魔王の使徒
魔王の使徒は、漆黒の翼を広げて空を飛んでいた。
(……妙だな)
西の王国を攻めるのはたやすかった。
もともと古代種が滅んだあとに生まれた、平和な時代の平和ボケした国だ。
王城は古代種に対する備えなどまるでしておらず、サイクロプスに城壁を蹴破られ、上空からワイバーンのブレスを吹き込まれただけで、あっけなく陥落した。
あとは地方に領主の城がちらほらとある。逃げ惑うアリをつぶしてまわるような作業となるはずだった。
(ワイバーンがやられている……? いったい何があったのだ)
自分の魔力を分け与えたモンスターが死ねば、その異常を感知することができた。
ひょっとすると古代の対空砲のような兵器を隠し持っていた城でもあったかもしれない。
だがワイバーンが滅んで700年だ。
対ワイバーン用の砲台を、すぐ撃てる状態で整備し続けている物好きが、一体どこにいるというのだ。
魔王の使徒は、その城の周囲だけ、こちらの兵力の減りが早いことに気づいた。
いや、その城だけではない、隣の城、そしてその隣の城。次々と伝播していく。
これは……この広がり方は……。
『情報』だ。
「バカな……『写本』はこの私がすべて秘密裏に処分したはずだ……!
あらゆる身分の人間に憑依し、1000年をかけて、残さず……ッ!
今の人間に古代種との戦闘方法を、ここまで早く開発できるはずがない……!」
そのとき、魔王の使徒は気づいた。
賢者ノルンが作ったというアイテム、『異世界完全攻略本』。
ログは時間が経てば自動的に消えるとされていた。だからこそ、人間たちは『写本』を作る必要があったのだ。
……もし、それがただの見せかけだったとしたら?
「……あの老いぼれめぇ~ッ! たばかったな……ッ!」
魔王の使徒は、全速力でその城へと向かった。
『情報』がこれ以上拡散する前に、根絶しなければならない。
急ぐ彼の目に、金色の髪をなびかせる、少女の剣士の姿が映った。
燃えるような深紅の右目と、涼しげな蒼金の左目を持つ少女。
彼女は腰から二冊の本を提げている。ボロボロの表紙の本と、金の表紙を持つ本だ。
これ見よがしに『異世界完全攻略本』を装備しているらしい。
「……ちッ、もう『写本』を作ったあとか……ッ!」
恐らく、各地の城に出回っているのは、古代種に対する有効な戦略だけを抜粋した『断片』だろう。
すべての情報を書き写す時間はなかったはずだ。
最も重要なのは、魔王との戦いに関する核心的な情報。
この本だ。
この本を破壊しなければ、不安要素を残したままであの魔王が軍を貸し続けてくれるはずがない。
そのとき、少女――リーネの上空に、真っ赤な三角形が浮かび上がった。
『赤三角形のリーネ』の名のもとになった、巨大な三角形のシンボルだ。
「ばっ……ばかな……」
上空に現れたそれは、ただの幻影ではなかった。
はっきりとした質量と、電熱線のような熱を持って、上空からゆっくりと落ちてくる。
機動力のかなめであるワイバーンがその三角形の熱に焼かれ、燃えながらぼとぼとと地面へ落ちてゆく。
移動に船も馬車も使わず、飛行能力をたのみとしていた魔王軍は、一瞬にして大打撃をこうむった。
どうやらリーネは、かつて「失敗魔法」と嘲笑された赤三角形を改良し、実戦的な攻撃魔法へと昇華させていたのだ。
「わたくし、自分の失敗を見つめなおすことにしたんです……もう失敗から逃げない、誰よりもたくさんの失敗を抱えている勇者様に、一歩でも近づくために……!」
すさまじい熱量を誇っていた赤三角形は、上空から城の屋根まで接近したあたりで、味方を巻き込む前に役目を終えたかのように消滅した。
弓のような心もとない対空兵器を構えていた城の兵士たちは、上空を飛び回っていた魔物がすっかり消え、あたりをきょろきょろと見回していた。
あとは地面にいるオーガやゴブリンといった種族のみとなった。
こういった地を這うモンスターなら、近代種を相手にいやというほど経験を稼いでいる一般兵や、対人戦しかできないマニュアル騎士でも、どうにか対応できるはずだ。
「すごいぞ、嬢ちゃん!」
「赤三角形のリーネさまだ!」
「あとは任せろ! 空を飛ばれなきゃ、一匹ずつ囲い込めばなんとかなる!」
兵士たちは勢いづき、帰る術を失った地上のモンスターたちを攻め立て、城から追い払っていく。
こうして、ひとつひとつの城を開放していったリーネ。
彼女の持っていた『下巻』に、大量の討伐成功ログが浮かび上がる。
『ワイバーンの討伐成功』
『キマイラの討伐成功』
『ダークフライの討伐成功』
『マッドクロウの討伐成功』
……。
足りない。
魔法を撃つ前に確認した、上空に浮かんでいた影。
最低でも五つはあったはずだ。
(まずい、撃ち漏らした……!)
リーネは、周囲に鋭い目を光らせた。上空にモンスターの姿はない。
「逃げて! まだ生きているのがいる……ッ!」
その叫びと同時だった。
瓦礫の間で燃え盛る炎を突き破って、不気味な黒い影が伸びてきた。
リーネは反射的に剣でその影をはじいた。鋼のように固いその黒い影は、どうやら見たこともない異形のモンスターの腕だった。
全身が黒光りして、昆虫とも深海の生物とも違う、左右に雲形定規のように伸びた、まったく理不尽な形。
ある日突然、空から降って来たという逸話があるが、まさにそうとしか形容しがたい化け物――魔王の使徒が、その真の姿を現していた。
「やれやれ……魔王様にいただいた力の三分の一も使ってしまいましたよ……」
魔王の使徒は、体の器官を貝のようにぱくぱく開いて、不快な音を放った。
のしのしと、威圧感を放ちながらリーネに向かって歩いてくる。
「これは、私の責任ですね……まさか裏にこんな策があろうとは。
私がもう大丈夫だと言って、魔王様に無理を言い、侵略を始めてしまった……。
ですが、相手が一体なんであろうと……ッ! 私が『成功』すると言った以上……『失敗』は許されないのですよ……ッ!」
魔王の使徒の気配が一気に膨らみ、夕闇のようにリーネに襲い掛かった。
リーネは凛とした表情で剣を構え、その異形と真っ向から対峙した。
「来なさい……伝家の宝刀『デルタスラッシュ』の餌食にして差し上げますわ」




