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マークフレアの女神様

 カイルたちが怪訝な顔をしながらも離れ、豪奢なエントランスに二人きりになった途端だった。

 それまで「聖職者の鑑」のような顔をして微笑んでいたミーナの表情が、劇的に崩壊した。


「お願い~! 読ませてぇ~! なんでも……なんでもしますからぁ~!」


 ミーナはリーネの高級なシルクのドレスの裾をぎゅっと掴んで、人目も憚らずボロボロと泣き出した。

 その豹変ぶりに、リーネは「は、はいぃ!?」と令嬢にあるまじき情けない声を上げた。


「お、落ち着きなさいな! なんでもするって、あなた、聖職者でしょう!? そんな破廉恥な……っ!」


「破廉恥でもなんでもいいです! 知りたいんです、あの裏側を! あの上巻ゴミの続きを!」


 ミーナはオタク特有の早口で、涙と鼻水にまみれながら必死に捲し立てた。


「『俺この戦争が終わったら幼馴染と結婚するんだ』と言って大事な婚約指輪を崖から落として、それを拾いにいって足を滑らせて転落した悲劇の少年兵シューゼンが、その後どうなったのか教えてぇ~!

 回復役の扱い方をめぐって剣士と喧嘩別れして二人きりになったレクター王子と魔法使いマイケルが、その後無事に二人三脚で故郷を取り戻せたのか……!

 それとも、道半ばで力尽きて、雪山で互いの体温を分け合いながら果てたのか教えてぇ~! 特に後者を詳しく教えてぇ~!!」


「え、えぇ……最後のほう、ちょっと願望が混ざっていませんこと……?」


 リーネは引き気味にあとずさりしたが、ミーナの想いはあまりにも切実だった。

 そう、本来、上巻と下巻はワンセットだったのだ。

 あの上巻に記された夥しい『失敗ログ』。

 その時代のログから不健全なまでの妄想を膨らませてきたミーナは、ある一つの真理に辿り着いてしまったのである。

 負の記録があるならば、対になるもう片方には、それを乗り越えた先の『成功ログ』も載っているはずだ——と。


「失敗の経過だけ読めるのに! 成功の結末が読めないなんて生殺しすぎるぅ~!

 このままじゃわたし、気になって夜も2時間しか眠れません! 新刊ログの続きを待つ読者の気持ちを考えてくださいましぃ~!」


 リーネは、ミーナの上巻に対する姿勢に、雷に打たれたような衝撃を受けた。

 彼女は、ただ事実を把握しようとしているのではない。

その行間にある、生きた人間たちが織りなした『物語』を読もうとしているのだ。


(わたくしは……なんて愚かだったの)


 リーネは深く、深く自省した。

 自分は『下巻』を手にしながら、その表面に並んだ「正解」だけを暗記して、すべてを学びきったつもりになっていた。

 その程度の読み方で、もう『下巻』から学ぶものなどないと高をくくり、「次は実体験を学ぶ段階だ」などと言って、一週間も本から離れてしまっていた。

 なんという傲慢だろうか。


 成功の裏には、それを掴み取った者の「意志」がある。

 失敗の裏には、それを回避できなかった者の「悲哀」がある。


 ミーナは上巻という『欠片』から、それを懸命に読み取ろうとしていた。

 対して自分は、完全な地図を手にしながら、地形すら見ようとしなかった。


(わたくしは『下巻』に選ばれたのではなく、『下巻』に甘えていただけ……。

 この方のほうが、よほどこの本を持つ資格があるのではないかしら)


 そう思った瞬間、不意に目頭が熱くなった。

 リーネは慌てて顔を背け、指先でそっと目元を拭う。泣いているところを見られるわけにはいかない。

 それは、令嬢としての矜持ではなく——今この場で、ミーナの想いに応えたいと思った自分自身への、小さな誓いだった。


「……わかりました、ミーナさん。今はまだ、本を屋敷から持ち出すことは、わたくしの一存ではできません」


 リーネはドレスの裾を掴むミーナの手に、自分の手を優しく重ねた。


「ですが、お二人の……いえ、あなたが気にかけているすべての方々の『その後』は、わたくしが必ず探してお伝えします。

 お父様が戻られたら、閲覧の許可も必ず取り付けてみせますわ」


 ミーナは顔を上げ、ぱあっと表情を輝かせた。


「ああ~! あなたが神か! マークフレアの女神様か! お願いしますぅ~! 

 もしハッピーエンドじゃなくても、それはそれで美味しいので詳細な描写をお願いしますぅ~!」


「……ええ。善処しますわ」


 最後のほうが相変わらず不穏だったが、リーネは力強く頷いた。

 見栄のためでもない。完璧を演じるためでもない。

 初めて、自分の持てる「力」を、誰かの純粋な願いのために使いたいと思ったのだ。

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