再会
八木浜城から見える景色は変わらない。少なくとも、この景色を毎日のように見ているハナからすれば代わり映えのしない景色だ。しかし、ここ数年の間でも人の数はみるみる増えて、その分、町は少しずつ大きくなっている。
この世界が直面している問題を考えると、やはり目は人に向く。城下を行き交う民の中に、稀に龍人が混じるようになったこともそうだが、なによりもその数。人が多いのはいつものこととはいえ、昔の城下町は今ほど人でごった返していなかったように思えた。
もともと自然の中で暮らしていた獣人とともに暮らすようになってから、常に誰かが口にしていた問題。
人口の増加。全国各地で開拓は進み、人が住める場所は増えつつある。しかし、それにはどうしても自然を犠牲にするしかない。自然の深くに隠れ住む龍人、自然に暮らす獣と意思疎通が出来る獣人はこの傾向に難色を示しており、そして、人間とて、好き好んで自然を破壊する者はいない。
目下の目標は、新たに人の住める陸地を探すこと。それを求めて船で旅に出た者もいる。鳥人が海を渡ろうとしたこともある。しかし、何も見つけられずに食料が尽きて戻ってくるか、それとも戻ってこないかのどちらかだった。
龍人の力を借りる、という案が出たのはそんな時だった。龍人は人間や獣人と比べて桁違いの体力を持ち、一ヶ月ほど飲まず食わずでも問題なく、新たな陸地を探すには最適とも言える選択だった。
問題は、そのような要請に龍人達が応えてくれるか――だったのだが、これは意外なことに何も問題なかった。この数年間で龍人達の中にも考えを改める者が多くいた。八木浜周辺には、現在四つの集落があり、二つは人間と友好的な集落、もう二つは相変わらず不干渉を貫いている集落で、前者から十名を越える希望者が出たのだ。それに加え、町で暮らしている龍人から二名、そして――――。
「姫様、龍人の方々がお見えになりましたよ」
この七年の間に一児の母となった志乃がハナの背中に呼び掛ける。
「はい」とハナは答えると、ゆっくりと振り返った。
七年間で変わったのは、ハナも同じだった。見慣れている志乃でさえ、思わず溜め息を吐いてしまうほど綺麗な顔立ち、愛くるしい瞳は面影を残しながらもどこか力強さが宿り、幼い頃のようにただ可愛らしいだけでなく、綺麗さも兼ね揃えた絶世の美女となっていた。腰まで届く長い黒髪に、普段は行事の時にしか纏わない赤く鮮やかな着物がよく似合っている。
「参りましょう」
鈴の鳴るような静かな声に、志乃は頷き、先導して歩き出した。
謁見の間では、全十八名の龍人が上段に向かい合うかたちで横三列縦六列に並べられた座布団に腰を下ろしていた。他には城勤めの武士や女中が数名ずついて、時折言葉を交わすなど、和やかな雰囲気が流れている。
「この図体の割に小さな家で育ったため、こういった開けた部屋はどうにも落ち着かんのです」
がっしりとした身体が揃っている龍人の中でも、一際目立つほど巨躯な男がそわそわと身体を揺らしながら言うと、傍にいた鳥人の武士と人の女中が可笑しそうに笑う。
巨躯な男の言うとおり、現在謁見の間には龍人、武士、女中、全員で三十名以上はいるだろうが、それでもまだまだ空間が余るほどに広い。龍人達の向かいにある、城主が着座する上段を入れれば、部屋の広さは百畳を越えるほどだろう。しかし聞けば、まだまだ広い部屋があるらしく、巨躯な男は目を丸くした。
その時、襖の開く気配に廊下側に腰を下ろしている女中達が振り返る。
襖を開いたのは、姫の世話係である志乃、そして一つ礼をしてから部屋に足を踏み入れたのはハナだった。
ハナはその場に正座すると、
「高松幸恒の娘、華で御座います。この度は父の願いにお集まりいただき、誠にありがとうございます」
言葉尻と共に、再度頭を下げた。そしてゆっくり立ち上がると、龍人達の後ろを回り、上段と下段の段差の前に置かれた座布団へ向かう。
目を奪われるほどの美しさに視線を外すことが出来ず、その姿を追う龍人達の中に、一人だけ、ハナに全くの興味を示していない者がいた。ハナもすぐに気付き、その少年とも言える青年を横目に見る。
七年前と変わらない黒い髪。身長は高いが他の龍人ほどがたいはなく、ひょろっとした印象を受けた。顔立ちは、ほとんど幼い頃そのままだった。しかし童顔というわけではなく、年相応。無表情のせいか、実年齢より少し上に見えるくらいだった。彼は顔こそ上段に向けているが、その目にはなにも映っていない。
不干渉派の集落から、唯一参加した齢十五の青年、ソラ。ハナにとっては忘れられない相手である。あれから間もなく別の集落に移ったと聞いて、残念に思うと同時に納得もした。なにか自分に落ち度があったのなら謝りたいと思っていたが、友好派を掲げた集落を抜けたということは、彼が嫌いなのは私ではなく人間という種族なのだと。
だというのに、何故今更、この場に現れるのか。陸地の発見は確かに龍人のためにもなるが――、悪い言い方をすれば、わざわざ人間の駒になってする必要はない。龍人で勝手にやって、もし見つけたら龍人の国にすればいいのだから。
分からない。もしかしたら人に少しでも心を許してくれたのかと思ったけど、そんな様子もない。
そして何より、一国の姫である自分が何年も頭の片隅から消えずに困っていたというのに、それをまるで覚えていなさそうな態度が腹立たしい。
じー、と、こちらを見向きもしない後頭部を横目に睨みながら、ハナは座布団の上に正座した。
「いやぁ、八木浜の姫様は大層お綺麗な人だという噂は耳にしていましたが、まさかこれほどとは。さっきの表情を妻に見られたら平手がとんできますわ」
「嫉妬するだけマシというものですよ。私の家内など、せいぜい冷ややかに笑う程度でしょうから。なに夢見てるんだ、って言わんばかりにね」
むぐ、とハナは僅かに肩を狭める。容姿を褒められるのは、少し苦手だ。今の会話も、話を振られていたら笑みで返すしかなかっただろう。もっとも、父や志乃曰わく相手はそれで満足するらしいが、更に嫌なのは、そこから婿や見合の話に発展することだ。古い時代と違い、身分に縛られない自由な恋愛が認められている現代だが、兄がいるとはいえ一国の姫であるハナはそういうわけにもいかず、見合話を持ちかけられることは年々増加傾向にある。やれ、どこの国の二男坊だとか、有名な武家の子息だとか。親馬鹿な父が『まだ結婚は早い』と暗に一蹴してくれるから助かっているが、近頃、父が『華もそろそろ考えなければならない歳であろうか』と寂しげに漏らしているという噂を聞いてから気が気でない。人の平均寿命が六十ほどまで延びたこの時代、昔のように十代のうちに結婚しなければならないわけでもあるまいに。
そんなことを考え、つい洩らしそうになった溜息を呑み込んだ時、背後の襖がそっと開き、一人の女中が姿を見せてゆっくりと頭を下げた。
「城主、高松幸恒様がお見えになります」
その静かな言葉に武士や女中、そしてハナや志乃も、膝の前に両手を付けるとゆっくりと頭を垂れた。龍人達が何もしないことに文句を口にする者はいない。もちろん、文句を言いたい者も中にはいるのだろうが、幸恒の許しがあることを誰もが知っていた。
上段の脇の襖が開き、橙色の狩衣を纏い、頭には烏帽子を被った白髪交じりの男性が部屋に入ってきた。八木浜城の主であり、ハナの父親でもある高松幸恒だ。力強く開かれた瞳、引き締められた口の上にはどじょう髭が生えている。
段上、肘掛けが脇に置かれた座布団の上に腰を下ろすと、
「面を上げい。二度も三度も言わんぞ」
龍人の様子を気にしたふうもなく口にした言葉に、武士達がゆっくりと顔を上げる。
「うむ」と頷いた幸恒は、さっそく、龍人達の顔をざっと見回した。
「この小さな国で、よくこれほどの者が集まってくれた。礼を言う」
その言葉に、数名の龍人が頭を軽く下げて応えた。
今日の集まりは、ただの挨拶のためだけでなく、六日後に控えた出立に向けた説明と、謝礼の半分を前金として渡すことが主な目的だ。
龍人達は今日から出立まで、毎日八木浜城に顔を出さなければならない。健康管理などの名目はあるものの、やはり前金を渡した途端行方知れずになることを警戒しているのだろう。もっとも、いくら龍人とはいえ、各国にいる人間と友好的な同族から逃げ切れるとは思えないが。そんなわけもあり龍人には城で暮らす許可も出ている。前金だけでも、出立まで城下の宿で泊まれるだけの金額は十分あるが、それは少々気の毒というものだろう。
そういったことは事前に言われていた筈だが、確認のためか再度説明され、龍人からあがった幾つかの質問に答えた後、前金が配られ、幸恒は激励の言葉を残して部屋を後にした。
その後、龍人達は城に泊まる者とそれ以外の者に分かれ、前者はそれぞれの部屋へ、後者は城の門まで案内されていった。
廊下に出たハナは、女中に案内され廊下の奥へ消えていく数名の背中を見る。彼らは城に泊まる者達だ。その中には、ソラの姿もあった。
龍人は一ヶ月に一回程度しか食事を取らない。だがそれは必要としないから食べないだけで、人間と同じ頻度で食事をとっても何ら問題ないし、美味しいものは美味しいと感じられるため、娯楽と同じような感覚で食事を取る者もいるらしい。
日が暮れた頃から広間で開かれている酒宴でも、希少な酒だけでなく、旬の海の幸、山の幸を贅沢に使った料理が振る舞われ、龍人達は舌鼓をうちながら食事を進めていた。
「十三? するってーと、自分の娘と同じ歳ですな。はー、娘にも華姫様のようにもう少し落ち着いてもらいたいのですが、誰に似たのかどうしようもないじゃじゃ馬に育っちまいましてね」
「山育ちの芋娘と姫様を比べたらそりゃそうさ。もっとも、同じ環境で育ったところで結果は変わらなそうだがな」
顔くらいは出しておくべきかのう。もしかしたら、あの者もいるかもしれんし。そう思い少しのつもりで宴会場へやってきたハナだったが、目当てのソラの姿はなく、そしていつの間にか酒に酔った龍人達の話に捕まってしまった。
さて、どうしたものか。ハナは人見知りが激しいわけでも、もちろん龍人が嫌いなんてこともない。七年前から少し避けてしまっているところはあったが、それは確かだ。では、何故ハナは内心困っているのか。答えは酒だった。ハナは酒が苦手なのだ。匂いだけでも気分が悪くなってしまうほどに。
「龍人の方は、やはり女性でも皆様のように大柄なのですか?」
話を始めて十分ほど。疑問を口にしながらも、早くも気分の悪さを感じ始めた。龍人は分からないが後ろに控えている志乃は気付いているだろうから、いざとなれば助けてくれる筈である。
「そうですね。やっぱり人と比べると大きな者が多いですよ。まぁガタイはそんなによくなくて、縦に長い感じですね」
「さっき言った姫様と同い年の自分の娘の身の丈は五尺三寸ほどありますよ」
「まぁ、五尺三寸? そんなに大きな女性は私見たことがございません」
「龍人の女は五尺八寸ほどまで成長しますからね。我ら男はそれ以上で、大体六尺ほどになります。特に大きな者は更に三寸ほど付きますね」
「はぁ」と感嘆による溜め息が思わず漏れた。
ハナの身の丈は四尺と六寸ほどとほぼ平均にも関わらず、龍人に囲まれた彼女はまるで小人のようにも見えた。
ついつい話に夢中になっていたが、一段落したところで気分の悪さを思い出し、助け舟を出してくれた志乃と共に外廊下へ出て、階段へ向かって歩く。部屋から出ても、着物や身体に付いた酒臭さで、気分は悪くなる一方だった。
早く部屋に戻って横になりたい。
そう考えていた時、廊下の角を曲がってきたソラと鉢合わせた。
昼の鼠色の着物姿と違い、細いズボンと白いシャツを着ている。突然のことに頭も身体も動かない筈なのに、彼が着ているのは今でこそ八木浜にも馴染んだ服だが元々は隣国から伝わってきたものだ、なんて今はどうでもいいことを思い出すという妙な心理状態のハナである。
ハナの事情を知っている志乃が、すっと一歩下がる気配にようやく我に返ったハナは、相も変わらない無表情のソラを静かに、だが力強く見つめ返す。ソラは、ゆっくりと頭を下げた。
「私のことを覚えていますか」
月明かりに照らされた外廊下、昼間の虫の鳴き声はまるで聞こえない庭に、静かに響いた問い。ソラが顔を上げ、口を開くまで、何秒かかっただろうか。もしかしたら即答したのかもしれないが、ハナにはとても長く感じた。頭がふわふわするような現実のものとは思えない感覚。でも顔だけは熱くて、冷水をかぶりたいほどだった。
「覚えています」
その答えより、まず驚いたのは、彼の声だった。ハナの名を呟いた声も、キライだと叫んだ声もよく覚えていたが、まるで違う。夜にずしりと響くような低い声。そうであることなど当然分かっていたのに、目の前の彼が異性であると意識してしまう変化だった。
いや、それよりも、とハナはソラの答えを頭の中に蘇らせる。
覚えていた。その事実が体の中に優しく広がり、身体が宙に浮いているようだった。
「誠に、申し訳ございませんでした」
その言葉に、両足が地面に付いた。ふわふわしていた頭も現実に引き戻され、目の前には両手を身体の横にぴしりと付けて頭を深く下げる青年の姿があった。六尺近い彼が頭を下げても、やはりハナからは見上げるかたちになるが。
「い、いえ」
狼狽を隠せないまま、ハナは首を横に振る。
「謝罪などはいいのです。どうか顔をあげてください」
「……ありがとうございます」
ソラはゆっくり顔をあげる。
再び視線が合い、ハナは何を話そうとしていたのか、言いたかったことは何なのか分からなくなる。
不干渉派の貴方が何故ここに? やはり人のことは嫌いなのですか? それらの問いは、どこか違う気がする。頭の中で回り続ける様々な問いに、目まで回りそうになる。
何も言わないハナを見て、ソラは再度軽く頭を下げると、すっとハナの横を通り抜けた。
止まることなく遠ざかっていく足音に、え。とハナの表情が固まる。
横から殴られたようにぐらりと視界が揺れ、ぼやけていく中で、ハナは自分の心にふつふつと何かが湧き上がるのを感じていた。
今ので終わりなのか? 自分は七年間毎日のように悩み続けたのに、たった一言謝って、それ以上は何も無し。あの者にとってはその程度の思い出だったということか?
そんなの、そんなことが……、
「許せるわけなかろうが!!」
外廊下と庭に響いた大きな、しかしやはり綺麗な声。そこに含まれていた感情は、怒りのようで焦りにも思えて、そしてどこか儚さも感じさせた。
目を丸くして振り返ったソラの視線と、両膝の前で拳を握ったハナの鋭い視線が交わる。
「……えっと……許さない、というのは」
「そのままの意味じゃ!」
戸惑いを隠せないソラ。彼の無表情が崩れたことにも、自分の口調が気の抜けた時のものに戻っていることにも気付かず即答するハナ。
「七年間のこと、そう簡単に許してはやらんぞ!」
びし、と真っ赤な顔で人差し指を突きつけられ、ソラはますます戸惑う。
「困った顔をしても無駄じゃ! 許してなどやるものか! おぬしはわらわの……! ……?」
不意に、真っ直ぐ前に突き出した人差し指が垂れ下がり、ハナは不思議そうに眉間に皺を寄せる。身体に力が入らない。それに気付いた次の瞬間には、視界がぐるりと回り、ハナはその場に崩れ落ちた。
『許してたまるものか!』
『明日の朝、話の続きをしにお部屋をお邪魔してよろしいでしょうか』
まさか、許してもらえないとは思わなかった。
なんとなく宴会場に入る気にならず、ソラは外廊下を散歩しながら数分前のことを思い出していた。
華姫が倒れた原因は世話係曰わく酒の匂いの嗅ぎすぎという、色々言いたいこと満載のものだったが、人と話すことに未だ躊躇いを感じてしまうソラは『そうですか』とだけ言って立ち去ろうとした。その時世話係に言われたのが、先程の言葉だった。当然、世話係を介しているとはいえこの城の姫様からといえる願いに対し、ただの龍人であるソラに拒否権はなかった。
ただの龍人。それも、里無しも同然の根無し草だ。
七年前、集落に残りたいと言ったソラの願いが両親に聞き届けられることはなかった。それどころか、有無を言わさぬ態度で却下されたことを今更ながら考えると、両親はソラの考えに気付いていたのではないかと思う。
他の集落に移ってから、ソラは毎日毎日、人と関わるべきではない理由を両親から説かれた。
龍人は人より遥かに大きな力を持っている。人はいつかその力を利用するだろう。
龍人は誇り高き孤高の種族であるべきだ。人や獣人と共に暮らす、ましてや子を作るなど絶対にあってはならない。
移り先の集落でも声高々と主張を続けた両親の周りにはいつしか同じ考えの者が集まっていた。
そこはいつしか不干渉派のみの集落となり、長はソラの父が務めることとなった。そのことに関して、当時十歳だったソラは何も感じなかった。それまでの二年間、毎日のように父や集落の者から人についての否定的な意見を聞き続けた結果が彼のその変化だった。人をいくら否定されようが、馬鹿にされようが気にならない。それとは逆に、友好派の同族が増えようが、両親や集落の者のように怒ることもなかった。
転機が訪れたのは、つい一ヶ月ほど前。酒を飲んだ父が、母に弱音をこぼしているのを偶然耳にした時だった。
長という立場の重圧からか、父親は三十半ばにしては明らかに老け込み、酒を浴びてくたびれた姿など力のない老人にしか見えなかった。
そんな父が零した弱音とは、龍人の人口減少のことだった。昔住んでいた集落の長と同じ悩みを父が抱えていることが、ソラには不思議でたまらなかった。
『他の種族の血を混ぜるくらいなら、私はこのまま滅びの道を選ぶ』
父が前々から口癖のように言っていた言葉だ。
悩む必要なんかない。何もせずに滅べばいいだけなのだから。
そんな考えがいかに冷酷なものかも気付かぬまま、ソラは耳を澄ます。
「たまに考えてしまう。私達にはソラという子供がいるが、ソラは、そしてあの子の子供は、愛する者と夫婦になり、子供を目にすることが出来るのだろうか、と。もしそれが叶わないのであれば、友好派の主張もあながち……」
言葉尻に消えていく父の言葉。それに、父の手に自身の手を重ねた母がなんと答えようとしたのかは分からない。母が口を開く前に、ソラは身を隠していた扉の陰から飛び出し、驚きに目を見開く両親を睨み付けた。
「ふざけんな!!」
剥き出しの感情は久し振りだった。ただ、何に怒っているのかは、自分でも分からなかった。そのため、それ以上の言葉は口から出てこらず、着の身着のまま集落を飛び出したのだった。
そうして行く宛もなくさまよっていた時に、八木浜城で龍人を集めているという話を耳にした。
新たな陸地を探すのも、悪くはない。その途中に何かあって死んだっていいと思った。ただ、彼女には謝ってから行こう。彼女が八木浜の姫であることは、大分前から知っていた。
ハナという少女。その笑顔、泣き顔。あの時の自分の気持ち。今では、思い出しても何も感じない記憶。ただ、謝りたいと思っていたことだけは確かだ。
それなら、謝ろう。それが終われば、もう何も残したものはない。
だが、許してもらえなかった。
人という種族はそんなに根に持つものなのだろうか。完全に自分に非があることが分かっているため何も言わなかったが、子供がやったことじゃあないか。
まぁいい、とソラは足を止め、庭に顔を向ける。
どうせ出立までは暇を持て余すしかなかったし、少しでも暇が潰せるのは有り難い。相手の立場を考えれば金銭的な要求はないだろうが、今日受け取った前金にどうせ使い道はないのだし、全て渡してもいいくらいだった。
そう思うと、頭にハナの顔が浮かんだ。
面影は大分残っているが、より美しく、綺麗になっていた。他の龍人達が目を奪われるのにも頷けるが、そんなハナを見ても、ソラの心は少しも揺れなかった。
ただ、
『許せるわけなかろうが!』
『そのままの意味じゃ!』
『七年前のこと、簡単には許してやらんぞ!』
昔と変わらない年寄りのような口調は、少し嬉しく思った。
まさか匂いだけで翌日まで酒が残るとは思わなかった、と、ハナは自身の酒の弱さに溜め息を吐いてから掛布団を寄せる。日が大分高くなり、比例して気温も上がっていく。夏も終わりに近い頃とはいえ、日中はまだまだ暑いこの時期、普段なら寝るときでさえ掛布団は使っていないのだが、志乃に『こういう時は汗を流すのがいいのです』と言われたのだった。
喉の渇きを覚えて、枕元のお盆に乗せられた茶を飲もうと上体をゆっくりと起こすと、「う」という呻き声が口から漏れた。頭痛や吐き気とまではいかずとも、頭は重く、全身が気怠くて仕方がなかった。更に、志乃の言うように汗をかいたせいで寝巻の白小袖が身体にぴっしりとくっついて気持ちが悪かった。
お盆の横には絹の手拭と替えの寝間着が置かれていた。流石に準備が良い。
昼の時間だし、そろそろ志乃も昼餉を持ってくる頃だろう。それまでに自分で拭けるところは拭いておこうと、手拭を手に取り、寝間着の紐を緩める。胸元を少しだけ開くと、汗の浮いた玉のような肌が露わになる。額や顔に手拭を軽く当てて汗を拭ってから、首、胸元を拭くと、寝間着を肩からずらして両腕を抜く。
汗に濡れた肌が空気に触れ、冷やりとして心地良かった。しかし、あまりのんびりしていては体調を崩してしまうと、左手を前に伸ばして指先から汗を拭っていく。
『許すわけなかろうが!』
昨晩の記憶がふいに蘇り、熱気とは別の理由で顔が熱くなる。酔いのせいで意識がふわふわしていたとはいえ、いつも一緒にいる志乃相手でさえあんな口調で喋ったことは長いことなかったというのに。
その原因としては、やはり彼の言葉だろう。淡々とした無感情な言葉も、口調も、記憶の中の彼とはまるで違っていた。だが、口調だけでいえば、何もおかしいことなどないのだ。ハナが口調を直した……少なくとも、公の場での口調を覚えたように、彼もまた、当然の礼節を覚えただけだ。丁寧な口調など、礼節の最低限に当たるものだし、なにもおかしいことはない……と思いながらも、やはり彼の様子を思い出すとハナは不満そうに口を噤んでしまう。
いや、今考えるべきは、彼の変化より自分の発言についてだろう。志乃の話によれば、今朝会う予定を取り付けておいたらしく、こんな体調でなければソラと顔を合わせていたことになる。そのことを考えると、この体調不良が少しだけ有難かった。なんせ、勢いで許さないと言ってしまったものの、どうすれば許せるのかハナ自身分からない。
『申し訳ございませんでした』という、たった一言で終わるのは納得出来なかった。しかし、かといって、何度も謝れば済むようなものでもない。ハナが許さないと言ったのは、七年前のことではなく、七年前のことを謝罪だけで終わらせようとしたことであり、ソラにも言ったとおり、謝罪など最初から望んでいない。
『覚えています』
あの言葉になんと続けば自分は満足したのだろう。いや、満足はしていたのだ。その一言だけで。では自分は何が不満なのだ、とハナは知らず知らずのうちに眉間に皺を寄せる。
その時、廊下から聞こえてきた小さな足音と共に障子戸に影が映った。影は部屋の前で足を止めるとその場で膝を曲げ、控えめに戸が叩かれた。
「志乃?」
「はい。志乃でございます」
「あなた一人ですか?」
「はい」
入るよう言うと、戸が静かに開き、低い姿勢のまま志乃が部屋に入ってきた。
「お食事を持ってまいりましたが、御体調はいかがですか」
「朝と比べれば身体も大分軽くなりました」
志乃は笑顔を上げると、おや、というように目を丸くした。
「お身体を拭かれていらっしゃったのですか?」
「はい。食事の前に寝間着を代えようと」
志乃は食事の乗った盆を身体の横に置き、ハナの隣へ行くと、自然な手つきで手拭いを受け取り、背中を拭き始めた。
「相変わらず、姫様の肌は白くてお綺麗でいらっしゃいます」
「世辞を言っても何も出ませんよ」
「今更お世辞を言うようなことはいたしませんよ」
可笑しそうに笑う志乃に、ハナは顔を俯ける。そんな様子を後ろから覗き込むように見た志乃は「ふふ」と笑みをこぼす。
「それに、何も出ずとも姫様の照れたお顔が見られますから」
その言葉にハナは「む」と口を尖らせると、いよいよ照れて、そっぽを向いてしまった。
「お元気になられたようでなによりです。今朝は、殿方にはとてもお見せできない顔をされていましたから」
「……そんな酷い顔をしていましたか?」
「はい。それはもう」
遠慮のない言葉にハナは「そうですか」とだけ返す。今朝、志乃から昨晩の話を聞いて、体調不良とはいえ病にかかったわけではないためソラを訪ねようかと少し悩んだことを思い出していた。行かなくてよかった。そういえば、志乃はソラのところに今日の断りを入れに行った筈だが……、
「幸恒様も心配されていました。外出の予定があるにも拘らず、姫様が心配だから城に残るなど言うので千夜様に無理やり連れて行ってもらいましたが、日が暮れる前には帰ってこられるでしょうから、顔を見せて差し上げてはいかがですか」
その言葉に返事はなかった。からかい過ぎた、ということはないだろう。あのくらいの会話はいつものことだし、本当に嫌なことならハナははっきりと言う。なにより、不機嫌だからといって人を無視したりなどしない。
志乃は小首を傾げてから、先程とは反対方向からハナの顔を覗き込む。目線の先にある床ではなく虚空をぼやっとした顔で見ていたハナは、突然眼前に現れた志乃の顔に目を見開いた。
「姫様?」
「な、なんですか?」
「いえ。何かお考えようでしたので……」
身体を拭き終わり、志乃が替えの寝間着を手に取り、立ち上がってから広げる。ハナも立つと、志乃に手伝ってもらいながら寝間着に袖を通す。
「志乃、今朝、あの龍人の方――ソラ様のもとへ行かれたのですよね」
「はい。姫様が体調を崩されたということを伝えに」
「ソラ様は、何か仰られておりましたか?」
ハナの前に回った志乃は、紐を結びながら「はい」と頷く。
「お大事に、と」
「……他には?」
「なにも。昨晩と同じように必要最低限の会話でした。無口な方なのでしょうか。少々、変わった方でございますね。……よし」
と、紐を結び終えたのを見て、ハナは布団の上に正座する。
変わった方というのも無口な方というのも同意だが、七年前とはあまりに違う気がする。彼は本当に七年前の少年なのだろうかと疑ってしまうほどに。
再び考え込むような顔をしているハナの前に食事を置きながら志乃は思う。
話が耳に入らないほど男性のことで悩んでいるなんて幸恒様が知れば、さぞ嘆かれることだろうと。しかも、その話が自分に関わるものだとしれば、今日の姫様のように半日ほど布団から起きあがれなくなるかもしれない、と。
それから一時間ほど志乃と話をしてから少しのつもりで眠ったハナだったが、起きたのは――正確に言えば、志乃に起こされたのは、障子が夕暮れも終わりの薄紫色に染まった頃だった。夕餉の際、父、幸恒と、母、千夜にまだ少し怠そうに見えると心配されたが、寝過ぎたせいだとは言えなかった。
夕餉を済ませ、入浴の準備のため自室へ戻る途中、階段を上がろうとした時にどこからか話し声が聞こえて、ハナは足を止めた。
「なぁ、お前さん、もしかしてガラリアローザからきたのか?」
がらりあろうざ? とハナは内心首を傾げる。隣国の地名だろうか。
「あぁ。そうだが」
僅かな間の後、聞こえてきた声に、ハナは思わず息をのんだ。初めの声もどこかで聞き覚えのあるものだったが、今の声は間違いなくソラのものだった。ということは相手も龍人だろうか。ソラが住んでいる集落は八木浜から南西の森にある湖周辺だった筈だ。その森か湖のことを龍人の間では『がらりあろうざ』と呼んでいるのかもしれない。集落がある土地は、彼等には彼等の呼び方があるという話を聞いたことがあった。七年前、行った崖上の集落も、横文字風な名前があった筈だ。確か、タラ……? タン……? 頭文字はタで間違いない筈だが、横文字は言うのも覚えるのも苦手なハナである。
「俺ぁ、今日ちょっと一っ飛びして家族に会いに行ったんだがな。――あぁ、俺の集落はタルランダなんだが……」
そうそう、『たるらんだ』だ。ということは、相手の龍人はソラが元々いた集落に住んでいるらしい。顔見知りでないことを考えると、ソラと入れ違うかたちで集落を移ったのだろう。七年前から数年間、今のように友好派と不干渉派が完全に分かれるまで、そういった動きは多かったらしい。
「今の長を、ガラリアローザの元長夫婦が訪ねてきたらしい。ソラって名前の、自分の子を探してな」
その言葉にハナは目を見開く。ソラはどのような反応をしたのか、それとも昨日のように無表情なままなのかは分からないまま、十秒ほど静寂が流れた。
その間、ハナの内心では様々な憶測が飛び交い、最終的に家出という結論に至った。昔は城を抜け出すことこそ多かったハナだが、家出などしたことがないし、そこまで大きな喧嘩を両親としたこともない。
「元、というのは?」
「本人がそう言っていた、としか。詳しいことは話さないですぐに出て行っちまったらしい」
「……そうか」
「不干渉派の集落のもんがこんなところに来るなんてどういう風の吹き回しだと思ってたが、若いのに色々苦労しているみたいだな」
「いや……。教えてくれてありがとう」
「礼なんていいさ。俺達は命懸けの旅をする仲間だ。……少し気の早い話だが、お前さん、旅から戻ってきたらどうするんだ? 行く宛がないのならタルランダに来ればいい。まさか今更人間が嫌いだなんてことはないだろう?」
その何気ない問いに、ハナの胸が大きく跳ねた。それはハナにとっても気になることだった。
しばしの沈黙の後、
「まだ、その辺は自分でもよく分からないんだ」とソラは言った。
「何が好きで何が嫌いなのか分からない。特に種族問わず人相手だと難しい。そもそも、好きも嫌いもないような気さえしている。人だって嫌いじゃあないが、好きとはいえないし、友好的になれるかと言われたら無理だと思う」
その言葉が、重りのようにハナの心にのしかかった。
話し相手の龍人は、少し寂しそうに「そうか」とだけ言ってから、明るい口調で、
「どうだ? これから龍人で集まって一杯やるんだが、お前さんも来ないか? 昨日の宴会に来なかったし、そろそろ顔合わせがてらちゃんと挨拶しといた方がいいと思うぜ」
「あぁ、そうだな。それじゃあ、邪魔させてもらおう」
「おう。酒はイケる口か?」
「並程度だな。だが、匂いだけで酔ったりはしない」
「あっはっは。姫様のこと、お前さんも聞いたのか。いやぁ、昨日は無理に話に付きあわせちまって悪いことをした」
そんなやりとりの後、二人の声は少しずつ遠ざかっていった。
噂になっておるのか、と顔が赤くなるが、すぐに顔を横に振って熱気を払うと、階段を上りながら先程の言葉を思い出す。
好きも嫌いもない気がする。獣人も、人間も、そして同族の龍人でさえも。それは、なんと悲しいことだろう。そして、ハナもまた、悲しかった。
ハナは好きだった。人間も獣人も、幼かったハナが城を抜け出して町を歩いていると、遊んでくれたし、城じゃあ着させてもらえない洋服を着させてくれたし、食べ物をくれた。今だって、たまに町へ出ると、たくさんの人が笑顔を向けてくれる。まだあまり話したことのない龍人も、好きになれると思っている。少なくとも、昨日話をした人達は好きだった。
『お前なんかキライだっ!!』
俯き、何故か零れそうになる涙を堪えながら歩いていたハナの頭に、少年時代のソラの言葉が不意に蘇った。
そうだ。あの頃の彼には、確かに『嫌い』があった。では、何故今のようになってしまったのか。不干渉派の長だったという両親の影響? それなら、龍人と人を同じように見ているのはおかしい気がする。いや、でもそう考えると、ソラは元々人や獣人をそこまで嫌ってはいなかったのかもしれない。
それなら、まだ心を変えることは出来るのではないか?
ハナが自室の前まで戻ると、既に志乃が寝間着など一式を持って待っていた。
「姫様、そろそろ入浴の時間かと思い用意を致しましたが、いかがいたしましょう」
「ちょうど、用意をしようと戻ってきたところでした」
その言葉に、どこか晴れ晴れとした気持ちが感じ取られて、志乃は少し不思議そうに小首を傾げる。そんな彼女に、ハナは唐突にこう言った。
「明日、久方振りに城下視察へ出向こうと思います」
「へ? 城下へ、ですか? 私は構いませんが、また随分と急なお話ですね」
「はい。私と志乃、それと、ソラ様と共に」
その言葉に、志乃は目を丸くしたかと思うと、さっと青ざめた。
「な、なりません、姫様。殿方と城下を回るなど、どのような噂が立つか……」
「だから志乃にも付いてきて欲しいと言っているのではありませんか。監視付きとあらば、たとえそのような噂が流れても、落ちのある笑い話にしかなりません。実は志乃の、という噂が流れるかもしれませんが」
「そ、それも駄目です! 絶対に!」
「なら太助を連れてくるというのはどうでしょう。流石に子供を連れて不義理をすると思う者はいないでしょう」
あくまで冷静に返答してから浴室へ向かって歩き始めるハナの背中を見て、志乃は諦めたように肩を落とす。こうなれば、ハナは何を言っても考えを変えないであろう。断固として拒否を続ければ、『ではソラ様と二人で行くとします』なんて言い出しかねない。ソラに何か用事や理由があって断ってくれればいいのだが、お世辞にもそんな多忙な身には思えない。
志乃は小さく溜め息を吐くと、どこか軽快に歩く背中に付いて行く。まあ、ハナがどこか元気を取り戻したことだけは、素直に安心した。




