第8話 さよなら、聖女フローラ
虹色に輝く**《堕天の果実》**を手にしたフローラは、それを食べる前に「最後の奇跡」を起こすことを決意する。彼女は、自らに残された膨大な聖女の力をすべて解放し、ノアが「死んだ場所」と諦めていた深淵大陸へと注ぎ込んだ。
荒廃した大地は瞬く間に緑に覆われ、かつての「最果ての花園」と同じ美しい花々が咲き乱れる楽園へと生まれ変わる。
力を使い果たした彼女は果実を口にし、その身から神々しい光が消えていく。聖女としての永遠を捨て、ただの人間としてノアの腕の中に倒れ込んだ彼女は、澄んだ青色の瞳で笑った。「お腹が空いちゃった」。
それは、彼女が初めて手に入れた「生きていくことの証」だった。
虹色に輝く《堕天の果実》を手に、フローラはゆっくりとバルコニーへと歩み出た。
眼下に広がるのは、どこまでも続く灰色の荒野と、死に絶えた常闇の空だ。
「……食べるんじゃないのか?」
背後からノアが問う。フローラは振り返らず、強い風に銀髪をなびかせながら首を振った。
「ノア。ここが、私たちがこれから暮らす場所なんでしょう?」
「ああ。……まあ、ボロ屋だがな」
「じゃあ、リフォームが必要ね」
フローラは悪戯っぽく笑うと、果実を胸に抱き、静かに目を閉じた。
「私ね、ずっと重かったの。この身に宿る膨大な聖なる力が。……人間になる前に、これを全部使い切ってしまいたいの」
「おい、まさか……」
「見ていて、ノア。これが私の、最後の奇跡よ」
瞬間、フローラの身体から目も眩むような光が溢れ出した。
それは城を包み込み、奔流となって荒野へと駆け抜けていく。
――奇跡が、起きた。
光が触れた場所から、次々と緑が芽吹き始めたのだ。
ひび割れた大地は瑞々しい草原へ。
枯れ果てた木々には葉が茂り、蕾が膨らみ、色とりどりの花が咲き乱れる。
そして、千年間閉ざされていた空の雲が割れ、暖かな太陽の光が差し込んだ。
「馬鹿な……深淵大陸が、生き返っていく……」
ノアは言葉を失った。ヴォルグもまた、涙を流して震えている。
それは、第1話で二人が再会した「最果ての花園」と同じ――いや、それ以上に美しい、青と白の花々が咲き誇る楽園だった。
「……っ、あ……」
全ての力を放出したフローラの身体が、ふらりと傾く。
彼女は最後の力を振り絞り、手の中の果実を口へと運んだ。
シャク、と瑞々しい音が響く。
同時に、彼女を包んでいた神々しい光の粒子が、キラキラと空へと還っていった。
聖女としての「永遠」が終わり、人間としての「時間」が動き出す。
「フローラ!」
倒れ込む彼女を、ノアが抱き留める。
腕の中の彼女は、以前よりもずっと小さく、軽く感じられた。
そして何より――温かかった。
氷のようだった体温が、今は脈打つ命の熱を帯びている。
恐る恐る、ノアは彼女の名を呼んだ。
長い睫毛が震え、彼女がゆっくりと目を開ける。
その瞳は、聖女の神秘的な銀色ではなく、澄んだ空のような青色に変わっていた。
「……おはよう、ノア」
彼女はへにゃりと、年相応の少女のように笑った。
「なんだか、すっごくお腹が空いちゃった」
その一言に、ノアの目から堪えきれない雫がこぼれ落ちた。
彼は愛おしそうに、腕の中の「ただの人間」を強く抱きしめた。
「ああ……帰ろう、フローラ。今日はとびきりのご馳走だ」




