彼女の思想も大体理解出来てきたのかもしれない。トオルは、ボルゾー家の価値観に染まることを受け入れつつあった。最初はあれだけ抵抗していた魂の実験でさえ、今は何も心を動かされずに処理できるようになっていた。
「あっ、そう言えばさ、トオルが最初にうちに来た時、とーさんに『社会は変えない方が良い』的なこと言ったんでしょ?」
「そんな事もありましたねぇ……。自分ひとりじゃ世界なんて変えられないと思ってたんだよ」口には出さないが、今だってそうだ。
「とーさんも、トオルも、世界を仰々しく考えすぎじゃないかな? 世界を終わらせるのに、小惑星なんて必要ないんだよ!」
ラウンはそう言うと、机に突っ伏して両手で耳を塞いだ。目をしっかりと瞑り、瞑想しているような姿になる。トオルは彼女の行動の真意を掴みかね、動揺を隠すように微笑んだ。
三秒経つ。ラウンは目を開け、トオルに向けて挑発的に笑う。
「ほら、ボクは三秒世界を終わらせた!」
「ごめん、説明をお願い」
「わかんないかな? 世界って、ボクの見える範囲の物だし、聞こえる範囲の音でしょ。手が届く範囲にある物かもね」ラウンは得意げな顔を隠さない。
「それ、世界じゃなくて視界だね」
「あっ、ニアミスした! でもさ、世界って一人ひとりの視界が集まったものだと思わない? つまり、ボクは六十五億分の一の世界を支配してるんだ。君が思うように世界が肥大化してるなら、ボクが支配できる視界も広くなるんだよ!」
トオルに突如として授けられた言葉は、彼の心臓を直に撃ち抜いた。その諦めに似た冷笑主義にヒビが入り、本質を揺さぶる。
「世界を変えたいなら自分を変えろ、なんてよく言うけどさ、あれは嘘だよ。ただ、誰もが世界を支配できるんだ、それだけだよ!」
力強く語るラウンの姿を見て、トオルは何かが救済されたような気分に陥った。
「ところで、視界と世界の間にある物ってなんだと思う?」少女はストローでメロンソーダをかき混ぜながら、トオルに尋ねる。
「視界と世界の間? ごめん、まったく見当がつかない」
「空だよ」ほら、スカイだよ、スカイ。繰り返し呟かれる単語に、トオルは合点がいく。
「駄洒落じゃん……」
言葉遊びのように見えて、真理だ。トオルはそう考える。視界に広がる風景を覆うのも、世界を上から支配するのも、空だ。それに、良いことも、悪いことも、だいたい空から降ってくる。小惑星や彗星なんて、世界を変えうる贈り物の最たる物だろう。
視界、世界、スカイ。口に出すと陳腐な早口言葉のようで、繰り返して発音したくなる。
「これが、正解なんだよ。これがわからないと世界は瓦解しちゃうんだよ! ……あっ、これは意図的な駄洒落じゃないからね!」
即興で生まれた早口言葉を、二人は声を揃えて呟いた。視界、世界、スカイ。
伊坂幸太郎作品風になってる