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死の暦  作者: 雪未 桔尚
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第一部:海と月の暦 ⅶ二〇一八年一月二十四日水曜日

波濤(はとう)

父に会うのは、一年ぶりだった。志穂が休みで寝ていたので、起こさないように家を出た。新京成線に乗り、松戸駅で降りた。改札前の喫茶店に入り、コーヒーとサンドイッチを注文した。香奈からメッセージがきていた。

『調子はどうですか?今日、会うことってできますか?』

 僕は夜なら空いていると、返事を送った。十九時に吉祥寺駅で会うことになった。美弥からもメッセージがきていた。

 『本当にさようなら』と一言だけ送られていた。僕は文庫本を開いた。腹違いの弟は兄に「男は愛を感じることなどできない」と説いていた。男が知っているのは欲望と性欲と雄同士の競争だけなのだ、と。

十三時を回った時、文庫本を閉じ、カフェを出た。タクシーを拾った。車内はガソリン臭かった。

 エントランスに着き、サインをする。エレベーターに乗り、部屋に案内された。案内した女は、扉を閉め、退出した。この狭い空間は息苦しいと思った。部屋の右側にはトイレのドア、奥に行くと大きな窓がある。真新しいシーツ。途絶えることのない機械音。窓から注ぐ光。父は寝ていた。吐き気がした。

 部屋は暑かった。大きな体。男の指から生えている毛。ヤニで黒く変色した爪。土色の顔。痩せこけた頬。呼吸器。伸びきった髭。頭に巻かれた白い包帯。目蓋から伸びる少し長めの睫毛。

 しばらく僕は立っていた。どれだけこの男を観察しても、愛着がわかないことに気がつき、驚いた。そして笑いそうになった。気分がよかった。時計を見ると、十四時だった。次の予定もあるから早く済まそうと思った。

 ベッドの端に座り、男の頭の方へ手を伸ばした。僕は右手で包帯を解き、それを持った。臙脂の縫合跡。閉じられた目。エメラルドグリーンの透明な呼吸器。

僕は手が少し震えているのに気がついた。自分の手を強く握り締めると、爪が掌に食い込み、肌は白くなり、しばらくすると赤くなった。寝ている男の脇に手を入れ、上体を起こした。重みがなかった。包帯を両手で持つ。包帯を顎にかけ、男を放した。男の体はストンと落ちていった。顔が横に引きつる感覚がする。包帯をベッドの柵に括り付けると、男の上半身が浮いた。吐く息が荒くなる。酸素が血液中に過剰に行き渡り、心臓が激しく鼓動する音が耳の奥で響いた。手が大きく震えた。僕は自分の震える手を見て、寒いのだと認識した。男の首を手で締めた。寒い。男の喉仏が上下している感触がした。だが、すぐにそれを離した。腹が痙攣し始め、痛みを覚えた。笑い声が漏れる。息が勝手に吐かれ、視界が霞んだ。扉を開け、走ると、吐かれた息が大きな音になった。階段を駆け下りながら、鼓膜が割れるくらい大きな声で笑っていた。気分が良いと思った。

 タクシーに乗り込んだ。千円札を出し、小銭は受け取らず電車に乗った。席に座った時、文庫本を忘れてきたことに気がついた。また、買えばいいと思ったが、再び千五百十二円を払うのは癪だと思った。栞だけが気がかりだった。

 家に帰ると、志穂は起きていた。「あれ?どこ行ってたの?」と志穂は訊いた。散歩に行っていたと言った。「なんか良いことあった?顔が嬉しそうだよ」僕は志穂を無視して、今日の夜は帰らないと言った。「やっと彼女できたんだ?」と志穂はニヤニヤして言った。違うと言ったが、志穂は信じなかった。

「デートもいいけど、明日の夜までには帰ってきてね。木津くんのお通夜だから」僕はわかったと答え、部屋に入った。僕の部屋にはベッドと小さな本棚しかない。物の行方がわからなくなった時に煩わしいからだ。香奈との待ち合わせまで、時間に余裕があった。

 僕は銭湯に行き、サウナに入った。水風呂に入ったとき、ようやく顔の緊張が解けた。チャコールグレーのロングシャツに、同じ長さのノーカラーの黒いブルゾンを羽織り、トープのワイドパンツを履いた。いつもこの組み合わせで着ているため、選んだだけだった。


(あと)白波(しらなみ)

待ち合わせ時間の一時間半前に着いた。吉祥寺周辺の店で時間を潰そうかとも思ったが、井の頭公園のベンチに腰掛けタバコを吸った。倦怠感を感じ、眠気が襲った。肺に取り込まれる空気が凍てつくように冷たくトゲトゲしかった。あの日を思い出した。

 駅前に行くと、香奈がいた。髪はボブカットになっていた。首にはチョーカーをつけ、黒のブラウスの上にはオリーブ色のMA−1を羽織り、モノクロのボーダーの中央にスリットが入ったロングスカートを履いていた。靴はパンプスではなくブーツだった。

 先に着いてたのかと香奈は訊いてきた。井の頭公園で時間を潰していたと言うと、暖かい場所に早く行こうと言って、僕の手を引いた。赤いリップが光を反射していた。

「吉祥寺に住んでると思ってたんですけど、この前電車で来ましたよね。もしかして、ここまで距離あります?」

 僕が最寄り駅とここまでの所要時間を言うと、彼女は謝った。僕は気にしなくていいと言ったが、彼女は僕の顔が青ざめていると言った。

「あの、ご飯はどこかで買っちゃって前のホテルに行ってもいいですか?」

 僕は構わないと言った。拒否する明確な理由もなかった。コンビニでそれぞれ弁当を買い、ホテルに入った。

 壁にかかっていた絵はライオンの絵ではなかった。絵の左側には藍色と瑠璃色の海が見える。湖は夜の色を反射している。湖は中心から右へと、アーチ状に建てられたダムのような橋に区切られていた。橋の内側には緑があり、地面から橋の頂上は崖のように高低差がある。絵の中心には、橋の入り口がある。橋はカラフルな石畳に覆われている。緑と面している崖のような部分だけ、石が敷かれていない。橋の入り口の手前には柵があり、左の柵が開いている。青いコートを着た男が、開いた柵を止めていて、山吹色のコートを着た男が右隣の柵の奥にいる。男はどちらも髭を生やしていて、帽子を被っている。絵の下からアイスグリーンに塗られ、男たちの足元には緑青色の芝が生えている。絵の左右には(あかつき)鼠色(ねずいろ)の木がそれぞれ一本ずつ生えていた。空は常盤色と群青色でオーロラのように塗られていた。空と海には無数の星が描かれていた。

「この前の絵、調べました。ピーター・ドイグって人の絵みたいです。この絵も多分そうです」

 僕は作者に興味はなかったし、美しい絵だとは思ったが、前の絵の方が好みだった。だから、そっかとだけ答えた。

 香奈は上着をかけ、ソファに腰掛けた。彼女は耳に髪をかけた。ピアスはついていなかった。ピアスの跡だけが赤かった。

「煙草吸ってもいい?」

「いいですけど、煙草変えました?」

 吸ってみるかと聞くと、彼女は一本取り、火をつけた。彼女は、むせた。

「前のよりは吸いやすいかもしれないです。あ、もうこの前以来煙草はやめてたんです。なんかわたしには合わないみたいで」

 彼女はシャワーを浴びてくると言った。僕は彼女の手を握った。彼女は変な汗をかいたから匂わないか心配した。僕は全然そんなことはないと言った。

「前もこうしましたね」

「ああ」

「今度はわたしの番ですね」

「気にしなくていい」

「こんなに満たされるんですね」

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