ある異能者
「ハァハァ」
息を切らせながら男は走る。
ガラガン、慌てていたからか足元に転がっていたバケツを蹴り飛ばしてしまう。その軽く甲高い物音は男を追う連中をここに引き寄せるかも知れない。心臓は今にも破裂しそうにバクバクと鼓動を打っていたが、立ち止まる事は出来ない。彼に出来るのはこの場から一刻も早く離れる事だけ。
男は木島秀助。年齢は二十八歳。職業は建築業。その仕事に相応しく身長は百八十を越え、体重七十五キロ。肌の色は日焼けで真っ黒。いわゆるガテン系だ。
そんな木島だが、彼には別の一面がある。それは世間を騒がせる”連続猟奇殺人犯”という顔。
いつの頃からかは木島自身も気付いてはいなかったが、彼にはある特殊な力があった。
その能力により無数の殺人を引き起こした。だが、先日の殺人の際に監視カメラに現場を行き来している所を撮られ――今の逃走に繋がっている。
だが今、木島を追いかけているのは、警察ではない。
警察官なら、ついさっき殺したばかりだ。
「いてて」
腹に血が滲んでおり、かなりの負傷であることは誰が見ても明らかだ。医学的な知識があるのならこの傷が”銃創”である事に気付くだろう。ただし、同時に驚愕する事だろう。その傷口が徐々に塞がっていく事に。
木島は知る由もないが”異能者”を警察が捕らえられない理由は複数ある。
まず、”異能”についての情報は世界でもごく限られた人間しか知らない極秘事項である事。
次に、”異能”を持った人間に対して既存の銃器はそれほどの効果を持たない。何故なら、”異能者”にはある共通の能力がある為だ。それは常識外れの”回復能力”。この能力は木島もこの回復能力がどの程度のものなのかは木島も以前試してみたので大まかには理解していた。現に、銃創はもう完全に塞がっていた。シャツさえ変えてしまえば、誰にも気づかれる事も無いだろう。ここが路地裏でなければだが。
「ちっっ、くそが」
その一方で、木島はさっきから肩の痛みが一層酷くなった事にその表情を曇らせた。こちらの傷を付けた連中こそ、今、木島を追いかけている集団。
(一体どうなってやがるんだ?)
そう思った木島は、右肩の傷をシャツを脱いで視認してみる。一見するとさっきの銃創と比べて、何て事の無いかすり傷。この傷がついたのは大体十分程前の事だった。
◆◆◆
「木島秀助さんですね」
警官が木島に駆け寄る。その警官は腰の拳銃に手を掛けている。どうやら単なる事情聴取では無さそうだ。
そう言えば、警察官を今日はちらほら現場に来る途中で見かけた様な気がしていた。ひょっとしたらあの連中も自分を探していたのかも知れない。証拠は残していないつもりだったが何処かで何かしらミスがあったのだろうか。
(バラしちまうか)
そうも思ったが、警官一人位ならば、ものの数秒で息の根を止める自信がある。それなら少し位は様子を見てみるのも悪くはない。
そう判断した木島は警官の様子を見てみる事にした。
「あー、何ですかい?」
間の抜けた返事を返し、肩に担いでいた角材を地面に降ろし、顔の汗を首に巻いていたタオルで拭う。
「貴方に聞きたい事がある。少しお時間、いいですか?」
警官は気の弱そうな小男。腰の拳銃に手を掛けている事から単なる聞き込みでは無いであろう事は明白だろう。だが、たった一人で容疑者の確保とも思えない。
木島は、十五才の時に不良同士の大ゲンカで傷害罪で逮捕された事がある。その時でさえ、自分一人に三人がかりだった。仮に今の自分が能力を持っていなくても三人位ならば、蹴散らせる自信がある。
「聞きたい事ぉ? それ、俺じゃ無きゃ駄目なんですかぃ」
木島はそう言いながら、プレハブ小屋へと歩き出す。
「ち、ちょっと待て」
警官も慌てて木島の後を追う。
外は猛暑の為に立っているだけでも汗が滲んできたが、小屋の中はクーラーが入っていて涼しい。木島は冷蔵庫からかき氷を取り出すと食べ始めた。
「あんたも食うか?」
「い、要らない。それよりも聞きたい事がある。答えてもらう」
小柄な警官は大声で木島の話を遮り、質問を始めた。
その内容は、三日前の夜十時のアリバイ確認に集中していた。
(やっぱり何かしらミスをしたのか?)
その夜は木島が隣の区域で女子大生を襲い、殺害していた。思わず表情が強張る。その変化を警官は見逃さなかったのか、更にアリバイ確認をしてくる。最初は上手く誤魔化しながらやり過ごそうとしていたが、徐々にその説明もあやふやになっていく。
(考えろ。あの日に着ていたポロシャツはもう処分した。移動は大通りを避け、遠回りをした。見られたとは思えない)
ふと鏡に映った自分の顔が目に入る。明らかな動揺がすぐに見てとれた。そして、目の前の警官はそんな自分を間違いなく″疑い″の眼差しで見ている事だろう。
そうこうしている内に警官の携帯に着信が入った。
「少し待っていてください」
そう言い残して外に出る警官。木島は目を閉じて、意識を集中させる――――すると、″聞こえてきた″。
――はい、小林です。
――今、何処にいる?
――木島秀助の職場である建築現場です。今、丁度彼にアリバイを確認していました。
――何? 単独で職質かける奴がいるかっ。すぐに応援を送る。話を引き延ばせ。
――え? では決まりですか。
――ああ、監視カメラの映像解析で木島秀助だと判明した。いいか、相手は凶悪な殺人犯だ。気を付けるんだ。
そう電話の相手が言って、電話は切れた。やはり自分を容疑者として考えている事は分かった。それから、今――この場にいるのは小林という、あの警官一人だとも。このままここにいても無駄だろう。ならば、どうするのか? もう答えは出ていた。
ガチャリ。プレハブ小屋に小林が戻ってくる。彼はこの事件が刑事になってからの初の事件だった。本当ならば、木島の所在確認をした段階で同僚に連絡を入れるはずだった。それを無視したのは”焦り”と”功名心”の為。
木島が前歴持ちである事は分かっていた。だが実際、本人を目の前にして、段取りが吹っ飛んだ。
(自分はこういう悪人を減らす為に警察官になったんだ)
この思いで立ち向かおうとして――その人生を終わらせる事になった。
「木島?」
小林が見たのは誰もいない部屋。ついさっきまで木島はここでかき氷を食べていたはず。実際、そのかき氷は折り畳み式の長机に食べかけのまま残されている。窓を見た。プレハブ小屋には二つの窓があるが、開いてはいない。それどころか鍵がかかっていた。出られるはずが無い。だが、実際今、木島の姿は見当たらない。
小林は腰のリボルバー拳銃――”S&W M37エアーウェイト”を帯革の拳銃入れ、ホルスターから抜くと構える。
誰もいない小屋の中で何故、拳銃を抜いたのか?
何故か”気配”を感じたからだ。ここに誰かがいるという気配を。
そしてその予感はすぐに当たっている事が証明される。
”頭上”から襲いかかる木島。その襲撃に気付いた小林はM37の引き金を引く。
”パーン”銃声は二度、三度と轟き、そこで止まった。
音を聞き付けた作業員が小屋に来ると、その惨状を目にした。
小屋の中は一見すると、まるでペンキをぶち撒けた様に見えた。
「誰のイタズラだよ」
そう言いながら気付いた。その異常な光景に。見た瞬間は趣味の悪いイタズラだと思った。誰かが、赤いペンキを缶ごと一面にぶち撒けたのだと思った。
しかも、更に趣味の悪いのは、部屋のど真ん中に、悪趣味な人形がぶら下がっていた事だ。
その人形は実に精巧だと作業員は思った。その質感はまるで生きているかの様。しかも、手にはこれもまた精巧なモデルガンを手にしていた。作業員は好奇心で、人形に近寄る。
「凄いなこれ」
ポタリ。
何かがヘルメットに落ちた。雫の様な音。
ポタリ。
更にその雫がモデルガンを手にしてみようと伸ばしていた左手に落ちた。思わず左手を戻して、手の甲を見る。
「わっっ」
それはあのペンキだった。まるで血の様な赤。しかも、ポタポタと落ちてくる。気になって天井を見ると目にしたのは――――
顔を半ば失くした人形、いや、それは人形では無かった。何故なら、その身体は揺れているのでは無く、ピクピクと脈動していたのだから。それはついさっきまで生きていた人間だったのだ。
「うわあぁぁっっっっ」
作業員は慌てて外に出ようとした。だが、ドアノブに手を掛ける前にその身体が突然宙に浮いた。そして顔を失くしたその死体の目の前で止まる。吐き気を催したが、彼はそれも出来なかった。次の瞬間、彼の視線が真っ赤に染まり――その人生を終えた。
木島は満足した。何だかんだでやはり”殺し”は最高だった。ついさっきまで生きていたその命を自分が摘み取れる、この感覚は一度知ってしまったら、もう病み付きだ。
(にしても驚いたぜ)
そう思いながら腹部に手を当てる。ドロッとした血の感覚、そこから指が入る位の穴が開いていた。今まで撃たれた事が無かったので、銃撃された時はどうなる事かと思ったが、結果として脅威では無い事を身をもって理解した。撃たれた瞬間は流石に痛みを感じたが、それもせいぜいが大きめの石の直撃を喰らった程度。
(やっぱり、俺は無敵だ。これからも好きに生きていくぜ)
表の世界ではもう犯罪者だが、自分が無敵だと確信した木島はもうその事も気にはならなかった。とりあえず、この場を後にする。
現場から遠ざかり、路地裏に入った時の事だった。
「木島秀助。そこまでだ」
その声は突然聞こえた。思わず後退りし、周囲を警戒する。
そして気付く。この路地裏の前後を塞がれたと。
「チッ、お巡りかよ」
木島は悪態をつきながら、それとなく様子を確認した。
相手の人数はそれぞれ二人ずつの四人。少し手間かかるが、殺せる。そう判断した木島が前方の二人に、背後の二人に視線を向ける。そこで木島はふと、奇妙な事に気付く。
相手は警棒を持っていて、銃を持っていて、あとは素手。その装備がバラバラで、一貫性を感じない。もしかすると警察官では無いのかも知れない。
少し拍子抜けしつつも木島は構わずに前方へと飛びかかるように襲いかかる。無造作に右手を振るう。その右手からバリバリと音を立て節くれだった腕が伸びていく。
「死ねやあっっ」
その腕は銃を構えた女性の胸部を”ドスリ”と刺し貫く。
警棒を持った男には同じく左手から伸びる腕が襲いかかる。男は警棒でその腕を上手く反らしつつそのまま左肩を打った。思った以上にその一撃は木島の身体に響いた。何故かは分からなかったが、拳銃で撃ち抜かれた時よりもズシリと。
更に、”右腕”で刺し貫いたはずの女性は平然とした表情で木島を睨んでいた。間違いなく”致命傷”を負わせたはずなのに。
現状で自身の不利を悟った木島は迷わず逃走を図る。右腕をビル壁に刺し込み――続いて左腕を反対のビル壁に刺し、そのまま登っていく。そのまま左右両腕でよじ登り、逃げることに成功した。
◆◆◆
そこから更にいくつかのビルを乗り越え、ようやく一息ついた。
(さっきの女、ありゃまさか”同類”なのか?)
そうとしか考えられなかった。間違いなく心臓を貫いた感触があったにも関わらず、あの女性はまるで応えた様子も無かった。
更に左肩の痛みも一向に引かない。たかが警棒で殴られただけのはずなのに。それどころか、益々痛みが増していると感じる。
改めてその殴打の跡を見ると、ボコボコと不気味に脈動している。
「これは酷いな」
その声に木島は思わず飛び退いた。
いつの間にか、真横に男が立っていた。いかにも高級そうな黒のスーツに身を包み、穏やかそうな笑みを浮かべる男。
その肌は病的に白く、何処か浮世離れした印象を与える。
唾を飲み込みながら、警戒する木島にその男は優しく微笑みながら言う。
「心配する必要はないよ。”私達”は君の味方なんだから」
男の言葉には不思議な安心感があり、敵意が急速に萎えていく。
木島は何となく気まずい表情で頬を掻きながら尋ねた。
「アンタ、誰なんだ?」
その言葉を待っていたかの様に男は拍手をパチパチパチとする。
そして口を開く。
「我々は”WD”という結社に所属する者だよ。
…………木島秀助君、君を我々の仲間として迎えに来た」
男は穏やかにそう告げた。