表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死の暦  作者: 雪未 桔尚
9/16

第二部:審判の日 ⅰ二〇一八年四月十三日金曜日

私は自分を人間だと感じる、ということは、つまり手足の不具な存在だということだ。

                           「猫のムールー」『孤島』ジャン・グルニエ

♤裁判

 そろそろ桜が散る時期だと思った。アスファルトの上で、桜の花びらが茶色く変色し、異臭を漂わせているのを想像すると吐き気がした。あんな薄汚い色の花の何が良いのか理解不能だ。桜が綺麗だと言われているから、花見をしているだけだろう。そんなに花が好きなら、向日葵を見ながら酒を飲めばいい。そんなことを考えていた。

 裁判官は、僕が被告人かどうか確認するための質問をいくつかした。

「被告人・黒澤彗・一九九七年九月五日生(当時二十歳)。被告人は平成三十年一月十七日水曜日二十時ころ千葉県千葉市花見川区にある幕張総合病院の七三五号室に侵入し、大橋美代子さんを姦淫し被害者の首を絞め殺害し、逃走し、その一週間後にあたる平成三十年一月二十五日木曜日十三時ころに千葉県松戸市岩瀬にある松戸中央総合病院の五〇九号室にいた被告人の父である黒澤義晴さんの首を絞め、包帯で被害者の身体を吊るし、自殺に見せかけたものである。罪名及び罰条 強制性交罪 刑法第百七十七条 殺人 刑法第百九十九条」

 検察官は起訴状を読み上げた。僕は彼女の苗字が大橋だったということを思い出した。

「被告人には黙秘権があります。答えたくない質問は、答えを拒むことができ、初めから終わりまで黙っていることも可能です。質問に答えても構いませんが、この法廷で述べたことは被告人に不利、有利に問わず、証拠として用いられることがあります」

 裁判官は言った。

「起訴状の内容に間違いはないですか?」

「間違いありません」僕は答えた。

 裁判官に促され、検察官が立ち上がった。

「被告人は姉である志穂さんと一九九七年九月五日に、千葉県習志野市で生まれました。幼少期、被告人の両親は共に健在で不自由のない幼少期を送りました。二〇一〇年被告人は、私立函館ラ・サール学園中等学校に入学しました。親元を離れ、北海道函館市で集団の寮生活を始めます。ここから被告人は殺人犯になる片鱗を見せています。二〇一〇年五月ゴールデンウィークの帰省を終え、寮に戻った際、無差別に六件の暴力事件を起こしています。計八人に対し、いずれも一方的に被告が暴力を振るったようです。この件で被告は五十枚近くの反省文を書かされ、父親の義晴さんも呼び出され、学校長と副校長の四者面談を受けています。反省文には怒りによってではなく、暴力を振ったらどうなるか気になったと書いています。中学では一学年全員が同じ部屋なのですが、高校になってからは四人部屋になり、被告はいずれの学年でもルームメイトとトラブルを起こしています」

 事実だった。

「被告は十三歳の頃から日記を書いています。不正確な部分も多く、被告の創作のようなものも書かれているため、難解です。ですが、大部分はあっているようです。その日記を見る限り、十四歳頃から強い鬱病の傾向が見られ、手首には複数のリストカットの傷があったようです。被告は一度、学校の近所にある佐藤メンタルクリニックを訪れましたが、当時未成年だったため、保護者の許可が必要だと言われ、それ以来訪れていません。ルームメイトとトラブルを起こしたのも、被告の鬱傾向と離人症によるものだと日記に書いています。二〇一五年一月十日、被告の母である黒澤冬華さんが亡くなります。冬華さんは午前八時に自宅で首を吊り、十六時に帰宅した志穂さんに発見されました。被告は、日記に母親を殺したのは自分だと書いています。別の日には、母親は自分が殺したかったのだと書いています。被告は一月十七日に寮に帰っています」

 母が首を吊って死んだことをこのときに初めて知った。父も志穂も僕に隠していたのだ。

「冬華さんが亡くなってからは口数も減り、部屋ではずっと音楽を聴いていることが多かったようです。被告は髪を切るのをやめ、三年生の夏には肩につくまで伸びていました。被告は高校卒業後、イギリス留学を考えていましたが、義晴さんが家にいて欲しいと頼んだことで、神田外語大学に進むことに決めました。被告は二〇一六年四月、神田外語大学英米語学科に入学しました。必修授業を受けるクラス分けがあり、同じクラスには大橋美代子さんがいました。被告は長く伸ばした髪を切り、クラスではお調子者を装っていたようです。同年十二月、義晴さんは、長野県のビーナスラインを車で走行中、崖から落ち、一緒に同乗していた榊紀子さんは死亡し、義晴さんは脳に損傷を負い意識不明となりました。義晴さんは松戸中央病院に搬送され、被告に殺害されるまで目を覚ますことはありませんでした。志穂さんは九月まで地方を転々と旅行をしたり、アルバイトをしていましたが、義晴さんの財産を相続し、船橋市の特別養護老人ホーム付きの介護施設『くまゆりの郷』で働きはじめます。同じタイミングで、被告はゲオ南習志野店でアルバイトを始めます」

 母は自ら首を吊って死んでいたということ以外の情報が頭の中に入ってこなかった。

「被告の日記によると、被告は大橋美代子さんに好意を持ち、同年十一月に自分の好意を伝えていますが、断られています。被告は二〇一七年四月に二年生に進級し、大橋さんと同じクラスになります。同年六月頃、大橋さんは後天性免疫不全症候群、通称エイズの発症により、サイトメガロウイルス網膜炎の症状が出始めますが、大橋さんはすぐには病院に行けず、七月に病院に通い始めます。エイズの検査と発見が遅れたこともあり、八月には失明していました。また、抗エイズ薬を投薬するのが遅れたこともあり、九月にはエイズ呆症候群を発症し、軽度の認識障害、記憶障害が出始め、入院を余儀なくされます。被告は頻繁に大橋さんの病室を訪れています。被告は大橋さんに異様な執着を持っていました。この頃から犯行に及ぶために、準備をしていたのでしょう。十月には歩行障害や失禁などを生じ、十一月には寝たきりの状態になりました。同年八月幕張総合病院内で、大橋さんが交際していた越谷悟(さとる)さんと口論になっており、被告は大橋さんを殺す予定だと言っていたそうです」

 母の死を隠蔽した父と志穂は僕のことをどうしようと思っていたのだろうかと考えていた。

「被告は十二月から桜井美弥さんと交際を始めます。被告は最初の犯行に及ぶ一日前、一月十六日に一方的に別れを切り出しています。一月十七日は学校を休み、犯行に及んだ後、帰宅し、銭湯に行き、家でのんびりとゲームをして過ごしたそうです。病院の裏口のパスコードを把握していました。被告は計画的に大橋さんを殺害しようとしていました。被告の自宅からは『人殺し大百科』と『完全自殺マニュアル』という本が見つかっており、それぞれ、絞殺、首吊りの項に付箋と線が引いてありました。また、姦淫に関しても計画的なもので、被告は避妊具を持参し使用した形跡があります。大橋さんは被告に殺害された後、看護婦の一人に発見されましたが、目立った外傷も争った形跡も見られず、病死として処理されましたが、義晴さん殺害後、大橋さんと交際をしていた越谷悟さんの証言で、事実が判明しました。院内の敷地内で、被告の精液の入ったコンドームも見つかっています。一月十八日も大学を休み、高校の友人である木津文紀さんと四谷にある定食屋『鰕倉』で昼食を食べ、ダーツバー『バグース吉祥寺店』で知り合った女性二人と夕食を食べ、その後二人のうちの一人、向田香奈さんと『ホテルユージョアル』を訪れています。被告は女性を強姦し殺害した翌日に、友人と食事をし、女性と性行為に及んでいます。そして、その日は帰宅し、翌日一月十九日に午後から学校に行っています。授業を終えると、友人たちと『大衆酒場ちばちゃん』を訪れ、『アプレシオ幕張店』のカラオケボックスで一夜を明かします。一月二十日に、木津さんは練炭自殺をしています。一月二十二日には、木津さんと交際をしていた藤江真波さんと『オイスターテーブル上野桜テラス店』で食事をし、その後藤江さんの家に泊まっています。この日は大橋さんの葬儀が行われていました。被告は顔を出していません。一月二十四日、松戸中央総合病院で食事後のトイレ介助が終わったタイミングを見計らい、受付を通って義晴さんの病室を訪れ、直後に義晴さんの首を絞め、義晴さんの頭部の包帯で、被害者の上半身が浮くようにベッドの柵で首を吊るしています。義晴さん殺害後、被告はタクシーに乗りますが、タクシー運転手は、被告のことは気味が悪いくらい笑っていたから憶えていると証言しています。被告の異常性は私が敢えて強調する必要性はないでしょう。帰宅後銭湯に行き、吉祥寺で向田香奈さんと待ち合わせ、『ホテルユージョアル』を再び訪れています。翌日、一月二十五日十六時ころ、葛西臨海公園にて被告は逮捕されました。逮捕時、被告は人を殺したんだと笑っていたそうです。その日は木津文紀さんの通夜がありました。その時間帯に葛西にいたということは、参列する気は全くなかったのでしょう。被告は逮捕後、捜査には協力的で、自分の罪を全て認めています」

 僕はほとんど検察官の話を頭に入れる余裕はなかった。

 僕の右隣に座っていた弁護士が立ち上がった。

「以上の事実を証明するため、証拠等関係カード記載の、各証拠の取り調べを請求します」

検察官は裁判官と弁護人に証拠等関係カードを渡した。

 検察官は中学の時の反省文と七冊の大学ノートを展示した。至るところに白い付箋が貼られていた。裁判官はそれを手に取り読んだ。裁判官が見ていたのは、中学三年の時に手首から垂れた血がついたページだった。血は赤黒い染みとなっていた。十分ほど、裁判官は日記と反省文に目を通し、読み上げた。誤りはなかった。

 裁判官が席に着くと、検察官は証人として美弥を呼び、証人尋問をした。尋問で虚偽を証言すると、偽証罪に問われることもあると裁判官は言った。美弥は、僕が自分から付き合いたいと言ったが、美弥のことなど性欲処理でしかなかったこと、美弥と付き合っている時から、真波と寝ていたこと、目の前で野良猫を蹴ったこと、普段から誰かを殺したいと言っていたことなどを証言した。弁護士の尋問に対しても、よどみなく答えていた。検察官は物証として、土がついたままのコンドームと、親父を吊るした包帯を展示した。検察官は書証として、取り調べ調書を全文読み上げた。調書の中で、検察官は僕に訊いた。「なぜ大橋さんを殺害したのですか?」僕は殺したかったからだと言った。「なぜ殺したかったのですか?」僕はなんと言えばいいかわからず、あの時のことを思い返していた。凍てつく風、冷たい手すり、白い肌、赤い唇、青い血管、薄い酸素、凍った骸。

笑いが込み上げる前に、寒かったからだと言った。それはどういうことかと、検察官は言った。空気が冷たいことだと言うと、検察官は、馬鹿にするのもいい加減にしろ、と声を荒らげた。そして、姦淫をしたのは殺害前か、そしてそれは何故かと言った。殺害前で、理由は「美しかったからだ」と言った。「それは特別な感情によるものですか?」特別な感情というものがよくわからないが、ただの欲情だと言った。「義晴さんの殺害動機も同様ですか?」殺したかったのは変わりないが、特に理由はない、と言った。「憎悪の感情はなかったということですか?」そうだと言った。それ以外、僕は何度も間違いないと言った。

 検察官は必死に何かを言っていたし、呼び出されたタクシー運転手も何か言っていたが、僕の顔は笑っていた。腹の底から笑い声が漏れた。その日初めて、法廷を見学している人たちに気がついた。汚物を見るような目で僕を見ていた。また、顔には憎悪の表情が浮かんでいた。その憎悪は誰の憎悪なのだろうか、と思った。リョウタの軽蔑した顔が見えた。アスカが泣いていた。全てが劇のようだと思った。僕の隣に座っていた弁護士は、激しく貧乏揺すりをしていた。やめてほしいと思った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ