行間を読むミーナ
ロウへの「お仕置き」がひと段落し、迷宮内の安全なセーフティゾーンで夜営の準備を整えた頃。
ミーナは焚き火のそばで、ふう、と小さく息を吐きながら自分の手のひらを見つめた。
「……思ったよりもMPは使っていいんですね」
ぽつりと溢れた言葉に、隣で武具の手入れをしていたアルトが顔を上げた。
「ん? ああ、さっきのロウへの連続ヒールか。あいつが自業自得で罠にかかりまくるから、つい熱が入っちゃったな」
「いえ、そうじゃなくて……。あんなに思い切って回復魔法を使っていたのに、MPが尽きて動けなくなるような『失敗』はしなかったな、って」
ミーナの胸の奥には、常に澱のように沈んでいる記憶がある。
かつてのパーティでMPを使い果たし、肝心な時に仲間を癒せず、そのまま失ってしまったあの日の光景。
それがトラウマとなり、彼女はこれまで「魔法の温存」に病的なまでに執着してきた。
だが、今のこのパーティでは不思議と、その呪縛が緩んでいるのを感じる。
それもそのはずだった。
ミーナの過去を知ったカイルたちは、彼女がパニックに陥らないよう、全力で対策を練っていた。
ロウは罠解除の際、常にミーナの残りMPを気にして「あと何回までならミスしても大丈夫だ?」と確認し、アルトは敵にむやみに突っ込まず、ダメージを最小にする立ち回りを徹底している。
そしてカイルは、常に『攻略本』に目を光らせ、ミーナのMP枯渇に起因する最悪の未来(失敗ログ)が浮かばないか、一歩先を予測して動いているのだ。
「……仲間がサポートしてくれているから……」
ミーナは熱を帯びた焚き火を見つめ、静かに噛み締めた。
本当に必要だったのは、MPの節約術でも、強力な魔力回復薬でもなかった。
『回復』という役割を、彼女一人の責任に押し付けないパーティの信頼関係。それが、何よりも彼女の心を軽くしていた。
かつての失敗は、ミーナひとりの無能が招いたものではなかった。
ただ、他に解決方法があることを教えてくれる仲間がいなかっただけなのだ。
ほっと胸を撫でおろすと同時に、ミーナには少しだけ気になることがあった。
(カイルさんたちがこんなに優しいのは、今だけなのでしょうか……?)
過去の失敗ログを眺めていれば、嫌でも目に入る記述がある。
それは魔物に敗れた記録だけでなく、もっと生々しく、もっと痛ましい「心の決裂」の記録だ。
『人間関係の失敗:冒険者ドリー――回復役の扱いをめぐり、剣士と口論になる』
ミーナの指が、その一行で止まった。
数百年前にこの本を持っていた、あるパーティの記録だ。
(あらあら、まあまあ。回復役の扱いをめぐって口論……。
大切にされすぎてしまったのでしょうか。それとも、過酷な労働を強いられたのでしょうか……?)
ミーナは想像の翼を広げた。
彼女がかつて所属していたパーティでは、失敗はすべて「ミーナの責任」として処理された。
しかし、この『ドリー』のパーティは違う。
仲間たちが、一人の回復役のために感情を爆発させているのだ。
上巻には、単なる魔物討伐の成功例だけでなく、「仲間内で争いになった」「パーティを離脱した」といった、極めて生々しい人間関係の失敗も記録されていた。
いつか、カイルたちのメンバーにもこんな悲劇が起きるかもしれない。
そう考えると、何か予防策を講じなければならないような、使命感に近い不安が湧いてきた。
ページをめくると、事態はさらに深刻(?)な方向へ進んでいた。
『人間関係の失敗:冒険者ドリー――剣士との関係修繕に失敗、剣士がパーティを離脱する』
『人間関係の失敗:冒険者ドリー――回復役がパーティを離脱する』
『※このパーティは全員男です』
「…………っ!!」
ミーナは、上巻に目をくっつけるようにしてその注釈を読み返した。
全員、男。
剣士と、回復役と、そしてこのログの主人公である冒険者ドリー。
男たちの間で交わされる、回復役をめぐる激しい口論。守りたかった者と、守りきれなかった自責。あるいは、独占欲。そして、すれ違いの末の離脱。
(……てぇてぇ……!)
ミーナの頬が、焚き火の熱とは別の理由で赤く染まった。
彼女は気づいてしまった。
この『上巻』は、単なる失敗の記録集ではない。
そこには、数多の冒険者たちが繰り広げてきた、語られることのない濃密な人間ドラマが、行間にびっしりと詰まっているのだ。
「……ミーナ? どうした、そんなに上巻を凝視して。また新しい地雷でも見つかったか?」
横からカイルが怪訝そうに声をかけてくる。ミーナは弾かれたように本を抱え込み、ブンブンと首を振った。
「い、いえっ! なんでもありません! ただ、その……人間関係の機微といいますか、パーティの維持には『感情の管理』が何より大切なんだなと勉強していたところでして!」
「感情の管理か。まあ、お前がMPを温存しすぎて俺たちが発狂するのも一種の感情トラブルだからな。しっかり学んでおいてくれ」
「はいっ、しっかり、みっちりと深掘りさせていただきます……!」
カイルが去った後、ミーナは再びページに没入した。
彼女の脳内では、すでに『剣士と回復役の雨の中の決別シーン(男同士)』がフルカラーで再生されている。
ログには「口論になった」としか書かれていないが、ミーナの想像力はその数文字を数万文字の叙事詩へと変貌させていた。
『人間関係の失敗:魔法使いポロン――戦士に「お前の背中は俺が守る」と言われ、動揺して呪文を噛む』
(あらあら……あらあらあらあら! まあまあまあまあ!)
ミーナは杖をぎゅっと抱きしめ、くねくねと身悶えた。
失敗。それはなんて素晴らしい響きだろう。
完璧な成功ルート(下巻)には決して載ることのない、人間ゆえの弱さ、脆さ、そしてそれゆえに生まれる……愛。
(このパーティも、いつかそんな「素敵な失敗」を刻む日が来るのでしょうか……。
例えば、アルトさんがカイルさんの無表情の裏にある優しさに気づいて、思わず剣を落としてしまうような……)
「おいミーナ、さっきから独り言が漏れてるぞ。あと、鼻血が出てる」
「ひゃいっ!? だ、大丈夫です、これはMPが溢れ出しただけですから!
浄化! 自分に浄化をかけますわ!」
慌てて魔法を自分に乱射するミーナ。
失敗を恐れて震えていた少女は、今や「ログの行間を読み解く」という新たな学問の徒へと変貌を遂げていた。
(わたし、このパーティを絶対に守ります……。みんながバラバラにならないように。
そして……いつか『上巻』に、もっと美味しい……じゃなくて、尊いログが刻まれるその日まで……!)
回復役ミーナ。
彼女がかつて抱えていたトラウマは、今や「他人の失敗ログを燃料にした妄想」という、より強力で不健康なエネルギーによって上書きされつつあった。
その夜、彼女が眠りにつくまで『上巻』を離さなかったのは言うまでもない。
カイルは「熱心なのはいいことだが、あいつの目が時々、獲物を狙う肉食獣みたいになってるのが気になるな」と、新たな『上巻』の記述を予感して震えるのであった。




