下巻に記されたアドバイス
「ぐわっ……が、がっ! がっがっ!? ……だめですわ、全く意味がわかりませんわ!」
深夜、静まり返った公爵邸の一室で、リーネは手にした『攻略本・下巻』を食い入るように見つめていた。
部屋の灯りは落とされ、一本の蝋燭が彼女の色違いの双眼を怪しく照らし出している。
家宝であるこの本を持ち出していることがバレれば、厳格な父に何を言われるかわからない。
だが、リーネには止まれない理由があった。
「わたくしは選ばれし者。大魔法使いマリアンヌの知恵と、大剣士トゥーファンの武勇を継ぐ、完璧なる後継者ですわ。……たとえ、先日の魔法実習で火魔法を出そうとして、自分の前髪を少し焦がしたとしても、それはそれですわ!」
リーネは焦げ跡を隠すようにサイドの髪を整えると、手近にあった細身の訓練用木剣を構えた。
目指すは、数代前の先祖の弟子にして「剣聖」と謳われた男、ミラーが遺した極意『デルタスラッシュ』の完全再現。
「斜め、横、切り上げ。この三連撃を一瞬で行う……。理屈はわかりますのよ、理屈は。問題は、このミラーさんの解説ですわね」
『【武術大会制覇】剣聖ミラー――若くして『デルタスラッシュ』の極意に到達。歴史上、最年少で武術大会を制覇。一撃で前回覇者を倒す。』
彼女はもう一度、ページに躍る殴り書きのような文字を読み返した。
おそらく剣聖本人が書き込みをしたものと思われる、後世の継承者に向けたアドバイスだ。
『相手の気配が「ぐわっ」から「ぐわーん」に変わるときに放て。
「がっ!」となったら成功だ。
だが、「がっがっ!」の時には、反撃に気をつけろ』
「…………」
剣聖ミラーのログ――それは、天才特有の「言語化の放棄」の極致だった。
凡人(リーネは自分を天才だと思っているが)が知りたいのは、足の踏み込み角度や重心の移動、魔力の流し方といった具体的な理論である。
しかし、この『下巻』に記されているのは「気配がぐわーんとなったら放て」という、擬音まみれの直感のみ。
「ミラー様! 貴方は剣聖と呼ばれた御方ではありませんの!?
もっとこう、教育者として丁寧な言葉選びはできなかったのですか!?」
リーネは虚空に向かって吠えた。
そもそも、相手の気配が「ぐわっ」から「ぐわーん」に変わる瞬間とは何だ。
気配というものは、いつからオノマトペを奏でるようになったのか。
だが、プライドだけはエベレストより高いリーネは、これを「自分に才能が足りないから理解できない」とは絶対に認めない。
「……そうですわ。これはきっと、わたくしへの試練ですのよ。
天才の言葉は、同じく天才であるわたくしにしか理解できない『暗号』なのですわ!
……ぐわっ、から、ぐわーん……。ぐわっ……ぐわーん……」
リーネは目を閉じ、深夜の庭で剣をゆっくりと構えた。
想像するのだ。目の前にいる愚かな対戦相手を。
そいつが「ぐわっ」という隙を見せ、その隙が「ぐわーん」と大きく広がった瞬間……。
「今ですわ! デルタスラッシュッ!!」
リーネは鋭く踏み込み、木剣を斜めに振り下ろした。
続いて、横薙ぎ。そして切り上げ。
シュシュシュッ、と風を切る音は鋭い。
学校の教師たちも「リーネ様の剣筋は実に見事だ」と、いつも拍手喝采してくれる(彼らが内心で『お嬢様に怪我をさせたら首が飛ぶ』と冷や汗を流していることには、リーネは露ほども気づいていない)。
「今の……今のが『がっ!』だったのかしら? それとも、少し『スカッ』に近い『がっ』でしたの?」
納得がいかない。
完璧主義者のリーネのプライドは、まちがいのない完璧な「がっ!」を求めていた。
彼女はもう一度、今度はより深く、ミラーの残した感覚に没入しようと試みた。
天才のログというものは、時として凡百の理論書よりも真理を突くが、受け取り側の感性がズレていれば、それはただの怪文書でしかない。
「デルタ…………スラッシュ!!」
ガガガッ! と空中で木剣が激しく三度、空を打つ。
あまりの勢いに、リーネはバランスを崩して尻餅をつきそうになったが、そこは血筋の良さで踏みとどまり、優雅に髪をかき上げた。
「……今のは、『がっがっ!』でしたわ。ミラーさんのログによれば……『反撃に注意しろ』。
おかしいですわね、連撃がつながっているのだから、こっちの方が反撃を受けづらいのではないかしら?
ふふ、つまり、わたくしの剣が完璧すぎて、この剣技の弱点を克服してしまったということですわね?」
実際には、この反撃の隙は剣の達人ですら狙うのをためらうような、見極めの難しいものなのだが、ポジティブすぎる彼女の脳内変換は止まらない。
「次の闘技大会、これを使えば優勝は間違いありませんわ。
魔法の試験で『赤三角形のリーネ』などと不名誉なあだ名をつけた愚民どもに、わたくしの真の姿を見せつけてやりますの」
リーネは、暗闇の中でキラリと瞳を輝かせた。
カイルたちが『失敗ログ』を共有し、無様に、泥臭く、死なないための知恵を蓄えているその裏で。
リーネは一人、『成功ログ』という名の甘美な毒を煽り、誰も到達したことのない(あるいは、誰もそんな危険な真似はしない)勘違いの極致へと突き進んでいた。
「わたくしこそが、この時代に蘇る新たな伝説……。ああ、楽しみですわ。皆が驚愕し、ひれ伏すあの瞬間が……。おーっほっほっほ!!」
深夜の自室に、高笑いが小さく響く。
その笑い声が、後に闘技大会で引き起こされる「暴発」の予兆であることを、この時の彼女はまだ、夢にも思っていなかった。




