第三部:闇と星の暦 ⅵ二〇二三年~二〇二四年
♤カフ
「この前の話のつづきです」
衛生夫は言った。
「私はあなたと同じで、人を殺したんです」
僕は衛生夫の方に体を向けた。
「私には義理の娘がいました。娘をたぶらかそうとした男を殺しました。その後、私は娘と日本のあちらこちらに逃げたんです」
「義理の娘とだけか?」
「再婚相手の娘だったのですが、妻は車に轢かれて死んだから、娘と二人っきりでした」
「娘さんはいくつだ?」
「私と逃げまわっている時は、十四だったから、今は二十四のはずです。孤児院を出て、しっかりやれているか心配ですよ」
僕はため息をついた。きっとあの子だ。そう思ったからだ。
「なんで知らないんだ?普通ならいくら捕まっていようと、知らせてくれるもんじゃないのか?」
衛生夫は黙ってしまった。
「その娘さんの名前は?」
「美しい雨と書いて美雨です。雨のように冷たく、美しかったです。もう一度あの美しい肌に触れられたら、と思いますよ」
あのワイドパンツを履いた快活な少女を思い出した。男嫌いの彼女は木津と一緒に死んだ。
「出所したら、会えるといいな」と僕は言った。
僕は、それからしばらく飯に手をつけなかった。衛生夫は違う男になった。
☆スピカ
三月中旬、大学から来学期の学費の納付書が届いた。額は一括なら、百四十万円ほど。
僕は志穂に大学を辞めると言った。
「なに馬鹿なこと言ってんの!せっかく受験に受かったんだから、きちんと最後まで通いなさい」
「そうだけど、うちに金はないだろ」
「奨学金とかうまく使えば全然通えるからさ、申請とかは自分でできる?」
僕はそうはしたくなかったが、かといって大学を辞めて働く気概もまだなかった。
新学期はクラス替えがあり、一年の時と同じクラスメイトはサヤと君だけだった。
久しぶりに会った君は、嬉しそうに僕の席へと駆け寄り、元気だったか訊いた。僕は頷き、一年の時と同じことを言った。そして、君は僕の隣に座った。
「いいのか?女子と座らなくて」
「いいの。だって、ここに座りたいから」
君は髪をかき分けた。小ぶりな耳には、小さなピンクゴールドのピアスが付いていた。胸が疼くように痛み、息を吸えなかった。僕は君のことを考えないように、バイトばかりしたが、君を思わない日は一日としてなかった。
「ちゃんと食べてる?顔が痩せたよね?」
君の方が痩せた気がした。無理に話そうとしなくていい、と言いたかった。僕は立ち上がり、体調が悪くなったと言って、教室を出た。廊下を歩いているときに、チャイムが鳴り、教師がぞろぞろと歩いてくるのが見えた。僕はその時、退学しようと考えていた。
帰ると、君から「大丈夫?」というメッセージが来ていたが、僕はそれを無視した。君の姿を見るだけで、苦痛だった。地獄だと思った。じわじわと、内側から体を焼かれているような痛みが走り、その火炎から遠くに逃げることができれば楽だと思った。僕は、君の容姿は整形手術で作られた嘘の顔で、肌も張り替えてあるのだと思い込もうとした。それに加え、実はもともと男で、タイかどこかで性転換手術をしたレディボーイなのだと思おうとした。だが、仮にそれが本当だとしても、君が男の姿をしていたとしても、君は尊く、この苦痛は変わらないだろう。もう手遅れだった。君の何がいいのかわからない。できることなら、君と僕以外のもの全てが無くなるか、君か僕が無くなればいいと思っていた。
「おかえり。ねえ、彗ちょっと来て。向かいの駐車場のとこ」
仕方なく、駐車場へと向かった。志穂は、車の下を指差した。車の下では、野良猫が小さな子猫四匹に乳をあげていた。
「かわいくない?めっちゃかわいいよね」
僕は機械的に頷いた。かわいいかどうかはよくわからなかった。一般的な人は子猫を見たら、かわいいと思うだろう。
「この野良たち大丈夫かな?このままで平気かな?」
僕はわからないと言った。志穂は家で飼いたいと言ったが、僕は拒否をした。
部屋に戻ると、君から再びメッセージがきていた。とても心配していること、明日の英語基礎は必ず受けておいた方がいいから来たほうがいいこと、話したいことがあるから来てほしいということ、その三つだった。朝、轢かれた親猫の死骸があった。タイヤで血と皮が伸び、骨は粉砕され、肉は黒く腐っていた。その周りを子猫たちが囲んでいた。
☆レイリとメジヌン
二限の英語基礎の授業では、来週にテストを行うと通告された。昼休みになり、僕はシュンスケとタカシ、リョウタの三人とラパスで飯を食べた。リョウタが親睦を深めるために、四人で飲みに行こうと言った。二人が賛同したため、僕も賛同したが、本音を言えば面倒だった。
君はラパスの窓際の席で、クラスの女子数人と座っていた。僕の位置からは、君の横顔が見えた。僕は出入り口を背にして座っていた。出入り口は二つの扉があり、片方の扉の前で食堂のスタッフが弁当を売っていた。その弁当の列は、僕らの席の近くの自販機の前まで伸びていた。混雑した学食内で、君の姿だけが浮いて見えた。君という存在だけで、僕は苦しさを感じた。君は僕の視線に気が付き、席を立とうとした。僕も立ち上がり、君から逃げるように自販機の横の出口から外に出た。
僕とリョウタは三限の履修授業を決めるために、様々な教室を転々とした。結局、僕らは英文学史に決めた。四限は必修のイングリッシュコミュニケーションの授業だった。オリバーという教師は、体調は大丈夫か訊いた。僕は平気だと言った。教師はテーマを決めて動画制作をし、それをYouTubeに鍵をかけてアップし、URLを提出してほしいと言った。クラスはざわざわし、皆戸惑ったが、提出期限は五月の半ばで、それまで授業できちんとやり方を教えると教師は言った。
僕は授業を終え、急いで荷物をまとめ、帰ろうとしていた。
「待って、ちょっと時間ある?」
君が僕に言った。まだクラスメイトは誰一人返っていなかった。君はクラスの中で目立つことをするのは絶対嫌だったはずだ。
「あ!そうだったな。一年の時のクラスで飲み会やろうとしてるんだっけ?」
僕はとっさに嘘をついた。できるだけ大きな声で。君は戸惑った顔をしながら僕に連れられて、ラパスに来た。ラパスに人はいなかった。
「飲み会なんてするの?」
「いや、聞いたことない。ただ、悪目立ちしちゃ申し訳ないから」
「気つかわなくてもいいのに」
「俺とカップルだと思われたら嫌だろ」
君は黙っていた。僕は自販機でホットココアを二缶買い、席に座り、君に一つ差し出した。「ありがとう」と言って、開けずに両手で包むように持っていた。
「それで、話って何?」
君は下唇を噛んで僕を見た。僕の心を包んでいた古く固い皮が、ペリペリと剥がれる音がした。空気に触れるだけで痛かった。
「この前のこと」
君はゆっくりと喋る。
「好きって言ってくれたこと」
辛そうに君は息を吸う。
「すごく嬉しかった。でも、なんか悲しくなった」
君は缶を机に置く。
「ずっと苦しかった。けど、私なんかをあんな風に言ってくれて、想ってくれてるなんて、嬉しかった」
君はまた下唇を噛んだ。君は泣いていた。
「私は、どうしたらいいかわかんない。ずるいよね。あんなにまっすぐ伝えてくれたのに。動けなくなっちゃった」
苦しめることになってすまなかった。言うべきではなかった、と言った。
君は首を横に振る。
「私、去年の夏から付き合ってる人がいるの。けど、スイのことも好きなの。私、最低だよ」
血の気がひき、血液が頭からなくなる感覚がした。
「もっとスイのことを知りたいと思ったの。もっと私のことを知ってほしいとも思ったの。スイのことを知って、スイの抱える苦しみみたいなものが、少しでも軽くなればいいなって思ったの。こんなこと言わない方が良いんじゃないかって、迷ったの。でも、我慢できなかった。私の自己満足だよ」
心臓が激しく打ち、呼吸が荒くなる。僕はやっとの思いで言う。
「知ってたよ。誰かと付き合ってるのも。だから、俺の告白も自己満足だ」
君はまだ泣いていた。
「俺は付き合いたいなんて言ってない。たしかに、付き合えれば一番いいだろうさ。ミヨコとデートしたり、手を握ったり、キスしたり、セックスしたり、そういうこと全てをしたくないって言ったら嘘になる。俺はそんなことより、ミヨコが幸せになってほしいと思ってる。きれいごとに聞こえるかもしれない。けど、俺は本気だ。だから、このままでいいんじゃないのか?」
僕も泣いていた。なんの涙かはわからない。
「俺はミヨコの表面だけを見たいとも思わない。だから、深くミヨコのことを知りたい。ミヨコが俺のことを好いてくれて、俺のことを知りたいと言ってくれるんだったら、ミヨコにも俺の内側を見て欲しい。俺は誰かを好きだとか、そういう感覚に疎いし、恋も愛もよくわからない。彼氏だとか彼女だとか、名称に囚われる必要はないと思う。だからミヨコさえ良ければ、心の深いところで愛し合うこともできるんじゃないか?」
僕は照れ臭くなって、何を言ってるんだろうと言った。君はまっすぐ俺を見る。僕はあの時の、君の赤く充血した目と、涙で白く染まった頬を忘れない。美しかったから。
「私もスイの内側を知りたいし、私の内側も知って欲しい。ずるい気がするかもしれないけど、私はスイとずっと一緒にいたい。けど、スイに彼女ができても、何も言わない。あと、わがままかもしれないけど、彼女ができても、私から離れないって約束して欲しい。私もスイから離れないから」
僕は頷いて君に手を伸ばす。君に触れたかった。少しでいいから、君の体温を感じたかった。君の涙を指で拭う。燃えるように熱かった。
「失いたくないから。失うのが怖いから。だから、ずっと離れないで」
僕は君の影になった。白くまばゆい光の後ろの黒い影に。
それからの日々は僕にとって輝かしいものになった。君は、暗く死の匂いのする僕の人生を、真っ白な光で照りつけた。僕は毎日、君と隣同士でバスに乗って帰り、一緒に昼食を食べた。他の奴らにしたら、なんでもないことかもしれないが、僕は幸福を感じた。
英語基礎のテストの前日、クラスの男子三人と居酒屋に行った。リョウタは下戸で、普段真面目なシュンスケは飲むと人格が変わったように騒がしくなった。タカシはマイペースだったが、普段よりも明るく笑った。学期始めにつんけんした態度をとっていた僕も、気づけばバカみたいに笑っていた。カラオケでは、鼓膜が破れそうなくらいの大音量で歌った。スマホを見ると、サヤから『うちだけハブって、一年の時のクラスで飲み会とかひどくない?』とラインが来ていた。次の日にはサヤを慰めるために、君と二人で駅前のカフェに行った。前の時とは違い、僕と君の会話を、サヤはニコニコと眺めていた。僕は君に短い方が良いと言われ、前髪を短くした。「これで下ばかり見なくてすむね」と君は言った。
♤アルゴラブ
僕は歩けなくなった。抗エイズ薬で進行が遅くなってるとはいえ、健康とは程遠かった。関節が軋み、膝が自立を拒んだ。ずっとギプスをしていた脚を、解放されたみたいだと思った。ラグビーをしていた時に右脚を折ったことを思い出した。あれは、いつだったっけか、確か中学三年の時かな。三ヶ月後に解放された脚はガリガリで、骨付きのローストチキンみたいだと思った。筋肉が痩せ細って、体重をかけると倒れそうになった。副キャプテンの先輩が、復帰のためのトレーニングに付き合ってくれた。あれ?高校の時だっけか?よく覚えていない。記憶がペラペラの一枚絵にしか感じない。夢の中みたいだ。人の顔には白い靄がかかる。木津の顔を思い出せない。志穂はどの顔だ?あれは香奈か?ミユ?ミウ?なんだっけ?はっきり見えるのは、なぜだかわからないが君の顔だけだった。
☆スハイル
僕たちの関係は、他人の目から見たら、些細なもので、いわゆる異性の友人同士だった。六月になっても、大して何かが変わったわけではなかった。五月の前半に、君の好きな韓流アイドルが出る映画を観に行った。それくらいだ。でも六月は、僕にとって特別なことがあった。
雨の激しい日だった。コンクリートタイルに雨が跳ね返った。僕は喫煙所でタバコを吸ってから帰ろうと思った。君は、今日は予定があるから一緒には帰れないと言っていた。雨脚は強まり、遠くで雷が鳴った。タバコを吸って、四号館から出ようとした時、君がいた。
「今日は予定があるんじゃないのか?」と訊いた。
「そんな大した予定じゃないし、こんな雨だから中止になったの」
僕たちは肩を寄せ合って、バスに乗った。会話がなかった。君はずっと窓を見ていた。
僕は君の名前を呼んだ。君は振り向いた。取り繕った笑顔だ。
バスを降りてからも、気まずい空気が流れた。僕は「じゃあ」と言って、改札に向かおうとしたが、君の後ろ姿を見て僕は追いかけた。君はどうしたのと言った。僕はなんと言っていいかわからず、君の家に行ってみたいと言った。掃除してないからダメだと言ったが、僕は彼女を真剣に見た。それでもいいなら、と彼女は承諾した。
君の家は幕張本郷駅からそう遠くないところにあった。近くにはスーパーがあった。ワンルームの部屋は簡素だった。君の匂いはしなかった。小さなテレビと小さな冷蔵庫、そしてシングルベッドがあるだけだった。ビジネスホテルみたいだと思った。
足が濡れてるから靴下を脱いでいいか訊くと、君はタオルとスリッパを持ってきてくれた。
「あんまり部屋をジロジロ見ないでね」
「見てないよ」
「なんかあったかいもの飲む?」
僕は頷いた。君は紅茶をマグカップに入れて持ってきた。僕たちは床に座り、小さいテーブルにカップをおいた。しばらく時間がたった。僕たちは無言だった。
「どうして何も言わないの?」
「何か困ったことがあれば言って欲しいと思ったけど、無責任だと思ったから何も言わなかった。変に詮索するのは好きじゃないから」
君はヘラっと笑った。その日、僕の前で最初に笑った。
「私、五月はできるだけスイを避けてた」
「知ってるよ」
「もうやめにした方がいいんじゃないかって思って」
体の力が抜けた。
「私は本当にひどいことしてるよ。自分が嫌になる」
僕は何も言わず、君の背中をさすった。
「今の彼氏と付き合って、もう少しで一年くらいになるの。彼氏とは最初は恋人らしいこともしてたんだけど、距離が離れてるのもあって、そういうのはないの。サトルは私に飽きたんじゃないかって。この前、サトルがこっちにきたの。最近、体の発疹がひどいから拒んだら、そのまま出ていっちゃったの。きっとサトルに振られるんだって思ったの。でも、私は怖い。サトルは私にはなくてはならないの。だから、嘘ついてることもあるの。失いたくない。でも、スイもそうなの。どうしたらいいんだろう」
僕の中で、妬みの感情が渦を巻いて溢れた。胸の中が冷え冷えとしてその感触が脳髄に達するのを感じた。男が君の髪に触れ、君と口づけをしている様を思い浮かべた。舌を絡ませ、男はズボンを下ろす。君の服を脱がし、君に覆いかぶさる。男が君の肉体を奪う。そして、痙攣する。男は君に抱きついて、「愛してる」と耳元で囁く。吐き気がした。
僕は君と過去の君とを切り分けようと思った。君は今、目の前にいる。僕の目には君の過去は見えない。ここに存在する君は、無によって過去と隔たりを持った、君自身でしかない。そう思うと、胸には烈火の如く熱情が蘇った。
僕の方に君を向かせた。君の両腕を握り、引っ張った。
僕は君を強く抱きしめた。君の涙は僕の胸で染みになった。
僕は、ただミヨコが好きだ、と言った。
「でも、私は最低だよ」
君の柔らかい匂いがした。君はしばらく泣いていた。僕も少し泣いた。
君は少し落ち着き、もう一度二人で並んで紅茶を飲んだ。君は自分の過去のことを話した。十二歳の時に君の弟は死んだ。五歳だった。原因は肺炎だ。
両親は、毎日そのことがきっかけで喧嘩をした。両親は離婚した。君は父親に引き取られた。父親は金だけは稼いでいたが、アルコールに入り浸りになった。ただ、君には優しかった。そして、君の母親は消えた。
だから、君は失うのが怖くなった。
君はベッドに座った。「離れたくない」君は言った。僕もそうだと言った。君は、もう一度さっきみたいに抱きしめてくれるか訊いた。僕は君に覆いかぶさるように抱きしめた。君の顎が肩に少し刺さった。君の首筋は白くて透き通っているようだった。雨の音が激しくなった。
轟音が響き、電気が消えた。君の甘酸っぱい匂いがした。ベッドに両手をついて、君から体を離そうとした。君は腕を解かなかった。君の横顔が稲光に照らされた。君の唇は湿っていた。僕は汗をかいていた。君の顔が近かった。唇はすぐそこだった。僕は君に口づけをする。
君の額は汗の味がした。口を離し、君の顔を胸に押し付ける。
君は僕を少し押し、僕は身を引いた。
君は僕の手首の傷に接吻をし、僕を引き寄せる。少し沁みた。
君は僕を胸に抱きしめた。雷鳴が轟いた。
君の服は僕の涙で濡れた。白く輝いた。
☆アルクトゥールス
君は肺の病気を患い、入院した。肺炎だという。学期末だったため、僕は試験勉強の合間を縫って病院に行った。軽いから大丈夫、と君は言った。退屈だろうからと、本を何冊か持っていった。だが、君は字がはっきりと見えずに、ぼやけるようになったと言った。病院でも検査を受けているが、原因はまだ不明だという。僕はその日の帰りに、色の辞典を買った。君がもし失明したら、僕が言葉で説明しやすいようにするためだった。
「結構分厚いね」
「重かった」
「これいくらしたの?」
「そんなしない。中古で五百円くらいだ」
本当は新品で五千円だった。君には値段の表示が小さすぎて見えないだろうから、嘘をついた。
「色の名前は小さいだろうから、俺がそこは読むよ」
「じゃあこの茶色」「涅色」「この赤」「唐紅色」
「綺麗な色だね」
「ああ」
「じゃあこの青は?」「セルリアンブルー」次々と指差した。「紺碧色」僕は淡々と答えた。「サルビアブルー」「群青色」「アジュールブルー」
なんで青は見なくても言えるんだと笑った。ミヨコが青を好きだからだ、と言うと「ありがとう」と言った。
「見えなくなるのかな。嫌だな」
「わからない。けど、白内障とかだったら、手術すれば治るらしいから。保険のために覚えておいても、損はないだろ」
君は頷いて、泣いた。前みたいに抱きしめて欲しいと言った。僕は君を胸に抱いた。「来週あたり、夜にデートしよう」と言った。「外出できないよ」と君は言った。「ばれなきゃいいだろ」と言うと、君は笑った。
僕は君を連れ出す方法が浮かばず、君の担当の看護師に正直に言った。その看護師は、来週は夜勤だから裏口から出られるようにしておいてあげると言った。そして、念のために、裏口のパスワードを教えてくれた。夕食前に君を連れ出して、ショッピングモールに行った。看護師がわざわざ点滴を外してくれたのだと君は言った。遠出は避けた。君の体力的問題があったからだ。
僕たちは海に向かおうとしていた。その途中、君は検査の結果エイズだったと言った。しかも、末期の症状で半年以内に死ぬ確率が高いと言った。そして、それを黙っていてほしいと言った。君はまるで他人ごとかのように言った。
温い海の風は肌を撫でるように吹いた。君はいつもよりよく笑った。冗談交じりに自分より先に死んだら許さない、と言ったり、デートの点数をタバコで五十点も減点した。君との初めての口づけは潮風の匂いがした。
☆ベツレヘムの星
君の誕生日は猛暑だった。僕は君へのプレゼントを、必死になって考えた。花束、化粧品、香水、アクセサリー。花束は見えないし、邪魔になる。化粧品は以前、化粧はしてるのかと訊いたとき、口紅しか基本しないと言っていた。香水は君の鼻には、きつすぎる。それに、君に香水など必要ないと思った。シルバー系のものは、アレルギーが出たと言っていた。結局、僕は茜色の口紅と、ラピスラズリが一玉ついた、紐のブレスレットをあげた。
君は驚き、喜んだ。そして、泣いた。
君は死にたくないと言った。
今日が最後の誕生日になるんだと言った。
「嫌だよ。なんで、私が。まだ生きてたい。嫌だ!」
僕はなにも言わなかった。ただ抱きしめた。
「まだ、大学もいきたい。幸せな人生なんて、どうでもいい!みんなと生きたいよ。死にたくない。スイとずっと一緒にいたい。一人にしないで。遊び足りないよ。辛い。苦しい」
君は息を吐いた。
「私、スイが思ってくれてるほど、綺麗なんかじゃない。汚いの。エイズになったのも自業自得。だってそうだよ。高校生の時は、色んな人と寝てた。同級生、お父さんくらいのおじさん、大学生だって。寂しかったから。虚しかったから。でも、もっと寂しくなって虚しくなった。一回中絶したこともあるの。だから、サトルはそれを知ってるから、ゴムは絶対外さなかった。だから、私を嫌ってよ」
衝撃に襲われ自分が遠いどこかに飛ばされる感覚がした。手の力が抜けそうになった。だが、すぐに僕は自分を取り戻し、さらに君を強く抱きしめた。君は手を回さなかった。
「それがなんだ?俺だって汚い」と云った。また、そんな程度の理由で俺が嫌うとでも思ったのか、と訊いた。
「それが俺とミヨコの『今』になんの関係がある?俺はどんな君だろうと、この気持ちは変わらない」
「嘘でしょ?」と君は言う。僕は「嘘じゃない」と言った。
「どうして、私のことそんな風に思えるの?私はスイとしてないのに」
「なんで、俺がミヨコの存在自体を好きなのがいけないんだ?理由がいるのか?理由があったら、その理由がなくなった時、好きじゃなくなるってことだろ?そんなんじゃない」
君は僕に手を回した。巨大な塊が自分の中で蠢くのを感じた。泣く君の存在が、美しかった。あの時、君に感じた塊は欲情だった。僕はあの時、君とセックスをしたいと思っていた。だが、その欲情は決して自分の快楽のために存在するものではなかった。
君が泣き止み、少し落ち着いたとき、君の父親がきた。僕の顔を見ると、不審そうに睨んだ。僕のことをサトルか聞いた。違うと言い、名前を言った。
「大学の子かな?」
「はい」
「スイは…なんていえばいいんだろう。友達だけど、恋人より理解しあってるし、けどそういうのじゃないの」
君の父親はミヨコも隅に置けないなと言って笑った。
「じゃあ、自由恋愛か」
「そんなところです」
君の父は後で話がしたいと言って、病室を出て行った。僕はミヨコと色の本を復習した。もうその時すでに君は色の識別ができなくなっていたが、ほとんどの色を覚えていた。
病室を出て、自販機のコーナーのベンチに君の父はいた。缶コーヒーを手渡してきた。僕がタバコを吸っても良いか聞くと、頷いた。
「もう、ミヨコは長くない」
そう言って、君の父はマルボロに火をつけた。
「わかってますよ」
「それでも、君はあの子と一緒にいていいのかい?辛くないかい?」
「俺は平気ですよ。ミヨコのためになるなら、俺は構わないです。むしろ、俺はあなたが一人になる方が心配です」
目を大きく見開いて僕を見た。君にそっくりの目だと思った。
「なんでもお見通しか。あの子が死んだら死のうと思ってる」
「止める気はないですけど、あなたが死んだあと、あなたがミヨコのせいで死んだって世間から言われるのは嫌ですね」
缶コーヒーを開けて飲んだ。苦かった。
父親はありがとうと言って笑った。そして、最後まであの子のそばにいてくれと言った。僕は頷いた。
君は次の日、視力を完全に失った。僕は君の手を引いて、外に出た。君はあの時、僕のことを強いとは言わずに、泣き虫だと初めて言った。君は僕の仮面の内部を見ていた。君は世界に別れを告げた。
君は僕の誕生日に、栞をくれた。目が見えなくなる前に、作ったと君は言った。布製のフレンチグレイの栞は分厚くて不格好だった。首に白いストールのようなものを巻いた群青色のカラスが一羽佇んでいた。
♤クラズ
ユダがイエスを売った。裏切り者のユダが普通だが、可哀想なユダとも言われている。どれが真実かはわからない。
僕は教誨師に訊いた。ユダはサタンに入られて、本当にイエスを銀貨十枚で売ったのか?前に読んだときも、ここに違和感を覚えた。イエスが神の子なら回避できてもおかしくないはずだ、と。
教誨師は蝋燭をつけた。
「あなたの他にもそう思う人はいます。一九七〇年にエジプトからは、『ユダによる福音書』が発見されています。二〇〇六年に修復が済みましたが、他の福音書と比べて量が少ないんです」
「内容は?」
「ユダは裏切り者ではなく、最も敬虔な使徒である、と言うことが書かれています」
「キリストが命令したということか?」
「ええ、イエスが肉体から魂を解放するために命令したと言われています。グノーシス派という異端者たちが書いたのではないかと思われています。彼らは知性を重んじる一派で、肉体が重荷だと考え、その肉体からイエスの魂を解き放ったのだと主張しています」
下らない屁理屈だが、他の福音書に比べればまだマシだ、と言った。
「それで、グノーシス派はどうなったんだ?」
「グノーシス派は異端扱いされ、消滅したはずです」
僕は「そうか」とだけ言った。「異端は淘汰される運命なんですよ」
☆ミラク
君はあの時、ベッドに座っていた。僕が病室に入ると、フレームの太い眼鏡をかけた痩せた短髪の同い年くらいの男がいた。
そいつは僕を見た瞬間に僕の胸ぐらを掴んで、叫ぶように怒鳴った。
「お前は二度と近づくな!何なんだよ、お前は!もう終わるかもしれないのに、お前は僕と美代子の間に割り込んできたんだ!最後くらい幸せな思い出にしたいじゃないか!」
「お前がサトルか」
「やめてよ!私が悪いんだ。私が中途半端なことをしたから、二人を苦しめてる」
「美代子は何も悪くない!こいつが悪いんだ。こいつが!」
「俺はわかってるよ。ここで、俺がもう二度とミヨコに会わないと言ったら、ミヨコは悲しむって」
「なんだお前?彼氏面しやがって!僕は美代子の彼氏だぞ!」
そう言って、咳払いをした。
「彼氏だとか彼女だとか、そんな大事なことか?」
「お前は彼氏ですらないじゃないか!」
男は唾を飛ばして言った。
「そんなに名称が大事か」
「何をわけわからないこと言ってるんだ?お前は美代子のなんでもないだろう?」
「俺はお前みたいな奴が、大嫌いだ。自分のことしか考えようとしない、お前みたいなやつには腹が立つ。お前には思い出になっても、ミヨコにとっては思い出にならない。お前には未来があっても、ミヨコには今しかない。そんな簡単なこともわからないのは、心底自己愛が深いんだろうな」
サトルは黙って僕を睨みつけた。
「ミヨコの『彼氏』になるとか、俺にはそんなのどうでもいい。俺はただ、ミヨコの今がよくなればいいと思ってるだけだ。ミヨコが死にたくなったら、迷わずミヨコを殺すことだって出来る。お前にその覚悟はあるのか?」
サトルは何も言わず、病室を出て行った。
「ごめんね。私は最低だよ。二人を傷つけて」
ミヨコは泣きながら言った。俺は問題ないし、あいつがどう受け止めていくかはあいつ次第だから、ミヨコは悪くないと言った。そして、なんであんな奴と付き合ったんだと、呆れて笑いながら訊いた。
「サトルは傷つきやすいし、臆病者かもしれないけれど、私はサトルがいたから、ある程度強くいられた気がするの。私は私なりに、サトルのことを大事に思ってるよ。感覚として弟みたいな感じかな。私にとってはなくてはならない存在なの。言葉にするのが難しいね」
なんとなくわかったと言った。タバコが吸いたくなり、吸いに行こうか迷っている時に君が口を開いた。
「ねえ、私が損なわれていって私でなくなった時、スイは私を殺してくれる?」
「ああ」
「私は嫌。そうなった時、そうして欲しいけれど、スイを私のせいでヒトゴロシにしたくないよ」
「わかってる。たとえというか、そのくらいの覚悟をしているってことだ」
君は泣きじゃくり、呼吸が落ち着かないまま言った。
「でも、本当に私が私でなくなったら、私を殺して欲しいとも思うの。わがままなのはわかってる。でも死ぬときは、スイの腕の中で死にたい。スイに抱きしめられながら死んでいきたい。けど、それは『自由』が責任を負わないで何でもしていいって意味だったら、許されることなの。スイはいつも私のワガママを聞いてくれた。甘えすぎってわかってるよ。だから、そんなことはしないで」
君を抱き寄せ、わかったと言った。サトルはもう来なくなった。
☆ギェナー
車椅子を押す。段差がある。背もたれに体を右向きにつけ、膝を曲げる。持ち手を下方向へと力を入れる。前輪が上がる。左脚の膝を伸ばし、ゆっくりと押す。軽かった。
「上手くなった!全然怖くなかったよ」
志穂に聞いた方法を実践した。
「それはよかった。外は久しぶりだな」
「うん。寒いね。けど心地いい」
風が君の髪を撫でる。長かった髪は入院の都合上、短いボブカットになった。ふわりと舞い、短い髪がなびいた。君のうなじは透き通っていた。君は振り向く。真っ白な頬は、薔薇色に染まっていた。長い睫毛が大きな瞳に蓋をしていた。美しかった。
ゆっくりと歩く。
「ねえ、外はどんな感じ?」
「そうだな。楓の木が紅葉してる。葉っぱは紅葉色っぽくはなくて、そほ色、鉛丹色に近い。地面に結構葉っぱが落ちてる。山吹色とか琥珀色の落ち葉の隙間から、檜肌色の地面が見える。近くにはイチョウの木がある」
「落ち葉のカサカサいう音がするね。銀杏の匂いがする」
「少しだけ彼岸花が咲いてる」
「あー見たいな。彼岸花って綺麗だよね。嫌いな人もいるみたいだけど、私は好き」
「俺も好きだ。咲いてるのは赤、白…」
「うんうん」
僕は気になるものが目に入り君に尋ねた。
「ちょっと右方向に動いてもいいか?」
「なんか面白いもの見つけたの?」
青い彼岸花だと言うと、僕は驚いた。
「珍しいな。初めて見た。花びらの外側が青紫色、内側が群青色だ」
「少し触ってみてもいい?」
僕は車椅子をロックし、正面にしゃがみ、君の足を足置きから下ろした。僕は君の両肘を持ち、君が前屈みになるように屈伸をした。君は立ち上がり、僕は君が花にさわれるように左側を支えた。君はゆっくりとかがみ、花に触れた。
「いい匂いがするね」
「俺にはわからなかった」
「目が見えなくなってから、嗅覚が鋭くなったのかな。匂いはね、百合にすごく似てるけどもっと穏やか。優しくて、甘酸っぱいようないい匂い。私じゃ、スイみたいに上手く説明できないや」
そう言って笑った。僕は君の香りだと思うことにした。
青い彼岸花など存在しないと、後からわかった。彼岸花の仲間でアガパンサスという花だった。愛の花と呼ばれていた。
☆アルフォルド
病院に着くと、弱々しい声で君は、「どうして毎週来てくれるの?」と言った。君はもう体を起こすこともできなくなった。耳下腺が腫れ、おたふく風邪の症状が出ていた。恥ずかしいから見ないでほしいと言った。僕はできるだけ目を逸らし、手を握った。
「大学は、きちんと行ってる?」
「ああ」
「お父さんのお見舞いには、行かなくていいの?」
「平気だよ」
「こんな姿見られたくない。私、臭いでしょ?お風呂も頻繁に入れないし、肌もボロボロだし、トイレもできなくて、オムツしてるし」
僕はそんなことを感じなかった。むしろ甘酸っぱい君の匂いがしていた。不思議だった。
僕は君を見た。頬を膨らます君が愛らしく、美しく見えた。
「俺はどんなミヨコでも、好きだよ。変わらないって言ったら、前のミヨコに失礼かもしれないけど、俺の中では変わらない」
「嘘だよ、それ」
「嘘じゃない。むしろ、俺の目にはどんどん綺麗になって見えるし、かわいいよ」
「私、もともとブスだし」
「じゃあ、俺がミヨコの分まで綺麗だって思うから、それじゃダメか?」
君は力なく笑った。美しい笑顔だった。
「あのね、私もね、スイの存在自体が好き」
次の日も、病院に行った。僕は上機嫌だった。僕は病室のカーテンを開け、笑顔で「調子はどうだ?」と訊いた。君は僕に「誰ですか?」と言った。
♤アケルナル
爪先から刻まれる。上半身と下半身を強引に引っ張られて、ちぎり分けられる。サビまみれの肉切り包丁で腹を捌かれる。内臓を引き摺り出され、一つ一つ丁寧にマチ針を刺されている。皮膚の内側に、画鋲が敷き詰められた綿を入れられる。誰かが背中に油をひき、ライターを当てて焼いている。蛆虫が身体中を擽る。痒い。口の中にも入ってくる。肺を粘土で固められる。咳がしたい。息ができない。胃を掴まれてポンプのように押し返される。僕は蛆を吐き出す。睾丸と腸を縫われ、マッシャーで粉砕される。頭が熱い。鼻から溶けた鉄を送られる。そして目は冷たくなった鉄で覆われる。
そんな苦しみだ。どこが痛いのかなんてわからない。だが、痛みなどはどうでもいい。一番の苦しみは、自分の一部を失い続けている実感をありありと突きつけられることだった。
君はこんな苦しみを抱えていたのに、僕に隠していた。それがただ腹立たしい。
☆アンドロメダ
「どんなに反応がなくても、耳だけは聞こえてるからね。たくさん話しかけてあげてね」
看護師はそう言った。
君は虚な目をしていた。だが、赤い口紅がひかれていた。オムツの薬品くさい匂いがした。
「ミヨコ、俺だ。スイだ」
自分の名前を言うのが嫌いだった。どうしてもうわずってしまって誰かがスイと呼ぶときと違う気がしてしまうからだ。けれども、この時は自然と言えた。
「今日は、大学でレイとヒメリが喧嘩したらしくて、ずっとムスッとしてた。くだらない理由で喧嘩したらしくてさ。なんだっけな、レイがヒメリの持ってたキャラもののペンを馬鹿にしたらしいんだけど、本当はレイもおんなじの持ってたんだ。それで、ヒメリはカンカンに怒ってさ。レイはプライドが高いからさ、絶対謝らないとか言い出してさ。だから放課後、リョウタが二人を連れ出して、和解させるんだって言ってたよ」
「外はもう少ししたら、全部葉っぱが落ちそうなくらい寒いよ」
「昨日はさ、志穂と寿司食いに行ったんだ。ブリとか美味しかった。サーモンの西京漬炙り、ってのが美味しかった」
「なんかあるかな」
「今、雨がすごく降ってる。冷たい雨だよ。雷は鳴ってない」
「寒い。死にそうなくらいに」
「でも、俺は平気だよ」
「元気になったら、星の見える綺麗なところに行こうな」
「何かしてほしいことあったら、頭の中で思えよ。感じ取ってやるから」
「俺は絶対に独りになんてしてやらないからな」
「これからは、毎日来るから」
「バイト?しばらく休みもらったよ。志穂がボーナス出たから、しばらくは平気だって。だから寿司食ったんだ」
「俺はまだミヨコが好きだから。どんなんなっても、俺はミヨコが好きだから。髪の毛の先まで愛してる」
「そうだ。俺は君を愛してるんだ」
君の口が少しだけ動いた気がした。
「本当はミヨコの全部が欲しい。俺はずるいよ。嘘ついて、真っ向勝負しないで。美味しいとこだけ持っていった。ミヨコの彼氏が怒るのも無理ないよ」
「本心は、お前と永遠に一緒になれるならなんだってしたい。でも、それは無理なんだ」
「だから、せめて最後まで一緒にいさせてくれないか」
「なんでもいいから、俺が死ぬまで一緒にいてくれよ」
「仮に生まれ変わったら、会いに来てくれよ。俺はきっとチビのままだし、きっと頭もハゲてるし、ヨボヨボだけど…」
息を吸う。「ヘッヘッヘ」と腹部が痙攣する。
「男に生まれ変わってても、猫だろうが、虫だろうが、なんだっていいから…会いに来てくれよ」
そんなこと信じちゃいなかった。喋らないと、苦しかったのだ。
「ごめん。こんな弱音を言うつもりはなかった」
「俺は生きるよ。ミヨコがいなくなっても大丈夫だから」
嘘だった。
「彼女だって作るし、結婚だってしてやる。幸せになってやる。でも、爪の先くらいでいいからさ、俺の心の中にお前の居場所があってもいいか?ミヨコがいつ帰ってきてもいいように、少しだけ場所をあけとくよ」
嘘の壁に嘘を塗った。僕の心は君が入り込む前に空いていた以上に、もっと大きく空いている。
僕は君を抱きしめる。泣いているのは僕だった。君は、僕にそっと手を回した気がした。唇を重ねる。少し舌が動いた気がした。僕は口づけ以上に、君の存在を愛しているのだと、表現したかった。だが、それ以上どうしたらいいのかわからなかった。
看護師は僕に手紙を差し出した。君から預かっていたという僕の好きなムーングレイの便箋を。さらに、看護師は、君に僕が来るときは、口紅を引いて欲しいと頼まれていたと教えてくれた。
僕は手紙を家で開けた。大きな字で書かれていた。
彗へ
元気にしてますか?
どう?読める?なんかむずかしいなあ。手紙なんて、ほとんど書いたことないから何書けばいいのか、まようね。
そうだ!ねえ、よろこんで!ラブレターだよ!もしかして初なんじゃない?私も初めて書くよ。
いつもね、スイは私のことを深い愛で包み込んでくれてる、って伝わってる。彗に愛されっぱなしになってるなって、思っちゃうの。もしかしたら、スイも自分だけ一方通行なんじゃないかって、思ってるかもしれない。だから、伝わるようにきちんと書くね。
私はスイが好き。大好き。いつも、はずかしくて口で言えないけど、すごく好き。愛してるってこういうことなんだって思う。愛がよくわからなかったけど、カクシンを持って言える。私はスイを愛してる。苦しかった時に、そばにいてくれたから好きとか、そういうのじゃない。依存じゃない。ムショウの愛をささげたいって思ってる。けど、私の持ち物は、もうなにも残らなくなっちゃう。だから、最近よく祈るの。なににって?わかんない。ただスイがしあわせでありますように、って。
セイシンテキに不安定でごめんね。たくさんきずつけたと思う。私が死んだら、もっと深いキズを残しちゃうんじゃないかって思う。私のためにも生きたいけど、スイのためにも生きたかった。スイは弱虫だから。それなのに、いっつも平気なフリしてる。それがシンパイ。
私のために、スイは恋人を作ってよ。テンゴクもジゴクもあるかわかんないけど、私にアピールしてよ。こんなにしあわせなんだぞー、って。
私はスイの存在自体を愛してる。私がどんなに苦しんでもいい。だから、スイはしあわせになって欲しい、そう思うの。スイのしあわせをつかんで。ただ、私のこと忘れないでよ。わがままかもしれないけど、つらい時はスイのことを深く愛してた、私のことを思い出して。力になれるかわかんないけどね。私の存在は失われるんだろうけど、スイの心の中で存在させて。わがままだよね。
私はスイのおかげでしあわせだった。苦しい時も、辛い時も、スイの存在でしあわせを感じられた。最後までしあわせだった。一緒にいてくれてありがとう。みじかい手紙でごめんね。スイ、愛してるよ。
ミヨコ
君のことを馬鹿だと思った。僕はどんなに不幸になろうが、君のことなど忘れられないし、君と一緒にいたかった。君がいない幸福など、意味がない。色は光がないと存在しないように、僕の幸福は君がいないと存在しなかった。僕は君に全てを捧げたいだけだった。だから、この哀傷も受け入れることが、君への愛なのだと考えた。僕は黙って、火に焼かれる痛みに耐えようと思った。
君はもう死んでしまっていると思った。だが、君の体だけは生きていた。二十年前に美代子と名付けられた身体だけが生きていた。君は死にながら、苦痛を残して生かされていた。自我も意識も、絶望すらも存在しない。ただ眼前に拡がる暗闇から、疝痛のみを享受するだけだった。心臓が止まるまで。
☆ムフリッド
木津の紹介で、美弥と付き合い始めた。木津に君のことはなにも言わなかった。美弥は僕のことを好きだと言った。僕はわからないと言った。本当にわからなかった。そのとき僕には世界が白黒にしか見えなかった。美弥はおそらく美しく、可愛いと呼ばれる種類の女の子だ。美しさを備えた女の子は、その造形によって、欲情をそそったが、明らかに君とは違った。
美弥と付き合ってからも毎日、君に会いに行った。いや、正確に言えば、君の肉体に会いに行った。君が残っていないその遺骸は生きており、まだ美しかった。だが、ただ単に整っているだけとも言えた。それでも、僕は話しかけた。
「なあ、いつまで寝てんだよ」
「死んだフリはやめろよな」
「リョウタがヒメリと付き合うことになったのは、言ったっけか?もうあいつめんどくせえの。自慢ばっかのくせに、全然進展してねえの。おかげでシュンスケは頻繁に飲み会しようとするし、こっちもいい迷惑だよな」
「そういや、彼女ができた」
「木津の紹介でな。楽しいよ」
多分、とは言えなかった。
「なあ、俺がミヨコのこと忘れると思うか?忘れるわけねえだろ?」
「あんな手紙残して、ずるいじゃねえかよ」
「僕は君を殺せないよ。嫌だ。ミヨコが苦しいのはわかるのに、できない。僕は、なんて弱いんだ」
「君を愛してる。なのに、怖くてたまらない。永遠に君を損なう覚悟がない」
「愛してる」と言う言葉は、使えば使うだけ重さが減った。言葉に収まるようなものではなかった。それは光だった。光は甘美で、永遠に続く快楽と愉悦を与えた。また、僕自身を奪い、絶望で心の内側を焼いた。君を想う時にその炎は燃え盛り、僕に生を感じさせた。でも、その光は有限でいつか消えるものだった。
君がもし、あの時に聞こえていたなら、僕はこんなことを言うべきじゃなかったと後悔している。僕は口に出してから気がついた。結局、僕は自分のことしか考えていなかったのだ、と。君が植物状態になってから、君のことを考えていなかった。そして、僕はこの時決断した。愛のために君を殺すのだ、と。
☆デルセト♤
凍てつく寒さは肌を貫き、手が震えた。この震えが寒さによるものだけではないことは、わかっていた。彼岸花はとうの昔に散り、落ち葉ですら、踏み固められ黒く凝固し、土に還った。その土に僕は精液を入れた避妊具を埋めた。闇夜に白く光る欠けた月だけが浮いていた。君と歩いた道も、君と見た星も、もうなかった。
病院の裏口でパスワードを入力し、侵入した。七階まで階段を上がった。ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ段を登る。段についた金属と靴が当たり、カツンと響く。闇に音が飲まれていく。目の前の空気は黒。手すりも黒。階段も黒。靴も黒。背後も黒だった。
病室に入ると、君の肉体があった。ただ心臓だけを動かす美しい空虚な骸。肉体の内側には棘が生え、棘は伸びる度に、君を苦痛と恥辱で貫いていた。君の首を掴む。熱い。脈動が伝わる。僕は手を離した。生体モニターの電源は落ちていた。
君の顔を見た。白く透明な肌に、虚空を見つめる大きな瞳。小ぶりな口には赤い口紅が引かれていた。唇を重ねる。死の味がした。冷たかった。僕は君の上に覆いかぶさり、胸に触れる。小ぶりで柔らかい。君の股に手を伸ばす。オムツの感触がする。僕はオムツを脱がした。汚れていた。机に置いてあるウエットティッシュで拭いた。暗闇から色が見えた。黒色。セピア。パウダーピンク。撫子色。鴇羽色。マゼンタ。もうこんな色には意味がない。君の痩せ細った腕を掴む。乳白色。瑠璃色。それでも、色は増していく。
僕は君を胸に抱く。パジャマの上着を脱がした。肋が酷く浮き、胃の位置にカテーテルが刺さっていたが、美しかった。初めて見た君の裸は美しかった。君の体に接吻をする。君は動かない。アガパンサスの香りがした。
服を脱ぎ、再び君に覆いかぶさった。君の体が炎に変わる。白く、熱い。僕の体も炎になる。燃え盛る。炎と炎が混り合い、溶け、一つになる。君の痛みを感じる。君の哀しみを感じる。君の地獄を感じる。そして、君の幸福を感じた。
首元に手を伸ばす。頸動脈を優しく絞める。口づけをする。琥珀色の美しい角膜。透き通った青白い肌。君の存在は、美しい。
瞳は光を亡くし、呆然と虚を見た。
あと、十一分だ。
僕を君へと導いた美しい花弁が損なわれるまで、あと十分。
君の苦痛が終わるまで、あと九分。
君が肉体という牢獄から解放されるまで、あと八分。
君が世界を失うまで、あと七分。
君の光が消えるまで、あと六分。
あと五分。
あと四分。額に口づけをした。雷鳴が聞こえた。
あと三分。瞼に口づけをした。星空が見えた。
あと二分。唇に口づけをした。潮風の匂いがした。
あと一分。寒さを感じた。
二つの炎が交わり、消えた。
もう、君は動かない。君はもう、絶対に笑わない。
僕の仮面は笑顔になった。誰かの笑い声が聞こえた。笑いは僕の心を引き裂いた。笑っていたのは、僕だった。