第一部:海と月の暦 ⅷ二〇一八年一月二十五日木曜日
♤潮騒
退出時間の一時間前に目を覚まし、隣で寝ている香奈を起こした。
「あの、今日はどこか行きませんか?」
僕は構わないと言った。
僕は湯を張り、体を洗った。彼女はメイクを落として出てきた。マスカラを落とすと彼女の目は少し小さく見えた。僕たちは髪が乾く前に服を着て、ソファに腰掛けた。
「美雨は、木津さんのこと気に入ってたんだと思います。あの子は、父親が酷かったせいで、施設で育ったんです。ああいう施設って普通は十八過ぎたら、独り立ちしなきゃいけないんですよ。でも、美大に進みたかったから、あの子はパトロンを見つけて、お金を工面してもらってたみたいで。黒澤さんは美雨とはほとんど接点なかったから、わからないかもしれないですけど、わたしは美雨に憧れてたんです。わたしは多分、美雨からしたら何でもある家庭に生まれたけど、美雨が持ってたような誇りを持ってないです。男の人の前だと、ニコニコして可愛い感じに振る舞ってましたけど、美雨はわたしと二人だけの時は情熱を見せてくれました。絵に対しても、生きるってことに関してもです。手首は傷だらけだったし、死にたいってよく言ってたし、それが冗談じゃないってこともわかってました。でも、あの子は真剣に自分を生きようとしてたんです。美雨を見て、わたしは自分を真剣に生きていないなって思いました。わたしは誰かの真似をして、それを自分だと思い込んで、自分の意志で何かを選んでるつもりになって、結局自分を信じていませんでした。でも、あの子は必死に生きてたんです。あの子は絶対に自分を疑わなかったんです。だから私は美雨を尊敬してた。けど尊敬は、一番愛とは遠いものだったのがわかってなかったんです」
香奈は美雨を許してやってほしいと言った。美雨は何も悪くないだろうし、木津の命の責任は木津にある。美雨の命だって責任を取れるのは美雨だけだと言った。
「美雨は、誰かに愛情を感じることはないって言ってました。誰かと寝るのも、父親を思い出すだけだって。生きるために自分をすり減らすんだって。けど、最後に木津さんを選んだのは、美雨が木津さんのことを気に入ったんだと思います。だって、あんな男嫌いが男の人と一緒に死ぬわけないです」
香奈は笑った。そして美雨に痴漢をした中年男が、美雨に股間を蹴られて病院送りになった話などをした。香奈は、僕がやっぱり目を合わせてくれないと言った。僕はまた苦手なんだと言った。
退出時間ギリギリに部屋を出た。香奈は化粧をせずにそのまま部屋を出た。どこかで化粧をしたいといったが、僕がそのままでも十分だと言うと、それ以降化粧をしたいとは言わなかった。駅前のカフェに入り、僕は青いクリームソーダを頼み、香奈も同じものを頼んだ。二人でパストラミビーフのサンドを食べた。
「どうします?どこに行きます?」
「あんまり人混みには行きたくない」
「おうち、千葉なんですよね?だったらそっちに近いとこにしましょうよ」
中央線で東京駅まで行き、京葉線に乗り換えた。
「うーん、じゃあ趣味とかはないんですか?」
香奈は電車の中で、僕に何か好きなものはないかしきりに訊いた。
「特にない。退屈になったらゲームしたり、本読んだりするぐらいだ」
「ゲームとか本は好きじゃないんですか?」
「ゲームは寝る前にしないと寝られないだけ。本を読むのはただの習慣だし」
「動物とかはどうですか?」
「好きでも嫌いでもない」
「黒澤さんの好きなものを知りたいんだけどな」
僕は人生に没頭できていないのだと言った。香奈はどういうことかと訊いた。「例えば、多くの健全な人は、花畑を見れば綺麗だと思うし、不当な目に合えば憎いと思う。知人が死ねば悲しむだろうし、誕生日を祝われたら嬉しく思うんだろう。俺にはそれがわからない。健全な振りはできる。だが、俺の心はそう思わなくてはならないという気持ちに支配される。それが窮屈で嫌なんだ」と言った。香奈はただ頷いて聞き、しばらくして僕の手をとり、なら今から没頭すれば良いと言った。
結局、香奈が僕の好きなものを見つける前に、目的の葛西臨海公園駅に着いた。僕はタバコでも吸おうかと思ったが、ライターもタバコもホテルに忘れてきたらしかった。
駅の中のコンビニでライターとマルボロブラックメンソールを買った。吸える所もなかったのでそのまま公園に行くことにした。駅前にはそれなりに人はいたが、水族園の前を抜けると人はいなくなった。僕たちは海が見えるベンチに腰掛けた。左には観覧車が見えた。ぶ厚い雲は太陽の熱を妨げた。ベンチの右にある蓋のない金属製のゴミ箱には一羽の雀がとまっていた。ゴミ箱の中にはマックのジュースの容器が二つ、ゴミの上に直立していた。容器に蓋はついておらず、中には氷が溶けた後の水だけが入っていた。その水を雀は飲み、容器の中に入り、身体を擦りつけるように水を浴びた。容器は右に倒れ、毛の逆立った雀が出てきた。かわいい雀だと香奈は笑った。真上でカラスの鳴き声が聞こえると、雀は飛び立った。真上の樫の木に止まっていた。
「わたし、カラス苦手なんです。小さい時に襲われたことがあって。フン落とされるのも嫌だし、もっと海に近いところに行きません?」
波は高かった。冷たい風は湿気で丸みを帯びていた。僕は香奈が手を握ろうとしていることに、気付いていない振りをした。僕はタバコに火をつけ、深々と吸った。
☆
「夜なのに風が暑い!」
自分の地元だと夜でも涼しい海風が吹くと、君が文句を言ったのを覚えている。僕がタバコに火をつけると、健康に悪いよと言って、箱を取り上げて座った。
「いっつもこれ吸ってる。吸うの止めなよ」
好きで吸っているのだと言った。
「私より先に死んだら許さないからね」
笑えないなというと、君は笑った。タバコを吸い終わり、僕も座った。冷たい砂の感触がした。僕は今日のデートの点数は何点か聞いた。
「うーん。最後のタバコで五十点減点で四十点ですかねえ」
口を尖らせた君はニヤッと笑った。
「じゃあ、本当は九十点?」
君は無視をした。
「残りの十点は何?」
「まだ終わってないから採点途中」
僕は鼻に突き抜けるメンソールの香りに目が潤むのがわかった。君は泣いていた。
「ねえ、私が死んだら悲しい?」
そんなことないと云った。
「嘘つき!」
「嘘じゃない。俺は悲しまない」
「ひっどいなあ。化けて出てやるからね。あとね、私より先に死ぬのも、勝手に死ぬのも許さないから」
「じゃあ、どうすればいいんだ」
「わかんないよ。自分で見つけてよ」
君の横顔を美しいと思った。目が赤く腫れ、肌は一層、透明感を増した。
「勝手だよね、私は」
「ああ」
「スイはさ、私にまっすぐ向き合ってくれてるのに、私はずるいよね。なあなあにしてる。スイの好意に甘えて傷つけてる」
「それの何が悪いんだ。俺がいいんだから問題ない」
君は僕の右手を取った。
「ねえ、星、綺麗だね」
「ああ」
星はおろか月すらもなく、飛行機のトゲトゲしい光だけが見えた。僕は手を解いた。
「綺麗だな」
君を胸に抱き寄せた。涙で濡れはしなかった。琥珀色の瞳はまっすぐ僕を見ていた。君は目を閉じた。波の音が高く聞こえた。うだるような熱気に包まれているのを感じた。額から汗が流れる。手にも汗がじんわり滲んだ。ゆっくりと君に近づいた。白い頬は薄紅色に染まり、額に汗の粒がついていた。閉じた目には、長い睫毛が重なっていた。口の力を抜いて僕を待っていた。
「いたっ!ヘタくそ!」
お互いの歯が当たった。下から咎めるような視線を投げ、君は笑った。僕の首に手を回し、再び唇を重ねた。「五十点かな」君はそう言った。
♤
青灰色の雲間から覗いた落日は、空を紅色に燃やしていた。香奈はいつのまにか僕から離れ、海の方へと歩いていた。タバコは燃え尽き、火が消えていた。香奈は振り向き、何かを言いながら僕の方に走ってきていた。その直後に、背後から僕は肩を叩かれた。
「黒澤彗さんですね。私たちと署まで同行願えますか?」
僕は頷いた。もう幻想は終わった。いや、もっと前に終わっていた。両手を差し出すと、アルミでできた重くも軽くもない手錠をされ、腰に縄を巻かれた。僕は吸い殻を捨てた。香奈は何で連れて行くんだと刑事たちに言った。刑事たちは何も答えなかった。僕は腹部が痙攣し、顔の筋肉が引きつるのを感じた。僕は人を殺したんだと言って、笑った。刑事たちは縄を手荒に引き、僕を引き摺るようにパトカーに乗せた。千葉県警察署に連行された。木津の葬式に行けなくなり、志穂に申し訳なく思った。