7.「さすが、『キャットハンター』ネジドさん」
弱い雨が降り続いている。雨は嫌いではない。石畳に染み込むそれが、ただでさえ臭うこの街の臭さをより引き立ててしまうのには閉口するが、その根本の原因は街にあって、雨が悪いわけじゃあない。
それに今日のような仕事の時は、雨の方がやりやすい。俺は水が滴る帽子のつばを少し上げて、周囲を見回す。建物に挟まれた、狭い裏路地。窓から投げ捨てられたのだろうゴミが山を成していて、狭さに拍車をかけている。まだ使えるものなら誰かが回収している筈で、残っているのはゴミの中のゴミ、真のクズばかりという事だ。……全く、俺に相応しい。
こんな場所に迷い込んだのだろう、ゴミでないものを見付けるのが、今日の仕事だった。何となくだが、場所のあたりはついている。俺は足音を立てぬようにゆっくり歩きながら、それらしき場所を探っていく。
俺は足を止めた。建物の窪み、雨をしのげる場所。思った通りだ。ゴミと汚水で覆われた地面に膝をつき、奥を覗き込む。――光る一対の、恐れをはらんだ小さな眼球。
「……ほら、大丈夫だぞ。お前を捜してたんだ。大人しく出てこい」
チッチッ、と何の役に立つのか知らないがこんな時には定番の音を口ずさみつつ、俺は腕を伸ばす。狭すぎて片腕しか使えない。が、それは俺を睨み付けたままジリジリと後退し、届かない距離まで行ってしまった。
仕方ない、最後の手段だ。俺は戻した手をマントの中に入れる。一瞬視線を外したその瞬間、それは恐怖の限界をむかえたのか、咆哮を上げて飛びかかった。
「ゥニャア――ッ!」
不意を突かれて仰け反る俺の顔面に数条の線傷を刻むという大戦果を挙げつつ、その猫は路地の奥へと走り去った。
……やれやれ。
その時突然、落ちた帽子を拾おうとした俺の頭に、生臭い何かがボトボトと落下した。
「うっせぇんだよ、クズ拾いが! 静かに拾いやがれ!」
怒声が終わると同時に、木窓が荒々しく閉じられる。しばらく雨に打たれて多少なりとも汚物を洗い流してから、俺は改めて帽子を拾いあげた。
――せめて、帽子を被るまで待ってくれればまだ良かったのだが。
俺は一つため息をつくと、猫が去った方にゆっくりと歩き出した。
◇ ◇ ◇
迷宮への入口を完全に囲むように造られた、冒険者ギルドの建物。通年24時間稼働している、眠らない建物だ。俺はその正面玄関をスルーして、横合いにまるで盲腸のように出っ張って作られた小さな小屋の戸を叩く。……反応が無い。今度は少し強めに叩く。と、中でバタバタと音がしてから鍵が外れた。ぐっと押し開けると、内側に立っていた人物が「ふぇあぁ」という悲鳴なのか驚きなのかよくわからない声を上げて飛び退いた。
「相変わらず、乱暴ですねぇ……。扉壊したら、弁償してもらいますよぉ?」
扉と棚の間に挟まれそうになったのだろうその女が、顔の半分を占める程の大きな丸眼鏡をかけ直しながら文句を言う。
「お前さんがさっさと開けてくれればいいんだ」
女の口元に拭われたばかりのよだれの痕を確認しつつ、俺はマントの中から書類を差し出す。「依頼完了だ。確認してくれ」
「はいはぁい。今回も早かったですねぇ。さすが、『キャットハンター』ネジドさん」
「……何だそりゃ?」
「知る人ぞ知る、ネジドさんの二つ名ですよぉ。猫探しならあの人! ってねぇ。書類、確認しますんで、お待ちくださぁい」
俺は肩をすくめると、マントの下で腕を組んだ。小屋の中は奥側にカウンターがあり、他の三方は何が置かれているのか分からない棚で占められている。床にも色々なものが雑多に置かれて、腰を下ろす場所すらない。……まぁ、長居するような場所でもないのだが。
女――ギルド職員のドナホゥは一つひとつ指を指しながら書類を確認している。この女の口調には一生慣れる気がしないが、俺に対して侮蔑も軽蔑もせず、ごく普通の態度で接してくれるだけ、感謝をすべきなのかもしれない。
「はい! 確認できましたぁ、問題ありませぇん! よく頑張りましたねぇ」
……やはり、どうしても感謝をする気が失せてしまう。
ドナホゥが、ふと鼻をひくつかせた。
「……なぁんか臭いません? 生臭いというか」
「ああ、多分これだろ」
俺はマントの隙間から、先程使いそこねた魚の干物を見せてやった。
「さすがですねぇ! ネコを捕まえる為なら手段を問わず、妥協を許さないその姿勢、称賛に値しますぅ」
眼鏡を上げ下げしながら完全なる無表情でドナホゥは続ける。
「でも、それとはちょおっと、違う感じなんですぅ。もっとナマナマしぃというかぁ……何でしょうねぇ?」
知らんよ、と俺は首を振る。わざわざ己の不幸をアピールする必要もあるまい。
「そんな事より、金をくれ。腹が減ってるんだ」
「はいはぁい、ちょっとお待ちくださぁい」
気の抜けた返事をして、ドナホゥはカウンターの奥へと向かう。俺は見るともなしに、少し背伸びをしながら棚の上にある金庫を探る、彼女の薄い尻を見る。
……相変わらず、よく分からない奴だ。あの巨大な眼鏡は魔道具で、レンズの場所によって様々なモノが見えるらしい。何故そんなものを持っているのかも分からないし、こんな閑職にあってもさして不満そうにも見えず、俺との窓口役を務め続けている。
「んん? 今なんかぁ、エロい視線を感じましたが?」
「バカな事言ってないで、そいつを寄越せ」
カウンターに置かれるより前に、俺は横からかっさらう。――コインが数枚。
「文句ならギルド長に言ってくださぁい。あの人がぜぇんぶ、決めているので」
ため息をつく俺に向かって、ドナホゥは無情に告げる。
「……文句なんかないよ」
少なくとも数日間の飯代と、滞納しまくっている宿賃の足しにはなる。
「新しい依頼は無いのか」
「今のところはないですねぇ」
カウンタ―に両肘をつき、顎を乗せながらドナホゥはのんびりと言う。「依頼がある時は合図しますんでぇ。お待ちくださぁい」
分かったよ、と口の中でいいつつ、俺は外に出た。
雨はいつの間にか上がっている。――とにかく、何か腹に入れよう。ギルド内のレストランは金のない若手冒険者向けに安くてボリュームのある食事を出すのだが、そこに顔を出すのははばかられる。
雨が止んだなら、屋台が出るかもしれない。
そう考えた俺は、市場の方へと足を向けた。路地を歩きながら、どうしても目に入る巨大な石壁。雨に濡れた外観がかがり火に照らされ、いつも以上に威圧感を感じさせる。この街と、王都を隔てるこの壁は、名目として迷宮を外国の侵略から守るために造られたという。全く、欺瞞もいいところだ。昔は俺も、壁の向こうへ戻りたかった。だが今は――どうでもいい。
そんな事をうじうじと考えていたからだろうか。突然マントの上から腕を掴まれて、俺は仰天した。
「久し振り、ネジド!」
「……アブラか」
上目遣いで妖しい視線を向けてくる丸顔の女を確認して、俺は無意識に全身に込めていた力を抜く。「誰かと思ったぞ。――無言で冒険者に抱きつくのは、止めた方がいい。下手をすると、斬られるぞ」
「あんたが剣持ってない事くらい知ってるからね。ヤボな事いいなさんな」
彼女はそう言ってくふくふと笑う。「ね、それよりホント久し振りじゃない。これからどう?」
「いや――」
俺が金を得て例の小屋から出てくる所から見ていたのでは、と勘ぐりつつ、俺は内心首を傾げる。娼婦のアブラ。女性の職業の選択肢が少ないこの街では、色街は1つの産業と言っていい程に栄えている。壁の外からそれを目的にやって来る奴も少なくない。店が多くなると自然に格付けが出来る。アブラはその明るい性格と豊満な体で人気を得て、それなりに上位の店に務めていた筈だ。こんな道端で客引きをする必要など無い、と思うのだが。
「……何か、あったのか」
アブラはしばらく無言でいたが、急に眼を潤ませて俺の腕に額を寄せる。
「嫌な客が、来たってだけ。いつものことよ」
「外からか」
腕に額が上下に動く感覚が伝わる。「……災難だったな」
「……慣れてるから」
額が左右に揺れた。
外からの客の中には、娼婦を人間扱いしない者も珍しくない。その為の警護の仕事を受ける事もある。アブラと面識を得たのもそれがきっかけだった。
「だから、逃げてきちゃったんだ。――ねぇ、お願い。一緒にいてよ。お金はいいからさ」
俺は一度開きかけた口を閉じる。俺は彼女に恩義を感じていた。5年前、全てを失った俺に、笑顔を向けて接してくれた。とりあえずであっても、生き続けようという気にさせてくれた。無論、娼婦と客という金銭のみでの繋がりでしかない、ということは理解している。それでも――それでも、だ。俺は昔、彼女がくれた言葉を忘れた事は無い。
「……いや、戻った方がいい」
俺は自身の欲望と正反対の言葉を、苦労して口から押し出した。助けてやりたい、と思う。だが稼ぐ機会を捨てて手ぶらで帰った時に、責められるのは彼女だ。確かにさっき金を稼ぎはしたが、彼女を買う事などできる筈もない、雀の涙だ。
「悪いな、甲斐性無しで」
アブラは無言で腕にしがみついたまましばらく歩いていたが、やがて手を離して、俺の前に立った。
「そう言うと思った! ……ありがとうね。気持ちだけ、頂いとくわ」
お金ができたらお店にきてよね、と言いおいて微笑むと、アブラは路地を歩いて行った。俺は一つため息をつく。
……情けないよな、全く。女の1人も助けられないなんて。
しかし、そんな感傷とは関係無しに腹の虫は鳴く。再び市場へ向かおうとした俺の耳に、何やら怒号が聞こえてきた。目をやるとガラの悪そうな男が2人、袋小路の奥に誰かを追い詰めている。
放っておいてもいいのだが、今の俺でも助けてやれそうな事なら、そうしてやりたい気分だった。
「おい、何してるんだ」
声をかけると、男達はナンダコノヤロウ、とあからさまにカタカナ表記が似合う表情でこちらを振り返った。