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勇者と魔王

 魔王の右手に握られた大剣が、黒い霧を吹き出した。

 刀身の表面を闇そのものが這い回る漆黒の剣。

 そして左手には、七つの枝がそれぞれ異なる属性の魔力を帯びた七支刀。

 右手で攻め、左手で守る。二刀の魔王が、玉座から降り立った。


 カイルの脳裏で、失敗ログが応答する。

 だが漆黒の剣に関する記録は、文字として読み取れなかった。

 はたして文字なのか、これは。

 情報は確かにある。膨大な量が、ある。

 だが多すぎて、一つ一つを言語として処理できない。

 ただ身体の奥底に、ざわめきのようなノイズの塊がある。


 最初の一太刀で、カイルは理解した。

 冥剣の横薙ぎを上体を反らして躱した——つもりだった。

 黒い霧が刃の軌道よりも広く拡散し、左腕をかすめる。


 瞬間、左腕の感覚が消えた。

 痛みではない。痛みすら感じない。重さも温度も、一切の情報が途絶した。


 ——触れただけで、感覚を奪う剣。


 二撃目で右足の感覚が消えた。三撃目を受けた瞬間、世界から音が消えた。四撃目で匂いが消えた。


 五感が、一つずつ削られていく。

 残された感覚は、視覚と、剣を握る右手の触覚だけ。


 魔王は容赦なく詰めてくる。冥剣の一振り一振りが感覚を奪い、七支刀があらゆる属性攻撃を弾き返す。

 完璧な攻防。創世の時代から磨き上げられた戦闘の完成形。


 だが——カイルは死んでいなかった。


 音のない世界で、三歩下がった。

 なぜ三歩なのか、分からない。考えてもいなかった。だが身体がそう動いた。直後、さっきまで立っていた場所を冥剣が縦に両断した。


 匂いのない世界で、左に跳んだ。

 なぜ左なのか、分からない。だが右側の石床を七支刀の属性光が薙ぎ払うのが視界の端に映った。右に跳んでいたら、死んでいた。


 これまでの旅で、カイルは無数のモンスターとの戦いを経験してきた。そのたびに、膨大な失敗ログの中から「これが正解だ」という一手を導き出してきた。理由を言葉にできた。なぜその行動が最適なのか、ログを参照して説明できた。


 だが、今は違う。


 魔王との戦闘記録は、モンスターとの比ではなかった。

 何億、何十億という失敗が、意識で処理できる限界をとうに超えている。

 一つ一つのログを読み解く余裕はない。最適解を導く計算式すら組み立てられない。


 ただ——身体が、動く。


 何十億もの「こうしたら死んだ」が身体の底に沈殿し、意識を介さず筋肉を直接動かしている。

 この記憶は、本当に勇者だけのものなのか。

 だとしたら魔王と勇者は、いったい何世紀戦い続けてきたというのか。

 なぜこう動くのが正解なのか、カイル自身にも分からない。

 分からないが、死なない。理屈抜きの、途方もない試行回数だけが生んだ経験則。


 魔王の最適解を、カイルの身体がすり抜け続ける。


 魔王の表情に、困惑が浮かんだ。


 手順は完璧なはずだ。五感を一つずつ奪い、退路を塞ぎ、確実に追い詰めている。

 なのに——このかわし方は何だ。

 人間の判断速度ではない。

 読まれているのとも違う。まるで、正解だけが身体に焼きついているかのような、不可解な回避。


 ——もういい。


 冥剣は闇の気配を膨らませ、最後に勇者の視覚を封じた。

 世界が無感覚の闇に埋め尽くされる。

 その中心で魔王は、二本の剣を交差させた。


 冥剣と七支刀の刃が重なった瞬間、交点から爆発的な魔力が噴き上がった。

 闇と七色の光が螺旋を描いて絡み合い、玉座の間を震わせる。


 「——『合刃』」


 1000年の殺し合いの果てに辿り着いた、魔王のたった一つの必勝の型。

 冥剣が五感を奪い尽くした敵に、七支刀の全属性を束ねた極光を叩き込む。

 あらゆる攻撃の中で、最も勇者を殺した技。


 1000年前、この技は不発に終わった。勇者を仕留めきれなかった。


 だが魔王は、あの失敗から学んでいた。あの時よりも魔力の集中を高め、タイミングを詰め、発動条件を完璧に整えた。1000年前の失敗を二度と繰り返さないために。


 闇と光の極光が、カイルに向かって放たれた。

 絶対不可避。五感の大半を失い、回避能力が著しく落ちた状態で、この技を躱した勇者の記録は存在しない。

 カイルの身体が、動いた。


 考えていなかった。

 エネルギーの塊のような極光の中に、剣を突き立てた。


 なぜそうしたのか、分からない。

 なぜそうすれば生き延びられるのかも、分からない。

 ただ右手が勝手にその角度を選び、その力加減を選び、その瞬間を選んだ。何十億回の死が弾き出した、言語化不能の一手。


 カイルの剣が、闇と光の螺旋の中心に突き刺さった。

 合刃の極光が――弾けた。


 螺旋がほどけ、闇と光が分離し、制御を失った魔力が四方に飛散する。衝撃がカイルと魔王の双方を襲い、互いに大きく吹き飛ばされた。


 だが、カイルの身体は止まらなかった。


 ……見える!


 冥剣の闇が一瞬ゆらぎ、視覚がうっすらと戻ってきた。

 暗闇の向こうに体勢をくずす魔王がぼんやりと見える。


 吹き飛ばされながら、地面に足をついた瞬間、そのまま前に踏み込んでいた。合刃が弾けた直後の、魔王の体勢が崩れた一瞬。そこに、剣を振り抜いていた。


 これも、理由は分からない。ただ身体が、そうした。


 カイルの剣が魔王の身体を裂いた。


 ――浅い。


 魔王は、咄嗟に七支刀を盾にして致命傷を避けていた。

 1000年前と同じ展開を、今度は想定していた。

 合刃が崩された場合の保険として、防御への移行を1000年前よりも速くしていた。前回の失敗から学んだのだ。


 大ダメージは免れた。だが、確かに血が流れている。

 魔王は体勢を立て直しながら、目を見開いた。


「——なぜだ」


 合刃は必勝の技だ。両の剣の出力が完全に調和した時、あらゆる防御を貫き、あらゆる回避を許さない。1000年前の失敗から学び、今回こそ万全の状態で放ったはずだった。


 なのに、弾かれた。前回と同じように、仕留めきれなかった。


 魔王は、右手に目を落とした。


 冥剣の柄に、亀裂が走っていた。


 漆黒の装飾の下、芯材が縦に割れかけている。刀身は無事だった。闇を纏う刃は、1000年前と変わらぬ禍々しい輝きを湛えている。だが——柄が、割れていた。


 合刃は、冥剣と七支刀の出力が完全に均衡した時にのみ成立する技だ。二つの剣が等しい力で共鳴し、攻防の調和が極限に達した時、あらゆるものを貫く極光が生まれる。


 片方の出力が落ちれば、調和は崩れる。

 魔王は、冥剣を見つめた。


「そうか。お前も――吾輩の戦いについて来れなかったか」


 怒りではなかった。責めてもいなかった。

 1000年を共にした剣への、惜別の言葉だった。


「……おい」


 五感の大半を失ったまま、カイルは声を出した。自分の声が正しく発せられているかも分からない。だが、かろうじて残った視覚が、魔王の手元の亀裂を捉えていた。


「前は剣を手入れする手下がいただろ。あいつはどうしたんだ」


「ふん、追放したわ。あの役立たずめが」


 魔王は、さも当然のことを言うように吐き捨てた。


「それからは外の業者に出しておったが、1000年も経てばそんなものはなくなっておる。……忌まわしい話だ。そもそもお前たち勇者が休みなく攻めてくるせいで、定期検査に出す暇もなかったのだ」


 勇者のせいにした。


 本気でそう思っている顔だった。


 カイルは、口を閉じた。


 それ以上は、何も言わなかった。

 魔王は、右手をゆっくりと開いた。

 冥剣が石床に落ちた。亀裂の入った柄が接地の衝撃で乾いた音を立て、ぱきん、と割れた。刀身が柄から外れ、石床を滑る。拠りどころを失った闇が刃の表面から剥がれ、霧となって消えた。

 刃は最後まで無傷だった。


 壊れたのは、刃と振るう者を繋ぐものだった。


 冥剣の闇が消えたことで、カイルの失われた感覚が戻り始めた。


 左腕に、じわりと熱が戻る。右足に石床の冷たさが蘇る。遠い水底から浮かび上がるように音が滲み――自分の荒い呼吸と、崩れた石片の落ちる音が聞こえた。鼻腔に、焦げた魔力と血の匂いが流れ込む。


 最後に、視界が晴れた。

 目の前に、七支刀一本を構えた魔王が立っていた。


 カイルは深く息を吸った。空気が肺を満たした。全身が痛い。どこもかしこもボロボロだ。だが——全部、感じる。痛みも、疲労も、血の味も、全部。


 自分は、ここにいる。


 そして――さっき自分を生かしたものが何だったのか、まだ分からない。なぜ合刃を弾けたのか。なぜあの一撃を入れられたのか。言葉にできない。ただ、身体の奥底にまだあの感覚が残っている。


 分からないまま、それでも、生きている。

 魔王が、静かに口を開いた。


「来い、勇者」


 七支刀の七つの枝が属性光を帯びて輝く。

 残る剣は、一本。だがその構えに、迷いはなかった。すべてを失ってなお、最後の一本を握って立つ魔王の姿には、孤独な王の矜持だけが残っていた。


 カイルは、剣を構え直した。


 「——ああ」


 一歩を踏み出した。

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