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魔王の使徒

 異世界完全攻略本がその機能を発揮していた、まさにその頃。

『写本』をすべて燃やし尽くした魔王の使徒は、魔王の前にひざまずき、恭しく報告した。


「これで、この世界に残された戦いの記録は、すべて焼却しました……魔王様にあだなすものは、もうございません」


 魔王が恐れた、この世界の唯一の攻略法。

 勇者が死に戻りによって蓄積してゆく膨大な『記憶』は、魔王によって封じられていた。


 だが、世界にはまだ、写本という形で『記録』が残っていた。

 すべての『記録』を燃やし尽くす、という使命を受けて、魔王の使徒はこれまで長年にわたって暗躍していたのだ。


 数百年前には、愚かな王子をそそのかし、「失敗の記録など王家の恥です」などと吹き込み、『上巻』の『写本』をすべて焼却させた。

 残るは『下巻の写本』のみ。

 これらを消失させるのには、時間がかかった。

 なぜなら下巻は成功ログとして有難がられ、世界各地で写本が作られていたからだ。

 内容を書き換え、あるいは戦争を起こして焼き払い、少しずつ、世界から『真実』を消していった。


「……」


 魔王は、静かに、厳かな口調で言った。


「まだ残っておる」


「は? と、言いますと」


「まだ本の内容を『記憶』している者がいる」


 魔王の使徒は、愕然とした。

 いったい、この魔王はなにを恐れているというのか。

 きっと生涯味わったことのなかった唯一の失敗のせいで、極端な潔癖になっているのに違いない。


 ひとつひとつ不安要素をつぶしていっても、キリがない。

 こうしている間にも「あの女」が復活し、第二、第三の勇者を召喚するかもしれないのだ。


 真に魔王の成功を願っている魔王の使徒は、思い切って進言した。


「恐れながら、人間の記憶など、100年以内には自然と風化する、誤差のようなものでございます。

 魔王様のお力の前には、なんの意味もございません。

 軍略に必要となるのは正確な記録ですが、これらはすべて焼却いたしました。

 今こそ、侵略を再開すべきときでございます」


「……」


 魔王は、それでも常人には感じ取れない「何か」を感じているのか、ずっと虚空を見つめていた。

 おなじ不死の存在であるはずなのに、魔王の考えていることが、この魔王の使徒には分からない。


「よかろう……お前に吾輩の力の一部と、軍の指揮権を与える……」


 魔王の指先から、どす黒い光が噴出し、魔王の使徒の身体を包んだ。


「あ、が……ああああああああああッ!!」


 魔王の指先から放たれた闇の奔流が、使徒の器――一人の男の身体を、内側から暴力的に作り替えていく。

 骨が軋み、異常な速度で伸長し、幾度も折れては継ぎ直される。皮膚は硬質化し、深海に潜む甲殻類のような、禍々しい光沢を放つ殻へと変貌を遂げた。

 何世代にもわたって人間を乗り換え、潜伏し続けてきた悪魔の化身にとって、これほどの「力」は数百年ぶりの感触だった。


 溢れ出すのは、千年前の戦場でさえ味わったことのない濃厚な魔力だ。


「……感謝、いたします……魔王様」


 使徒の声は、もはや人間のそれではない。複数の音が重なり合った、金属が擦れるような不快な響きへと変わっていた。

 異様に長く伸びた手足の先には、岩をも容易に引き裂く鋭利な爪が備わっている。フードの下から覗く瞳は、獲物を値踏みする捕食者のそれだ。


「この力……この軍略の権限……。必ずや、魔王様が懸念される『記憶』ごと、この世界を更地にしてみせましょう。記録なき歴史など、ただの白昼夢に過ぎぬことを証明いたします」


 魔王は答えなかった。ただ、深い闇の底に鎮座したまま、再び微動だにしなくなる。

 使徒は恭しく一礼し、玉座の間を後にした。


 広間に一歩踏み出すと、そこには魔王の復活を待ちわびていた闇の軍勢が、ひしめき合うように整列していた。

 影から生まれた魔物たち、かつての敗戦を生き延び、地の底で牙を研ぎ続けてきた古参の魔族。彼らの殺気が、冷え切った城内をさらに凍りつかせる。


 使徒は、長く異形な腕をゆっくりと掲げた。


「これより、侵略を再開する」


 その宣言とともに、魔物たちの咆哮が響き渡った。


「標的は、この世界のあらゆる『知』が集まる場所。そして、我らが主が恐れる『記憶』を保持しうる者たちが集う場所だ」


 使徒の脳裏には、数百年かけて構築してきた人間の勢力図が完璧に描かれていた。

 どの国にどの程度の戦力があり、どの王家が『写本』を隠し持っていたか。

 その情報のすべてを焼却させた今、人間どもに残されているのは、根拠のない伝承と、あやふやな希望だけだ。


「まずは、西の王国からだ。あそこの大図書館には、まだ『写本』の残骸があるかもしれん。念には念を入れよ。紙一枚、記憶の一片すら残さず、すべてを灰にせよ」


 使徒は、自らの内に宿る強大な力に酔いしれていた。

 魔王の慎重さは理解している。だが、自分にはわかる。記録を失い、武器を失い、攻略法を忘れた人間など、家畜を屠るよりも容易い。


「『あの女』が勇者を召喚しようと、無駄なことだ。かつての勇者が死に物狂いで残した足跡は、すべて私が消し去った。次に現れる勇者は、何も知らぬまま、ただ一度の死で終わりを迎えることになるだろう」


 使徒はけたけたと笑い声を漏らした。

 異形の身体を動かし、影の中へと溶け込んでいく。


「さあ、見届けようではないか。記録を失った世界が、どれほど脆く、どれほど絶望に満ちたものになるかを」


 その頃、大陸の各地では、不吉な赤い月が昇り始めていた。

 平和に慣れきった人々は、まだ知らない。

 自分たちが頼りにしてきた「世界のルール」が、すでに魔王の手によって書き換えられようとしていることを。


 侵略の幕は、今、切って落とされた。

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