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死の暦  作者: 雪未 桔尚
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第三部:闇と星の暦 ⅶ二〇二五年一月二十一日

生きて捧げられたあれほどのそなたの愛も、満たしてやるにことかいた逆恨から、

死んで動かぬ抗わぬそなたの肉に跨って、そ奴存分その果しない肉情を遂げて去たか?


答えろ、汚穢の屍よ!手触りの荒いそなたの髪をやおら摑んで、わななく腕に持ち上げて、そ奴めは、

ひやり冷たいそなたの歯並みに、別れの接吻を残したか、言え、気味悪い生首よ?

                            「ある受難の女」『悪の華』ボードレール

♤ネッソスの血

 朝、拘置所長が来て、今日が執行日だと言った。木津の誕生日だった。中学三年の冬、木津は、僕と志穂の生誕一万日目の日付が、自分の誕生日と一緒だと言い、その年から毎年三人で祝うのが恒例行事になった。その一万日目を迎えたのは、結局僕だけだった。

 志穂は昨日、自宅で首を吊って死んだのだ、と看守は云った。妊娠していたそうだ。僕は笑いが漏れた。車椅子を看守が押した。俺は看守に、今までありがとうと言うと、返事は返ってこなかった。教誨室と執行室に向かう階段は、看守たちが車椅子ごと俺をもち運んだ。その後、看守は僕に「死ぬのが怖くないのか」と訊いた。俺はしばらく考えた。そう思ったこともあったが、今はよくわからない。そう思うのはきっと、生きていることしか知らないからだ、と言った。教誨室には、僕一人で入った。

 教誨師に今まで世話になったと言った。教誨師は仕事だから当然だ、と言い、タバコを吸うかと聞いた。きっとこの煙草はジタンかゴロワーズだろう。僕は拒み、「キリスト教の教えは素晴らしいと思ってるし、キリストのことは尊敬の念さえ覚えている。ただ、俺はキリストの復活は信じていない」と言った。僕を信者にしようとか、そういった意図はなかったし、僕がそう言う風に言ってくれるのはありがたいことだと、教誨師は言った。僕は見えない教誨師を睨みつけるように言った。

「もういい加減、芝居はやめないか。サトル」

 教誨師はいつからバレていたのかと聞いた。カインとアベルの章をお前が読んだ時だと言った。質問をしていいかと言うので、僕は頷いた。

「あんたは自殺を試みたと言っていたそうだな。どうして、やめたんだ?」

 ただ単に、まだ生きなきゃいけないと思ったからだと言った。

「自殺をしなかったことは正しいことだ。生きてさえいれば、罪を贖うチャンスに出会えるだろうから。でも、あんたはその後、まだ生きる希望があったのに父親を殺した。それに、どうして看護師と共謀してまで美代子を殺した?憎い父を殺すためだったんだろう?」

 僕は驚いた。たしかにミヨコの殺人が一時的に病死と判断されたのは、あの看護師のおかげだったんだろう。

僕はサトルに憎しみで父を殺したのではなく、志穂のためだったと言った。

「お姉さんは結局、自殺した。あんたの殺しは無駄だった。お姉さんを信じてなかったからだろ?後悔してないのか?戻れるなら、生まれる前に戻ってやり直したいと思わないのか?」

 息を吸うだけで、自分の持ち物を奪われ、選択肢がどんどん少なくなっていくこの世界に生きてる限り、そんなことを考える方が無駄だと言った。そして、「俺はお前が嫌いだ」と言った。サトルは笑った。「お前が説く愛は、偽善に思う」と言った。サトルは「愛は世界を救う」と言った。「愛とはなんだ?」と僕は再び聞いた。「セックスが愛か?子供を産むのが愛か?献身することか?」サトルはそうだと言った。痛みの奥で、何かが弾けた。相変わらず、黒一色だったが、視界が晴れた気がした。

「それなら、相手のためを思うなら、幸せな時に殺してやればいい。そこからは不幸になるだけなんだから。『幸せ』は最後がピークなことが、『幸せ』なんだろ?そういう無責任な愛なんだろ?隣人を愛する?じゃあ、さっさと頭ぶち抜いて死んだらどうだ?俺たちは生きてるだけで、誰かにとって邪魔で、不幸にさせる。人間の行動は選択に起因する。じゃあ愛は?お前だって、ミヨコを選んだんだろ?ミヨコと、顔も見たことない飢えた子供に、同じ量と純度の愛を持っているのか?」息が上がった。サトルは僕を哀れな人だと言い、自分もそれくらい狂ってしまえたらいいのにと言った。

 正常があると思い込んでいるから、そんなことを言えるのだ、と僕は言った。

「この世界は正常な人によって成り立ってるんだから、当然だ」 

 全員を真っ平にして、全てを白にする行為だ。俺たちはたくさんの色を持っていたはずなのに、限られた色しか乗らない、黒い画用紙の方がおかしいと言った。サトルは僕のような人間は、社会不適合者というのだと言った。僕はなぜ僕の死刑に反対したのか訊いた。

「もちろんあんたが、苦しんで欲しいと思ったからだ。死なんてあんたにとっちゃ、褒美でしかない。死刑そのものには賛成だ。死んで償って欲しいさ」

 サトルは嘘をついていると思った。僕は言った。

「白と黒の世界では、徹底的に白くするために、黒を完全に排除しようとする。染まらない奴は排除さ。正義なんて色塗りだ。永遠にこの色塗り合戦は終わらない。社会は、俺が色塗りの余地もないからと殺す。殺して、償う?誰に?死人にか?上澄みだけの綺麗事ばっか言うなよ。排除だろ?俺が死んだところで、ミヨコは生き返らない。死刑にするなら、ミヨコの親父さんに俺を殺させればいい。できないんだろ?俺は『正義』に殺されるんだ!笑えるよ」

 本当は死刑の話も、正義の話もどうでもよかった。僕以外の死刑囚など全員くたばればいいと思っていたし、正義など勝者にしかないものだとわかっていた。僕はどのみちどう足掻いたって死ぬし、それは死刑宣告されてなかろうが、病気でなくても変わらなかった。ただ、死ぬまでの間に選べる選択肢が減っただけだった。

 サトルは僕の考えを、特異で危険だと言った。排除だろうがなんだろうが、社会に俺は不要なのだと言った。

 生きることとは選ぶことだ。それはつまり、選びながら捨てるということ。また、俺にとって『愛』とは持っているものを全て捨てることだ。俺は顔を見たことない人間など、死んだところでどうでもいい。そう思うことを非難し、大量殺人のニュースや災害のニュースを見て、勝手にその状況に自分を当てはめて、被害者に憐憫の情を抱いたりできるのが不思議だ。本当は、心の奥底ではどうでもいいと思っているんじゃないか?俺らの服や、食料も、身分も、身の回りの全てのものには、透明な誰かの血が染み付いているのを感じる。生きることは殺すことに等しい。また、空腹を感じないと質のよい食事ができないのと同じように、死を感じないと生きていると実感ができない。お前は生きることの残虐性から目を背け、表面だけ切り取って綺麗事ばかり言ってるのだ、と言った。本気で思っていたか、わからなかった。ただ、サトルにイラつき、子供が蟻を踏み潰すように、虐めたくなっただけな気もした。サトルはすぐさま言い返した。

「普通の人にとって、生きることは幸せを追い求め、永遠にそこに閉じ込められていたいと思うのが当然だ。それに、その姿を僕は美しいと思う。また、人間らしいとも思う。不幸な人間に対して、同情心を抱くことの何が悪いんだ?それも愛だろう?僕は美代子と過ごした幸福な日々を思い出し、その中に閉じ込められていたいと思う。それの何がいけないんだ?」

 俺がお前を気に入らないのは、生きることに意味があり、人間に使命があると思っていることだと言った。さらに続けて、

「物事の表面だけしか見ない綺麗事で、『人間らしさ』を勝手に作って満足か?下らないと思う。そんなものはただの自己欺瞞だ。俺たちは何もしなくても死ぬ。時間を無視して、幸福を感じていた過去を夢想している姿を『人間らしさ』と言うのか?お前は何もわかっていない。生の対極にあるのは死じゃない。死の反対は快楽であり、生の反対は幸福だ」

と言った。

 サトルは急に言った。あなたに天の国で救いと幸福がありますように、と。

「救いだなんて、何様だ?お前の言う幸福はなんだ?他人や過去の自分と比べることでしかわからない、あの幸福か?まるで、酸素だ。誰も酸素をありがたがって生きていない。だが、首を絞められた時に、初めて求め始める。酸素は必要だが、体を錆びさせる。幸せも同じだ」

 続けて俺は言った。『幸せ』と言う概念は、義務感に等しい。幸せになるのを人生において最良のゴールと決め、幸せになるために人は結婚をし、幸せになるために子供を作る。ミヨコは義務感でできた幸せに囚われていなかった。俺は不幸でも良いから、ミヨコと共に生きたかった。ミヨコがいるなら、俺はどんな地獄でも構わない。お前はその幸せ信仰に沿って、ミヨコが幸せになることがないと勝手に決めつけて、自分は悲しみに浸って美代子から逃げたのだ、と。

サトルは、あの頃の自分は弱かったのだと言った。涙目になって、唾を飛ばすサトルの姿が目に浮かんだ。相変わらず、嫌いな喋り方だ。

「今は違う。でも、あんたも結局、美代子が助かる見込みがないから殺した、これと何が違う?」

 お前が説く愛では理解できないだろうと言った。「罪の意識はあるのか?」サトルが言い、僕が言い返す。「罪とはなんだ?」サトルはしばらく何も言わなかった。沈黙の後、口を開いた。「美代子と親父さんを殺したことに関して、後悔や償いたいという思いはないのか?」ない、と言った。「罪を贖うのはお前の義務だ」とサトルは言った。「母親が死んだ時も、木津が死んだ時も悲しみは徐々に風化して、元からないもののように感じた。人間は適応する生き物だ。悲しみすら習慣になってしまえば、いずれ酸素と同じで、その存在は薄れていく。だが、俺はミヨコのことは忘れない。身体中を蝕む痛み、目の前に拡がる暗黒、手に残った細い首を締めた感触。これが罪だったとしたら、俺はこれのおかげであいつの笑顔が脳裏に浮かぶ。あいつの存在を感じる。あいつの見えない涙が見える。何もかも奪われても、俺は罪のおかげでミヨコを忘れない。だから、俺は罪を贖うことなどしない」

 サトルはしばらく黙っていた。空気の動きで、サトルが立ち上がるのがわかった。

「お前の正義は間違ってる!お前は僕から美代子を奪った!僕は美代子と結婚する気だったんだ。美代子は僕の全てだった。お前はそれを奪ったんだ!僕の未来すらも奪ったんだ」

 立ち上がることができたなら、手をあげることができたら、殴りたかった。代わりに腹に力を込めて、言った。

「俺に『正義』などない。お前のそれは依存だ。結婚なんてミヨコにとってただの言葉でしかなかっただろ?愛の終着点が結婚だから、するのか?それは一般論だ。ミヨコは違ったはずだ。自分の未来が奪われた、と言ったな。未来?綺麗事を言うな。ただの欲望だろ?ミヨコを結婚で縛ってなんになる?ミヨコを社会に当てはめようとしたんだろ?いったいミヨコの何を見てたんだ?お前は愛がなんだと言うが、結局、自分が愛されたかっただけだろ?愛されたいから、愛してるだけなんだろ?ミヨコはお前の母親じゃないんだ。お前は愛を説くくせに、見えてすらいない。お前の愛は、社会の正義を振りかざす、暴力だ」

 サトルは僕の前に立った。僕は見えなかったが、サトルを見上げた。

「僕は自分の正義と愛を信じてる。美代子を殺して、他所の女と寝ていたやつに言われたくない。正直に言うよ。お前に復讐することが、僕の正義だと思ってる」

 首に圧力がかかる。抵抗する代わりに僕は言う。

「なあ、善い人間の条件ってわかるか?」

 サトルは、僕に人間を説かれたところで、説得力は皆無だと言った。構わず言った。

「『正義』を理由に人を裁かない人間さ」

 酸素が薄くなる。

「お前の生き方は下らない。永遠を求めて、天国なんかを信じてさ、そんなの馬鹿げてる。天国には、幸福しかないのか?俺たち馬鹿人類は、天国の有り難みも忘れるんじゃないのか?それが当たり前だと思って、ぬるま湯から出ようとしなくなるんじゃないか?お前はそうやって動こうとしない。お前が目指してるものは、ミイラだ。誰だって時が止まって、ずっとその瞬間に閉じ込められていたいさ。だが、それを本気で望むのは間違ってる。俺たちは、炎だ。燃えてなきゃ輝かない。いずれ、燃え尽きる。なら、長く燃えることが大事なんじゃない。生きることが地獄でも、大きな炎で燃えることだ。辺りを燃やし尽くして火種が消えたら、黙って灰になって空気に溶けるんだ。それの何が悪い?」

 サトルの爪が首に食い込み、皮膚を剥がし、血が流れる感覚がした。そうだ、こいつは僕を直接殺したくて死刑に反対したんだろう。やっと気がついた。

「僕がお前を殺すのは正義心からじゃない!ただあんたが憎くて、羨ましかったからだ!ただの嫉妬さ!できるなら、僕だって、美代子を腕に抱いたまま、死なせてあげたかった。僕にない強さを持つ、あんたが羨ましかった。美代子に本当の意味で愛された、あんたが羨ましかったんだ!天国だとか、愛だとか、罪なんかはどうでもいい!あんたを殺せるなら、なんだっていい!」

 「あとちょっとで死ぬのに、お前も馬鹿だな。俺と一緒で馬鹿だ」と言ったが、声にならなかった。僕の顔は笑っていた。

 僕は絶命した。死んだ後、少し意識が残るのは本当だったみたいだ。サトルが看守を呼んでいるのが見えた。看守たちは僕を担ぎ上げ、教誨室の向かいの扉を開けた。僕はまだ硬直しておらず、首がふらふらと揺れた。三人で、輪になった縄を僕の首に引っ掛けた。看守が合図を送ると、床が抜け、僕は首を吊られた。首の骨が折れる音がした。痛かった。縄が食い込み、同時に、首が落ちた。赤黒い血の海が見えた。

 太陽の黄色い刃が、月を明るく照らした。彗星は輝いて燃えた。シロツメクサが枯れている。棕梠(しゅろ)の木から、一羽の鳥が飛ぶ。透き通った青空には藍で染まったカラス。群青色のカラスは白い星を目指し、飛んでいった。カラスは夜空に上り、四つの星になった。


黒澤 彗より

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