⑨君は路上の月
陸は目を閉じ、深呼吸をした。
長い沈黙。
その沈黙は、異様に長かった。
とうとう会場が、騒めき出した。
中には「どうしたんだよー! 早く歌えよー!」といった声さえ飛んだ。
……やがて、陸は目を開いた。
そしてギターに視線を落とす。
次の瞬間。
アルペジオ(一つ一つの弦を弾く演奏)が、そよ風のように流れた。
その美しい音色は、一瞬で会場の騒めきを、吹き飛ばすものだった。
——圧倒された。
アコースティックギターの音が、こんなにも美しいものとは知らなかった。
ほとんどの観客が、そう思った。
コードを変えた時の、キュッ、キュッ、という、指が弦を擦れる音さえ心地よい。
いつまでも、その音色を聴いていたい。
神々しいほどの陸のギター音は、会場にいる人の心を魅了した。
イントロが終わると、陸はマイクに口を近づけた。
スゥ……と、息を吸い込む音が、マイクに入る。
会場にいる全ての人が、耳に全神経を集中させた。
その第一声。
——♪
全ての観客が、度肝を抜かれた。
それは、雷に打たれたような衝撃だった。
心の底から震え上がり、言葉を失ったのだ。
なんだこれは?
こんな歌声があるのか?
こんなにも美しいものが、地球上に存在するのか?
雪の結晶ように、儚く美しい声質。
それでいて、火山のような激しさを感じさせる、突き抜けた声量。
音の強弱、深いブレス、言葉の一つ一つ、全てに深い感情がこもっている。
その唯一無二の美声に、深いリバーブ(エコー・残響)がかかり、会場の隅々まで響き渡った。
感動。
感激。
感涙。
自然と涙が溢れる。
ハンカチで涙を拭う人。
しゃがみ込み、嗚咽を漏らす人。
気絶しかけた人。
中には失禁した人さえいる。
これはもう、心に染みる、なんてものではない。
その声は、聴く人の心を強く握り、激しく揺さぶるものだった。
もはや凶器と言っても、過言ではない。
しかし、その凶器は、猛烈な快感でもあった。
その後も、陸の歌声は会場内の時間を止め、厳かに響き渡った。
——♪
『君は路上の月』
作詞・作曲/吉沢陸
(Aメロ)
行き交う人の隙間に 君を見つけた
その温もりに触れたくて 手を伸ばす
だけど泥だらけの 僕のこの手じゃ
綺麗な君を汚してしまうだろう
(Bメロ)
あぁ 思い出す 遠い日の約束
二人の秘密基地 見上げた未来
Do you remember that day?
(サビ)
逢いたい ただ逢いたい
ありがとうと伝えたい
歌いたい ただ歌いたい
言葉に出来ない この想い
夜空に月が見えなくてもいい
優しく 僕を照らす人がいる
君は路上の月
歌が二番に入ると、ピアノやベースが、さりげなく入ってくる。
ピアノを弾くのは、福田だった。
彼は演奏しながら、陸の背中を感慨深く見つめた。
——やはり、自分の直感は正しかった。
本当に陸は、想像以上だった。
ベートーヴェンの生まれ変わりとまで言って、良いのかもしれない。
間違いなく、彼は百年先、二百年先も語り継がれるべき天才だ。
障がいを持って生まれた子は、特定の分野において、並外れた能力を発揮する事がある。
吉沢陸は、まさにそれだった。
二番が終了し、ここで間奏に入る。
オーケストラのストリングスも加わり、壮大な音の波が人々の胸を、高揚させた。
やがて間奏は終わり、三度目のサビ。
ここでトーンを落とした。
陸の歌声と、ギターだけになったのだ。
優しく、語りかけるように歌う陸。
いわゆる『落ちサビ』と言われるものだ。
その押さえたサビが終わると、陸は「Oh〜」と、徐々に声を張り上げた。
それに合わせて、ドラムやベース、ギター、オーケストラ、全楽器が嵐のように吹き荒れた。
会場内の空気が、ビリビリと震える。
そこで一瞬、全ての音が、ピタッと止んだ。
ブレイク(一時停止・空白)の後、爆発したように、ドーンと音が響き渡った。
それは、地球が爆発するかの如くだった。
ラストのサビ。
ここだ、ここが勝負だ!
転調してキーが半音、高くなった。
より感動的に、するためだ。
全ての楽器が、フィナーレとばかりに音を鳴らした。
まさにピーク。
もちろん、演出面でも抜かりはない。
キラキラとした紙吹雪が、ステージと会場に降り注いだ。
それは、とても幻想的な光景だった。
陸は、歌いきった。
全てを歌いきったのだ。
その後、ストリングスを全面に押し出したアウトロが流れる。
その間、陸は天井を見上げた。
そして深く目を閉じた。
——小学生の時に交わした、美月との約束。
美月が車椅子生活となり、すっかり疎遠になってまった高校時代。
日本一下手くそなストリートミュージシャンと呼ばれ、からかわれ、罵倒され、殴られた日々。
美月と恋人になり、幸せな時間を過ごした夏。
アメリカに渡り、みっちりとレッスンを受けた一年間。
それらが走馬灯のように、陸の脳裏を流れた。
涙が出た。
止めどなく溢れた。
三十秒ほどのアウトロが、陸には一時間以上に感じた。
会場の最前列で見つめる美月も、泣いていた。
ハンカチで拭っても、また次の涙が溢れてくる。
やがて音が小さくなる。
最後は陸のギターで、しっかりと曲を締めくくった。
つづく……




