ドッペルゲンガーとの戦い
底から見上げる「アルト」の顔は、泥に汚れ、必死な形相で手を伸ばしている。
その姿は、先ほどまで彼らの前を歩いていた仲間のそれと寸分違わない。
だが、カイルの持つ『上巻』が冷酷に突きつける「(?)」の一文字が、三人の足を引き留めていた。
「上巻が……迷ってる?」
カイルは無表情を崩さないまま、穴の底で「助けてくれ、騎士道精神に則り、速やかな救助を要請する!」と喚いているアルト(?)を見下ろした。
この『異世界完全攻略本・上巻』は、これまで一度たりとも曖昧な記述をしたことはなかった。
失敗は常に確定した事実として、あるいは回避不能な運命として、残酷なまでに明快に刻まれてきたのだ。
その本が、対象に『(?)』をつけている。
それはつまり、この穴に落ちた存在が「アルトであって、アルトではない」という、論理の矛盾を本自体が消化しきれていない証拠だった。
「おい、カイル! 何ぼーっとしてるんだ、早くロープを! マニュアルによれば、こういう時はリーダーが率先して動くべきだと……」
「……ロウ、お前の勘じゃどうだ。あいつ、本物に見えるか?」
カイルの問いに、ロウは鼻をひくつかせ、穴の底のアルトをじろじろと観察した。
「うーん……見た目も声も、あの鼻につく『元貴族臭』も本物そっくりだ。
けどよ、カイル。俺様のギャンブラーとしての直感が、この勝負には『裏』があるって囁いてるぜ。
……そもそも、さっき俺たちの横を歩いてたアルトが、いつの間にか消えてたってのがおかしいだろ」
「ですね。アルトさん、あんなに足音がうるさいのに、消える時だけ無音なんて不自然です」
ミーナも杖を構えたまま、警戒を緩めない。
「じゃあ……この下にいるのは本当に……モンスターなんでしょうか?」
カイルは、かつてこの森で消えた一流パーティ『黄金の師師団』のログと、今目の前で起きている事象を照らし合わせ、一つの結論を導き出した。
どうやら、この森で「落とし穴に落ちる」ログが異様に多い理由は、仲間の一人に擬態したドッペルゲンガーが自ら落とし穴に落ち、助けにきた他の仲間を道連れにするという手口を繰り返しているからだ。
たとえ落とし穴による直接的な被害は軽微であっても、その後の疑心暗鬼が致命傷になる。
誰が本物か分からなくなったパーティは結束を失い、森から撤退するか、最悪の場合は互いに剣を向け合って解散に追い込まれる。
カイルは、冷静に今の状況を分析した。
穴の底からは「おーい、どうしたんだ、早く引き上げてくれよ!」と、アルトそっくりの声が響き続けている。
だが、その声を聞けば聞くほど、カイルの確信は強まっていく。
「先に、本物のアルトを探そう。あいつの救助の方が優先だ。
落とし穴にいる奴を助けるのは、それからでも遅くはないだろう」
そのとき、カイルの脳裏に不吉な『未来の失敗ログ』が浮かび上がった。
上巻の余白に、今までで最も「冷たい」黒色で、文字が刻み込まれた。
『【致命的失敗】回復役ミーナ――落とし穴から放たれた矢に射抜かれ、死亡』
「危ない!」
カイルは思考よりも先に体を動かした。ミーナの肩を掴み、強引に地面へ引き倒す。
その直後、シュルリと空気を裂く音がして、穴の底から放たれた一本の矢がカイルの肩の肉を浅く削り、背後の大木に深々と突き刺さった。
「……ひっ!?」
「カイルさん、肩が!」
「気にするな、掠り傷だ。それより……」
カイルは鋭い視線を穴の底へ向けた。そこにいたのは、情けなく助けを求めていたアルトではない。
しなやかな四肢に、尖った耳。冷酷な双眸を細めるエルフの弓兵が、次の矢を番えながら音もなく立ち上がっていた。
「エルフ……!? いや、あいつ、形が変わって……!」
「マジだった……! ドッペルゲンガーだ!」
ロウが叫ぶ。その声には、単なる驚きではない恐怖が混じっていた。
「くそ、きっと昔にコピーした冒険者かなにかだな……! 逃げるぞ、こいつはまともにやり合っていい相手じゃねえ!」
ロウの判断は正しい。主力の剣士アルトを欠いた状態で、未知の、それも姿を自在に変える古代の怪物を相手にするのは、危険極まりない賭けだ。
だが、急いで穴から離れようとしたメンバーの中で、カイル一人が逆の方向に向かって走っていった。
「ロウ! ミーナ! お前たちだけでも逃げろ!」
「カイル! やめろ、そいつは古代種だ! 現代のモンスターの何倍も強い!」
いや、そんな事はすでに知っている。
だが、カイルは逃げなかった。
ちがう、逃げられなかったのだ。
「俺の中の未来予知が……! 『ここで逃げたら詰み』って言ってるんだよ……!」
エルフの弓兵はすさまじい跳躍で穴の底から木の上まで移動し、頭上から無数の矢を放ってきた。
カイルは仲間に放たれるはずだった矢をすべて自分に引き付けながら、エルフの弓兵の方に向かって走り続けた。
全滅は避けたが、視界には次々と「未来の失敗ログ」が浮かび上がる。
『左足に矢が刺さり、機動力を喪失』
『右目を射抜かれ、失明』
『首筋を掠め、頸動脈を切断して死亡』
カイルは、致命的なログだけを全力で回避した。
頬を矢が掠め、木の枝が顔を切り裂く。
だが、その程度の「小さな失敗」なら、今は必要経費として無視して突き進んだ。
いまはもう、致命的な失敗さえ受けなければいい。
カイルの決死の接近に驚いたエルフの弓兵が、たまらず後ろへ飛び下がった。
相手の着地地点を予測して、すかさずカイルはそこに剣を振り下ろす。
「もらった!」
だが、そのとき。
エルフの身体が液体のようにぐにゃりと形を変え、後頭部があった場所からドワーフのひげもじゃの顔が突き出してきた。
さらに手足はぐるん、とねじれて前後の向きを変える。
一瞬にして、斧をこちらに構えるドワーフの戦士に化けてしまった。
「まずい、こいつ、隙がないのか……!!」
人間の身体の構造をしていれば必ずあるはずの『死角』や『隙』が、どうやらドッペルゲンガーにはないのだ。
ドワーフの戦士はカイルの剣を斧で受け止めると、そのまま丸太のような腕を振り回し、彼を数メートルも弾き飛ばした。
『【致命的失敗】冒険者カイル――腹部を切り裂かれ、出血で死亡』
のログが見えたため、なんとか鞘を盾にして腹だけは守った。
致命傷こそ避けたが、すさまじい衝撃にカイルの息がつまった。
「……がはっ……」
「カイルさん!!」
ミーナの悲鳴が響く。ドワーフに化けた怪物は、重い斧を肩に担ぎ直し、ゆっくりと獲物を仕留めに歩み寄ってくる。
傍らに転がった『上巻』のページが、森の湿った風にめくられる。
『【冒険失敗】冒険者カイル――迷いの森にて古代種ドッペルゲンガーに襲われ、死亡する』
一瞬だけ幻視したそのログを、カイルは意識から除外した。
もしも、このくそったれなログが本当に上巻に刻まれてしまえば、後世の冒険者たちはこの森にドッペルゲンガーがいるという情報を共有することになるのだろう。
カイルの犠牲が、彼らの攻略を役立てる、無数の失敗ログのひとつに成り果てるのだ。
今のカイルにはそれが、自分という人間の物語に打たれた終止符のように見えた。




