下巻の継承者
一方、カイルたちが焚き火を囲んで盛大な「失敗のなすりつけ合い」に興じていたその頃。
豪奢な公爵家の自室にて、リーネはひとり、孤独な戦いを繰り広げていた。
「……ふぅ。今夜も、わたくしだけの秘密の時間がやってまいりましたわ」
部屋の鍵を二重に閉め、カーテンの隙間がないことを確認したリーネは、ベッドの上で恭しく『異世界完全攻略本・下巻』を広げた。
金色の箔押しが施された表紙は、月明かりの下でさえ「わたくしを持てば億万長者ですわよ」と主張するような、嫌味なほどの輝きを放っている。
カイルたちの持つ古びた上巻とは対照的に、この下巻は常に眩い光を放っている。ページを開けば、そこにあるのは「栄光」と「成功」の歴史だ。
『成功ログ:賢者マギステル。全属性魔法の極致に到達。秘訣は「世界を愛し、魔力と対話すること」』
「……抽象的すぎて、さっぱりわかりませんわ」
リーネは小さく溜息をついた。
この本に書かれているのは「勝者が残した結果」ばかりだ。過程が飛躍しすぎていて、凡人が真似をしようとすると、往々にして足元をすくわれる。
だが、完璧主義者の彼女にとって、この本は唯一の拠り所だった。
外では「文武両道の完璧な令嬢」を演じ、父の前では「成功の権化」のような顔をしているが、その実態は、毎夜この本に記された「成功者の手記」を必死に読み込み、必死にメモを取り、必死に自分のものにしようと足掻く、努力の塊のような少女である。
「そんなことより、今はこれですわ。……火の魔法の項目を……」
リーネが血眼になって探しているのは、初等魔法の成功例だった。
近々、王立魔法アカデミーで野外学習が予定されている。
そこではじめて、クラスメイトたちの前で魔法の実技を披露しなければならない。
「ぜったいに失敗したくない……。みんなを失望させたくない……。わたくしが『攻略本』を持っているのに、無様に火をくすぶらせるなんて、あってはならないことですわ!」
拳を握りしめ、必死にページを繰る。
すると、あるページに今まで見たこともないほど輝く金文字が躍った。
『成功ログ更新:賢者ノルン。火の魔法の画期的な発動方法を開発』
「……ノルン様!?」
リーネは息を呑んだ。
賢者ノルン。1000年前、伝説の勇者のためにこの異世界完全攻略本を作り、共に魔王を封印したパーティの一員であり、今なお人知れず存命しているとされる伝説の魔術師だ。
(そうですわ、この本は、もともと勇者とそのパーティのために作られたアイテム……。
持ち主の命が続く限り、その者の成功を記録し続けるのですわ……!)
伝説の人物のログが「リアルタイムで更新」されている。これはとてつもない情報だ。リーネは食い入るようにその文字を追った。
『初心者は具体的な火をイメージするのが難しい。
燃え上がる炎、揺れる火種……それらは形が定まらず、魔力の焦点がボヤけがちだ。
そこで代わりに、簡単な【赤い三角形】をイメージするといい。
まずはその三角形に、熱い色をじわじわと塗っていく。
指先にじりじりと熱さが感じられるようになったら、その延長で、脳内に超リアルな火をイメージする。
……ほら、簡単だろう?(追記:この方法でわたくしの弟子は一分で火を出した)――賢者ノルン』
「三角形……。熱い色を塗る……。なるほど、理にかなっていますわ!」
リーネは目を輝かせた。さすがは伝説の賢者。
凡庸な教師が教える「火の精霊に祈れ」だの「心の中に熱い情熱を」だのといった抽象的な教えとは一線を画している。
リーネはベッドの上に胡坐をかき(令嬢としてはあるまじき姿勢だが、背に腹は代えられない)、精神を集中させた。
「イメージしますのよ。……まずは、赤い三角形……」
脳裏に、鮮やかな赤の正三角形を描く。
そこに、マグマのような、あるいは太陽のような「熱い色」を、筆で塗るように一色ずつ塗りつぶしていく。
じり……。
じりじり……。
リーネの指先に、かすかな熱が宿り始めた。
「……っ! すごいですわ! 本当に熱を感じます! さすがノルン様、これならわたくしも、野外学習で完璧な大火球を――」
期待に胸を膨らませ、リーネは次の記述を読み進めた。
『……あとは、その感覚を維持したまま、網膜の裏に本物よりも本物らしい「超リアルな火」をイメージし、魔力を一気に解放するだけだ。
薪が爆ぜる音、酸素を食らう匂い、空気の揺らぎ……それらすべてを完全再現すれば、あとは勝手に火が出る。』
「…………」
リーネは、静かに本を閉じた。
そして、天井を見上げて、蚊の鳴くような声でツッコミを入れた。
「……その『超リアルな火』をイメージするのが、一番難しいと言っているのですけれど……?」
三角形まではよかった。三角形までは、素人でもなんとかついていけたのだ。
だが、そこから先がひどい。
「描いた円の中に、細かいディテールを書き込みましょう。ほら、リアルな梟の完成です」
という、あの有名な絵画の描き方動画のような理論の跳躍がそこにはあった。
「天才の成功ログというものは……! いつもそうですわ! 大事な『中間のプロセス』を、すべて自分の才能で埋めてしまわれますのよ!」
リーネは枕を拳でポカポカと叩いた。
ノルンにとって「リアルな火のイメージ」など、呼吸をするより簡単なことなのだろう。
なんせ水道もガスもない時代の人だ、自力で火がおこせないと生きていけない。
だが、温室育ちのリーネにとっては、その飛躍こそが最大の障壁なのだ。
「……でも。でも、やるしかありませんわ。わたくしには、この『下巻』しかないのですもの」




