母の留守電は、再生するたびすこしずつ増えていく
母の伝言は14秒しかない。——昨日まではそうだった。
午前1時すぎ。冷房の低いうなりだけが続く部屋で、わたしはスマホを握っている。画面にあるのは音声ファイルがひとつ。長さの表示は「0:14」。6月のはじめに母が遺した、最後の留守電だ。
母は死んだ。パート帰りの横断歩道で、信号を無視した車にはねられて、その日のうちに。わたしはその日の電話に出られなかった。大学帰りに入れていたバイトの最中で、スマホはロッカーの奥で震えていた。
四十九日が過ぎた夜から、これを再生するのが毎晩の習慣になっている。
そして今夜、伝言はひとこと増えていた。
今夜の話をする前に、昨日までの14秒のことを話しておきたい。
再生ボタンを押すと、かすかなノイズのあとに母の声がする。
「あ、みーちゃん? お母さんだよ。いまスーパー。唐揚げ半額なんだけど、いる? ……ごはん、ちゃんと食べてる?」
声のうしろでレジが鳴っている。ピッ、ピッ、と間隔の揃わない電子音。遠くで「本日のタイムセールのお知らせです」と放送が流れ、カートの車輪が床を転がり、知らない子どもがなにかをねだって笑う。夕方のスーパーの音だ。母はいつもあの音のまんなかから電話をかけてきた。値引きシールの貼られる棚の前から、その日いちばん安いものの前から。生前は聞き慣れすぎて、最後まで聞かずに切ることさえあった。
娘に残した最後の用件が唐揚げの半額。
でもこれしかない。留守電サービスの元のデータは保存期限で消えて、端末に落としたこのファイルだけが、母の声がこの世に残っている唯一の場所になった。
「ちゃんと」は母の口癖だった。ちゃんと食べなさい、ちゃんと寝なさい、ちゃんと鍵かけた? 小言のぜんぶに「ちゃんと」が付いた。……付いていた、ともう言わなくてはいけない。過去形にするたび、胸の内側がすこしずつ冷えていく。
わたしは早瀬美咲。大学2年の20歳。母とふたりで暮らしたふた間のアパートに、いまはひとりで住んでいる。部屋を引き払わないのは、家賃の計算だけが理由じゃない。
テーブルの端には、伯母が選んだ小さな写真立てがある。写真の中の母は笑っていて、その前で毎晩、わたしはこの14秒を流す。仏壇はまだ買えていない。線香はたまに思い出したように焚くだけで、今夜の部屋には冷房の風の匂いしかしなかった。
再生はいつも決まって、日付が変わったあとにする。上の階の足音がやみ、外を走る車が数えるほどになって、世界の音量が下がりきる時間。そこで流すと、レジの音の粒までよく聞こえる。イヤホンは使わない。母の声は部屋の空気を通して聴きたかった。
白状すると、わたしはこの伝言を最後まで聴いたことがない。
いつも「ごはん、ちゃんと食べてる?」の直後で止める。親指はその位置を覚えてしまっていて、目をつぶっていても止められる。
最後まで行けば、伝言の切れる音がするからだ。プツ、という小さな音。あれは母がもう一度いなくなる音だ。だから聴かない。14秒のうち、わたしが知っているのは9秒だけでいい。最初の夜にそう決めて、今日までやってきた。
今夜も同じはずだった。
レジの音。放送。子どもの笑い声。「……ごはん、ちゃんと食べてる?」。親指が画面に降りていく。
その一瞬前に声が続いた。
「……無理、しないでね」
親指が止まった。
息が浅くなる。いま、なにか言った。「食べてる?」のあとに、たしかにもうひとこと。
聞いたことがない。この14秒を何度聴いたか、もう数えられない。息継ぎの位置まで覚えている。「無理しないでね」なんて、この伝言のどこにもなかった。
巻き戻して確かめればいい。そんな簡単なことを思いつくまでにずいぶんかかった。指が画面の上で迷子になっていた。
再生バーは右端まで走りきって、止まっている。長さの表示は「0:14」のまま。
空耳。寝不足。願望が見せた夢。順番に並べてみたけれど、どれもあの声の生々しさには勝てなかった。かすかに鼻にかかった、やわらかい声。まちがえようがない。母の声だった。
部屋を見回した。冷房のうなり。冷蔵庫のモーター。カーテンの向こうの、遠い車。なにも変わっていない。スマホの中だけが昨日までと違う。
「怖い」が先に来るべきだったのだと思う。
先に来たのはべつのものだった。
——もう一度、聴ける。
知らない母のひとことをまだ聴ける。
冷房のうなりの下で、わたしはもう一度、再生ボタンを押した。
レジの音。放送。笑い声。「……ごはん、ちゃんと食べてる?」——そして。
「……無理、しないでね」
声はまた同じ場所にいた。夢でも空耳でもなく、昨日まで14秒だった伝言の中に、知らないひとことが根を張っていた。
◇
次の夜、伝言はまた育っていた。
「……ちゃんと、寝てる?」
その次の夜はこうだった。
「今日も、暑かったね」
さらに次の夜はこう。
「ちゃんとお布団で寝なさいね」
ソファでうたた寝した翌日にそれが来たときは、さすがに背中が冷えた。偶然だ。そうに決まっている。言い聞かせながら、その夜からソファで眠るのはやめた。
一晩にひとことずつ。継ぎ足される言葉はどれも短く、どれも母の言いそうなことだった。わたしは毎晩、冷房の風の下に正座してそれを聴いた。
おかしい、とは思っていた。死んだ人の留守電は増えない。そんなことは知っている。
でもたとえば壊れかけたデータの気まぐれだとして。ぜんぶわたしの夢だとして。それが母の声で「寝てる?」と言ってくれるなら、やめる理由がどこにあるだろう。
出られなかった、と伯母にも玲奈にも言ってある。ほんとうは違う。あの日、休憩でロッカーを開けて、「お母さん」の着信と留守電の通知は見ていた。どうせ唐揚げの話だと思って、かけ直さないまま売り場に戻った。バイトが終わる頃には、伯母からの着信が画面を埋めつくしていて、その先のことは断片でしか覚えていない。
だから、夜ごとにひとことずつ返ってくるこの声を手放せるわけがなかった。これはあの日の続きなのだと、そう思うことにした。なんの続きなのかは深く考えない。
バイト先のコンビニでは、レジを打つたびに同じ電子音が鳴る。ピッ、という、あの14秒の背景と同じ種類の音。ある晩それが妙に耳に残って、「袋、要りますか」と訊く自分の声が一拍遅れた。世界のどこにでもある音なのに、わたしのレジの音は、誰の伝言の背景にもならずに散っていく。そんなことを考えて、レシートを渡す手が震えた。
昼間の大学はうるさい。
とくに玲奈がうるさい。学食の長机の向かいで、青井玲奈は今日も音を立てて生きている。弁当箱の蓋をバチンと鳴らし、麦茶のボトルの氷をからから回し、春巻きを噛みながら笑う。行儀はよくない。でも玲奈のまわりだけ、空気の温度がわずかに高い。
生きてる音がする子だ、と会ったときから思っている。
葬式のあと、玲奈はしばらく毎日うちに来た。なにを話すでもなく、コンビニの袋をがさがさ言わせて、プリンを2個置いて帰る。あの頃のわたしは、その音でかろうじて昼と夜の区別をつけていた気がする。
「みさき、聞いてる? 後期の語学さあ——」
「聞いてる」
聞いていなかった。寝不足で頭の芯だけが熱くて、それなのに夜が来るのを待っている自分がいた。
その日は口が滑った。
「最近ね、寝る前にお母さんの留守電、聴いてるんだ」
玲奈の箸が止まった。
「……声、残ってるんだ」
「うん。14秒だけど」
「いいなあ」
落ちてきた声はいつもの玲奈のものとは思えないくらい低かった。
「あたしね、おばあちゃんの声、ひとつも持ってないんだよね。動画も撮ってなかった。写真はいくらでもあるのに、声だけ、どこを探してもない」
玲奈を育てたのはおばあちゃんだ。高校のときに亡くしたことも聞いていた。聞いていたのに、わたしは自分の14秒の話をした。
「羨ましいよ、みさきは」
羨ましい。その言葉は思っていたよりも深いところに刺さった。
じゃあ代わる? 出なかった電話ごとぜんぶ。——喉まで上がってきた言葉を、ぬるい麦茶で流し込んだ。舌の奥に苦みだけが残った。
その日はどちらも謝らないまま別れた。
夜、ひとりの部屋で、古いことを思い出していた。
高3の頃、わたしは夜遅くまで塾の自習室にいて、母は決まって22時に電話をかけてきた。話すことなんて、たいていない。わたしが面倒がって黙り込んでも母は怒らなかった。
「しゃべらなくていいから、切らないでいて。そっちの音、聞かせて」
それで通話はつないだまま、わたしはシャーペンを走らせ、母は台所でなにかを刻んでいた。イヤホンの向こうで水が流れ、換気扇が回り、鍋がことこと鳴る。音だけの長電話。あれをなんと呼べばいいのか、いまも知らない。ただ、あの音の中で解いた問題は、不思議と正答率がよかった。
大学に入ってからも、その電話は月にいくつか続いていた。おっくうがるわたしに、母が要求らしいことを言った覚えはない。いま思えば、回線の向こうの台所の音が、母の「元気でいるよ」だった。こちらのシャーペンの音が、わたしの「元気だよ」だった。
その夜の伝言は、さらに育っていた。
「みーちゃん。……ひとりで、平気?」
平気だよ、と言いかけて、口を閉じた。留守電相手にひとりごとなんて、と思ったことにする。ほんとうは指先が冷えていた。冷房のせいにするには、へんな冷え方だった。
その次の夜は、ひどく短かった。
「……寒くない?」
窓の外は熱帯夜で、蝉がまだ鳴き残っている。部屋は26度に保たれている。寒いわけがない。
寒いのはたぶん、わたしじゃない。
その考えがどこから降ってきたのか、自分でもわからなかった。増えはじめてからの夜で、途中で止めたのはこの夜が最初だった。
◇
違和感には順番がある。あとから数えなおせば、それはすこしずつ積み上がっていた。
最初は日付だった。
ある朝、ファイルの詳細をなんとなく開いた。保存日時は「6月4日 17:52」。母が死んだ日の夕方のまま、動いていない。
当たり前だ。ファイルは更新されていない。
でもそれなら、毎晩増えていくあの言葉はどこに書き込まれているんだろう。
長さの表示も「0:14」のままだった。どれだけ育っても数字は変わらない。試しにキッチンタイマーを並べて計ってみたら、声が終わるまでに47秒かかった。0:14の器の中で、47秒ぶんの声がする。数字が嘘をつく。
スマホの故障。アプリの不具合。検索すればそれらしい言葉は並んだけれど、どのページも最後まで読めなかった。不具合なら直ってしまうかもしれなくて、直ってほしいのかどうか自分でも分からなかった。
それから、間のこと。
増えた言葉と言葉のあいだには、決まって同じ長さの間が挟まる。息継ぎでもためらいでもない、定規で引いたような間。人間の話し方はあんなふうに均等にできていない。
次は呼び方だった。
その夜の声はこうはじまった。
「……美咲さん。ちゃんと食べてますか」
息を吸ったまま、しばらく吐けなかった。
母はわたしを「美咲さん」と呼ばない。生まれてから20年、一度もない。叱るときでさえ「みーちゃん」だった。それに、母は娘に敬語を使わない。
スマホを置いて、洗面所で顔を洗った。鏡の中の自分に、大丈夫、と。——声にする手前でやめた。この部屋で声を出すこと自体を、いつからか体が避けはじめていた。
言葉の選び方がずれてきている。
最初の頃の継ぎ足しは、どれも母の言い回しだった。無理しないでね。ちゃんと寝てる? たしかに母が言いそうなことだった。——言いそうなこと。
そう思って聴きつづけていた。「言った」ではなく、「言いそう」と。
まるで誰かがあの14秒から言葉を学び、真似て、手持ちが尽きてきたみたいに。
確かめたいことがあって、次の夜はイヤホンで聴いた。
両耳をふさいで、目を閉じて、音だけにする。
前半はいつもの14秒だ。母の声のうしろでレジが鳴る。放送が流れる。カートの車輪、子どもの笑い声。夕方のスーパーが、声のまわりでちゃんと生きて回っている。
「……ごはん、ちゃんと食べてる?」
そこを過ぎた瞬間、世界の底が抜けた。
継ぎ足された声のうしろにはなにもなかった。
無音というのは音がしないことじゃなかった。イヤホンの中のそれは、鼓膜へ内側から薄い膜を張ってくるような、耳の奥をまっすぐ押してくる圧だった。声だけがその真空の中に立っている。息を吸う音がない。衣擦れがない。どんな部屋にもあるはずの、空気の鳴りそのものがない。
この声は音のない場所からかかってきている。
スーパーじゃない。この世のどの部屋でもない。冷房も冷蔵庫も蝉もいない、音というものが生まれてから一度も鳴ったことのないような場所から。
イヤホンをむしり取った。
部屋の音がどっと戻る。冷房のうなり。冷蔵庫のモーター。遠くの車。世界に音があるということに、こんなに安堵した夜はなかった。
母じゃない。
そこまで認めるのにここまでかかった。声はどう聴いても母なのだ。でもスーパーの音のまんなかから電話をかけてくる人が、真空からは喋れない。これは母の声で喋っている、母じゃないなにかだ。
じゃあ、なんのために毎晩ひとことずつ喋る?
考えたくないのに、頭は勝手に増えた言葉を並べはじめる。無理しないでね。ちゃんと寝てる? 今日も暑かったね。ひとりで平気? 寒くない? 美咲さん、ちゃんと食べてますか。
——問いが増えている。
はじめの頃はねぎらいだった。それが夜を重ねるほど疑問の形に寄っていって、しかも、すこしずつこちらへ踏み込んでくる。体から、暮らしへ。暮らしから、さみしさのほうへ。
質問は答えを待つ形をしている。
電話はつながるための道具だ。呼びかけがあって、応えがあって、それで初めて回線は両側から開く。あの日わたしが出なかったから、母の呼びかけは片側だけで宙に浮いたままだ。この声はその宙ぶらりんの上に乗っている。
だとしたら、わたしが答えたら——返事をしたら、どうなる?
うなじの産毛が立った。
返事は道を開ける。片側だけだった回線が両側から開く。開いた道を、なにかが確定して通る。なにがまでは分からない。分からないけれど、電話というものの理屈がそうできている。呼んで、応えたら、つながる。つながるとはそういうことだ。
返事をしてはいけない。
誰かに教わったわけじゃない。積み上がった違和感をぜんぶ足していったら、答えはそこにしか落ちなかった。
気づいてしまえば、あの言葉たちの並びは餌にしか見えなかった。心配の形をした釣り糸が、毎晩すこしずつ、こちらの口もとへ垂れてくる。わたしが「うん」と言うのを、あれは気の遠くなるような辛抱強さで待っている。
それでもその夜、指は再生を選んだ。餌だとわかっても、あの声を偽物と呼びきって手放す覚悟が、まだできていなかった。
その夜の声はいちばん長かった。
「美咲さん。……さみしくない?」
冷房の風だけが動く部屋で声は続けた。息継ぎのない、まっさらな間を挟んで。
「……そっちに、行ってもいい?」
両手で口をふさいだ。
声が出そうだったからじゃない。……いや、違う。出そうだったからだ。
母の声で「行ってもいい?」と訊かれて、だめだと言える娘がどこにいる。
手のひらの下で、自分の息だけが熱かった。再生バーが右端に着いて、声はやんだ。表示は「0:14」。数字は今夜も嘘をついている。
朝まで眠れなかった。窓の外で蝉が鳴きはじめたとき、その音がすがりつきたいほどありがたかった。
カーテンの隙間が白んでいくあいだ、考えていたことがある。
偽物が母の言葉に継ぎ足していくのなら——本物の母の言葉は、どこで終わっていたんだっけ。
答えられない自分に気づいて、指先がまた冷えた。
◇
昼すぎにチャイムが鳴った。
ドアスコープの向こうで玲奈が片手を上げていて、もう片方の手にエコバッグが提がっていた。
「ノート写させて。語学の。あと、そうめん持ってきた」
「……写すの、ついで?」
「そうめんがついで」
嘘だ。玲奈の家からここまで、電車で40分かかる。その嘘に触れない程度の礼儀は、わたしにも残っていた。
部屋に上がった玲奈はノートをろくに開かないまま台所に立ち、冷蔵庫を覗いて悲鳴を上げた。
「なにこれ。ゼリーしかない」
「食べてるよ、ちゃんと」
「ゼリーは飲み物。……鍋、借りるよ」
返事を待たずに水を張る音がした。
それからの小一時間、部屋じゅうが音で満ちた。コンロの火が立つ低い音。湯が底から沸いてくる細かい泡の音。まな板の上でミョウガが刻まれる音。玲奈がハミングで壊していく、知らない歌。
わたしはソファに沈んで、その音を聞きながら、いつのまにか眠っていたらしい。ゆうべ一睡もしなかった体に、ひとの立てる生活の音は思っていたよりずっと効いた。
夢は見なかった。かわりに半分だけ起きた耳が、台所の音を拾いつづけていた。ざるの水切り、菜箸、戸棚の開け閉め。母がいた頃、この部屋の休日はいつもこういう音でできていた。
「できたよ。食べな」
起こされて、ふたりで麺をすすった。つゆの器に落ちる麺の音がして、グラスの中で氷が崩れて、ミョウガの青い香りが鼻に抜けた。
「……このあいだは、ごめん」
先に言ったのは玲奈だった。
「羨ましいとか、言うことじゃなかった」
「ううん。わたしこそ、おばあちゃんのこと知ってたのに」
「あのね」玲奈は麺を持ち上げたまま笑った。「あたし、おばあちゃんの声は残せなかったけど、音なら覚えてるの。包丁の音がとにかく速い人でさ。トントンじゃなくて、タタタタタって。あの音で毎朝、目が覚めてた」
タタタタタ、と玲奈は口で刻んでみせた。あんまり似ている気はしなかったけれど、玲奈の中ではきっと本物が鳴っている。
「みさきのお母さんは、音、なんだった?」
訊かれて、すぐに浮かんだのは包丁でも味噌汁でもなかった。レジの音。スーパーの放送。あの人の背景はいつも働いている音だった。そう答えると、玲奈は「らしいねえ」と笑って、麺を勢いよくすすった。
声だけがその人の音じゃないのかもしれない。
そのときはそこまで深くは考えなかった。いい音の話だな、くらいに思って。
帰りぎわ、玲奈はエコバッグの残りを冷蔵庫へ押し込んでいった。卵と、ネギと豚肉の薄切り。
「あんたの明日の分。ちゃんと火ぃ通しなよ」
ちゃんと、と言うんだ、この子も。ドアが閉まって、鍵を回して、わたしはすこしだけ泣きそうになった。
夕方の部屋は急に静かになる。流しに伏せたふたつのグラスから、水滴がひとつずつ落ちて鳴った。西日が床に伸び、網戸越しの蝉が濃くなる。
スマホは朝からテーブルの上で伏せたままだった。
ゆうべの声を思い出す。そっちに、行ってもいい?
もう再生をやめれば、それで終わるのかもしれない。でもやめたら本物の14秒ごと手放すことになる。あの中にはまだいるのだ。継ぎ足される前の、スーパーの音の中の母が。
確かめたくなった。増える前の伝言が、ほんとうはどんな形で終わるのか。
カーテンも閉めない、暗くなりきる前を選んだ。テーブルにスマホを置いて、深呼吸をひとつ。再生ボタンを押した。
「あ、みーちゃん? お母さんだよ。いまスーパー。唐揚げ半額なんだけど、いる? ……ごはん、ちゃんと食べてる?」
レジの音。放送。車輪と笑い声。いつもの9秒。親指が覚えこんだ位置へ勝手に動きかける。
その親指を左手で押さえた。
今日は止めない。最後まで聴く。切れる音がしたところで、母はもう、これ以上いなくならない。
「食べてる?」の残響のあとに、間があった。レジの音だけが続く、短い間。夜ごとの声は、いつもこの間に割り込んできていたのだと、そのとき初めてわかった。
間の向こうで母の声が急に小さくなる。レジの列でも伸びたのか、送話口に口を寄せたような囁きに近い早口で。
「返事はしなくていいからね。……生きてる音、聞かせて」
プツ。
小さな音がして、伝言は終わった。再生バーが右端で止まる。0:14。
初めて聴いた、残りの5秒だった。
……知らなかった。
すり切れるほど聴いてきたつもりで、わたしは母の最後の言葉を半分しか知らずにいた。切れる音が怖いという理由だけで、いちばん母らしいひとことを、ふた月近く置き去りにしていた。
返事はしなくていいからね。
あの22時の電話の言い方だった。しゃべらなくていいから、切らないでいて。そっちの音、聞かせて。——面倒がる娘に、要求のかわりに母が差し出していた、いちばんやさしい形の「つながっていよう」。
母は最後まで、わたしになにも求めなかった。折り返しの電話ひとつさえ。
あの日かけ直していたら、と何度も考えてきた。最後の会話ができたはずなのにと。でも母が吹き込んでいったのは、かけ直さない娘への文句じゃなかった。責める言葉をひとつも持たない人の、いちばん奥にあった言葉だった。
視界が溶けた。声をあげて泣いたのは、お通夜より四十九日より、たぶんこの夕方がいちばんだったと思う。突っ伏したわたしの背中の上を、蝉の声と冷蔵庫のモーターと、夕方の生きた音がずっと流れていた。
泣きやんだ頃には、西日が床の色を変えていた。麦茶を注いで、氷が鳴って、その音でまた泣いた。
泣きながら、わかってしまったこともある。
夜ごとに増えるあの声は、一度も「返事はしなくていい」とは言わない。
言うわけがない。あれはわたしの返事を待って、毎晩あの短い間に座りつづけているのだから。
◇
その夜、日付が変わる直前にスマホが鳴った。
再生した音じゃない。着信音だ。テーブルの上で画面が光って、震えている。
表示は——「お母さん」。
母の番号は解約されている。四十九日のあとに伯母と窓口へ行って、この世のどこにもつながらなくなったはずの番号だった。
出なかった。
あの日は後回しにするために。今夜はつなげないために。
呼び出しが絶えて、画面が暗くなる。ひと呼吸おいて、通知が灯った。留守番電話が1件。
聴くべきじゃない。わかっていて、指は通知に触れていた。もし、もし万一、ほんとうに母の——。
スピーカーから声がこぼれた。
「みーちゃん。……やっと、つながった」
全身の肌が粟立った。
呼び方が戻っている。それよりも。
声のうしろに音がある。
低いうなり。断続する小さなモーター。網戸越しの遠い蝉。
——この部屋の音だ。
いまわたしのまわりで鳴っている音が、そっくりそのまま声の背景に敷かれている。
真空しか持てないんじゃなかった。
……もう、この部屋の音を拾える場所まで来ているんだ。
スマホを握る手が揺れて、角がテーブルを叩いた。こつ、という音。その音がスピーカーの奥で薄く重なって聞こえた。
「さみしかったよね。ひとりにして、ごめんね」
声が変わりはじめている。
さっきまではスピーカーの奥の、平たく潰れた小ささだった。いまは響きにすこし厚みがある。狭い箱の中ではなく、壁の近い場所——廊下のようなところで鳴る種類の響きだ。音の大きさは変わらない。なのに、近い。距離だけが縮んでいる。
「……ねえ。どうして、応えてくれないの」
初めて、問いの形が崩れた。
母はこんなことを言わない。心配はしても責めない。求めない。応えろと迫る言葉は、あの人の口からいちばん遠いところにある。
なのに声だけはどこまでも母のままだった。それがいちばん、こわかった。
「みーちゃん。……ねえ、ひとことで、いいから」
再生を止めた。
バーは止まった。
声はやまなかった。
薄く、くぐもって。ドア一枚ぶんの厚みを挟んだ響きでまだ呼んでいる。
口の中が乾いていた。
お母さん、と。
喉のいちばん浅いところまで、その音が上がってきている。声はこんなにも母なのだ。ごめんなさいも会いたいも、あの日のことも、ほんとうはぜんぶ言いたいのだ。言って、赦されたいのだ。
——返事はしなくていいからね。
夕方の、あの5秒を思い出す。
しなくて、いい。しないでいい理由を、母がもうくれている。
かわりに、聞かせるものがある。
わたしは立ち上がって、台所の電気をつけた。
冷蔵庫を開ける。玲奈が押し込んでいった卵とネギと豚肉。まな板を出すと思ったより大きな音が鳴って、心臓が跳ねた。かまわない。鍋に水を張る。蛇口の水が鍋底を叩いて、たまっていくにつれて音の高さが変わる。
声はまだなにか言っている。
聞き取らないことにした。意味を拾えば、応えたくなる。だから意味の外へ出す。冷房のうなりや蝉と同じ側へ押し出して、ただの夜の音にしてしまう。
コンロの火がぼっ、と立つ。
ネギを刻む。トントン、と不揃いに。青い匂いが立って、指先に汁が染みる。玲奈のおばあちゃんのタタタタタにはとても届かない。不揃いでいい。生きてる音に、上手いも下手もない。
湯が沸きはじめる。鍋の底から細かい泡が立ちのぼって、水面が崩れて、白い音に変わる。
換気扇を回す。低い羽根の音が天井のあたりの空気をかき混ぜる。母がいた頃、夜のこの台所にはいつも音の層があった。いちばん下に換気扇、そのうえに包丁、いちばん上に母の鼻歌。いまはいちばん上だけがない。ないままでいい。鳴らせる音をぜんぶ鳴らす。
その音の向こうで声が遠くなった。
気のせいじゃない。響きから厚みが抜けて、平たくなって、スピーカーの奥のさらに奥へ退いていく。廊下から、箱の中へ。箱の中から、電波も届かないような暗い遠さへ。
生きた音が鳴っているあいだ、この部屋のどこにも、応えを差し込む隙間がない。
わたしはスマホを取って、玲奈を呼び出した。
呼び出し音が2回、4回。こんな時間だから、出なくてもいい。こちらから誰かを呼ぶ音は、鳴っているだけで生きている側の音だ。
6回目で玲奈が出た。
「……みさき? どしたの、こんな時間に」
「しゃべらなくていいから」
自分の声が思ったよりまっすぐで、すこし笑いそうになった。
「切らないでいて。いまから晩ごはん作るから、音だけ聞いてて」
電話の向こうで玲奈はなにかを察したのか、察さないでいてくれたのか、「はいよ」とだけ言った。それきり、向こうの音がする。ベッドのきしみ、小さくつけたテレビ、炭酸の開く音。
途中で一度だけ、玲奈が小さく「うまそうな音」とつぶやいた。しゃべらなくていいと言ったのに。でもそのひとことは、回線のこちら側の夜を確かに温めた。
こっちでは湯が煮立って、豚肉を落とすと白くにごって、卵を割る音と菜箸が丼を打つ音が重なった。
ふたつの部屋の生活の音が、回線の上で混ざり合う。
あの声はもう聞こえない。
蝉が鳴きはじめるまで、わたしは音を絶やさなかった。
——それから、季節がひとつ変わった。
着信履歴にはいまもたまに「お母さん」が並ぶ。つながらないはずの番号から、思い出したように。
出ない。
でも消さない。
夜は台所に立つ。たいてい玲奈と回線をつないで、しゃべる日もあれば、音だけの日もある。
母の14秒はいまも端末に入っている。再生するのは日の高いうちだけと決めた。切れる音まで、毎回ちゃんと聴く。
あの声を最後に聴いたのはあの夜だ。意味を拾わないと決めていたのに、最後のひとことだけは、耳が勝手に拾ってしまった。生きた音に押されて遠く細くなりながら、糸の切れる間際にあれはこう言った。
「ごはん、ちゃんと食べてるね」




