リーネと下巻先生
「あの護衛クエストから、わたくしは変わりましたの……!」
マークフレア公爵邸、深夜の自室。
リーネは山のように積み上げられた歴史書と、金色の光を放つ『下巻』を前に、鬼気迫る表情でペンを走らせていた。
今までの彼女は、この本を「成功へのカンニングペーパー」としてしか見ていなかった。
だが、あのミーナの——失敗の底から真実を掬い取ろうとするあの眼差しを見て、リーネは気づかされたのだ。
成功という結果の裏には、語られることのない膨大な『繋がり』があるのだと。
「名前だけをなぞるなんて、ただの目録を読んでいるのと同じ。わたくしがすべきは、成功者たちが歩んだ足跡の、その一歩一歩の『理由』を緻密に推測することですわ……!」
リーネは『下巻』を深く、深く読み込んだ。
かつて記号としてしか捉えていなかった成功者の名前を、ただ同じ名前を探すだけではなく、その肩書きや、成功ログの前後にある他人の記述から、横のつながりをパズルのように組み合わせていった。
歴史に名を残した者なら、古い歴史書にもヒントを求めた。
(まだだ……! まだ、あの人の洞察には遠く及ばない……!)
数日前、ミーナに自分の見つけた「簡素な結末」を伝えたときのことが、今も胸に刺さっている。
少年兵シューゼン。彼は崖から「無事に救出された」という成功ログが残っていた。
リーネはそれだけを見つけて、そのままミーナに報告したのだが、彼女はどこか寂しそうに微笑んだのだ。
『そう、シューゼンは無事に救出されたのね……』
ミーナのその声は、まるで行間に取り残された何かを惜しむようだった。
一方、パーティの主役であるレクター王子の結末は、歴史書を紐解けば鮮やかに記されていた。
彼は戦争に勝利し、国を取り戻した英雄王となった——それだけを伝えた時、ミーナは静かに問うたのだ。
『リーネさん。シューゼンのプロポーズは成功したと思いますか?』
『それは……救出されたのですから、きっと……』
『レクター王子が戦争に勝ったとき、その隣にいたのは誰ですか? もし王子ひとりだったら、それは本当に故郷を取り戻したと言えるのかしら……?』
完敗だった。
ミーナは、リーネの想像よりも遥か先、歴史の闇に消えた「個人の幸福」を見つめていたのだ。
リーネはまだ、『下巻』を完璧には読めていなかった。
それからのリーネは、執念の調査を開始した。
ひとりの人物を調べるとき、その周囲にいる人物を徹底的に調べ尽くしたのだ。
そして、ようやく一つの事実に突き当たった。
「そうか……少年兵シューゼンは『下巻』の持ち主ではなく、当時『下巻』を持っていたレクター王子のパーティメンバーだったのですわ」
この魔導書は持ち主本人だけでなく、そのパーティメンバーの成功ログも記録される仕組みなのだ。
リーネはレクター王子の関係者の成功ログを虱潰しに調べた。
判明したのは、このパーティが難所の崖を越えたあと、レクター王子は熾烈な戦争を勝ち抜き、王になったということ。
彼が王位に就くと、当然パーティは役割を終えて解散した。
攻略本は宝物庫に眠ることとなり、その後のログはレクター王子本人のものしか残っていない。
王子は戴冠式を経て、妃を迎え、子が生まれ、そしてその子が攻略本を受け継いだ瞬間に、彼のログは途絶えた。
そこには、他の仲間の行方は一切記されていなかった。
シューゼンの名前も、救出されたあとの記録には、どこにもない。
ミーナが彼を知るきっかけとなった「崖から落ちた失敗ログ」が記された上巻の方にも、当然載っていないはずだ。
戦争で戦死したとも、武勲を挙げたとも、記述が一切途切れている。
救出されたあと、この少年兵は歴史から忽然と消えてしまったのだ。
「……そうか。この人、パーティから離脱したんですわ」
王子の悲願である故郷奪還、その大事な決戦を前に。この少年兵はひとり、栄光の道を降りたのだ。
離脱して、一体どうするのか? 答えは決まっている。
「故郷にいる幼馴染のところへ、戻るに決まっていますわ……!」
後日、リーネはこの調査結果をミーナに報告した。
「指輪を見つけたという成功ログがないから、きっと婚約指輪は崖の下に落ちたまま、拾っていないと思います」
「そう……」
「ですが、レクター王子は最後の戦いに挑む前に、彼を除隊して故郷に帰らせたのだと思います……彼が婚約指輪を渡そうとしていた幼馴染がいることを知って。
だから、王子の凱旋の隣には、彼はいないのですわ」
リーネの執念の調査も虚しく、結局シューゼンのプロポーズが成功したかどうかは分からなかった。
だが、話を聞きながら窓の外を見ていたミーナの頬を、一筋の涙が伝っているのをリーネは見た。
(このお方、なんて慈愛に満ちているのかしら!
歴史の1ページにも記されない、名もなき少年の人生のために、こんなに美しい涙を流せるなんて……!)
リーネは感動に打ち震えたが、知る由もなかった。
この時、ミーナは「推しカプの解釈が公式の行間から供給された」という事実に限界化し、あまりの尊さに涙腺が崩壊していただけだということを。
(はぁ〜〜〜っ! レクター王子、好き~~~~~~っ!!!)
ミーナから「とても熱のこもった(あるいは、情念が染み付いた)」上巻の写しをもらい、リーネはさらに読み込みを深めていった。
レクター王子が勝った時、その隣には誰がいたのか。王子と二人きりになり、過酷な山脈を乗り越えた魔法使いマイケルは、一体どうなったのか。
回復役、剣士、魔法使い——彼らのログをすべて紐解いたとき、ある一人の人物へと突き当たった。
そう、それはかつて、レクター王子にこの攻略本を渡したとされる——。
「——っ! あーっ!? 消えてますわ!?」
リーネは思わず叫んだ。
本を捲る指が止まる。その箇所の文字が、陽炎のようにゆらゆらと揺れ、見る間に消滅していくではないか。
どうやら、古くなったログがそこから消滅しているようだった。
下巻は1000年の間、代々の持ち主が書き込み続けてきた。
本来の耐用年数を超え、蓄積されたデータが「容量オーバー」を引き起こし、古いログをじわじわと削除しているらしかった。
「そんな! 下巻先生! こんなところでエタらないで! 頑張ってくださいまし!」
リーネは必死に下巻先生を応援したが、無慈悲なシステム(仕様)は文字を消し続ける。
リーネは立ち上がった。
こうなったら、あの『禁域』に踏み込むしかない。
リーネは自室を飛び出し、屋敷の奥深くにある「倉庫」の扉を開いた。
普段は家宝である下巻が厳重に仕舞われているだけの場所だが、そこはマークフレア公爵家の1000年の蔵書が眠る書庫でもある。
埃の舞う暗がりに浮かび上がる、壁一面を埋め尽くした大量の書物。
その背表紙のひとつひとつに、リーネは挑むような眼差しを向けた。
(今度こそ……あなたの全てを読み切ってみせますわよ、下巻先生! そして、ミーナさんに真実を届けるのですわ!)
闘志に燃えるリーネ。
その背中を、物陰からこっそりと窺う人影があった。
公爵邸の侍女の一人が、闇に向かって密やかに声をかける。
「……宝物庫の扉が開いています。今、やりますか?」
暗闇の奥、粘り気のある、それでいて氷のように冷たい声が返ってきた。
「いや……待て。あの『下巻』を狙う悪党どもが到着し、場が最高に乱れるその瞬間を待て」
魔王の使徒。フードを深く被った男は、薄暗い倉庫の中で獲物を見定めるように細い目を光らせた。
侍女は深く、深々とお辞儀をし、音もなくその場を去った。
成功を掴もうとする令嬢と、失敗を読み解こうとする冒険者。
そして、その全てを灰にしようとする古の悪意が、夜の公爵邸で静かに交錯しようとしていた。




