リーネのデルタスラッシュ
ついに、武道大会当日。王都の大闘技場は、熱狂的な観衆のどよめきで揺れていた。
会場となる王都の特設競技場は、朝から観衆の熱気に包まれていた。
この日のために、リーネ・マークフレアは万全を期してコンディションを整えてきた。
睡眠時間はきっちり八時間。朝食は栄養バランスを考えた特製メニュー。
そして何より、伝説の『攻略本・下巻』に記されていた、古の成功者マイケル・ジョータンの成功ログに基づいたイメージトレーニング――。
(わたくしは勝てる! わたくしは勝てる! わたくしは、すでに勝っているのですわ!)
目を閉じ、心の中で何度も叫ぶ。
彼女が昨夜から繰り返しているのは、伝説の籠球選手が残したとされる精神統一法である。
下巻によれば、成功者は常に勝利の瞬間を予見しているという。
リーネは目を閉じ、自分の剣先が三角形の軌跡を描きながら、相手を華麗に切り伏せる未来をフルハイビジョン並みの鮮明さで脳内に投影した。
(……よし、見えましたわ。わたくしの放つデルタスラッシュが、相手の鼻先をかすめ、観衆が『あぁ、なんて幾何学的な美しさなの!』と涙を流しながら拍手喝采を送る未来が!)
序盤の対戦相手たちは、驚くほど手応えがなかった。
リーネが木剣をひと振りすれば、相手は勝手に体勢を崩し、鋭く踏み込めば「ひ、ひいいっ!」と情けない声を上げて場外へ転がっていくのだった。
「おーっほっほっほ! 話になりませんわね。わたくしの放つ覇気が、戦う前から彼らを圧倒しているということかしら?」
観客席からは、
「おお、さすが公爵令嬢……」
「なんて恐ろしいプレッシャーだ(怪我させたら家が潰される……!)」
という溜息混じりの歓声が聞こえてくる。
リーネの実力にあわせて、周囲の者たちが手加減をしてくれている……などという可能性は、この時の彼女の頭には微塵もなかった。
何せリーネは、『下巻』に名を連ねる英雄たちの偉業を知りすぎてしまった。
歴史に名を残す偉人と比べれば、目の前の対戦相手など路傍の石も同然だった。
(ふふん、やはり修行の成果ですわ。
下巻の偉人たちに比べれば、今の相手など、止まっている案山子も同然。
リアルな人間など、わたくしの敵ではありませんわ!)
下巻の「成功ログ」という高すぎる基準を知りすぎた結果、リーネは身近な戦士たちに対する敬意を完全に失っていた。
彼女の目には、対戦相手が「歴史に名を残さないただのモブA」にしか見えなくなっていたのである。
そして。あれよあれよという間に決勝の舞台。
リーネの前に立ちはだかったのは、前大会の覇者であり、王都随一の剣術道場で師範を務める凄腕の剣士、バルガスであった。
「公爵家のご令嬢か……。ここまでの戦いぶり、実に見事だ。だが、私の『鋼の構え』を崩せるかな?」
バルガスが静かに剣を構える。
その姿には、これまでの相手とは比べ物にならない重圧があった。
リーネは息を呑み、剣を正眼に構え直す。
(バルガス……ふっ、いい響きですわ。この男を一族秘伝の剣技で叩きのめし……その名を下巻の新たな成功ログに刻んで差し上げますわ!)
開始の合図と共に、バルガスが地を蹴った。
これまでの相手とは比べ物にならない速さだ。
リーネは必死に木剣を合わせ、火花を散らした。
ガガガッ! と重い衝撃が腕に響く。
だが、リーネには『デルタスラッシュ』があった。
相手の気配が「ぐわっ」から「ぐわーん」に変わる、その瞬間を狙った。
(……ぐわーん! ……いえ、違う! 今のはまだ「ぐわっ」の状態ですわ!)
激しくぶつかり合う剣気の中で、リーネは必死に擬音を探った。
しかし、流石は道場師範。隙がまるでない。
火花が散るような攻防が続く中、リーネの心に焦りが生じ始めました。
(ぐわーん! ……これも、違う! この男、ぜんぜん隙をみせませんわ……! 無礼者め……!)
額に汗がにじむ。
リーネの脳内では、剣聖ミラーの擬音語解説が高速でフラッシュバックしていた。
相手の気配が、『ぐわっ!』から、『ぐわーん!』になるときに打て。
焦れば焦るほど、相手の動きがミラーの記した「理想的な隙」から遠ざかっていく。
(……くっ、なぜ!? なぜ『ぐわーん』とならないのですの!? ミラー様、わたくしに、わたくしに正解を教えて……!)
バルガスの連撃がリーネの防衛線を削っていく。
観衆の悲鳴が聞こえる。
そのときだった。
あまりの極限状態に、リーネの意識が現実と脳内トレーニングの境界線を踏み外した。
「『ぐわーん!』……あっ!」
焦りのあまり、頭の中にあった擬音が、無意識に口から全力で飛び出した。
静まり返った一瞬の静寂に、リーネの……公爵令嬢らしからぬ、野太く、かつ必死な「ぐわーん!」という叫び声が響き渡る。
「…………なッ!?」
バルガスの動きが、ピタリと止まった。
最強の剣士として数多の戦場を潜り抜けてきた彼であったが、目前の美少女が、剣をぶつけ合う最中に突然「ぐわーん!」と絶叫する事態など、いままでなかったはずだ。
(……な、なんだ? なにかの魔法の起動式か!? いや、まさか、これは――!! 失われた古代剣技の――!!)
熟練の戦士であるバルガスの脳裏に、様々な思索がよぎる。
その困惑こそが、リーネが追い求めていた「最大の隙」となった。
(あ……隙だらけですわ)
リーネの体は、思考よりも先に動いていた。
一週間の素振りで体に染み付いた、三角形の軌跡。
これ以上ないほど綺麗に、三角形の軌跡が空に描かれる。
「デルタ……スラッシュ」
「ぐわあああああ!?」
渾身の三連撃がバルガスの胴体に叩き込まれ、前大会覇者の巨体が派手に吹き飛んだ。
壁に激突し、白目を剥いて沈黙する師範。
一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手と歓声が競技場を包み込みます。
「勝者、リーネ・マークフレア!」
「う、うおおおおおおお!!」
「見たか! あの幾何学的な美しさの三連撃を!」
「幾何学の聖女、リーネ様万歳!!」
闘技場が、これまでで最大の熱狂に包まれた。
リーネは剣を引き、観衆に向かって優雅に一礼する。
その姿は、勝利の女神そのものであった。
「おーほほほ……! 当然の結果ですわ。わたくしの剣技の前では、どのような壁も無意味なのですわ……!」
高らかに笑い、称賛の嵐を全身で浴びるリーネ。
だが、その仮面のような微笑みの裏側で、彼女は顔がゆでダコのように真っ赤になっていた。
(卑怯……! あまりにも、あまりにも卑怯ですわ……!!)
叫び声で相手を驚かせ、その隙を突く。
それは武道でも剣技でもなく、ただの「不意打ち」である。
ましてや令嬢として、あのような奇声を公衆の面前で晒してしまった。
それはいけない。
その事実は、彼女のプライドに回復不能なダメージを与えていた。
(わたくし、勝ちましたけれど……何か、人として大切なものを失った気がいたしますわ……。
ミラー様、ジョータン様……成功とは、これほどまでに虚しいものなのですか……?)
周囲の歓声が「ぐわーん!」「ぐわーん!」という合唱に変わりつつある中、リーネは自分の『下巻』に刻まれるであろう新たなログ――『奇声によって相手の精神を粉砕し、武道大会を制覇』という不名誉な記述を想像し、さらに深く絶望するのであった。




