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故郷



 空には雲一つなく、空気はひんやりとしている気持ちのいい朝だった。ソラは城の自室を出て身体を伸ばすとゆっくり歩き出した。日が昇り、ようやく空が白み始めた早朝。城内に人の動く気配はなく、庭の虫もまだ寝ているらしく静かだ。

 昨晩、ハナと話をした場所を通ると、どうしてもその時の感情を思い出す。旅に出ることに迷いはない。ただ、どうしようもなく寂しかった。ハナも、少しは寂しいと思ってくれているのだろうか。昨日は疲れていたのかどこか様子がおかしかったが、大丈夫だろうか。考え出すときりがなかった。

 思考を振り払うように首を大きく横に振り、気を取り直して前を向く。角を曲がると、天守の玄関だ。

 草鞋を履き、戸を開けて天守を出る。ソラの視線は、真っ直ぐ歩いた先にある城門、ではなく、天守と門の中間地点で腰に両手を当てて仁王立ちしているハナに向いた。鮮やかな赤色の着物を纏い、頭には小さな髪飾りをいくつか付けている。今日は何か行事があるのだろうか、と考えてしまうほど丁寧な格好だが、それにしてもこんな早朝に一人でいるのはおかしい。なにより、腰に手を置いて、ふんす、と口を引き締めている姿は、昨晩よりも視察の時とかぶる。

「おはようございます、姫様」

 近くまで歩いてから頭を下げると、ハナは「うん」と呟いた。

「こんな朝早くから、どうされたのですか?」

「わらわも、たまには龍人の集落へ行ってみようと思って、おぬしを待っておったのじゃ」

「お付きの方は……?」

 ハナはじっとソラを見上げる。

「おぬしがおるではないか」

 その答えに、ソラは何から訊くべきか悩んだが、一番大切なことを訊くことにした。

「このことは、どなたか――幸恒様や志乃殿は御存知ですか?」

「書き置きを残しておいたからのう。そのうち知ることになるのではないか?」

 左手に右肘に置き、指先を頬に付けながらハナはとぼけるように視線を泳がせる。

「すみません。質問を変えます。許可をいただきましたか?」

「許可をくれると思っておったらこんなことはせんじゃろうな」

 その通りだ、とは思うが、なるほどそれでは行きましょう、とはならない。渋るソラに、ハナはあっけらかんと言う。

「なに、城の者の中ではわらわは未だにお転婆のようだし、おぬしも一緒ならば志乃もそこまで慌てぬじゃろう」

 お転婆のよう、ではなく、十分お転婆だろう、と思いながらソラは首を横に振る。

「そういうわけにはいきません。どうしてもと仰るのでしたら、出発を遅らせますので、一言断りを入れてからにしてください」

「誰かを付けろと言うのが目に見えておる。しかも一人ではないぞ。あの父のことじゃ。城下から出るとなると、最低でも三人は付けるであろう」

「それが普通です」

「ですが、その者達の前では私は姫でおらねばなりません」

 その言葉と澄ました表情に、ソラは短く息を飲む。ハナはすぐに表情を緩めると、言葉を続ける。

「こんな風に話せぬし、集落へ行っても自由に見学も出来ぬ。いかつい武士がぞろぞろと付いていては、集落の者とて近寄りがたいじゃろう。おぬしが人や獣人、そして自分に向き合い努力をしているように、わらわも龍人について知りたい。一対一で向き合いたいのじゃ」

 そこに、ソラと一緒にいたいという気持ちが、まったくないわけではない、むしろ半分以上を占めていることに、ハナは気が付いていた。しかし、その言葉もまた、嘘ではない。ただ今は、残された時間の少なさに、どうしてもその気持ちが強くなってしまう。明日は、午前に謁見の間に集まり、昼に城下の広場から旅立つ。もう、まともに話せるのは今日しかないのだ。

 何かを考えるように口を引き締めていたソラがゆっくりと頷く。彼もまた、ハナと同じような心がいくらかあった。仕方ないという気持ちと嬉しいという気持ちが混ざり、また頭に熱が上りそうだった。

 ところで門番はどうするのだろう。ふと思ったソラだったが、

「おや、姫様。こんな朝早くからお出かけですか? 龍人様とお二人で?」

「はい。あとから志乃と落ち合う予定なのです」

「そうですか。それではお気を付けて!」

 と、なんとも容易く通ってしまった。

 門を抜け、橋を渡って少し歩いてからソラは振り返りながら口を開く。

「まったく怪しまれませんでしたね」

「志乃の名前を出せば意外といける。それに、ああいう時は堂々としていればよいのじゃ。無駄に喋ったりするのは怪しいからのう」

「流石です」

 若干、呆れた口調になってしまったが、ハナは「ふふふ」と得意気に笑っている。

「それに、志乃と落ち合うというのもあながち嘘ではない。どうせ、迎えに来るじゃろうからのう」

 それは落ち合うと言っていいのだろうか、と思ったソラだったが、出掛けると決めた以上、あまりのんびりはしていられないと前を向く。そもそも、こんな早朝に城を出たのは人が出歩く前に城下を走り抜けるためだったのだが、こうなった以上歩くしかない。そこで、ソラはふと顔をハナに向ける。

「姫様」

「視察の時のように話してよいぞ。ハナ、と」

「……ハナ」

 呼べと言われたら何気なく呼べていた名前に、今は何故か躊躇いを覚えた。距離が近付く感覚に怯える。また、離れることが分かっているから。

「うん」とハナは満足げに笑い頷くと、小首を傾げ、

「して、なんじゃ?」と訊いた。

「……俺一人なら、町を出たら変化して飛んでいくつもりだったんだが、どうする? 流石に歩いていくには遠いし、この時間じゃあ馬も借りられない」

「おぬしの背に乗る」

「それは、変化した俺の背中か? おぶって走ることも出来るが……」

「もちろん、変化じゃ。昨日、日が暮れた頃に八木浜近くを飛んでおったのはおぬしじゃろう? きっと今日もそのつもりだろうと思って、楽しみにしておったのじゃ」

 浮かれた様子のハナを見て、ソラはそっと笑みを浮かべる。そして、人を乗せることに何の抵抗も感じていない自分に気付き、空を見上げて再度笑った。

 道中、人がちらほら見え始めた頃、運良く町内を回っている馬車を拾えた二人は、御者や途中から乗ってきた他の客に驚かれながらも城下町の外までやってきた。南門は早い時間にも関わらず混んでいたが、ハナが姿を見せるとばっと道が開いたため、ソラとしては大助かりだった。

 二人は石壁沿いにしばらく歩いたところで足を止めた。

「この辺りで大丈夫だろう」

 周囲を見るソラに、ハナは期待に満ちた目を向ける。ソラはどこか気まずそうに、そして照れ隠しに視線を逸らすと、

「少し離れていてくれ」と言って、互いに数歩後ずさった。

 再度辺りを見てから、ゆっくりと目を閉じる。途端に、ソラの顔から変化が始まる。頭からは雷のような形の太く白い角が二本生えて、髪が白色に変わり、地面に付くほどに伸びた。よく見ると、だらんと垂れ下がった腕の先はどこか厚みを増してごつごつとしていた。そこから一気に、変化は進む。全身に鱗のような模様が浮かび上がったかと思うと、髪の成長と比例するように身体が肥大化し、ある程度まで大きくなると、尾をどんどんと伸ばしていった。そうして、たった十秒程度でそこには五丈にもなりそうな蛇のような細長い龍が現れた。細長いと言っても、その胴回りは、人はもちろん、そこらの大木よりも太い。尻尾の先でようやく人の腰回りほどの太さになる。

 腹と髪は白色だが、それ以外は濃い青色の鱗に覆われている。身体と比べると手は小さく短い。裂けたように巨大な口からは僅かに牙が見える。

「変化を初めて見たというわけではないだろう」

 少しくぐもった声が頭上から聞こえて、ハナはいつもよりもぐっと顔を上げる。黒色の瞳と目が合う。

「二度目じゃが、前の……タルランダの長の変化はあまり覚えておらぬから、初めてのようなものじゃな。それに、龍を間近で見るなど、なかなかない機会じゃ」

 頭から尾の先までまじまじと見るハナに、ソラは照れ隠しに顔をしかめて、短い手を上に向けてハナの方に下ろした。

「人が集まってきても困るから早く乗ってくれ」

「う、うむ。ここから上ればよいのか? おぉ、ぶにぶにじゃ」

 手に近寄り、鱗の感触や指の腹を触ったり少し押したりしながらハナは訊く。

「あぁ。手に乗れば、俺が背中の方まで運ぶ。後は毛でも掴んで頭の方まで来てくれ」

「痛くないか?」

「痛くないし、人の力じゃ頑張っても抜けないから気にするな」

 ハナは頷くと、そうっと掌の上に足を下ろす。手がそっと浮き、背中の方へゆっくりと移動していく。

「ぶにぶにじゃ……」

 龍の掌の柔らかく癖になる感触に感動し、手が背中付近で止まってもなお足踏みをしていると、指が少しずつ曲がってきたため慌てて駆け出した。手を伸ばし、毛を掴んで背中へ這い上がっていく。着物の動きづらさが堪えたが、途中でソラが指を伸ばしてくれて、それを足場に背中まで上がり、跨るかたちとなった。「ふう」と小さく息を吐くが、頭まで来いとソラは言っていたため、膝を付いたまま毛を掴みながらゆっくりと前へ進んでいく。予想と違い、細く柔らかい、産毛のような毛が顔に当たり、なんとも心地よかった。今日はいい天気になりそうだし、このまま日を浴びながら一眠りでもしたらさぞ気持ちの良いことだろう。などと思っていたせいか、ハナは不意に眠気を感じた。昨晩はあまり寝付けず、今朝も早かったため、疲れが抜けきっていないのかもしれない。

「そこらでいいだろう」

 顔の裏辺りまで行くと、ソラがそう言った。「なぬ」とハナは不満げな声を上げる。

「わらわとしては、両手に角を持って立ち上がり、全身に風を感じながら空の旅を楽しみたいのじゃが」

「吹き飛ばされてもいいなら、そうすればいい」

 そう言って頭を上げたソラに答えるように、ハナは出来る限り身を低くして、両手で毛をぐっと掴んだ。

 ソラが上を向くと、ハナを乗せた巨大がふわりと宙に浮いた。鳥のような羽もないのに、何故龍は飛べるのだろう。ハナがふと疑問に思っているうちにもゆっくりと上昇していき、城と同じほどの高さまで上がると、その場に止まった。

 ハナはそこから見える光景に目を奪われて、無意識に頭を上げた。城の回り縁とほぼ同じ高さとはいえ、見える景色はまるで違う。なにより、城が見える。もう気付かれているだろうな、と思いながら、ハナは下を向いてソラに話し掛ける。

「よい景色じゃのう。こんな景色がいつでも見られるなど、人の身では考えられぬことじゃ」

「俺も、この景色を人と共に見る日が来るなど、少し前までは想像もしていなかった」

 ハナは小さく笑うと、身を沈めた。

「じゃあ行くか」

 ソラの言葉にハナが頷くと、城下に背を向け、ゆっくりと前進を始めた。

「少しずつ速度を上げていくから、息が苦しくなったり、風が強くなったりしたら教えてくれ」

「うむ。了解じゃ」

 空を泳ぐように、尾を左右に振りながらソラは飛ぶ。しばらくすると、人を乗せた場合の適当な速度も分かり、二人は時折言葉を交わしながら空の旅を楽しんでいた。

「しかし、本当に速いのう。馬より遥かに速い」

 少し頭を上げると風に暴れる髪を右手で押さえながら、すっかり小さくなった八木浜の町を振り返る。ソラは当然と言うようにどこか得意気な笑みを浮かべる。

「空は陸と違い遮るものがない。目的地までまっすぐ行けるから、それだけでも大分違う。馬だと三日かかる道程でも、龍が空を飛べば数刻で着く」

「なんと。そのような翼を持っていれば、わらわは毎日のように世界を回っておったじゃろうな」

 龍に変化して城を飛び出すハナが容易に想像出来て、ソラは笑みを浮かべる。

「俺も、旅から戻ったら、そうしてみたいと……一度、この世界を回ってみたいと思っている。茶屋の店主が言っていた獣人の国カラスキや、珍しい動物が多数生息しているというソラルノ、隣国のイシールにも行ってみたい」

「それなら、イシールとは反対隣の国、フィピレもおすすめじゃ。普段着や寝間着はイシールのものと似ておるが、ドレスなどの礼服は煌びやかなものが多く、見ているだけでも飽きぬぞ」

「フィピレと言えば、昨日一昨日とハナが行っていたところか」

「知っておったか。志乃から聞いたのか?」

「よその国へ出掛けるというのは志乃殿から、フィピレに行ったというのは、ギンジョウ殿と太助から聞いた。まだ幼い太助もイシールへ行ったことがあると聞いて驚いた」

「ふふ。空を飛べるおぬしより太助の方が世界を知っているとは、なんともおかしなことじゃの」

「本当に、その通りだ。しかし、すぐ近くの八木浜へ行くことすら躊躇していた自分を考えると、情けないことに納得してしまう」

「しかしそれは、やはり仕方のないことなのじゃろう。少しずつだが自然を無くし町を作らねばならぬほど人は増えた。不干渉派の龍人には住み辛いじゃろう」

「それでも、今までの俺はそういった様々なものに縛られすぎていたように思う。人と龍人のしがらみに縛られ、自分の心に縛られ、そして自由に空を飛べる翼を縛っていた。いつまでも頭ばかり動かさずに飛び出すべきだったのだと今になって思う」

 ハナはじっと黙ってから、そっと口を開く。

「それは、どうじゃろうか。きっと、この今があるのは、おぬしやわらわが、うじうじと悩み続けた結果なのではないかと思う。もっと早く再会していればと、わらわも、そう考えぬわけではない。だが、悔やんでも変わらぬ。ならば、あの過去があるからこそ、この今があると考え、こうして二人でいる時くらいは、悔やむのを止め、今を楽しみたいと、わらわは思う」

 それが、昨晩考えてハナが出した結論だった。ソラといると暖かい気持ちになる。そして同時に寂しさに胸を締め付けられる。そういった気持ちをすべてひっくるめると、ただ一緒にいたいと思った。

 ソラも微かに頷き、同意をハナに知らせた。口を開けば、照れ隠しに余計な言葉が出てきそうだった。ハナの言葉、一挙一動は、ソラの心に触れて、何かしらの感情を残していく。それは七年前から変わっていない。

 ソラの同意に満足気な笑みを浮かべたハナは、ふと、前を見て頭を上げる。地面が見えないほど木が生い茂った緑一面の景色の中に、取り残されたように巨大な崖が飛び出していた。その上にはいくつかの家屋が見える。

 崖上の集落タルランダ。世界で最も初めに友好派を掲げた集落にして、ソラの生まれ故郷でもある。

 とりあえず、初めは長の家に行き、挨拶を済ませよう、とソラは考えていたが、二人が集落に近付くにつれ、龍人達が集まってきたのが見えた。その中には、懐かしい長の姿もある。

「な、なにやらちょっとした騒ぎになっておるのう」

「両親のこともあるし、他にも見知った顔がいくつかある。きっと、そのせいだろう」

 二十人程度の龍人の中に両親の姿は見えない。ソラは集落の隅まで行くと、変化を解いた。龍に変化する時と違い、人へ戻るのは一瞬だ。それこそあっと言う間、瞬きをする間に戻った。ソラの頭に乗っていたハナは、一瞬、空中に身を放り出されて「ひっ」と小さく息を飲んだが、肩と膝の裏にソラの両手が回され、静かに受け止められた。とん、と無いに等しい揺れと共に、ソラの足が地面に着く。

「お、おぬし、こういうことは先に言え。落ちるかと思ったぞ」

 落ちる最中にいつの間にか掴んでいた襟首をぐっと握ったままハナが抗議の視線を向けると、ソラは不思議そうな表情をした。

「ここの長に乗せてもらったことがあるだろう?」

「あの時は、わらわ達が降りてから変化を解いておったぞ」

「あぁ、そうなのか。すまなかった」

 ソラは謝ってから、ハナを降ろそうと身を屈める。しかしハナは、地面に足を付けようとせず、そして襟首を離そうともしなかった。

 再度不思議そうな表情を向けられたハナは、ふい、と顔を逸らす。

「だ、だから、驚いたといっておろう」

「……腰が抜けたのか?」

 その言葉に、ハナは一気に顔を赤くすると、小さく頷いた。

 ならば仕方ない、とソラがハナを抱えなおして立ち上がると、ちょうど数名の龍人がやってきた。その中の二人が、腕を大きく振って駆け寄ってくる。ソラより少し年下、ハナと同じくらいの歳の男女二人組は、ガラリアローザで共に子供の面倒を見ていたクギリとカラハだった。

「ソラ兄ちゃーん!」と叫ぶのは、双子の兄であるクギリ。その斜め後ろをカラハがついていく。

 ソラが手を上げて挨拶をすると、クギリは笑みを浮かべた。だが、ふと足を止めると、じっとハナを見た。カラハは、そんな兄に「どうしたの?」と怪訝な顔を向ける。

「そ、ソラ兄ちゃん、それ、人だよな?」

 それ呼ばわりされたハナが「それ……」と不満げに小さく呟いたのが聞こえて、ソラは苦笑しながら頷く。

「あぁ。人だ。八木浜の華姫様だ」

「お姫様!?」と、今度はカラハが驚きの声をあげた。クギリは人を相手にどうしたらいいのか分からないらしく、何故かがに股になり腰を低くして目を泳がせている。ソラはそんなクギリを見て、初めてハナと会った時、自分もあんな挙動不審だったのだろうかと不安になった。

 カラハはクギリを置いてソラに駆け寄ると、ハナをじっと見てから両手を身体の前に重ねて頭を下げた。

「初めまして。私は龍人のカラハといいます。ソラ兄とは、前の集落で一緒でした」

 顔を上げたカラハの背丈はソラよりは低いが、間違いなくハナよりは高かった。長い髪を頭の後ろで一つ縛りにして、切れ長の目やふっくらとした唇や白い肌には、ソラの年下、つまり自分とほぼ同じ歳とは思えぬほどの色気があった。

 対して、後ろにいるクギリは、どこか幼い印象を受ける。背丈こそカラハと同じほどだが、目はおなごのように大きく、ソラを呼んだ声も高かった。

「う、うむ。わらわは、ハナという。ソラが言うたように八木浜の城主高松幸恒の娘じゃが、今日はお忍びのため、気負わずに接してくれると嬉しい」

 同年代の龍人と初対面するのは七年前以来だったため、ハナは少し緊張をした。しかし、カラハは気にした様子もなく笑顔で頷くと、兄であるクギリへ振り返る。

「クギリ! お姫様だよ! 挨拶くらいしなさい!」

「だ、だって人だろう? ていうか、なんでカラハは平気なのさ。カラハだって人と会うのは初めてじゃないか」

 そんな様子を見て、ハナは不思議に思った。身体が大きく、力も強く、それに龍にも変化出来る龍人が、人を嫌うなら分かるが、何故恐れるのだろうと。

 カラハはずんずんとクギリに歩み寄ると、着物の袖辺りを掴んで引っ張ってこようとする。

「ソラ兄がいっつも言ってたでしょ! 人でもなんでも、よく知りもしないうちから嫌うのはよせって! 大体、ファイのお手本にならなきゃいけないあんたがそんなんでどうするのよ!」

 その言葉に何か思うところがあったらしく、クギリは「うっ」と小さく声を漏らすと、抵抗を止めて、俯き気味に歩いてきた。

「ふぁい?」とハナが呟くと、ソラが「二人の妹だ」と小さく答えた。

 そうしている間に二人の前まで来たクギリは、たまに目線をあげてハナをちらちらと見ながら口を開く。

「あの、俺はクギリと言います。人にはあまり慣れてなくて、すいません」

「わらわはハナじゃ。そんなにかしこまらずとも、気軽な口調で話してくれればよい。こちらこそ、こんな格好ですまないの」

 慌てたように首を横に振るクギリの横で、カラハが「そういえば」と首を傾げた。

「どうしてお姫様はソラ兄に抱えられているんですか?」

「あー、それはのう……」

「腰が抜けたらしい」

 さらっと答えたソラに、ハナは再び顔が赤くなる。

「も、もう大丈夫じゃ。おろしてくれ」

 ソラは「本当か?」と心配そうにしながらも、身を屈める。先程と違い、身体に力が入った。しかし、一人で立つには早かったらしく、ソラの着物を掴んだまま地面に付けた両の足ががくがくと大袈裟なまでに震えた。

 上手く力の入らない両足に、ハナが「ぬおお……」と声を漏らすと、ソラとカラハ、不安そうな表情をしていたクギリまで、噴き出して笑った。

「わ、笑うでない!」

 ソラは、顔を赤くして涙目で怒るハナをまた抱えると、少し離れたところからこちらを見ていた長達に顔を向けて、頭を下げた。ハナも、そこでようやく長達に気付き、先程までの失態を思い出して顔をひきつらせながらも、そっと頭を下げた。

 両親が出掛けていることを聞いたソラは、腰を抜かしているハナのため、長につれられ、長の家へ行くことになった。その道中、美貌名高い八木浜の姫を一目見ようと集落の者が集まった。顔を隠すハナを見て、集落の者は「照れてらっしゃる」と微笑ましく見ていたが、ハナとしては「腰を抜かした姫として知れ渡ってしまう……」と気が気でなかった。

 長の家の前にある坂まで行くと、見物に来た龍人の姿もなくなっていた。そのことをソラが伝えるとハナは胸に埋めていた顔をあげて、そっと目を見開いた。

「ここは、おぬしと初めて会った場所か」

 ソラは長について坂を上りながら頷く。

「あぁ。俺がふてくされていた時、ハナがここを下りてきた」

「父達の話は子供にはつまらんかったからのう。隙を見てこっそりと抜け出したのじゃ」

 その言葉にソラは笑う。前を歩く長も、背中が笑って見えた。

「そんな時に、よい遊び相手が見付かったと思ったら、いきなり突き飛ばされた」

 ソラが笑みを浮かべたまま「あぁ」と返すと、ハナも笑い、言葉を続ける。

「不思議じゃ。あれから七年が経ち、そして明日に別れを控えた今更になって、おぬしとここに戻ってくるなど」

 ソラはゆっくりと頷く。記憶を辿る必要もないほど、七年前のことは鮮明に覚えている。まだ幼かったハナを突き飛ばし、嫌いだと言った。では、今はどうだろう。これもまた、考えるまでもなく、答えは出ていた。

 家に着くと、ユクンの妻が出迎え、お茶をいれてくれた。大きくなったと深い皺を作って笑うユクンの妻を見て、昔のことを思い出す。昔のタルランダには子供が少なかったこともあり、長夫婦にはよく可愛がってもらっていた。その恩を忘れ、勝手に嫌っていた自分を恥じて、挨拶とともに謝罪の意味も込めて一度深く頭を下げた。

 椅子に座り机を囲むと、ユクンは改めてハナに向き直る。ハナもソラも、ユクンに会うのは七年振りとなる。子供のように大きな変化はないが、少し痩せたように見えた。

「姫様、改めまして、お久しぶりです」

 頭を下げようとするユクンを、ハナは右手を前に出して制する。

「今日はよいのじゃ。公式的な訪問でないし、それどころか父にも内緒できたのでな。あまり気を遣わせては、説教の時間が伸びてしまう」

 その言葉にユクンは「相変わらずですな」と笑うと、続いてハナの隣に座っているソラに顔を向ける。

「そして、お前さんは変わったな」

 ソラは軽く頭を下げる。

「お前さんのことは、ずっと心に残っていた。太陽のように活発だった少年が、あの日を境に、引っ越していくまで別人のように沈みっぱなしになった。クギリやカラハから話を聞き、少しは安心していたが、今のお前さんを見れば、残りの心配も不要だったと思える」

「ありがとうございます」

 再度頭を下げたソラにユクンは頷き、優しく真剣な目をした。

「明日の別れ、と姫様が仰っていたということは、旅に出ることを止めたわけではないのだな?」

「はい。今日は、出立の前に両親に会いたく参りました」

「そうか。事情を聞いた時、そうやって飛び出した以上、お前さんはもう戻ってはこないだろうと思っていたが……」

 ユクンに目を向けられて、ハナは首を傾げる。

「これも、姫様の影響ですかな」

 思わぬ言葉にハナは慌てて首を横に振った。

「わらわは大したことはしておらん。むしろ、無責任に焚きつけただけじゃ」

「無責任だろうとなんだろうと、それがソラにとってきっかけとなったのでしょう」

 ソラは静かに頷く。

「この子が快活さを失ってから、私達、周りの者は、まるで腫れ物を触るようにしか接することが出来ませんでした。それはソラの両親も同じだったらしく、ゆえに、どのような言葉も心に届くことはなく、長い間、陰らせてしまっていたのです。この子に必要だったのは、傷つかぬよう取り繕われた言葉ではなく、棘があろうとなんだろうと……姫様が仰ったように無責任であろうと、心からの言葉だったのでしょう。これでもかというほどに、心を乱すほどの」

 そこまで言われると照れてしまう。頬を指で掻きながらユクンから目を逸らしたハナは、隣のソラを見上げて、

「わらわの言葉でそんなに心乱れたか?」と訊いた。

 ソラは右上に視線を向けてから、

「あぁ。思い返してみれば、城の外廊下で再会し、許されないと言われたあの時から、少しずつ乱されていたのかもしれない」と言った。

「そ、そうなのか……」

 ハナは嬉しいやら照れ臭いやら申し訳ないやら、心に浮かぶ様々な感情に、どんな表情をすればよいものか分からず、そっと顔を俯けた。

 しばらくの間三人で、途中からはユクンの妻も交えた四人で、集落を飛び出してからこれまでのこと、明日のことを話し、そして、最後の方は渋るソラをよそに、他の三人でソラの幼少期の話で盛り上がっていた。カラハとクギリの妹、ファイの話になったのもその流れだった。

「そうだ、ソラ、お前さんも知っているだろう。クギリとカラハの妹であるファイのことを」

 自分の過去話に渋った顔をしていたソラは、表情を戻すと頷いた。ユクンもまた頷き返す。

「幼い頃のお前さんのように活発ではないが、あの子は同じような心境かもしれん」

「それは、七年前の俺と、ということですか?」

 ユクンは頷く。

「クギリやカラハと違い、あの子は不干渉派の龍人しか知らずに育った。それが、いきなり友好派の集落に連れてこられて、どうすればいいか分からないといった様子でな。わしらだけでなく、家族にすら不信感を抱いてしまっている」

「それは……、確かに心配ですね。あとで会いに行ってみます。もっとも、真っ先に不干渉派の集落を出た俺は、余計に避けられると思いますが……」

 その時、戸を叩く音が聞こえて、四人は口を止めると玄関の方に顔を向けた。ユクンの妻が立ち上がり、部屋を出ていくと、微かに話し声が聞こえて、ソラは席を立った。人には聞こえぬほどの声だったため、ハナは不思議そうにソラを見る。

「父と母が戻ってきたらしい」

「そうなのか。それでは、行ってくるがよい。おぬしの御両親に会ってみたい気持ちはあるが、親子の再会を見物するほど野暮ではないのでの」

 ソラは頷くと、部屋を出て行く。その姿を見送り、少しするとユクンの妻が戻ってきた。ソラは両親とともに自宅へ向かったらしく、話が終わればまた戻って来るという。それを聞いたハナは、足腰の感覚を確かめるようにゆっくりと立ち上がる。話をしている間に腰も治ったらしく、問題なく立てた。

「それではわらわも、城からうるさい迎えが来る前に散歩に行くとするかのう」

「はは。観光するようなところはありませんぞ」

 ユクンが微笑みながら口にした言葉に、ハナも笑みを返す。

「観光地である必要はない。わらわは、龍人の集落の空気や雰囲気に触れていたいのじゃ」


 外に出たハナは、その小高い位置から集落を見渡した。崖の上の半分は林になっていて、もう半分は集落として拓かれている。こうして見てみると、七年前と比べて、民家の数が増えたように思えた。

 坂を下り、辺りを見ながら適当に歩いていると、カラハとクギリがハナを見つけて近付いてきた。先程笑顔を見せてくれたクギリだったが、やはりまだ抵抗はあるらしく、カラハに着物を掴まれて引きずられるように寄ってきた。

「お姫様、どこか行くの? ソラ兄の家なら向こうだけど……」

「今は観光中じゃ。あと、姫じゃなくて名前で呼んでほしい」

「ハナ様?」

「ハナ、で良い」

 カラハは頷き、

「ハナ。了解」と言ってから、辺りをぐるっと見回した。

「観光するところなんてあるかなぁ。外から見る分には面白いところだとは思うけど……」

「別に、特別なものはなくとも良い。普段の生活を見たいのじゃ」

 その言葉にカラハは少し不思議そうに「ふぅん」と返すと、年相応のどこか幼げな笑みを浮かべる。

「そういうことなら、私達が案内してあげるよ。ね、クギリ」

 笑顔のまま振り返ったカラハにクギリは怯む様子を見せたが、ハナを横目に見て、再度カラハに向き直ると、諦めたように小さく頷いた。

 三人は、カラハを中心に横並びで集落内を歩いて行く。途中で何度か龍人と出会ったが、皆、クギリほどの抵抗も見せずに自然に接してくれた。それ故にハナは、自分と目を合わせる度に、まるで怯えたように顔を逸らすクギリのことが気になって仕方なかった。

「のう、クギリよ」

 不意に足を止めたハナに、クギリは目を泳がせながらも顔を向ける。

「な、なに?」

「人を嫌うなら分かるのじゃが、何故そうもわらわを怖がるのじゃ? 龍人は人と比べれば身体も大きいし力も強い。怖がる理由が分からんのじゃが……」

「それは……俺も、よく分からないけど……。でも、嫌ってるってわけじゃあない……と思う」

 ふむ、とハナは小さく首を傾げながら呟くと、

「まぁそれならよいか」と笑い、手前側にいるカラハに目を向ける。

「それに引き換え、おぬしはまるで平気そうじゃの」

「え? あー……」

カラハは困ったように頭を掻いてから、どこか自嘲的な笑みを浮かべた。

「私は、クギリと違ってひねくれ者だから」

「自覚あったんだ」という呟きが聞こえて、カラハはクギリの頬を抓る。

「あんたが素直過ぎるから、私が慎重になるんでしょ!」

 兄弟の仲の良い姿を見て笑みを浮かべていたハナは、不意に、もう何ヵ月も会っていない兄のことを思い出した。再び歩き始めた時、そのことを口にすると、カラハが「へぇー!」と思いの外興味を示した。

「ハナにもお兄さんがいるんだ」

「うむ。六つ上の兄がな。わらわなど足元にも及ばぬほど自由な人での。来年には二十になるのじゃが、ずっと世界中を旅していて、結婚はおろか、まともに帰っても来ん」

笑いながら言うハナに、クギリが思わず「将来の城主がそれっていいの?」と訊くが、カラハは「あら。男の人はそれくらい行動力があった方が頼もしくて良いじゃない」と細い目でクギリを見ながらあてつけのように言う。むぐ、と口を噤んだクギリを見ながら、ハナは若干引きつった笑みを浮かべる。

「頼もしい、は、どうじゃろう。確かに世界中から兄の好評は届くのじゃが、それと同じくらい……」

「悪評が届くの?」

「いや、行き倒れの噂が……」

 その言葉に、カラハとクギリは思わず目を丸くする。城主の息子が行き倒れている様は、どうしても想像が難しかった。

「あ、でもハナでなら想像しやすいかも……」

 カラハの呟きにハナは口元を引きつらせるが、

「あ、えっと、お供の人とかいないの?」というクギリの問いに表情を戻す。

「付いてはいるが、兄はよく姿を消す人での。いつの間にかいなくなり、家臣が探している間に行き倒れるということを繰り返しておるらしい」

「それって八木浜の評判的に大丈夫なの?」

「うむ。先程言ったとおり、良い評判も伝わってくるのじゃ」

 それにしたって行き倒れの印象が強すぎるんじゃ……と思う双子だったが、

「いくつか例を挙げると、ソラルノの雪山で迷子になった結果、遭難していた者達を見つけてひょっこり戻ってきたり、ノグイの山奥で迷子になった結果、そこでひっそりと暮らす不干渉派の龍人と仲良くなって人との仲を取り持ったり、ウズバの樹海で迷子になった結果、未発見の遺跡に辿り着いたうえ太古の遺物を発見したり……」

「確かに半端なく凄そうだけど、それ以上に呆れるわ。ていうか、そこまで危ない目にあってて連れ戻されたりはしないの?」

「わらわも昔は心配しておったが、今では慣れてしまったし、父も昔は自分も同じようなものだったからと気にしておらんのう」

「お母さんもいるでしょ?」

「言っても無駄だから放っておけと。小さい頃から自由にさせ過ぎたと漏らしておるから、わらわが余計に束縛されておる半分は兄のせいじゃな」

 もう半分は父幸恒の溺愛のせいである。

「まぁ、それに、よく姿を見失うとはいえ、共についているのも有能で信頼における人物じゃ。兄は良くも悪くも変わり者じゃからのう。父や母が心配しているのは、兄の命より結婚のことではなかろうか」

「へぇー……」とクギリとカラハが感心と呆れの混ざった言葉を漏らす。彼らは雪山や樹海に行ったことはないが、そこがどれほど厳しい場所であるかは知っていたし、龍人とて、人の姿のままでは危険であることも知っていた。そんな場所へ行き、平然と戻ってくる人はなかなか想像に難く、結局、龍人のような大男が浮かんだが、ハナに容姿を問うたところ、背丈はハナより二寸か三寸高い程度で、体格は華奢だという。謎すぎる人物像に二人が得体の知れぬ恐怖を感じていると、不意に、くう、という小さな音が鳴った。二人は音の出所であるハナの腹に目を向けてから顔を見る。自分では気付いていたが、かなり小さな音だったため二人には聞こえないだろうと思っていたハナは、視線を向けられて狼狽する。まさか聞こえたのだろうか、と腹を押さえて二人の顔をちらちらと覗き見ていると、突然、カラハが小さく噴き出し、クギリがさっと身体を背けた。腹を抱えて笑うカラハ、クギリは表情こそ見えないが、背中を震わせているのは必死で笑い声を堪えているのだろう。

「ハナ、お腹空いてるの?」

 二人が笑い終えるころには、唇を尖らせてすっかりいじけていたハナにカラハが訊く。ハナがそっぽを向いたまま小さく頷く。

「おぬしら、よく聞こえたの。しかも、クギリまで」

「あー……、そういえば、俺達龍人は人より耳が良いって聞いたことあるよ。だからじゃない?」

 笑い過ぎて涙が溜まった目を拭いながら言うクギリに、ハナは「そうなのか」と返してから、不意に動きを止めた。

 今の音が聞こえて、夜の静寂で人の呟きが聞こえないということがあるのだろうか。




「さてと、私達はそろそろ帰らなきゃね」

 フュム――林檎によく似た果物で腹を膨らませて、林から出たところでカラハが言った。クギリは「え?」と目を丸くしてから、思い出したように「あぁ」と口を開く。

「そういえばそうだった」

「なにかあるのか?」

 ハナが問うと、二人は顔を向けて頷く。

「俺は父さんと買い物に、カラハは母さんの手伝いがあるんだ」

 頭の後ろで両手を組んで言うクギリの表情と口調はどこか弾んで見える。その内心を察したように、カラハは呆れた口調で言う。

「久し振りに遠出するからって、あんまりはしゃいでお父さんを困らせるんじゃないわよ。あと、今度こそちゃんと道を覚えてきなさいよね」

「わ、分かってるよ」

 その兄妹のやりとりに笑ってから、ハナは二人と別れた。姿が見えなくなるまで振っていた手を下ろし、そろそろユクンの家に戻ろうかと辺りを見回した時、少し離れた位置にある木の陰に小さな人影が見えた。

 なんだろう、とハナは覗き込むようにしながらゆっくりと木に近付く。すると、ある程度距離を縮めたところで、木陰から子供が飛び出して林へ入っていった。歳は六、七歳ほど。短い黒髪に切れ長の目を見ると、一目でカラハとクギリの妹、ファイであることが分かり、ハナは何かを考える前に駆け出していた。人と仲良くしている兄と姉を見たファイの心境が、直感的に分かった。ならば、このまま放っておくわけにはいかない。

 クギリとカラハといる時は着物を汚さぬよう気をつけていたが、今はそのような余裕はなかった。茂みの中を駆け抜け、細い枝に着物を引っ掛けながら、最後には裾を膝の辺りまでめくって走るという、姫というか女子らしからぬ格好になっていた。

 しかし、それでも、ファイの背中はどんどん遠くなっていく。運動に適さない格好で、足場の悪い林を走っていたハナの体力は早々に尽き、思うように上がらなくなった足が木の根っこに引っ掛かり、見事に転んだ。

 相手が龍人とはいえ、半分ほどの歳の子に体力で負けるとは、と、ハナは情けないやら悔しいやらで、あと体力の限界で身体を起こせずにいると、森の地面を埋め尽くす薄い影とは違う、濃い影がハナの身体にかかった。

 顔を上げると、切れ長の目が、鋭く、だがどこか不安げに、ハナを見下ろしていた。

「も、戻ってきてくれたか……」

 長い息を吐き、ハナが着物の土や落ち葉を払いながら立ち上がると、ファイは警戒するように片足を引く。

「心配してもどってきてくれたのか?」

 ハナが笑みを浮かべて問うと、ファイは怯んで首を横に振る。「そうなのか」と言うと、こくこくと何度か頷くファイを見て、別の理由を聞いても困らせるだけだろうとハナは思う。ファイは、幼い頃のソラのように活発ではないとユクンは言っていた。いきなり追いかけっこが始まったため忘れていたが、本来は大人しく、少し臆病で、優しい子なのかもしれない。

「おぬしは、ファイであろう? クギリとカラハの妹の」

 ファイは頷く。

「わらわはハナという。おぬしのことは、ソラやユクンから聞いておる」

 ソラ、という言葉に、ファイは微かな反応を示したが、口を開くことはなかった。

「おぬしは、やはり人が嫌いなのか?」

 ハナの真摯な、だがどこか悲しみも秘めた目に、ファイは僅かに躊躇いながらも、それを振り払うように目に力を込めて、大きく頷いた。

「きらい。ひとは、きらい」

 ハナは哀しげに笑う。

「それは何故じゃ?」

「ひととりゅうびとがかかわれば、あらそいがおきる」

「おぬしは、わらわと争いたいのか?」

 ファイはむっと怒りを顔に出して首を横に振る。

「ちがう! あらそいをおこすのはひとのほう!」

「しかし、わらわはおぬしやここの龍人達と争うつもりは一切ないぞ?」

「さいしょはそうなんだって。そういって、だますんだって。ここのりゅうびとも、おとうさんもおかあさんもおにいちゃんもおねえちゃんも、ソラおにいちゃんも、だまされてるの」

 ファイは頑なだった。カラハとクギリを見る限り、不干渉派全員がこういう考えだとは思わないが、ファイの言葉は明らかに誰かの受け売りだ。しかし、生活や家族の変化により、ファイの心が揺れていることも確かだった。転んだまま動かなくなったハナに寄ってきたことから、心の奥底から嫌っているわけではないことも分かる。ただ、これまでの常識を根本から覆され、状況についていけず、礎となっていたものに必死でしがみついているのだ。例え、その考えに納得が行かずとも、無理やり引き剥がしていいものではないだろう。

「ならば」とハナは、ファイに手を差し伸べる。

「わらわと、友達になろう。人がどういう生き物か、己の目と心で計ってみるがよい」

 ファイは胸の前で両手を握り、差し出された手をじっと見つめる。ハナの真っ直ぐな心を、ファイも感じ取っていた。そして、ガラリアローザにいた頃、無口なソラが口癖のように言っていた『よく知らないものを嫌うな。実際に見て、言葉を交わして、嫌うならそれから嫌え』という言葉が頭に張り付いて離れなくなった。

 握手を催促するように、ハナの手が軽く振られる。ファイは軽く肩を跳ね上げてから、おずおずと目線だけを動かしてハナを見上げた。

 卑怯で、卑劣で、弱い生き物であるはずの人は、自信に満ちた笑みを浮かべていた。人間とはこういう生き物であると教えてくれた龍人の顔が、卑屈に思えるほど。

 気付けば、涙が頬を伝った。痛いわけでも、悲しいわけでもない。何に対する涙なのか、本人も分からぬまま、涙を拭いながら駆け出した。

 残されたハナは、集落の方へ走っていったファイの背中を見送ってから、前に差し出したままだった右手をそっと降ろし、枝葉で隠れた空を見上げた。

「振られてしもうたか」

 重なり合った枝葉の隙間から微かな光が降り注ぎ、その暖かさに、ハナの瞳に涙が滲んでいく。

 本気でないと分かっていても、誰かに、嫌いだと言われることは悲しかった。姫らしい言葉遣いも覚え、作法も習い、世界のことを知った。成長したと思っていたが、そこだけは、七年前から変わらなかった。

 それにしても、まさか涙まで出てくるとは、と、指で涙を拭ってから再度見上げて、気付いた。

 あぁ、この光は、ソラに似ているのだ。だから、自分は涙を流しそうになっているのだ。

 背後から、茂みの揺れる音がした。ファイが戻ってきたのかと振り返ると、そこはソラが立っていた。

 瞳に溜まった涙に気付いたのか、僅かに目を見開いたソラに優しく笑いかける。その儚げな笑みに、ソラは見とれ、息を飲んだ。ハナはソラに身体を向けて空を見上げる。

「御両親との話は終わったのですか?」

 その口調は意識したものではなかった。ただ、自分を隠さねば、どんな言葉が自分の口から飛び出すのか分からなかった。

しばしの沈黙の後、ソラは「はい」と短く返す。自分が口調を戻せば、ソラもかしこまった口調になるであろうことは分かっていたのに、それがどうしようもなく寂しく、だが、有難くもあった。

「貴方は、木漏れ陽のようです」

 あくまで、冷静に、姫としての言葉を選ぶ。

「私の心の暗くなった部分を、いつも優しくそっと照らしてくれる」

 しかし、それを意識するたびに、心の臓が引っくり返る様な苦しさを胸に感じた。

「その暗闇を生んだのも、また、貴方だというのに」

 吐き出しそうになる。何もかも、包み隠さずに。

「そんな貴方だから、私は……わらわは…………!」

「姫様」

 ソラの声が、その言葉を遮った。一度口にしてしまえば、もう止まらぬであろう感情とともに。それが、ハナには悲しかった。きっと、昨晩の言葉もソラには聞こえていたのだ。そして、あの時、ソラの返答次第では、自分が何を口にしていたかも、きっと気付いている。だからこそ、止めたのだ。今のように。

 ソラは、無表情ながらもどこか戸惑うように顔を斜め下に向けている。だが、すぐに、意を決したように顔を上げた。

「姫様、私は、明日には旅立つ身なのです」

 その言葉に、思わずハナの語調が強くなる。

「分かっております。それを止めようなどとも考えておりません。全て承知の上で……」

「どうか、私の話を聞いてください」

 そう言って頭を下げるソラに、ハナは口を噤み、少し前のめりになっていた姿勢を戻した。

「私は、明日には旅立つ身、そして、いつ戻るか、そもそも戻ってこられるかも分からぬ身です。だから、私はこの心は決して口に出すまい、ましてや姫様に伝えることなどすまいと、そう思っておりました」

 ソラの言葉を黙ったまま聞いているハナは、胸が高鳴っていくのを感じていた。先程からソラの言葉には含むところがあることを分かっていながら喜び飛び跳ねる胸を静めることはできなかった。

「しかし」とソラは視線を下げる。

「姫様が、その続きを言葉にしてしまえば、私とて、この心を抑えきれなくなります。貴女のもとを去りゆく今、大切に思うからこそ、また貴女の心を縛ってはならぬと抑えていた心です。どうか、その言葉はまだ心に置いてはもらえませぬか。それが叶わぬのでしたら、どうか、私の願いを一つ聞いていただきたい」

「はい。それでは、貴方の願いを聞きましょう」

 その即答に、ソラは顔を上げて、脱力したように笑った。少し呆れも混ざったような優しい笑みだった。

「それでは、私の願いを聞いてください」

 ハナは澄ました顔のまま頷くが、

「どうか、その先の言葉は私の口から言わせてください」

 その言葉には、不思議そうに首を傾げた。

「これが、私の願いです」

 ソラはそう言うと、ハナに一歩一歩近付く。

 その先? どの先? と混乱していたハナだったが、自分が口にしようとして、ソラに遮られた続きだと気付き、表情を堅くした。目の前まで来ていたソラは、そんなハナの内心を察したように小さく笑ってから、真っ直ぐに目を見て、口を開いた。

「人や獣人については、正直、まだ好きか嫌いか、自分の心が分からずにいます。しかし、これだけは、自信を持って言えます。貴女を大切に想っている。貴女を、愛しています」

 ハナはじっとソラを見つめ返す。幸せのあまり気を抜けば膝から崩れてしまいそうなほどだったが、これだけは、言っておきたかった。しかし口を開く前に、一度は引いた筈の涙が再び押し寄せてきた。俯き、両手で涙を拭いながら、ハナは言う。

「わらわも、おぬしを愛しておる」

「あぁ。俺もだ」

 止まる様子もなく涙を流すハナを、ソラはそっと胸へ引き寄せた。大粒の涙を流す少女から逃げた幼き頃を思い出して、ソラはようやく、自分自身を許すことが出来た気がした。





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