リーネとカイル
「……嘘でしょ」
燃え盛る屋敷の無残な姿に、リーネの声が震えた。
豪奢だった邸宅は、今や巨大な焚き火と化している。夜空を焦がす火柱は、彼女が積み上げてきた平穏が瓦解した合図のようだった。
爆風に煽られながら、リーネは思い出す。
最後に見た、あの男の背中を。
『いいか、お嬢。何が成功で、何が失敗かなんて、他人の物差しや本なんかに決められるもんじゃねぇんだ』
迫りくる黒装束の男たちを、ステップを踏みながら次々と切り捨て、ラップゴッドは笑っていた。
『正直、その本に「お前は成功者だ」って言われてさ……俺は救われたんだよ。本当は、伝説の勇者の過去ログが見たかったからな……。だが、そんな紙の束より大事なもんが、今の俺にはある』
彼は首のアクセサリーを鳴らし、韻を刻むように言葉を叩きつけた。
『俺の成功は、俺が決める。お前を逃がす。それが今の俺の「成功」へのルートだ!』
それが、彼との最後の会話だった。
リーネは胸元に抱えた『下巻』を強く、折れそうなほど抱きしめる。
「どうなったの……ラップゴッドさん……!」
返答はない。ただ、ゴォォォという炎の咆哮だけが響く。
だが、その時。
手の中の『下巻』が、先ほどよりも一層強く、黄金色の光を放った。
『赤三角形のリーネ――魔王の使徒から異世界完全攻略本・下巻を守ることに成功する』
文字が、ページの上に踊る。
それはいつもの下巻と変わらない。
彼女を成功者とする、無慈悲な事実の記録であった。
「そんな……どうして……わたくし、本当の成功なんて……まだ一度も……してない……のに……」
リーネは瞳に涙を溜め、くやし泣きをした。
「リーネッ!」
美しい下巻を胸に抱え、悄然とするリーネの背後に、声がかけられた。
振り返ると、そこにはボロボロの上巻を腰に携えたカイルの姿があった。
煤に汚れ、息を切らしているが、その瞳だけは冷徹なまでに落ち着いている。
リーネの深紅と蒼金の両目は、涙であふれていた。
いままでだったら、こういうときこそ高慢な態度でうわべを取り繕っただろう。どれだけ心が悲鳴を上げていても、「わたくしとしたことが、少し煤が目に入りましたわ」とでも言って、優雅に微笑んでみせたはずだ。
けれどもリーネがうわべを繕うのは、他人を失望させるのが嫌いだからだ。
理想のお嬢様、完璧な成功者でいなければ、誰も自分を見てくれないと怯えていた。
だが、目の前に立つ青年は違う。
彼は冒険者だ。泥にまみれ、無様に足掻き、それでも一歩を踏み出す強さを知っている。
カイルたちが、弱さを見せたぐらいで決して失望したりしない事を知っている。
なのでリーネは、プライドを投げ捨て、思い切り飛びついて泣くことにした。
「カイルさん……ッ! ラップゴッドさんが、ラップゴッドさんが……ッ!」
「ラップゴッドって誰だ? ラップキング? あいつ進化でもしたのか?」
カイルは、燃え上がる屋敷の方を見た。
生存者がいるかどうかは、ここからでは分からない。崩れゆく邸宅の熱気が肌を焼く。
だが、それ以上にカイルの本能に働きかける、なにか嫌な気配が漂っていた。
かつて自分が、あるいは自分の中にある「何か」が経験したことのある、背筋が凍るような禍々しい魔力の残滓。
「……ここから逃げよう、妙に懐かしい嫌な気配がする。この場所に長居するのは得策じゃない」
「カイルさん……行く前に、これを」
リーネは、震える手で自分の持っていた『下巻』をカイルに差しだした。
その本は、今の彼女に残された唯一の財産であり、命よりも重い家宝だったはずだ。
「……家宝だったんじゃねぇの?」
「……わかったんです、これは、本当の持ち主の所に帰るべきだと」
リーネは、思い出していた。
下巻には、彼女自身の失敗の記録ではなく、なぜかカイルの……一介の冒険者に過ぎない彼のログが、まるで世界の中心であるかのように記載され続けていた事を。
恐らく、攻略本がもともと勇者のために作られたアイテムだったことと、関係がある。
「その本は、持ち主とそのパーティ、そして勇者とその仲間たちのログを、自動的に記録するようになっているんです……。わたくし、あなたの成功ログを毎回見せられて……見せられるたびに、こう、イラっとして……。正直、嫉妬してましたわ……こう、呪いの藁人形とかの成功ログはないかと探したりして……」
「お嬢様がそんな使い方しないで」
カイルが呆れたようにツッコミを入れるが、リーネの表情は真剣そのものだった。
「『写本』には、勇者のログが載っていたんです……焼けてしまう前に、読んでおりましたの。その裏側にある人間を見ようとするほど、読めば読むほど、あなたそっくりなんです。歩き方、判断の癖、そしてその無愛想な性格まで……。カイルさん、そばで見ていて、ようやくわかりました。あなたはきっと勇者の生まれ変わりです」
「俺が? ……勇者の?」
伝説によると、1000年前に女神に召喚された勇者は、不死の力を持っていたという。
何度も何度も死に戻りを繰り返し、膨大な屍の山を築きながら、攻略情報を集積することによって、不可能と言われた魔王を打ち破ったのだ。
だが、勇者がその後どうなったのか、誰も知らない。魔王と共に消滅したとも、どこかで隠居したとも言われている。
カイルは、そんな馬鹿な、と笑い飛ばすことができなかった。
あまりに荒唐無稽なアイデアだった。
だが……思い当たる節がないでもなかった。
上巻に書かれていないはずのログを、まるで未来を知っているかのように幻視したり。
誰のものとも分からない壮絶な戦いの記憶が、脳裏に突然蘇ったり。
ひょっとすると、脳に刻み込まれた勇者の記憶が、再び世界に満ち始めた魔力に呼応してよみがえっているのか。
「俺は……一体なんだ?」
自問するカイルに、リーネは確信を込めて頷いた。
「賢者ノルン様を探しましょう。あの方なら、すべてをご存じのはず」
「賢者ノルン……勇者の仲間で、攻略本を作ったやつか。とっくに生きていないんじゃないか? もう1000年も前の話だぞ」
「いまもログが更新されていますので、生きていると思いますが」
「生きているのかよ!?」
驚愕するカイルの耳に、しわがれた、しかしどこか茶目っ気を感じさせる老人の声が聞こえた。
どこからともなく、といった表現が適切な、空間の隙間から染み出すような現れ方をする老人だ。
「ふぉふぉ、生きておるとも。今生でははじめましてじゃな、カイル」




