表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

袋砂の名前

作者: オイルー

 最初に名前が変わったのは、六月の三回目の大雨のあとだった。


 川は町の背骨みたいに走っていて、曲がるところで必ず痛む。堤防の外側に広い中州があり、そこに生えた葦の色で季節がわかる。梅雨の入り、ボランティアセンターの電話が鳴りっぱなしになって、私は呼び出されるたびに軍手を濡らして堤に出た。学生のころから手伝っている土嚢づくりは単純だ。ポリ袋に砂を詰め、口をねじり、青い結束バンドで締め、木製のスタンプで「寄贈」や「自治会」の印字を押す。ふざけた顔の同級生が「ここに“彼女募集中”って押してもバレないかな」と笑って、代表の人に一喝される。水際の作業は、よく笑う。笑いながら、どこかで水の重さを計っている。


 雨の翌朝、堤の上を歩いて点検していると、印字が変わって見える袋があった。滲みで文字が太っただけじゃない。私たちが押したはずの「町内会」の「会」の点の位置がずれて、まるで「谷」に読める。隣の袋では「佐藤」の「藤」が、雨だれの筋で「籐」になっている。偶然だ。写真を撮って、グループLINEに投げると、すぐにスタンプの洪水が返ってきた。「土嚢占い」「今日のラッキーネームはこれです」。私も調子に乗って、個人アカウントに一枚投稿した。#雨字は生き物、なんてタグをつけた。


 その日の夕方、町内の防災無線が、少し離れた商店街の裏で老人が溺れて亡くなったと告げた。名は伏せられたが、近所の人間はすぐ分かる。古本屋の店主だ。私は時間差で背筋に冷たいものが走るのを感じた。昼間見た袋の、「籐」の滲み。古本屋の屋号は「籐文堂」だった。偶然は、短い距離を走って、意味になる。


 翌日、堤に出ると、ひときわ重い列があった。一列だけ、袋の腹がいつまでも乾かず、持ち上げると内側で水が動く手応えがある。中身は同じ砂のはずなのに、濡れた布団の角みたいに手を離した指にまとわりつく。袋の口をすこし揺らすと、カサ、と木が擦れる音がした。袋の中に、木片が混じっている? 私は結束の甘い一つの口を指で開き、砂の表面を掻いた。爪に当たったのは、薄い板だった。表面に黒い線が見える。墨跡のような、筆の角度。


「触るな」

 背後から声がして、私は慌てて手を離した。声の主は、川の管理課にいたことのあるというOBの男性だった。センターの腕章をしているが、隊列の後ろで黙って見ていることが多い人だ。白髪が雨でさらに白く見える。「それは、水の機嫌が悪くなる」


「木ですよ。どうして土嚢に木が」

「昔の材だ。上の方から崩れてきたのかもしれないし、誰かが混ぜたのかもしれない。どっちにしろ、名の重しになる」


 名の重し。耳慣れない言い方だ。男性は私の顔色を見て、言葉の選び方を変えたようだった。「若い人は知らんだろうが、この川筋には“名寄せ”っていう古い手当があった。雨で名がばらけると、水が人の形を欲しがる。だから、先に名前を寄せて重しにする」


「占いみたいなものですか」

「逆だ。あらかじめ誰にも降りかからないように、重さを分ける。昔は杭に書いて打った。今は印刷の時代だ。袋に最初から名が押してある。雨が来ると、それが動きやすくなる」


 男性はしゃがみ、濡れた袋の列に手を当てた。手のひらが淡い色に濡れ、爪の間に細かい砂が立つ。「この列は、まだ乾かない。中身が砂だけじゃない。古い板が混じってる。木は水を覚えている。墨も」


 私は鞄からスマホを取り出し、昨日の写真を開いた。画面の上では、滲んだ印字が拡大され、粒が粗くなる。男性は私の手元を覗きこまずに言った。「消しなさい」


「え?」

「ネットに上げたんだろう。消しなさい。雨の名は、呼ばれると軽くなる。軽くなると、どこかへ移りたがる」


 私は曖昧に笑って、話題を流した。大雨のときに荒れた心は、軽口を選びたがる。センターに戻ると、私の投稿にはいつもより多くのハートがついていた。「リアルで怖い」「すげー」「次の変化も撮って」。その「次」が、具体的な重さを持って私に戻ってくるまで、半日もいらなかった。


 夜、祖母の家の玄関の表札が濡れていた。大雨のときは、庇の下でも風で斜めに濡れる。祖母は台所で味噌汁を温めていて、湯気が電灯の下で白い布のように揺れていた。「おかえり」と祖母が言い、私の名を呼びかけて、少しつかえた。祖父が行方不明になったのは十年前の夏の夜で、その夏から、祖母は人の名を呼ぶときにわずかに迷子になる。医者は年齢相応だと言った。私はその説明に従って暮らしてきた。表札に滲んだ苗字を指でなぞると、黒い塗料が指先に移る。雨筋の道筋に沿って、一本一本の画が引き延ばされ、別の字の骨格に似てきている。


 翌朝、センターに行くと、私の投稿について話している声が耳に入った。「あの写真、怖いよな」「本当に変わるんだ」「うちの組の名前になってたら困るわ」。私はスマホを開いて、投稿を削除した。消した瞬間、通知の数はゼロになって、画面が軽くなる。軽くなる、という言葉が、昨夜の男性の声と重なった。重しが軽くなると、どうなる? 誰かに乗るのか。


 堤の見回り中、私はひとりで例の重い列に近づいた。袋の上に新しい水が乗り、表面張力で丸くふくらむ粒が、連なって濃い点の列を作っている。そこだけ、点が筆順の最初の打ち込みの位置に重なる。私は思わず息を止めた。もしこれが“書き直し”だとしたら、雨は誰の手になるのだろう。私は周りを見回した。誰も見ていない。私は袋のひとつの表面についた泥を袖で拭い、浮かび上がった印字を見た。昨日は「町内会」。今日は、縦の列がつながって、ひとつの名前になっている。


 それは、祖父の名と私の苗字が連なったものだった。祖父の名は、戸籍からはまだ消えない「行方不明」のまま、家の仏間の記録に残っている。その名の二文字目の点が、雨で濃くなり、私の苗字の最後の払いと繋がって、一続きの線になっていた。私は膝から力が抜け、湿った土に尻をついた。呼ばれている、と思った。だれに、ではなく、名に。


「重い方を持て」

 背後で声がした。昨日の男性だ。私は振り返った。「どういう意味ですか」


「両方の重さがある。軽口の重さと、名の重さだ。どちらを持つかは自分で決める。軽い方を持つと、落ちやすい」


 私は頷いたのか、頷かなかったのか、自分でも分からない。雨はやまず、昼と夜の境目がぼやけて、川の色が鉄のように鈍くなっていく。午後、町は避難準備情報を出した。センターは炊き出しの準備に移り、ボランティアの半分はそちらに回された。私は残りの半分として堤に残った。靴の中で水が行き来する。


 夕方、古い資料館に呼ばれた。OBの男性が鍵を持っていて、古い帳面を見せてくれた。戦後すぐの洪水の記録だ。青い薄紙に、筆でびっしりと人名が書かれている。帳面の端に、黒い点が斜めに連なり、筆の打ち込みの跡が幾筋も残されている。男性は私のスマホの写真と帳面を並べた。「見えるか」と彼は言った。「雨の点は、筆順をなぞる。名は形を持っている。湿りはそれを拾う」


「名寄せ、って、本当にしてたんですか」

「してた。名が水を引き受ける。名前のあるものは、名前のない重さの代わりになる。ここではそうやって、何度か切り抜けた」


「じゃあ、今は?」

「今は、名が散っている。印字は均され、寄贈者の名が先にある。そこに、未供養の名が上書きされると、重しが足りなくなる」


 未供養の名。祖父の名が、未供養。私は資料館の窓から川面を見た。雨粒が重なって、川は見慣れた速度を超えて動いている。私は思わず、家の表札の滲みを思い浮かべた。祖母は今夜ひとりだ。携帯はあるが、鳴らす前から鳴らない気がした。私は男性に頭を下げ、センターに戻ってバイクを借り、家に向かった。


 祖母は居間でラジオをつけていた。アナログの古い据え置きで、局は少しずれているのに、雨の日だけよく入る。避難情報のアナウンスが、棒読みの声で繰り返される。「こちらは防災○○です。○○地区の……」。祖母は私の顔を見ると、嬉しそうに笑い、最初の音節で立ち止まった。「……あ」


「今夜はセンターに泊まるよ。ばあちゃんは、近くの小学校に避難しよう」


 祖母は頷いたが、立ち上がらない。窓の外で、風が盛り上がる。雨は少しだけ弱まった。その弱さが、次の強い一打を予告している。私は玄関に回り、表札を拭いた。黒い塗料は、水を含んで柔らかく、指の腹で形を変える。拭いても拭いても、筋は戻る。祖父の名の二画目の点の位置だけが、やたらしっかりとそこに留まっている。


 夜、町のスピーカーが、いつもより音量を上げた。避難勧告に切り替わる。名前のない群に向けての告知なのに、私は自分の名の母音だけを二度聞いた気がした。錯覚だと思った。思いたかった。センターからの電話が鳴り、私は「すぐ戻る」と答えた。祖母は「あとで行く」と言い、ラジオに耳を傾けている。


 堤に戻ると、重い列が息をしていた。息をする、というのは比喩で、実際には袋の表面で水が移動する音がたえずして、薄い皮膜の下で液体が生き物みたいに体勢を変えている。私の名前の一画目の打ち込みの位置に、新しい水滴が集まっては弾け、集まっては弾ける。私は膝をついた。「やめろ」と言っても、相手は耳を持たない。


 遠くで、救急車のサイレンが鳴った。風で音が平たく伸びる。OBの男性が走ってきて、私の肩を叩いた。「集中しろ。重い方を持て」


「どれが重い方か、分かりません」


「軽い方は、笑える。重い方は、笑えない」


 私は頷いた。手を伸ばし、袋の列の、一番重いと思えるやつを持ち上げた。中で板がきしみ、布が唸る。私はそれを二歩分、上へ運んだ。足元の泥が吸いつく。次の一つも運ぶ。腕が痛い。息があがる。名前は、変わろうとしながらも、私の動きで字形を崩し、また結ぼうとする。私はそれを何度も、崩し、運び、崩し、運んだ。


 その夜、川は堤の高さの半分を越えたところで、踏みとどまった。センターは安堵の空気を吐き、炊き出しの鍋から湯気が上がった。私は椅子に座ったまま眠り、目を開けたのは、明け方、町内放送の声が一段高くなったときだった。「こちらは防災○○です。本日午前六時をもって避難勧告を解除します。○○さん、○○さん」


 自分の名が、二度、呼ばれた。たしかに二度、呼ばれた。前の晩の錯覚ではない。呼び方は、苗字なしの下の名だけ。誰に向けた呼びかけでもないような、空に投げられた二回呼び。私は立ち上がり、外に出た。雨は止んでいた。空気は、濡れた紙袋の内側みたいな匂いがした。


 堤に上がると、重い列は、少し軽くなっていた。中の板が、いくらか乾いたのかもしれない。私は一つの袋の表面を撫で、昨夜の滲みを探した。祖父の名の点は薄くなり、私の苗字の払いは短く途切れていた。私のスマホはポケットの中で冷たく、画面に触れると黒い自分の顔が映った。私は昨日削除した投稿のことを考え、消えたはずのものが、どこかで形を変えて残っていることを思った。


 家に戻ると、祖母は表札の前に立っていた。朝の光の中で、黒い文字が乾いて光る。祖母は指で私の名をなぞり、今度はすらすらと私を呼んだ。二度ではなく、一度だけ。私は頷き、玄関に上がった。台所で味噌汁の湯気が立っている。ラジオは止まっていた。針はどこにも合わせられないまま、ただ静かに止まっている。


 数日後、雨はまた降った。私はセンターの倉庫で、新しいスタンプを見た。インクは濃すぎると滲みやすいから薄めろ、と注意書きがあった。私はインクを薄め、無地の袋にそっと押した。名は、濃くても薄くても、雨が来れば動くのかもしれない。けれど、最初の押し方に責任を持てるのは、押したその人だけだ。


 OBの男性は、その後、堤で私に古い釘を見せた。「上流から出た。棺のものかもしれん」と彼は言った。「名は、水を渡る。渡るとき、どこかに重さを置いていく。それで水が収まることがある」


「それは、誰かの代わりに?」


「誰か、というより、人という重さの代わりだ。名が先に行けば、あとが軽くなる」


 私は頷いた。帰り道、町の掲示板の回覧板が濡れて、紙の「回」の字だけが濃くなっていた。家に帰ると、祖母は台所で水を止め忘れ、蛇口の先から一滴が落ちていた。ぽと、ぽと、と、昨日までの雨の残りのような音。私は蛇口を閉め、祖母の名を呼んだ。祖母は振り向き、私の名を呼び返した。二度ではなく、一度だけ。


 夜、布団の中で、私は自分の名を口の中だけで言ってみた。雨のない夜は、名前は軽く、舌の上で転がる。雨の夜には、重く、舌の下に沈む。どちらも自分の名だ。どちらにしても、私は明日、堤に行く。重い方を持つために。


水:夏ホラー2025:逆さ桶の雨

2025年08月10日 11時50分掲載


水:夏ホラー2025:濡れ仏

2025年08月12日 11時50分掲載


水:夏ホラー2025井戸覗き

2025年08月14日 11時50分掲載


水:夏ホラー2025:袋砂の名前

2025年08月16日 20時00分掲載

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
 時代が何年、何十年、何百年経っても時折牙をむく水の驚異と、プリンターやシールなどで容易に増刷、表示なった後に改めて考えさせられる名前の重み。  今回は、溺水者・行方不明者出ずに済んだうえ、文字のにじ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ