第一部:海と月の暦 ⅱ二〇一八年一月十九日金曜日
♤朝凪
目を覚ました時には正午を過ぎていた。リビングにはスウェット姿の志穂がいた。
「また、休講なの?」
今日は通常通り学校に行くつもりだった。
「寝坊しすぎると単位落とすよ」
志穂の声を無視して、着替えて出て行こうとした。玄関で志穂は忘れ物をしていると折り畳み傘を渡してきた。キャスキッドソンのロンドンオリンピック限定の傘だった。
「まあでも、眠い時は寝たほうがいいかもね。無理しないでね。どんなに美味しい食べ物も、魅力的なデートも眠いと意味ないもんね。眠いときは何にも感じないじゃない?睡眠欲って大事なんだよ。きっと…」
僕は再び志穂の言葉には答えずに、次に出る言葉を遮るために玄関の扉を閉めた。
携帯にイヤホンを繋ぎ、スポティファイをシャッフルした。ノーバシーズの「Untouchable You」で止め、一曲リピートモードに切り替えた。津田沼駅に着き、総武線に乗り、幕張駅で降りた。曲を切り替えると「Number Four or Five」が流れた。キャンパスに着くまで「Where is my loving heart?」というフレーズが、頭の中で繰り返し流れた。
少し早めに教室に入ると、全員がプリントを持ちながら、質問をしあっていた。クラスの男子は廊下側に、女子は窓際に固まっていた。教室の机は白いキャスター付きのオフィスで使うようなもので、黒板を中心に円形に向かい合うよう二列ずつ配置されていた。僕に気づいたリョウタはこっちにこいと言った。
「スイ!昨日なんで休んだんだよ。連絡したのに無視したろ?」
「寝坊してさ、時計見て無理だって悟ったから自主休講したわ。そういや今日テストなんだっけ?」
出来るだけ声のトーンを高くし、不自然でないように口角を上げ歯を見せ、目尻をすぼめた。面倒だった。リョウタは呆れながらも、今回のテストに落ちたら来年も受けなきゃいけないんだぞ、と言った。
「あれ?前回も休んでたっけ?プリントもらってない?」
リョウタの隣に座っていたタカシが、今日の範囲のプリントを見せてくれた。英単語だけでも頭に入れようと目を通すが、英単語はただのアルファベットの羅列にしか見えなかった。こんなものがなんの役に立つのかわからなかった。僕はプリントを借りてユリアの隣の席に座った。「久しぶり」ユリアは笑った。「皮肉かな?」僕は大袈裟な表情をした。疲れる。「実際、久しぶりじゃね?」後ろの席のユマが言った。なにか気の利いた冗談を言わなくてはならないと思ったが、シュンスケが大声で嘆き、それにクラスのみんなが反応し笑っていた。僕はほっとした。
「もう無理だ!留年だ。留年!」
「シュンスケはそんなん言いながら余裕なくせに」
正面でサヤが笑っているのが見えた。僕は机の脚を蹴りたくなったが、そうはしなかった。
サヤは八月頃までマッシュルームカットだったが、今では肩まで伸びたボブカットになった。シュンスケはバンドの方針で髪を伸ばしていたし、タカシも映画館でバイトをするからと金髪を黒く染めていた。マイとユリアはフラダンスサークルの合宿でハワイに行ったせいで、日に焼けていた。ミリとレイは韓国風メイクにはまり、眉毛が濃くなった。リョウタは少し太った。ヒメリとユマは変わらなかった。アンナは彼氏に振られてからお喋りになった。アスカは矯正が取れ、バイト先の先輩を好きになったと言っていた。
教室の中では誰が一番余裕で、誰が一番まずいかという話になり、一番余裕なのはシュンスケかレイで、一番まずいのはタカシか僕だという話になった。みんなの気が散った時にチャイムと同時に教師が入ってきた。
教師はいつもと同じような色あせた絨毯みたいなロングスカートを履き、顔の半分くらいの大きさがある色付きレンズのメガネをかけていた。前期と変わらず、全員がテストに対して愚痴を吐いて開始時間を遅らせようと試み、教師はそれを聞き流し、時間通りにテストを始めた。前期と変わらず、今日も曇天だった。違うのは青々と茂る緑と体の中心を蒸すような暑さが、茶色に朽ち果てた枯れ葉と肺の中の空気を凍らすような寒さに変わったことだけだった。それ以外は何も変わっていないようだった。
♤波の綾
五限の授業はイングリッシュコミュニケーションで、これも必修の授業だったため、全員で教室を移動した。授業をする教室は一号館のガラス張りの教室で、教室と教室の間の通路を通り過ぎる学生や先生から中の様子は丸見えだった。今日は学期最後の日だったため、授業態度などに関する面談をした。
教室に着くと、すでにオリバーがいた。オリバーは僕の姿を見て、「久しぶりだ、元気だったか?」と英語で訊いた。僕はなにも言わず笑顔で頷いた。チャイムが鳴るとオリバーは学籍番号順に一人ずつ呼び、別のガラス張りの教室で面談を始めた。
オリバーと話しながら、レイが真剣な表情をしているのが見える。オリバーのスキンヘッドの後頭部が見える。オリバーが大きな手振りでなにかを説明すると、レイは表情を緩めた。レイ、ユマ、アンナ、ユリアの順に呼ばれ、ユリアの次に僕が呼ばれた。
部屋に入ると、胸が空っぽになりざらつく感蝕がした。オリバーは僕に正面へ座るように言った。ジャマイカ人とイギリス人の混血である彼の眼差しは柔らかく、思慮深かった。オリバーはiPadを片手で持って、僕の授業態度のことを言った。多少不真面目なところもあったが、クラスのムードを作ってくれて、新人教師の自分は感謝をしていると言った。僕はオリバーのためにそうしていたんじゃなく、自分のためだと言った。オリバーは頷き、それ以上はそのことについて何も言わなかった。最後に悩みはないかと聞いてきた。無理をしているんじゃないか心配しているという。僕はうまく英語が浮かばず、どうしたら他の人のように人生に熱中できるかと訊いた。硬そうな口髭が動き、口角が上がった。オリバーの笑みは好意的なものだと感じた。しばらくしてから、他の人間に合わせる必要はないし、そういう悩みも時間が解決してくれるはずで、その間はそれで良いのか迷うこともあるだろうが、結局時間が経てば全てを受け入れられるようになるはずだと言った。僕は自分の言いたいことが英語で浮かばずしばらく考えた。
Carpe diem.
Seize the day.
We live in the only just present.と浮かんだが、僕は「I think so.」(そうだな)とだけ言った。
オリバーの授業は早く終わり、タカシと僕がタバコを吸っている間、リョウタとシュンスケはラパスのテーブル席で待っていると言い、終わったら合流することになった。
「一年あっという間だったな」
早かったなと僕は云った。
「来年クラス替えとかやだな。一年の時と違って、男子も仲良かったし、女子たちもギスギスしてないから楽だったなあ」
僕は浅くタバコを吸い、煙を吐き出した。煙は肺まで来ずに、口の中から濃い煙が出てきた。舌の上に苦味が残った。不味かった。
「仲良かったけど、仲良すぎても辛いもんがあるよね。クラスメイトは家族みたいにみんな仲良くてもさ、結局それぞれに高校の友達とかがいたり、バイト先の付き合いがあったりで、全員が全員集まって飯食ったりなんかは学校の外出るとなかなかできないじゃん?サヤがよく人生の貴重な時間をあたしに割いてもらうなんておこがましいとか言うけど、俺らが誰かに割ける時間に限りはあるんだよな」
サヤは大袈裟だなと僕は笑ったが、タカシは真剣な表情をしていた。
「なんていうかさ、うまく言えないんだけど、俺らの今って失われていくんだろうなって。急にふっとなくなるんじゃなくて、だんだんと薄れていっていくんだろうなって」
「結局、今を楽しむしかないだろ?」
僕はそう云った。吐き気がした。煙草の煙のせいだ。
「どうやったって永遠なんてないんだからさ、今を楽しもうぜ。今は今にしかないんだからさ」
タカシはそれもそうだなと言って笑顔になった。自分の発言のせいで、吐き気が増した。半分以上残っているタバコを灰皿に押し付けタカシとラパスに向かった。
雲は黒く、今にも雨が降り出しそうな雰囲気だったが、空気は乾いていた。寒気が肺に回り、体が冷えた。タカシは寒いなと言ったが、僕がちょうどいいと言うと不思議そうな顔をした。
♤夕凪
二人と合流し、酒を飲みに行くことにした。海浜幕張駅を目指し歩いた。人工的に整備され、清潔感と無機質さを醸し出す道では、底冷えする風が吹いた。均一に並べられた街路樹は、プラスチックの木みたいだった。四人で横並びに歩いた。僕はリョウタとタカシに挟まれていた。「ヒメリとはどうなんだよ?」タカシが訊いた。「どうって普通だよ」リョウタが答えた。「え、まだしてないの?」シュンスケは訊いた。「俺はヒメリとセックスしたいから付き合ったんじゃない。ヤリモクじゃない」「そうじゃなくても、だいぶ遅くないか?」僕は訊いた。その時、リョウタはいつものチェーンの居酒屋を指し、あそこで良いかと訊いた。僕は暖かい所に行きたかったので、構わないと言い、他の二人も頷いた。
「ヒメリと一緒にいるだけでいいんだよ」席につくなり、リョウタは言った。僕たちは意図的にリョウタを無視し、乾杯の直後にシュンスケが叫んだ。
「じゃあ、あれだな。俺らと飲んでる場合じゃねえな。今からヒメリのとこ行って来いよ。ヒメリと付き合い始めてから付き合い悪いもんな。俺らなんてただノリで友達やってるだけの代用品だろ?俺たちはリョウタのインスタントフレンズ、略してインフレですよー!」
僕たちは笑った。「もうシュンスケ酔ってるでしょ?めんどくさいな。違うんだよ。友情と愛情はまた違うじゃん?友情は一緒に馬鹿騒ぎしてって感じで、愛情は献身な訳じゃん?」
「献身って、そんなん俺らと一緒にいる方が楽なんじゃね?」タカシは言った。
「あーもう。違うんだよ。お前ら彼女いたことねえからわかんないんだよ」
「そうやって俺らのこと馬鹿にするんだ!」
シュンスケは不貞腐れてタカシが吸っていたタバコを取り、思いっきり吸いむせた。
「違うわ。そうじゃなくて、満たされるんだよ。ポッカリ開いた穴が塞がるんだよ。スイは彼女いるんだからわかるだろ?」
もう別れた、空腹の時に炭酸水を飲んだ時みたいに、そういうのは満たされてる感覚がするだけ、いなくなれば穴はもっと大きくなる、と言った。一瞬の沈黙の後、タカシが「いつ?」と聞いた。多分四日前くらいで、こうなるのは時間の問題だった、なんとも思っていないから変に気を使うだけ無駄だと答えた。嘘ではなかった。気にしていなかった。
僕はリョウタのことに話を戻し、きっとこいつは振られたら面倒くさいだろうし、僕らに迷惑がかかるだろうと言うと、リョウタとタカシは頷いた。
「振られないし、それにお前らには関係ないだろ」リョウタはコーラをストローでチビチビ飲んだ。
「過去十人全員に振られてるんでしょ?リョウタは振られたら絶対めんどくさいじゃん。告白する前もあんなウジウジして、絶対振られたら俺らに泣きついてめんどくさいことになるじゃん!」シュンスケはリョウタを指さした。
「十人は盛ってるよ。七人だ」
「三人は自分が飽きたからだろ?」
タカシはジョッキをあおるようにして飲んだ。
「二人には浮気されたんだよ。まあ、一人は大して好きでもないのに付き合ったから…」
「お前、あの子カウントしてないだろ!一週間で別れたあの、なんて名前だっけ?」僕は酔っ払っているせいか大きな声で言った。高揚感が僕を包んでいた。けど、心の中の悪魔は僕の仮面を引き剝がして現実に戻るように言っていた。
「ユで始まってリで終わるような…」タカシが言った。
「ユリちゃんだろ!もうやめてくれ!今日はなんだ?俺をいじめる日か?打ち上げだろ?」
「リョウタをいじるのはいつものことだろ?でも、あれは酷かったよな。俺まだあの時の写真持ってるよ。お前がノーカンって言っても、俺は証拠写真持ってるからな」
シュンスケは携帯の写真を見せる。大学の敷地内で距離をとって歩く二人の男女の後ろ姿だ。背が高く、濃い眉毛が目立つ横顔は紛れもなくリョウタだと証明していた。頬を赤らめ、照れ臭そうに笑っていた。
リョウタはシュンスケに写真を消すように叫んだが、シュンスケはクラスのグループラインに画像を貼った。誰からも反応はなかった。画面を消そうとしたとき、木津からメッセージが来たが、後で観ようと思い携帯をポケットにしまった。
「なんでお前ばっかモテるんだよ!」
「俺らも彼女ほしいよ!なあ、シュンスケ!」
リョウタは僕たち三人に対してため息をつき、僕たち三人は酒を追加で頼み、体に流し込むように飲んだ。僕たちは顔を真っ赤にしながら、ゲラゲラと笑った。
いつものように終電を逃し、全員でカラオケボックスに入った。リョウタはラッドウィンプスだとかバックナンバーを歌った。タカシはサムフォーティーワンやバンプオブチキンを歌った。シュンスケは湘南乃風だったりウルフルズだったりと盛り上がる曲を選んだ。僕はニルヴァーナとエルレガーデンを選んだが、リョウタにヤジを飛ばしている間にいつのまにか寝ていたらしく、目を覚ますとみんなも寝ていた。志穂に今日は帰らないとメッセージを送った。木津からのメッセージは送信取り消しされていた。
目を覚ますと、七時だった。タカシとリョウタはシュンスケの家でスマブラをすると言い、僕は予定があると言って帰った。タバコ屋の前でタバコを吸ったが、吐き気を催し、自販機の横に胃液を吐いた。家に着くと誰もおらず、靴下も脱がずに布団に入った。起きたときはまだ空が明るかった。リビングに行くと、志穂が炒め物をしていた。僕は水を飲み、ベランダでタバコを吸いながら木津に電話をかけた。繋がらなかった。豚肉とピーマンの炒め物は味が濃かった。志穂の作る料理はなぜか塩辛いことが多かった。
自分の部屋に脱ぎ捨てられたズボンからメモ紙を取り出した。ラインの画面には藤江真波という名前が出てきた。プロフィールの写真は、夕焼けに照らされた海辺でサングラスをかけた茶髪の女が、背中を向けてしゃがんでいた。いつが空いているかメッセージを送り、布団に寝そべりながらゲームをした。画面の中ではフードをかぶったアサシンが背後からターゲットに近づき、刀剣を刺した。手が痒くなるのを感じたが、眠気には勝てなかった。