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賢者ノルンとの出会い

 その日、カイルはひとり酒場で酒を飲んでいた。


 騒がしい連中がいなくなり、一人になるこの時間が一番心地いい。


 だが、一人になりたいときに限って誰かが声をかけてくるものだった。


「もし……それは『異世界完全攻略本・上巻』ではないかね」


 不意にかけられた震える声に、カイルは顔を上げた。

 そこに立っていたのは、見たこともない老人だった。わし鼻に眼鏡、煤けたボロボロのローブを纏っている。

 だが、その目は酷く鋭く、カイルが常に腰に携帯している『上巻』の表紙に釘付けになっていた。


 カイルは、自嘲気味に口角を上げた。


「ああ……残念なことに、『上巻』の方だ。みんなが欲しがってる、成功の果実が詰まった『下巻』じゃない。……あんたは誰だ? 骨董品マニアか?」


「……そうか、名乗り忘れていたな。わしはノルンと呼ばれている者だ」


 老人は、落ち着いた足取りでカイルの前の席に腰を下ろした。


「ノルンか。賢者ノルンと同じ名前だな……たしか、この攻略本を勇者のために作ったっていう、御大層な伝説の主だ」


「わしがそのノルンだ」


「……まじか。おいじいさん、それじゃあんたは1000歳を超えてるってのか?」


 酒の席のたわごとと言って、鼻で笑い飛ばすこともできた。

 だが、その老人の真剣なまなざし――歴史そのものを見つめているような深い光――を見て、カイルは冗談を口にすることができなくなった。


 賢者ノルンは、懐からずしりと重そうな、金貨がぎっしりと詰まった袋を取り出した。それを、ゆっくりとテーブルの上へ滑らせる。


「なに?」


「その本を買い取らせてくれ……。もしこれでも足りなければ、あとで城に来てくれ。望むだけの対価を払わせよう」


「おいおい……冗談はよしてくれ」


 カイルは乾いた笑い声を漏らし、その金貨袋を手の甲ではねのけた。

 それはカイルの最初の失敗……かつて露店商に騙されて、なけなしの金を叩いてこの役立たずの上巻を買わされた時の袋よりも、数十倍の重さがあった。

 けれども、これまで何度も死にかけ、この本に記された「他人の失敗」を道しるべにして窮地を潜り抜けてきた自分を思うと、いまさら手放す気にはなれなかった。


「俺はこの本を買ったことを、今でも人生最大の失敗だったと思っている……。けどな、じいさん。

 失敗をなかったことにするのが、いったいどれだけ愚かなことかってのは、こいつを読み込んで身に染みてわかったんだ。

 俺は、俺の失敗を売り渡すつもりはない」


「……」


 賢者ノルンは、どこか寂しげに、そして眩しそうにカイルの姿を見つめていた。


「すまない。1000年の間に、英雄たちの子孫はおごり高ぶってしまった。まさか、こんな大事な遺産をただの『失敗の記録』と断じ、手放してしまうとは思いもよらなかったのだ……。

 だが、お前がそれを自分自身の意志で持ち続けるというのならば、わしはもう何も言うまい」


 そう言って、賢者ノルンは静かに立ち上がり、彼に背中を向けた。


「また次の転生先で会おう……。もし、本を手放す気になったら、いつでもわしを訪ねるがいい」


「ああ、考えとくよ」


 不思議なじいさんだ。カイルは去りゆく背中を見送ると、手元の酒をぐいと煽った。


 そして、それから150年――彼が死に、転生し、そして死に、また転生するまでのうちに、賢者ノルンと会う事は二度となかった。


***


(……あれ)


 勇者と魔王の戦いから1000年。

 カイルは、酒の匂いがする床の上で目を覚ました。


 周囲の床には、昨夜の喧騒の余韻を象徴するように、仲間たちが無造作に転がって寝息を立てていた。


 いびきのうるさい剣士アルトに、小さな体で驚異的な量を飲み干した罠師のロウ。

 そして、机に突っ伏して眠りに落ちる直前まで、情熱的に同人誌の執筆に没頭していたミーナ。


 見慣れたいつもの顔ぶれだ。しかし、目覚める直前までカイルが夢の中で見ていた『仲間』とは、明らかに顔ぶれが違っていた。


(……あれ……なんだ、今の夢。俺は、誰か他人の記憶でも追体験していたのか?)


 意識の奥底には、とてつもなく長い年月を駆け抜けたような、奇妙に重い疲労感が残っている。

 カイルとしての人生に、あんな静かな酒場で一人飲んだ記憶はない。

 ましてや、賢者ノルンを名乗る老人から攻略本の譲渡を迫られた経験など、一度もなかったはずだ。


 まるで自分ではない誰かの人生に潜り込んでいたかのような、実感を伴う夢。

 ただ一つ、カイルの傍らに置かれた異世界攻略本『下巻』が、闇の中でぼんやりと不吉な光を放っていることだけは、夢の光景となんら変わっていなかった。


 下巻が光る。それは、逃れられぬ『失敗ログ』が新たに更新された合図だ。


「……なんだ、こんな夜更けに。誰か、とんでもなく恥ずかしい寝言でもさらしたか?」


 せめて自分以外のメンバーの、笑い飛ばせるような失態であってくれ――そんな祈りにも似た思いで最新のページを開くと、そこには意外な人物の名前が刻まれていた。

 どうやらこの本は、まだリーネのことを守るべき仲間だと認識しているらしい。


『【防衛失敗】赤三角形のリーネ――屋敷を襲撃され、不意打ちを食らって片腕を負傷する』


 その文字列を目にした瞬間、カイルの脳を支配していた酔いが、冷水を浴びせられたように一気に醒めた。

 先ほどまでの夢の余韻も、賢者ノルンがどうだといった思考も、もはやどうでもよくなった。

 この「役立たず」のガラクタが示す失敗は、常に残酷なまでの正確さで現実を侵食する。


「……リーネ」


 カイルは立ち上がり、屋敷の方に向かって走った。

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