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もうひとつの不完全な攻略本

「……はぁ、はぁ、はぁ……」


 マークフレア公爵邸、自室の扉を閉めた瞬間、リーネはその場に力なく崩れ落ちた。

 学園での野外学習が終わってから数時間。彼女を待っていたのは、英雄に対するそれと同等の熱狂だった。


「素晴らしいですわ、リーネ様! あの赤い幾何学的な炎、あれこそ真の魔導の極致!」


「『赤三角形レッドトライアングルのリーネ』……! なんて気高く、それでいて破壊的な響きかしら!」


 耳を塞ぎたくなるような称賛の嵐。

 リーネはひたすら、引き攣りそうになる頬を必死に持ち上げ、扇子で口元を隠しながら「おーっほっほっほ! 当然ですわ!」と笑い、全方位に慈愛の微笑みを振りまき続けてきたのだ。

 肉体的な疲労よりも、精神的な摩耗が限界を超えていた。


「……三角形。……赤三角形。……わたくしは、火を出したかっただけなのに……!」


 這うようにして、いつもの隠し場所から『異世界完全攻略本・下巻』を取り出す。

 見れば、本はかつてないほどに神々しく、ぼんやりとした黄金の光を放っていた。嫌な予感しかしない。


 リーネがおそるおそる、震える指で最新のページをめくると――そこには、墨痕鮮やかに、新たな『成功の歴史』が刻まれていた。


『成功ログ:【魔術開眼・防衛成功】』

『赤三角形のリーネ――炎を極限まで抽象化した「赤三角形」のイメージを具現化する、全く新しい新機軸の召喚魔法に開眼。卑劣な悪党の撃退と、大勢の同級生たちの防衛に成功する。この魔法は後に「マークフレアの鋭角」と称えられ、魔導史を塗り替える一歩となった』


「ちゃうねん!!!」


 公爵令嬢にあるまじき絶叫が、無人の自室に響き渡った。


「火を出そうとして失敗しただけですわ! ただの! 凡ミスですわ! どうしてこんな仰々しい設定を盛られなければなりませんの!?」


 リーネは頭を抱えてベッドをのたうち回った。

 彼女にとって、あの赤い三角形は、思い出すだけで顔から火が出るほどの黒歴史である。

 それを「新機軸の召喚魔法」などと持ち上げられるのは、公開処刑に他ならない。


 さらに、絶望的な事実がその下に書き加えられていた。


『追記:この偉業は公爵家の家宝たる本巻に永久保存され、数百年の時を超えて子孫に語り継がれる名誉となるであろう』


「ひっ……、あ、あああ……っ!」


 永久保存。家宝。子孫。

 つまり、自分が死んだ後も、マークフレア家の子供たちはこの本を開くたびに、「ああ、ご先祖様のリーネ様は、あのダサい……いえ、独創的な赤い三角形をドヤ顔で飛ばした方なのね(笑)」と語り継ぐことになるのだ。


「ううぅ〜! このわたくしが、どうしてこんなミスを……! 一生の不覚ですわ! もうお嫁に行けませんわーっ!」


 リーネは天蓋付きのベッドに飛び込み、シルクのシーツをめちゃくちゃにかき乱しながらバタバタと悶え苦しんだ。

 子孫たちが「わが先祖には、赤三角形のリーネという偉大な魔法使いがいてな……」などと語り継ぐ姿を想像し、彼女は魂が抜けかけるほどの羞恥心に悶絶した。

 完璧主義者の彼女にとって、この「成功という名の黒歴史」は、どんな敗北よりも耐え難い屈辱だった。


 しばらくシーツの海で溺れていたリーネだったが、ふと、下巻のページがさらに更新されていることに気づいた。

 自分のログのすぐ下。まるで対比させるかのように、見慣れない名前と共に新たな一文が浮かび上がっていたのだ。


『【クエスト成功】冒険者カイル――古代遺跡探索クエスト完了。数多の罠を潜り抜け、伝説の財宝を発見。絶望的な状況下からメンバー全員を生還させるという、驚異的な成功を収める』


「……この人!!」


 リーネはガバッと起き上がり、その名前を睨みつけた。異なる色の瞳が、同時に激しい嫉妬の炎を宿す。

 カイル。

 彼女が見たことも、聞いたこともない相手だ。

 なぜ遠く離れた場所にいる彼の動向が、この下巻にリアルタイムで更新されるのか。今のリーネには知る由もないが、一つだけ確かなことがあった。


「また……! また成功していますわ! この男……!」


 リーネが見ているのは、カイルの『成功ログ』だけだ。

 その裏で彼がどれほど無様に失敗し、泥をすすり、鼻水を垂らしながら「攻略本(上巻)」の緻密な読み込みで地道に成果をあげているかなど、彼女は露ほども知らない。

 彼女の目に映るのは、常に華々しい結果を出し続ける「完璧な冒険者カイル」の幻影だけだった。


「どうして……どうしてこの人は、何回も何回も何回も、こんなに鮮やかに成功して……! わたくしなんて、三角形で手一杯だというのに! きぃ〜〜〜っ! くやしいですわぁ〜〜〜っ!!」


 リーネはギリギリと歯噛みしながら、カイルの名が刻まれたページを指で力一杯叩いた。

 

 自分はこんなに努力して、こんなに「完璧」を演じて、それで手に入れたのは「赤三角形」という消したい過去だけ。

 対して彼は、どこかで涼しい顔をして財宝を見つけ、本に出てくる英雄のように仲間を救っている。

 その対比に、リーネのプライドは激しく燃え上がった。


「どこの誰かは存じませんが、このカイルという男、わたくし、絶対に負けませんわよ!

 見ていなさい、次こそは三角形ではない、本物の、最高にクールな成功をこの本に刻んで差し上げますわ!!」


 深夜、豪華なベッドの上で拳を突き上げ、見えないライバルに宣戦布告するリーネ。

 その決意とは裏腹に、彼女の指先が無意識のうちに、シーツの上で『完璧な三角形』をなぞっていたのは、もはや呪いと言っても過言ではない、努力の弊害であった。

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