勇者という男
光が晴れた。
足元に、荒れた草地の感触が戻ってくる。真っ先にに鼻を突いたのは、煙の匂いだった。
「……ッ!」
リーネは目を見開いた。
眼前に広がるのは、赤く染まった空と、黒煙を上げる城塞群。
遠くの王城がある方角は、もはや煙しか見えない。
上空には、翼を広げた巨大な影がいくつも旋回していた。
「ワイバーン……こんなにたくさん……」
古代種にして空の王。教科書でしかその名を知らなかったリーネにとって、それは絵本の中の怪物が現実に溢れ出したかのような光景だった。
そのとき、上空のワイバーンの一匹がこちらに気づいた。
翼を翻し、急降下してくる。
風圧が髪を叩く。
リーネが剣を抜こうとした、その瞬間――
銀光が走った。
カイルがいつの間にか前に出ていた。地を蹴った気配すら感じさせず、ただ一閃。
ワイバーンの翼が付け根から断たれ、巨体が悲鳴をあげながら左へ錐揉みに墜ちていく。
「右の砦に駆け込め」
カイルは剣を振り払いながら、短く言った。
「え……で、でも、どうしてですの? 左のほうが近く――」
「ワイバーンは左に旋回する。翼を斬られた個体も、墜ちるときは左に流れる。いまなら右が安全だ」
その言葉は、まるで天気予報でも読み上げるかのように淡々としていた。
だが、リーネはその一言に込められた情報量を瞬時に理解した。
これは経験則ではない。ワイバーンという種の生態を完全に把握した者だけが持つ、『知識』だ。
「……っ、はい!」
リーネは攻略本を抱え直し、右の砦へ向かって駆け出した。
振り返ると、カイルはすでにノルンの隣に戻っていた。
賢者の杖が再び光を帯び、次のワープの準備が始まっている。
「リーネ」
カイルが、背を向けたまま言った。
「お前の仕事は、戦うことじゃない。あの本を届けることだ。……頼んだぞ」
光がふたりを包み、そして――消えた。
残されたのは、煙と、炎と、遠くのワイバーンの咆哮だけだった。
(…………勇者様)
リーネは、カイルが立っていた場所をじっと見つめた。
草が、一歩ぶんだけ踏み倒されている。大きい靴だ。
(あのワイバーンの動きを一目で読み取り、わたくしの安全な退路まで瞬時に割り出す……なんという方なのかしら……っ!)
頬がかっと熱くなるのを感じた。
(いけない、いけませんわ。いまは任務に集中しなくては……でも、あの横顔、あの剣筋、あの声……っ!)
限界だった。
リーネは走りながら、真っ赤になった顔を両手で覆い――しかし両手にはそれぞれ攻略本が握られているので、結局、本で顔を挟む格好になった。
そのまま、ぱたぱたと不格好に砦へ向かって駆けていく。
***
砦の帷幕の中は、沈黙に満ちていた。
地図の上に並べられた駒は、そのほとんどが倒されている。
王城の陥落。主要街道の寸断。
上空を支配するワイバーンの群れによって、城と城の連絡すら途絶えつつあった。
「……もはや、打つ手はないのか」
砦の隊長――顎に古傷のある壮年の騎士が、低く呻いた。
歴戦の将である彼にしても、空を飛ぶ敵との戦いは未知の領域だった。
この700年、ドラゴンの襲撃などなかったのだから。
将校たちも押し黙っている。誰もが、次に来る言葉――撤退か、降伏か――を待っているようだった。
「隊長、せめて民の避難だけでも――」
「避難してどこへ行く。空から追われるのだぞ。逃げ場などない」
重い言葉が、帷幕の空気をさらに沈ませた。
そのときだった。
帷幕の幕が、勢いよくめくり上げられた。
「――諦めないでください! わたくしたちには、『攻略法』がありますわ!」
飛び込んできたのは、金色の髪を振り乱した少女だった。
息を切らし、頬を紅潮させ、両腕に二冊の本を抱えている。
燃えるような深紅の右目と、涼しげな蒼金の左目。
将校たちが一斉に腰の剣に手をかけた。
「何者だ! ここは軍の帷幕だぞ!」
「失礼いたします……っ! マークフレア公爵家の息女、リーネと申します!」
肩で息をしながらも、リーネは背筋を伸ばし、公爵令嬢としての名乗りを通した。
マークフレア公爵家。大陸有数の名門の名に、将校たちの手が止まる。
「マークフレア……大陸の、あの公爵家か?」
「なぜ公爵家の令嬢が、この戦場に……」
ざわめきが広がる中、真っ先に声を上げたのは、帷幕の隅に控えていた若い伍長だった。
「ま、待ってください! オッドアイに金髪、マークフレアのリーネ……この方、もしかして『赤三角形のリーネ』様では!?」
帷幕の空気が、一変した。
「赤三角形の……!?」
「新属性の魔法を発明したという……」
「武闘大会でローミング・デルタスラッシュに開眼して優勝した、あの!?」
伍長を皮切りに、若い兵士たちが次々と色めき立つ。
リーネの頬が、みるみるうちに赤くなった。
(こ……ここは外国ですのよ……? なぜ、なぜそこまで話が広まっていますの……!?)
脳裏には、あの日々が鮮明によみがえっていた。
野外授業に向けて、賢者ノルンの開発した『画期的な』魔法の指導方法を実践しすぎた結果、巨大な赤三角形を呼び出してしまったあの日。
武闘大会に向けて、剣聖のアドバイスに従い「ぐわっ」「ぐわーんっ」と敵の気配を読もうとした結果、その奇声が思わず口から漏れ、怯んだ相手を無我夢中で斬り伏せてしまったあの日。
どちらの日も、家に帰ってベッドに突っ伏し、下巻を抱えてばたばたともだえ苦しんだことを、リーネは痛いほど覚えている。
(いつもなら、ここで見栄を張るところですわ。「当然ですわ、おーっほっほっほ!」と笑って、公爵令嬢らしく堂々として見せる……いつもの、わたくし……でも……!)
だが、今日はその一瞬の前に、カイルの背中が浮かんだ。
数え切れない失敗を重ね、死に戻りを繰り返し、そのすべてを一冊の攻略本に書き残した男。
彼は失敗を力に変えてきた。
口には出さないけれど、ポンコツな仲間たちの失敗を愛していた。
失敗を、次の一歩を踏み出すための足場にして、這い上がってきた。
けっして失敗しない、完璧な令嬢になってから仲間になろう、などと言っているようでは、永遠にとどかない。
彼の片翼を担うには、それではふさわしくないはずだ。
(わたくしの赤三角形は、失敗から生まれたもの。武闘大会の勝利も、不格好の極みでしたわ)
(でも……わたくしももう失敗からは、逃げたくない……)
リーネは、拳をぎゅっと握った。
赤くなった顔をこわばらせて、精いっぱい、力を込めて言った。
「……と、と、と、当然……です……わッ!」
声は震えていた。ぎこちなく、不格好だった。
だが――見栄ではなかった。
「赤三角形も、ローミング・デルタスラッシュも! すべて……わたくしの力ですわ! おーっほっほっほ!」
頬は赤い。耳まで熱い。心臓がうるさい。
けれど、嘘ではなかった。
生まれて初めて、リーネは見栄ではなく本心から、自分の過去を肯定していた。
若い兵士たちは、そんな内面の嵐など知る由もなく、ただ純粋に目を輝かせた。
「おお……! 赤三角形のリーネ様が、援軍に来てくださったのか……!」
「こんな絶望的な状況で、あの伝説の……!」
(伝説って何ですの……どこまで尾ひれがついていますの……?)
帷幕が一気に沸き立つ中、ただひとり、隊長だけが腕を組んだまま動かなかった。
「……静かにしろ」
低い一声で、帷幕が凍りついた。
隊長が椅子から立ち上がる。古傷の刻まれた顔には、興奮も期待も浮かんでいない。
品定めをするような、冷たい目だけがあった。
隊長はリーネの前まで歩み寄り、見下ろした。
「名前は聞いた。武勇伝も結構。……で?」
その声には、容赦がなかった。
「お前は、何ができるんだ?」
帷幕が静まり返った。
伍長たちが息を呑む。将校たちの目が、リーネに集まる
この男は、名声で動く人間ではない。
絶望的な戦況の中で部下の命を預かっている指揮官だ。
必要なのは伝説ではなく、目の前の一手だった。
リーネは、その威圧感に一瞬たじろいだ。
だが、すぐに二冊の本を抱え直し、胸を張った。
「こ、この本には、古代種との戦い方が記されていますわ! ワイバーンの弱点、サイクロプスの死角、すべて!」
「本?」
隊長の眉が、わずかに動いた。
「ただの本ではありませんの! これは、ゆ・う・し・ゃ・さ・ま・が――伝説の勇者様が、1000年の時をかけ、命を懸けてお集めになった攻略情報ですわ!
それはそれは偉大な……素敵な……ゲフンゲフン! い、いえ! とにかく! 大変すごいお方が書かれた本ですの!」
リーネは力説した。全力だった。
カイルの偉大さを伝えたい一心で、気づけば声が帷幕中に響き渡っていた。
沈黙が落ちた。
隊長の顔に浮かんだのは、感銘ではなかった。
露骨に、顔をしかめていた。
(……なんだ、このお嬢様は。「わたくしの連れはすごい方ですの」と言って箔をつけたいだけか)
そう言いたげな目だった。
伍長たちも、さきほどまでの興奮がやや冷め、きまずそうに目を逸らしている。
(あ……あれ? おかしいですわ……もっとこう、「おお、あの伝説の勇者の!」となるはずでは……)
リーネの頬が、今度は別の理由で赤くなった。
だが、隊長は黙って手を伸ばし、リーネが差し出した本を取り上げた。
(……どうせ、また眉唾だろう)
この1000年、勇者にまつわる情報は無数に出回ってきた。
『ワイバーンは火に弱い』『サイクロプスは音で操れる』
――そのどれもが、魔王の使徒によって密かに歪められたデマだった。
戦場で鵜呑みにした部隊が、何度壊滅したか知れない。
現代では「古代種の弱点」と称する情報は、兵士の間では与太話の代名詞だった。
だが、隊長の家系は違う。
父から子へ、子から孫へ。
1000年の歳月をかけて、口伝だけで繋いできた正確な知識がある。
ワイバーンの腹鱗第三列に存在する逆鱗。サイクロプスの左踵に走るアキレス腱。
文献には残さず、血筋の中だけで密かに受け継いできた、数少ない真実だ。
(確かめてやる。この本が本物か偽物か、一発でわかる)
もし逆鱗やアキレス腱の記述がなければ、所詮はまたデマの寄せ集めだ。
そう思いながら、隊長は無造作にページをめくった。
1ページ。2ページ。
ワイバーンの項目を開く。腹鱗の記述を探す。
――あった。
『【戦略成功】勇者――ワイバーンの弱点を見つける。
腹鱗第3列、第7鱗のみ逆向きに生える。ここを貫けば一撃で絶命。
ただし飛行中は腹をさらさないため、地上からの狙撃は不可能。(217回目の挑戦で確認)』
隊長の目が、止まった。
(……合っている)
逆鱗の位置。一字一句、口伝と一致していた。
だが、隊長の顔に浮かんだのは感嘆ではなかった。むしろ苦い確信だった。
(やはり、そうだ。弱点がわかったところで、飛んでいる相手の腹を突けるわけがない)
それは隊長の家系が辿り着いた、同じ結論だった。
正確な弱点を知っていても、空から襲ってくる敵には届かない。
知識だけでは、この戦況は覆せない。
だから自分の先祖たちも、口伝は残しながら、ついに勝ち方までは伝えられなかったのだ。
(この本も、同じだろう。弱点の羅列で終わりだ――)
諦めに近い気持ちで、ページをめくる。
次のページ。
隊長の手が、止まった。
「――んん!?」
低い声が、思わず漏れた。
将校たちが顔を上げる。隊長の目が、見開かれていた。
ページに記されていたのは、弱点ではなかった。
『ワイバーン撃墜法①:片翼切断による強制旋回の誘発。左翼を切断した場合、個体は必ず左方向に錐揉み落下する。落下軌道は風速により変動するが、おおむね切断地点から左方30〜50歩の範囲に収まる。この軌道を利用し、地上に杭陣を設営することで――(438回目の挑戦にて体系化に成功)』
隊長は、息を呑んだ。
ぱらり。ページをめくる。
『撃墜法②:群体旋回パターンの崩し方。ワイバーンは左旋回を基本とするが、群れの先頭個体が墜ちると、後続は12秒間だけ散開する。この12秒が唯一の射線確保の好機であり――(602回目の挑戦にて法則を発見)』
さらにめくる。手が震えていた。
『撃墜法③:逆鱗を地上から射貫く方法。上記②の散開時、ワイバーンは体を翻す際に一瞬だけ腹を上空に向ける。このとき仰角およそ70度の位置から放つ矢であれば――(889回目の挑戦にて命中を確認。なお、この射法の完成までに弓を46本折った)』
隊長は、本から顔を上げた。
その目には、先ほどまでの諦観は欠片もなかった。
(驚いた……弱点は、俺の家でも伝えてきた。だが、こいつは――その先を書いている)
逆鱗の位置を知っている……だけの本ではなかった。
飛んでいる敵を、どうやって地上から墜とすか。
墜とした後、どうやって弱点を射貫くか。
そのために戦場をどう作り変えるか。
一人の男が、何百回もの死の果てに、一手ずつ、一手ずつ積み上げた――勝ち筋の設計図だった。
信じられない……。
こんな男がいたのか……。
隊長は本を閉じ、リーネを見た。
先ほどまでの冷たい目ではなかった。
「……勇者とかいうお前の知り合いは」
隊長は、低く、しかし確かな声で言った。
「そうとう、やる男みたいだな」
リーネの目が、ぱっと輝いた。
満面に広がる笑みを抑えきれず、胸を張り、顎を上げ、鼻高々に――
「当然ですわ! カイル様は、世界一の――い、いえ、歴史上最も偉大な――と、とにかく! とてもとてもすごいお方ですの!」
力説すればするほど語彙が崩壊していくリーネを、若い兵士たちが微笑ましそうに見つめていた。
だが隊長は、もう笑っていなかった。
本を地図台の上に開き、将校たちを振り返る。
「全軍に伝令を出せ」
その声は、帷幕の隅々まで響いた。
「まだ戦いは終わっていない」
***
同じ頃。
海を隔てた、とある孤島。
ワープの光が消えると、そこは霧に包まれた岩場だった。
潮の匂いと、それよりも濃い瘴気が、肌を刺すように絡みついてくる。
霧の奥、島の中央にそびえる山の頂に、ぼんやりと黒い影が見えた。
おそらく、あれが魔王の拠点だろう。
「ここまでだな、ノルン」
カイルは前を向いたまま言った。
「……ふむ」
ノルンは杖を握りしめた。
1000年前、魔王を倒したあの日――カイルは帰ってこなかった。
ノルンは、嫌われたのだと思っていた。
完全攻略本という、無限の苦痛を勇者ひとりに背負わせ続けるアイテムを作った自分に、愛想をつかしたのだと。
女神に召喚された彼は、そのまま元の世界に戻って、平穏無事に暮らしているのだ。
そう思っているほうが、まだ気が楽だった。
だが現実は違った。
魔王は女神の加護を攪乱する呪いをカイルにかけていた。
記憶を奪い、元の身体を奪う呪いだ。
勇者は死に戻りの力を奪われ、今なおこの世界のどこかで転生を繰り返していたのだ。
世界中を探して、ようやく見つけたその子供は、何も知らない顔でノルンを見上げていた。
ノルンはその場にくずおれ、ただひたすら謝った。
「すまん……すまんかった……ゆるしてくれ……」
「カイル」
「ん?」
「かならず……かならず、戻ってくるんじゃぞ」
その声は、わずかに震えていた。
1000年前、死に戻りのある勇者には、「戻ってこい」と言う必要がなかった。
だが、今は違う。
今度は、勝って帰ってこいと言える。言わなければならない。
カイルは、振り返らなかった。
ただ片手を上げて、ひらひらと振った。
あの日と、同じ背中だった。
ノルンは、その背中が霧の中に消えるまで、じっと見送っていた。
「……まったく。何年経っても、変わらん男じゃ」
目元をぐいと袖で拭い、賢者は再びワープの魔法を起動した。




