表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

愛という感情

作者: 春野翡翠

プロローグ 失われた始まり

東京の灰色の空。1998年12月23日。


病院の救急外来。血まみれの若い女性が担架に横たわっていた。彼女の腕には、まだ産まれたばかりの赤ん坊。周囲の医療スタッフは、女性の命を救うことに必死だったが、彼女は息を引き取っていた。その赤ん坊。まだ名前もない女児は、孤児院へと運ばれることになった。唯一の手がかりは、女性の血で少し汚れた一通の手紙と、真っ白な毛布だけ。

第一章 孤独の温室

東京郊外の聖母愛育園。グレーのコンクリート造りの建物は、まるで感情を封じ込めるかのような冷たい外観をしていた。

院長の佐藤美咲は、理香の特異性に早くから気づいていた。他の子供たちとは全く異なる、彼女の知的な輝きと、同時に感情的な距離感。

生まれてすぐに預けられた理香は、まるで感情という概念とは無縁の存在のように育った。彼女の知性は驚くべきものだった。3歳にして読書を始め、5歳では高度な科学書を理解し、8歳では高校レベルの数学を習得していた。しかし、感情的な発達は著しく遅れていた。

美咲は、理香に特別な教育プログラムを用意した。彼女の知的好奇心を満たしながら、同時に感情的な成長を促すことを目指していた。心理学者、教育者、そして 小児科医たちと協力し、理香の独特な発達を理解しようとした。


第二章 理性の迷路

15歳。理香の内面は、まるで精密な機械のように整然としていた。

彼女の部屋は、完璧に整理された書籍と研究ノートで埋め尽くされていた。量子力学、神経科学、遺伝学。理香の知識は、同年代をはるかに超えていた。

しかし、感情という領域では、彼女は完全な素人だった。

友情、愛、共感。これらの感情は、彼女にとって単なる生物学的反応、化学的プロセスでしかなかった。人間の感情を、まるで数式のように分析し、理解しようとしていた。

孤児院の他の子供たちは、理香を恐れていた。彼女の冷徹な知性、感情のない眼差し。誰も彼女に近づこうとはしなかった。


第三章 運命の出会い

その秋の夕暮れ。すべてが変わり始めた。

孤児院の裏庭。枯れ葉が舞い散る静かな空間。理香は量子力学の最新論文に没頭していた。突然、微かな痛々しい鳴き声が彼女の意識に響いた。

最初は無視した。しかし、その鳴き声は執拗だった。

好奇心というよりも、何か根源的な衝動に駆られるように、彼女は庭の隅へと歩み寄った。

そこにいたのは、一匹の子猫。左の後ろ足を深く傷つけており、震えていた。傷は感染の兆候があり、放置すれば致命的になりかねない状況だった。

理香の最初の反応は科学的な分析だった。傷の具合、敗血症のリスク、治療に必要な医学的処置。しかし、何か彼女の内面で、これまで感じたことのない感情が揺さぶられていた。


第四章 感情の芽生え

子猫を手に取った瞬間、理香は生まれて初めて「温もり」の本質を理解した。

震える小さな生命。脆弱で、まるで自分のような存在。理香は子猫を丁寧に抱き上げ、院長室へと向かった。

美咲は驚いた。いつも冷静で感情のない理香が、この子猫の世話に並々ならぬ関心を示したのだ。

彼女は子猫に「ハル」と名付けた。生命、春、希望を意味する名前。それは理香自身の人生の metaphor でもあった。

治療は困難を極めた。理香は獣医学の知識を総動員し、自ら看護に当たった。夜を徹して、ハルの傷の手当てを行い、栄養状態を注意深く観察した。


第五章 愛の発見

ハルとの日々、理香の心に小さな、しかし確かな変化が生じていた。

これまで彼女は、感情は論理的に制御できるものだと考えていた。しかし、ハルとの関係は、そんな彼女の認識を根本から覆していった。

夜、ハルが発熱した時、理香は徹夜で看病した。科学的な知識だけではない、何か根源的な衝動が彼女を動かしていた。それは「愛」という感情の最も純粋な形だった。

彼女は、愛とは単なる生物学的な反応ではないことを、身をもって学んだ。それは理性を超えた、説明不可能な感情的な繋がりであることを理解し始めたのだ。

第六章 内面の変容

時間の経過とともに、理香の世界は徐々に変化していった。

ハルは、彼女にとって単なるペットではなく、家族同然の存在になっていた。理香は、初めて無条件の愛というものを知った。傷つけられる恐れもなく、何の見返りも求めない純粋な感情。

彼女の周囲の人々も、その変化に気づき始めていた。冷たく見られていた理香の目に、温かみが宿り始めたのだ。

終章 新たな理解

数ヶ月後、ハルは完全に回復し、理香の大切な伴侶となった。彼女は愛とは、論理や理性では捉えきれない、根源的な感情であることを深く学んだ。

それは制御できるものではなく、むしろ自然に湧き上がるもの。理香は、愛には説明できない力があることを知った。彼女の人生観は根本から変わったのだ。


エピローグ

理香は将来、小児科医や児童心理学者になることを決意した。彼女は、科学的な知識と、ハルとの経験が教えてくれた感情的な理解を融合させ、子供たちの心のケアに尽力しようと考えていた。

愛を知らなかった少女は、今や愛の本質を最も深く理解する者の一人となったのだ。


最後の追記

理香の部屋の机の上。開かれた日記には、こう記されていた。

「愛は、説明できない。測定できない。しかし、確かにそこに存在する。それは、理性を超えた、最も純粋な人間の感情なのだ。」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ