モンドウ
お待たせしました……二週間ぶりの投稿です……受け取ってください……
シィィィザァァァ
長い夜を超えたが、結局眠れなかった。トオルは昨夜のコーヒーの残り香を舌先で感じながら、少し早足で待ち合わせ場所に向かう。
「おはよう、トオルくん。昨夜はよく眠れたかい?」
「えぇ、お陰様でこんな時間に起床できました」
時刻は午前十時だ。トオルは小さく首を回すと、ボルゾー氏に小声で尋ねる。
「あの、今日の仕事は……?」
「ラウンには昼まで我慢してもらおう、そう伝えておくよ」
階段裏の重い鉄扉を開け、二人の乗り込むエレベーターはゆっくりと下降していく。トオルが想像していた炭鉱用エレベーターのような代物ではなく、白を基調とした近未来的なものだ。
密閉空間での重い沈黙を破り、ボルゾー氏がトオルに問いかける。
「トオルくん、命は平等だと思うかい?」
「また思考実験ですか?」
「悪いね、こういう話でしか暇を潰せないんだ」
トオルは少し呆れつつ、質問の答えを探す。さして考えることなく、彼の脳は答えを導き出した。
「平等なんじゃないですか? 世間でもよく言われてますよね」
「スラムにいる子供も、私腹を肥やす富豪も?」
「はい、皆平等に生まれ、平等に死にます。スタートラインも、ゴールフラッグも、皆同じ位置にあります」
「成程。いや、実は私もそう思うんだ」
「意外ですね、ボルゾーさんと意見が一致するなんて」
ボルゾー氏の論述の根拠は至極論理的なものだ。
「この世に神はいない。人間も、動物も、皆同じ命であることに変わりはないよ」
「あれ? ボルゾーさんって人間嫌いじゃ……」
「トオルくん、好き嫌いと価値観は必ずしも一致しないんだよ。私は、そうだね、心情的には動物贔屓だ。」
エレベーターでの長い時間を乗り越え、二人が降り立ったのは薄暗い部屋だ。トオルはあまりのコントラストに少し怯み、一歩だけ下がった。ボルゾー氏はそれに気づき、わずかに頬を緩める。
「ようこそ、ここは地下八十メートル。私の研究所だよ」
地下室は薄暗く、トオルは暗闇に目を慣らそうと眉根を寄せる。なんとかはぐれないように、前を突き進むボルゾー氏の背中を常に視界に捉え続けなければならなかった。
二人が薄暗い廊下を歩いている間、トオルの耳に粘ついた呼び声が届き続けていた。
『お前の願いはなんだ……?』
『欲望はなんだ……?』
「ボルゾーさん、なにか聞こえるんですけど……」
「後で説明するから、何も答えず目を瞑ってなさい!」
ボルゾー氏はトオルの手を引き、長い廊下を駆けた。
たどり着いた部屋は照明に煌々と照らされていた。さながらSF映画に登場する地下研究所のような内装の部屋だ。汚れ一つなく磨かれた白の壁に、飼い主が犬を電車に持ち込む時に使うようなケージが無数に埋め込まれている。
「ここは……?」
ケージはほとんどが居住者不在で、トオルは無人のアパートを思い起こした。いくらか残っている生物は、突然の来訪者を睨みつけながら冷たいケージの床に伏している。それをまじまじと観察している彼に、ボルゾー氏が語りかける。
「トオルくん、ディークノアって知ってるかい?」
「フォークロア?」
「ディークノアだ」
トオルが素直に知らないと答えると、ボルゾー氏は続けて訊いた。
「『エデンの蛇』は?」
「アダムとイブに知恵の実を唆したっていう……?」
「あぁ、私の研究している生物――ディークが人間に初めて感知されたのは、その種だと考えられる」ボルゾー氏は研究者としての血を滾らせながら、楽しそうに語りだす。「ファウスト伝説におけるメフィストフェレスなんかも、ディークの一種だ」
「でも、それって両方とも作り話ですよね? 神話内の人類創造や創作作品の悪魔信仰なんて、科学的に否定されてるはずだ」
「例えば、一万人に一人しか見ることの出来ない生物がいたとして、世間は認めたがると思うかい?」
「さっきから何を言って……」
「それに、火のないところに煙は立たないんだ。ドクトル・ファウストゥスという錬金術師は、現に実在している。それなら、メフィストが居てもおかしくないはずなんだよ……」
トオルは首を振る。ありえない。この人の言っていることが、うまく掴めない。
「そうだ。神話の中や民間伝承の中しか存在しない、『人間の欲望や祈りを具現化する存在』、奇跡や信仰の依代を私は発見した!」
「それは一体……?」
「君も見ただろう? まだ微弱だが、陽炎のような何かを昨日見たはずだ。そして、ここまで来る間に聞いたはずだ。欲望を増幅させる声を! それがディークだ……!」ボルゾー氏の語りはさらに熱を帯びる。「ただ、彼らは見える者しか視えない。愚かな人間は『見えるものしか信じようとしない』。学会の連中だってそうだ、見えないものを知覚しようと努力するのが科学なんじゃないか!?」
「欲望こそが人間を高みへと押し上げるアクセルであるなら、ディークという存在はエンジンだ! たとえスピード違反を犯そうとも、アクセルを踏めば人間は変わる!」
演説じみたボルゾー氏の語りを聞きつつ、彼は思う。自分は恐らく彼の言う「愚者」なんだろう。見えるものしか信じられないような人間の一人だ。
「なるほど、ディークは寄生虫のような存在であるということですかね……? さっきから唐突すぎて付いていけないですけど……その生物?とお嬢様になんの関係が……?」
「そうだね……。その生物は、太陽光に適応できない。あまりに強い紫外線を浴びると、肉体が崩壊してしまうんだ。そう、ラウンと同じだよ……」
「つまり、その生物の生態を調べれば、お嬢様の治療法がわかるということですか……?」
「当たらずとも遠からず、かな。勿論、そういう目的もあるんだよ。ただ、それだけじゃない……」
ボルゾー氏は、感慨深く目を細めた。これまでの彼の人生は、そういった研究に費やされてきたのだろう。トオルは雇い主の苦労を窺い知ったような気がした。
「トオルくん。ここまで言ったが、もしかしたら信じられないのではないかな?」
「あぁ……はい、まぁ。今まで体感してきた常識と余りに剥離しすぎていて……」
「信じるか信じないかは君次第だよ。だが、実際に見てみるといい。百聞は一見に如かず、というやつだ」
ボルゾー氏に連れられて向かった研究室の隅には、大きな鉄の檻が丁寧に置かれていた。トオルが中をのぞき込むが、そこに居る生物を彼は視認できない。
「トオルくん。『月輪王』って知ってるかい?」
「古代ラルフリーズ王の別名でしたっけ。確か……」
「あぁ。今から三千年ほど前、彼の国を栄華極まる帝国にした賢君、レオンハルト四世の別名だ。よく知ってるね……」
「一応、高校で世界史取ってましたし」
そう呟くトオルに、ボルゾー氏は咳払いを一つする。
「その王が治世していた時代の話だ。王の悩みの種は、他国に攻め込まれる危険性が未だ残っていたことだった。ラルフリーズの兵は数こそ多いが、あまり強いとは言えなかった。それに王は悩み、どうにかして軍事力を高めようとした。そこで彼が目をつけたのは、英雄と神霊だった」
「英雄……」
「神話のような話だろう? 王は一騎当千の兵を求めた。そのために古今東西の魔術書を読み耽り、ある神を信仰し始めたんだ」
「話の真偽はともかく、面白そうな内容ですね」
「神を祀るための祭壇を作り、そこで彼は三日三晩天啓を求め続けた。三日目にしてそこに現れた獅子の神獣は、王に名案を授けた。それが、蠱毒だよ」
「蠱毒って……」
「知ってるかな。毒虫を狭い容器に閉じ込め、最後に生き残った個体を使う呪術だ。王はそれを人間で行ったんだよ。闘技場に剣闘士や騎士を集め、『生き残ったものの望みを叶える』と言って殺し合いをさせたんだ」
ボルゾー氏の声のトーンが少し落ちる。トオルはそれに気づくことなく、彼の話を聞き入っていた。
「戦闘は一週間続き、最後の夜に一人の騎士が王に謁見しに現れた。傷だらけで、だらだらと血を流しながら。彼は迎えた王を槍で突き刺し、神殿にいる神と契約を交わした。そして、その騎士はレオンハルト四世に成り代わったんだ。その後のことは、君が知っているとおりだよ」
話し終えた彼は、薄いゴム手袋を着けて檻を運ぶ。その細い身体のどこにそんな力が有るのだろうか。トオルは少し考えてしまう。
「でも、そんな歴史の裏話は誰から聞いたんですか!? そんな歴史資料があるんですか!?」
「落ち着いてくれよ、トオルくん。簡単だ、本人から聴いたんだよ……」
ボルゾー氏はそう言うと、どこからか取り出した注射器を素早くトオルの首筋に打ち込んだ。静脈に刺さった針を通して、乳白色の液体が脈々と注ぎ込まれる。
「ボルゾーさんッ!? いったい何を……」
「五分貸してくれ。君が耐えれば、世界は開けるんだ。少しだけ我慢してくれ……」
サイケデリックに歪む視界の中、彼は回転しながら迫る悪魔の姿を目撃する。それは音を置き去りにしたかと思うほど静かに、尖った爪で彼の頸動脈を撫でた。
その顔を覗き見た瞬間、彼は嘔吐いた。泥のように溶けた彼の顔が、甲高い声で彼自身を罵っているのだ。
『お前はなぜ生きている? ろくな欲望すら持たず、仮初の幸福を受け容れ、努力しようとしない。なぁ、教えてくれ。お前はなぜ恥を忍ばず、のうのうと生き続けられる?』
「俺は……なんで生きるんだろう……?」
答えの無い問いかけは、虚ろな闇に消えていく。
『お前が生きるためだけに、何人が犠牲になったか考えてみろ……。お前が喰った生き物、お前に会って運命が狂った者、お前が会うことでこれから狂うであろう者……。すべての可能性を考慮したうえで、それでもお前は生きるか?』
悪魔が囁く言葉一つ一つが、彼のささくれ立った心に突き刺さる。小刻みに吐息を漏らす彼の後ろから、もう一つの声が聞こえだした。
『問おう、貴様の願いを!』
全てを圧倒するような覇気のある声に導かれるように、トオルは叫んだ。
「見つけたいんだ、俺の生きる意味をッ!」
タバコが逆さまだぜ