プロローグ
「暑い」今日は誰からも同じ台詞しか聞いていない。
真夏の午後にグラウンドを走り回っていれば当たり前という気もするが、わかりきったことを何回も言われるのは、いい気分じゃない。
ましてや、こう暑くてはイラつくも仕方ないというものだろう。
俺――朝倉純一郎は高校入学と同時にサッカー部に入部した。テレビのJリーグに刺激されてという単純な理由で。
中学は陸上をやっていた。だから運動部の練習がキツいことは覚悟の上だった。でも現実は俺の予想を上回っていた。
「ラスト十周!」
先頭を走っていた先輩から非情な指令が下った。
「冗談だろう?」と誰もが思ったに違いない。何を隠そう、俺もそうだった。
太陽は真上を過ぎたようだが、熱せられた地面からは容赦なく輻射熱が俺たちに襲い掛かる。
このまま走っていれば、人間の丸焼きが相当数出来上がりそうだ。もっとも体育会系の筋肉質な野郎ばかりだから、固くて食えたもんじゃないだろうが。
などと馬鹿なことを考えながら走っていると、気がつけば集団もバラけ、俺は中盤よりやや後ろを走ることになっていた。
元々長距離には自信はないし、わざわざ先頭集団を走って先輩方に目をつけられるのも如何なものかと思うので、当たり障りのないこの位置で問題はない。
ふと先頭を見ると、南城のやつが先頭集団に混じって走っている。
南城大輔は同じ一年ではあるが、中学から地域では有名だったらしく、先輩にも一目おかれている。高校からサッカーを始めた俺とはキャリアも目標も違う。
あいつはプロを目指していると聞いたし、どうも本気のようだった。
グラウンドに集まっている女子の大半はこいつ目当てという人気ぶりも忘れてはいけない。
「ようし、ランニング終了!」
やっとか、という思いと共に安堵の瞬間を迎えていた。
短距離にはいささか自信もあるが、長距離は正直つらいだけだ。
基礎体力作りなのはわかるが、心臓の出来が違う者同士が一緒に走ることの意味を一度考えて欲しい。
「はい、お疲れさま」
丸焼き一歩手前の体に、心地よいアルト声と共にタオルが手渡された。
マネージャーの松澤皆実先輩だ。
三年生だから、二学年上ということになる。
こういう言い方は失礼かも知れないが〝年上のお姉さん〟と表現した方がぴったり来る。
髪は腰まであるくらいの長さで、黒髪のストレート。
スタイルも良く、身長は百六十センチ位、胸はDカップはあるんじゃないだろうか。正面から見ると目のやり場に困ってしまう。
更に、鼻の上に申し訳なさそうに乗る眼鏡が、知性を引き立てている。
だが、松澤先輩の素晴らしいところは、外見のそれではない。タオルの受け渡し一つをとってもそうだが、先輩の絶妙な気配りは他の追従を許さないと思う。彼女のお陰で、部活が円滑に行われていると言っても言い過ぎではない。
とは言え、松澤先輩に特別想いを寄せている訳でもなく、優秀なマネージャーという認識でしかない。
ありがとうございます、とだけ言ってタオルを受け取るのが関の山だ。
この後に待ち構える儀式のことを考えると、浮かれた気分にはなれないのだ。
俺は疲労感をごまかしながら、部室へと向かった。日差しを避けるため、校舎と樹木の影をなるべく通るように歩く。もうこれ以上焼かれるのは御免だ。蝉の声が辺り一面に響き渡り、より暑さを強調している。
部室まであと十メートルの所まで来たとき、木陰から人が出てきた。
目の前に現れたその人物は、背丈が百四十センチくらいの少女で、制服を着ていた。
上は白のブラウス風、下は緑地に黒のチェックスカート。
ショートカットの髪から少しそばかすが見える。
制服はうちの学校のもので、スカーフが黄色であるところを見ると俺と同じ一年生のようだ。
少しうつむき加減ではあるが、しっかりと俺の進路をふさぐ位置に立っていた。
「あ、あの……これ」
蝉にかき消されそうな声で、小さな封筒を差し出す。
普通ならこのシチュエーションで差し出されるものと言えば、男にとって嬉しい贈り物であると思う。
いや、俺も最初の頃はそう思っていた。
しかし経験というものは時に残酷で、こういったシチュエーションにときめく神経は疾うに消え失せていた。
断言してもいいが、この封筒は俺宛のラブレターなどでは決して無い。情けないことだが、それだけは確信を持って言えるだけの経験をしてきた。
「ああ」
愛想の無い返事をして、俺は封筒に手を伸ばした。
「南城には渡しておくよ」
……もう説明は要らないと思うが、封筒というか手紙はサッカー部一の人気者、南城へのラブレターだ。
なぜ南城への手紙を俺に渡すのかと言うと、南城はいい意味でも悪い意味でもサッカー馬鹿で、硬派を気取ってる。なので、女からの手紙も受け取らない。
あまりにも素っ気無い態度を取るもんだから、一度手紙を橋渡ししたのだが、これがいけなかった。女子のネットワークで忽ち広がってしまい、朝倉に渡せば南城に渡るという定説がすっかり出来上がってしまった。
断ると女子ネットワークで悪いうわさが広がりそうだから、こうして仕方なくメッセンジャーをやってる訳だ。色気のない話だろ?
「じゃあ、よろしくお願いします」
手紙を渡し終えると、少女はその場でお辞儀をした後、足早に去っていった。
(結果は保証できないけどな)と心の中で呟いたが、彼女に伝わるはずもない。
村上有紀です。
初めて投稿します。
この現行はスニーカー大賞に応募してあえなく落選したものです。
個人的には気に入っている作品なので、少しずつ修正してアップしていきたいと思います。
ご意見・ご感想をいただけるとありがたいです。