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死の暦  作者: 雪未 桔尚
14/16

第三部:闇と星の暦 ⅴ二〇二二年

♤漆桶

 僕の視界は暗闇で覆われた。死が目の前にいた。僕は死を見続けなくてはならなかった。そして、死は僕を凝視していた。目の前に立ち塞がり、ただひたすら凝視していた。拘置所に入ってから、初めて死にたくないと思った。動悸を感じ、息が荒くなった。僕は尿意を催し、立ち上がり、トイレの方へと向かった。トイレがどこにあるのかも分からず、何度も脚を机にぶつけた。ようやく窓の感触を感じ、左下の方からアンモニア臭がし、しゃがみ込んで触ると冷たい陶器の感触がした。僕は立ちながら、放尿をしたが水の泡立つ音ではなく、固いものに当たって跳ね返る音がし、それがズボンを少し濡らした。便器の蓋が閉まったままだった。食事を運んできた衛生夫が気づき、衛生夫にだけ事情を話した。衛生夫は黙ってトイレを掃除した。情けなく思った。僕は大便をした後も、しきりにトイレットペーパーを鼻先まで近づけて嗅ぐ羽目になった。目が見えなくなったことを悟られるわけにはいかないと思った僕は、風呂場でわざと転び、尻に大きな痣をつけ、看守にシャワー室の椅子まで手を引いてもらった。僕はとうとう死ぬためだけに生きながらえているのだと思うと、反抗心から死にたくないという思いが強まった。しかし、どうしても生きたいとは思えなかった。僕は黒でも白でもなく、灰色だった。

 二十五の誕生日は誰も来なかった。僕は本を読むことができなくなったため、より一層思索することが増えた。ある時は、記憶を頼りによく口ずさんでいた歌を歌ったり、かつて読んだ本の内容を自分の言葉で組み立て直したりした。ある時は、頭の隅から思い出を引っ張り出し、違う選択肢を選んだ自分を想像した。僕の思い出は大抵白黒で、色がなく、色がついているのは君との記憶だけだった。僕は記憶の中の君を、できるだけ正確に描き出そうとした。自分の記憶が間違っている可能性もあったが、僕はそれで満足だった。


☆ムルジム

 君と初めて出会ったのは、大学の一号館のガラス張りの教室だった。

 サムという教師は結婚式があるため、初日のフレッシュマンイングリッシュの授業を休んだ。初めてのクラスメイトとの対面は、四限のライティングイングリッシュの授業になった。僕は月曜の三限の授業に講義をとる気がなかった。一号館の教室が空いていたため、昼休みを終えると、席に座り、カバンを枕にして仮眠をとった。

「あの二十組ってここであってますか?」

 か細い声が聞こえた。下を向きながらモジモジと喋っているような声だと思った。このまま聞こえない振りをしようかと思ったが、面倒なことになりそうだったので、顔を上げた。君は白い顔を紅く染めて、下唇を少し噛み、何度も瞬きをした。

「ああ、そうだよ。同じクラス?」

 僕は似合わない笑顔で、爽やかな声を出した。自分の声が、あんな爽やかな響きがすることに驚いた。君はきっと、僕の髪が長かったから女だと思ったんだろう。少し驚いたのか、間があった。

「うん。一年間よろしくお願いします」

「よろしく。俺はスイ」

 僕はこの大学ではファーストネームで呼び合うことが普通だということを入学前に知っていため、下の名前で答えた。

「ミヨコです」

 君は口を閉じたまま、照れ笑いを浮かべた。君と目があった。僕は、自分の顔に張り付いていた仮面が剥がれ落ち、自分の存在がいたたまれなくなり、逃げてしまいたくなった。

 君は、コミュ障だから初対面の人と話すのが苦手で、うまく喋れなくてごめん、と謝った。僕の顔から表情が消えていたのだろう。僕は気にしなくていいし、英語を喋る大学なんだし、そんなのはいる間に克服すればいいだろうから、頑張ろうと言ったと思う。正直に言うと、あまりよく覚えていない。僕は君の瞳から目が離せなくなり、君と目が合うと慌てて逸らした。僕は君に、出だしから男と二人だけで話していると、女子と仲良く出来なくなるだろうから、席を離れて座った方がいいと言った。君は嫌がられたと思ったのか、困ったような顔をして移動をしたが、僕は誤解を訂正しなかった。そのあとすぐに、女子二人が入ってきて君の前に座り、自己紹介をした。授業の開始五分前には、クラスの全員が揃っていた。僕の正面にはフミカという騒がしい女子とスケボーを担いで入ってきたコウタロウが座った。フミカは僕のことを女だと思ったと言い、今度髪で遊ばせてよと言ってきた。僕は次の月曜日の放課後に、長く伸びた髪をバッサリと切った。だが、前髪はまだ長く、眉にかかっていた。クラスのグループラインが作られ、そこからMiyokoという名前がラインのともだちに追加された。「ともだち」という響きに違和感を持った。


☆輝く明けの明星

四月下旬、福島にあるブリテッシュヒルズで、一泊二日の学科ごとのガイダンスが行われた。当日は学校に集合し、クラスごとに大型バスに乗り、四時間近くかけ、福島へと向かった。あの時にはすでに、僕が君に好意を抱いているということは、ほとんどのクラスメイトに知られていた。行きのバスで、君は乗り物酔いをするからと言い、窓際に座った。僕は同じ列の反対の通路側の席に座った。君の横にはフミカが座り、僕の横にはコウキが座った。その時までコウキは無口で背が高いこともあり、怖いと思っていたが、気をつかってあまり喋らないだけだと分かり、リラックスしながら話ができた。

 乗り始めてすぐは、外の景色を見ながらはしゃいでいたが、一時間すると、ほとんど皆寝てしまった。僕はフミカに肘でつつかれ、君の寝顔を見た。まだ少しあどけなさが残る、君の顔を凝視したとき、心臓が激しく鳴った。すぐに目を逸らした。フミカや後ろに座っていたユイに、顔が真っ赤だと指摘され、僕は上着に顔を埋めて眠りに入った。

 その年の福島はまだ寒さが残り、山奥に位置するブリティッシュヒルズには残雪があった。天気は曇りで、体感温度は一度か二度くらいに感じた。吐く息は少し白く、寒がりの君の肩が震えているのに気が付いていた。この時になにか羽織るものをかけてあげたいと思ったが、気持ち悪がられるのが怖くてできなかった。

 ブリティッシュヒルズに着くと、まず荷物を置きに部屋へと向かった。ブリティッシュヒルズは、中世のイギリス風の建物で、室内に入っても寒さは和らいだ気がしなかった。女子たちはハリーポッターみたいだと喜んでいた。女子と男子は、それぞれ別々の部屋で、男子は四人部屋だった。僕はベッドでゴロゴロしていたかったが、コウタロウとジュンヤが売店に行きたいと言うので、三人で外へ向かった。コウキは少し仮眠をとっていた。

 売店には紅茶などの、イギリスにちなんだものが売っていた。僕は人混みの中に目を向けた。

「ミヨコでも探してるのか?」

 僕は否定し、コウタロウこそユイのことを探してるんじゃないのかと言った。

「いや、もうなれたもんだよ、俺らの関係なんて。お前らお似合いでいいよな。なんかうぶで、見てるこっちがそわそわしてくる」

 ユイとコウタロウは同じ高校だった。

 僕はミヨコのことなんて、どうも思ってないと言った。

「じゃあ、俺がミヨコにアタックしてくる」

「おい、ジュンヤ。スイすっげえ睨んでんぞ」

 二人は僕を笑った。どうやらからかっているのと、背中を押そうとしてくれていたみたいだった。 

「スイ、彼女いたことは?」

「ないよ」

「まあ、男子校だったら仕方ないのか」

「正直、恋愛だとか、誰かを好きになるとかよくわからない。ミヨコから目を離せなくなったり、ミヨコの笑顔をみたいと思って、ついふざけたこと言っちゃうだけなんだ。自分でも自分がコントロールできなくて参ってる」

 誰かが僕の目を手で覆った。後ろを振り返るとフミカが笑っていた。恥ずかしい会話を聞かれたと思い焦ったが、それよりも初めて家族以外の異性に体を触れられ、ドギマギとしていた。ジュンヤとコウタロウは、僕のことをピュアボーイと呼んでニヤニヤした。僕は三人を置いて、部屋に戻った。

 ブリティッシュヒルズでの一番の楽しみは、初日の夕食だった。ドレスコードが決まっており、男子はスーツで女子はドレスだった。僕は白いシャツの上に黒のベストを着て、その上にジャケットを羽織った。ネクタイはスーツと同じ黒系統ので、薄い格子柄の模様がついていた。ワックスで髪を整え、十七時に四人で食堂へと向かった。

 食事が始まるのは十八時からだったが、それぞれのクラスが記念写真を撮ったり、席に座って話をしていた。おそらく三百人近くの人がいたように思う。僕はその人混みの中から、君の姿に目が止まった。君は濃紺のドレスを着て、髪をポニーテールにしていた。濃い色のドレスは君の白さを一層引き立てるもので、(あで)やかさに目を奪われ、僕は息を飲んだ。けれども、僕は気づいていないふりをした。君を見つめていたことを君に知られるのが怖かったから。

すぐ後に、ジュンヤが二十組の集団を見つけ、手を降った。

 僕はできるだけ全員の見た目に注意を払わないように努めた。それでも、君の透き通ったうなじからほつれた毛の、一本一本まで見ていた。君は振り向いて、僕を見つけると、顔を下に向けたが、まっすぐ僕を見た。胸が詰まって息苦しくて辛かった。僕は視線を下に向け、深く息を吸った。苦しかった。胸の中では幾つもの感情が渦巻き、それぞれの色が混ざり合い、真っ白になった。自分の振る舞いや行動を、頭の中で言葉にし、それに従おうと思ったが、何も浮かばなかった。それでも、どうにかして君に何かを伝えたくて、僕は言った。

「すごく似合ってるよ」

 それが精一杯だった。綺麗だとか、可愛いだとか、そんな言葉に重みが感じられず、口には出せなかった。そんな決まりきった言葉が、当てはまるようなものではないと思った。君は下唇を噛んで微笑んだ。

「ありがとう。スイも似合ってるよ」

 君は下を向いてしまった。それ以上、君の時間を繋ぎ止めておく言葉が出ずに、僕は食事を取りに列に並びに行った。食事はバイキング形式だった。君の席は端で、僕との距離は五人分以上あった。僕の隣にはコウタロウがいて正面にはユイがいた。

 このガイダンスはサヤが体調を崩し、休んでいた。僕はサヤに君の写真を撮ってきて欲しいと頼まれていた。コウタロウに「ミヨコと写真を撮りたいんだけど、どうしたらいいかな」ときいた。自分で考えなと言われた。僕は何も考えが浮かばず、それまでの間ひたすら食べ物をよそい、ひたすら胃袋に詰めた。ユイとその隣に座っていたフミカが、よく食べるねと言って笑っていた。

 僕は食後、携帯を構え、クラスメイトの写真を撮った。ユイとコウタロウ、フミカとジュンヤ、アイにミリ、次々と写真を撮ったが、君の写真だけは気遅れして、撮れずにいた。

「二人ともお似合いだから横並びなよ。はい、チーズ」

 コウタロウが気を利かせて、写真を撮ってくれた。今でもあの写真を思い出すと、恥ずかしく、情けない気持ちになる。臆病で張りぼての傷つくことが怖い勇気のない僕。写真の中の僕はだらしなく緩んだ顔を、真っ赤に染めていた。困ったように微笑む君との距離は、半人分ほどあった。君はとても遠いところにいるのだと思った。

 後日、グループラインに様々な写真が貼られたが、あの写真は僕とコウタロウと君だけが持っていた。

 夕食後は自由時間となり、クラスメイトたちと橙色のランプに照らされた、煉瓦造りの道を歩いた。僕は君と距離をおいて歩いた。何か得体の知れない感情に、飲まれてしまいそうな感覚がした。君のことを考えれば考えるほど、自分が醜悪で下品な人間に思えた。

 僕たちはブリティッシュヒルズ内にあるパブで、バタービールを飲んだ。アルコールのないシロップの塊のようなものは、口に合わなかった。パブで体を温め、外に出た。

 まだ冬を纏った夜風は冷たかった。息を吸うごとに、体温が奪われていった。白い街灯に照らされた君は、白くまばゆい光に見えた。全員、部屋に帰るために急いだ。

 すると突然、肩に重い衝撃が走り、僕は脚に力を入れ、なんとか踏ん張った。後ろを振り返ると、フミカの顔があった。大きな笑い声をたてていた。ふざけて僕に飛び付いたらしかった。アイが僕らに、二人とも付き合っちゃえばいいのに、と言った。僕は君の姿を探したが、僕の遥か前を歩いていた。僕はそれに安堵した。フミカは僕のことを弟みたいなもんだと言った。その言葉で僕は次の日、志穂へのお土産を忘れずに買わなきゃいけないなと思った。


♢アルリシャ

 僕は自分の首に触れない。首を圧迫される服も無理だ。だからスーツは着れないはずだ。ネクタイなんて締めたのか?母の手の感触を感じる。僕の妄想か。父は帰ってこない。父の顔は覚えていない。腹が減っていた。僕は塾をさぼった。家の扉は鍵がかかっていなかった。忍び込むように入る。玄関には四足の靴。高価そうな靴。汚いスニーカー。サンダル。ハイヒール。手を洗う。リビングにそっと入ると、声が聞こえる。母の泣いている声。寝室のドアの黒いしみ。手が震える。ドアを開ける。ベッドには肌色。筋肉質の尻が一つ。前後に動く。女の胸が揺れる。開かれた女の脚。その下には男の脚。ブヨブヨの腹が一つ。ブヨブヨから伸びた棒を、母が口にいれている。

 ブヨブヨが僕に気づく。母は起き上がろうとする。尻はすぐにどく。下敷きになっている男からゆっくり離れる。母には穴がたくさん。乳房。腹。太腿。生成色に塗れてる。生成色が溢れる。鈍い痛み。壁に押し付けられる。白くて綺麗な手が伸びる。汚れた手。汚い手。臭い手。喉元が絞められる。息ができない。怖かった。


☆アストライア

 しとしとと雨が降っていた。ラパスの窓から見える空は黒かった。四角いテーブルを挟んで、正面には君が座り、アイとコウキが左右に座っていた。僕たちは明日が期限の、ライティングイングリッシュの課題をやっていた。アイとコウキは三限の授業があるからと言い、チャイムが鳴ると行ってしまった。四限には必修の英語基礎があったため、帰ることはできなかった。

 二人が行ってから僕たちは黙っていた。君は真剣にiPadを見ながら、キーボードをタイプしていた。何か声をかけるのは邪魔になるのではないかと思った。君が息を吐いて、腕を前に伸ばし始めたときに、僕は話しかける機会だと思い、「なんかお腹減ってきたから、買ってこようと思うんだけど、なんか欲しいものある?」と聞いた。この喋り方は、自分でも気持ち悪いと思っていた。だが、君に話すときはどうしても丁寧に喋ってしまった。本当はこんな喋り方ではないのに、取り繕うことに必死になっていた。君は、さっき食べたばっかりだったのに、また食べるの?と驚いて笑った。

 僕は二階に上がり、ピザパンとアイスを買い、下に降りた。ついでにキツネうどんでも頼んで驚かせてやろうかとも思ったが、さすがに食べ切れる自信がなかった。僕は君の横の席に座り直した。

「ミヨコはゴールデンウィーク何かした?」

 君は、僕が食べている様子をじっと興味深そうにみていた。

「私は実家帰って、地元の友達に会ったくらいかな」

「実家ってどこなんだっけ?」

「富山だよ」

「富山かぁ。富山ブラックに鱒の寿司、うまいもんいっぱいあるね」

 僕は自分のキャラに沿った発言をした。君は「スイは食べ物のことばっか」と言って、口を開けて笑い、口元を手で隠した。僕は君の笑顔が見たくて、冗談をよく言ったが、僕は君の目に映る自分の姿が偽りだと思うと、消えてしまいたくなった。

「スイは?」

「俺は…」

 君に嘘をついた。

「俺は彼女とららぽーと行ったくらいかな」

 実際は、志穂と一緒に行っただけだった。僕はこの自分のくだらない嘘を後悔した。しかし、虚栄でできた仮面は虚栄を重ねずにはいられなかった。くだらない自尊心を持っていた僕は、恋愛を駆け引きであり、勝負だと思い込んでいた。この時、君に気を引かせるための、効果的な一撃を加えられたのではないかと、愚かにも勘違いをしていた。

それ以上、君は何も聞いてこなかった。授業についての当たり障りのない会話をした。五月から水曜日はラパスで昼食を食べた後、三限まで残ることが習慣になった。君は必ず三限にいるわけではなかったが、君と二人きりになれる確率が高いのはこの時間だった。

 僕は幕張駅から二十分ほど歩いて、登校していた。君は幕張本郷駅からバスで学校まで来ていた。電車とバスを毎日使うのは金銭的に厳しかったので、君と帰りがかぶる時間の雨の日にだけバスに乗った。六月はほとんど雨が続き、十日ほど君と一緒にバスに乗った。僕はバス停で並んでいるときに、後ろに君の姿を見つけると、手を上げ君の後ろに並び直した。君も同じようにした。君からは甘酸っぱいような不思議な香りがした。一度、香水をつけているのか訊いたこともあった。けれど、君はつけていないと言った。コウタロウに訊いても、そんなに香りが強い感じはしないと言っていた。僕は君のその香りに気がつくと呼吸が荒くなり、心拍数が上がるのを感じた。苦しかった。

 バスの中での会話は基本的に少なかった。沈黙自体は辛くなかったし、むしろ心地よく感じた。けど、君が気まずい思いをしているのではないかとか、自分の人見知りを責めているのではないかと思うと、面白そうな話をでっち上げた。こう言うと、僕は思いやりにあふれた善人に見えるかも知れないが、僕はただ、君に避けられるのが怖かっただけだった。


♤カノープス

「トレイの真ん中を中心に、七時の方に米があってその右隣に大皿があります。大皿の左半分に鮭、右側に野菜炒めです。大皿の右上に牛乳とその左隣に納豆があります。わかりますか?」

 衛生夫の説明を理解できなかったが、僕は頷いた。

 トレイを下げに来た衛生夫に、今日もありがとうと言った。

「前よりよく食べてますね。そういえば、今年の桜は例年より遅くて、やっと咲きはじめたみたいですよ」

 僕が黙っていたせいで衛生夫は、あなたは見ることができないのに気遣いが足りなかった、と謝まった。僕は、この中にいるやつは誰も見れないのだから、あんたも一緒だろうと言った。

「看守には本当に言わなくて良いんですか?」

 あんたには悪いが、これは反抗なんだと言った。看守たちは、いかに執行日まで僕を生かすかに重きを置いてる。途中で自殺されたり、病死されたら刑を執行できない。もし、病気だと気づかれたら、直ぐに治療が始まる。奴らに殺されるのが先か、過去に殺されるのが先か。もし、後者なら僕の勝ちなのだ。

 衛生夫は黙っていた。僕は訊いた。

「あんた、なんでここにいるんだ?」

 衛生夫は、遅いと怪しまれるから、また後日と言って、いなくなった。僕は看守を呼び、教誨室に行きたいと言った。腰縄に安心感を覚えたのは初めてだった。僕は階段に躓き、こけそうになったが、看守は何も言わなかったため、気が付いていないようだった。教誨室までの階段は七段だということを頭に入れた。

 三年ぶりの教誨室は、蝋燭の匂いが少し変わったような気がした。賛美歌は流れていなかった。僕はどこに教誨師がいるのかもわからず、黙って座っていた。顔の前で人が動く空気の流れを感じ、人が座ったのがわかった。

「黒澤さんはキリスト教信者でしょうか?」

 若い男の声だった。声は少し震え、不安定に揺れていた。キリストの復活を信じてはいない。ただ馴染みがあるだけだ、と言った。僕の声は少し苛立って響いた。僕は、聖書も中学と高校の授業で少し読んだきりだ、と言った。

「では、毎回来るたびに、聖書から一章ずつ朗読をしましょうか。ルカによる福音書から、一章ずつ読むのはどうでしょう?その後、黒澤さんの内にある悩みや、吐き出したいことを言ってください」

 僕は新訳だけではおそらく飽きるだろうから、旧約も朗読してほしいと言った。教誨師は、神が六日間である程度の世界を造った話と、キリストが生まれるまでの話をした。その後、僕に悩みなどはないか聞いたが、僕は首を横に振った。誰かの声に似ていると思った。だが、誰かは思い出せなかった。教誨師からは黒タバコの匂いがした。

 僕は看守に連れられ、あちこち検査され、失明がばれた。肺結核、サイトメガロウイルス感染症、カンジダ症、カポジ肉腫、そしてHIVウイルスの感染が確認された。


☆シャウラ

 熱気と共に蝉の声が響くような季節だった。北海道の気候に慣れすぎていた僕は、千葉の蒸し暑さに耐えられる気がしなかった。僕たちは課題と試験に追われ、休日に遊んで過ごすような余裕はなかった。フレッシュマンイングリッシュのインタビュー動画の作成を終えた後、ライティングイングリッシュの小テストと文章制作、基礎英語の単語テストと授業の予習、選択科目の学期末テストの勉強などに、空き時間を費やさなければならなかった。

 君と僕の間に進展はなかった。変わらず、ラインのやり取りだけは続いていたが、君の返事は三・四日後に来ることが多かった。君は携帯の調子が悪くて通知が来ないのだと、聞いてもないのに弁解した。自然と僕はバスに乗るのをやめた。進展どころか距離が大きく開いた。僕はフミカやミリと、国際コミュニケーション学科のタケルの四人でよく過ごした。タケルは合同授業の時に知り合った。

 フミカは僕を弟のように扱ったし、ミリも僕に恋愛感情のようなものはなく、初めて女友達という存在ができたと思った。フミカのこともミリのことも好きだったが、君に抱くものとは明らかに違っていた。彼女たちと一緒にいる時は、心が休まり、リラックスして笑うことができた。君の前だと僕は会話もぎこちなく、心音が高まり息を吸うのが苦しく感じた。君の前だと僕は自分がさもしい存在だと感じるようになった。

「ミヨコとはどうなの?」

 フミカは、屋外テラスの席にいる時に訊いた。タケルとミリは、文化人類学の授業を受けていたため、フミカと二人きりだった。日陰になっている席で、空気は暑かったが、涼しい風が吹いた。アルミ製のテーブルと椅子はヒンヤリして気持ちよかった。芝生が青々と茂っていた。

「別にこれと言って何もないけど」

「デートとか誘わないの?」

「今の時期は忙しいし無理だよ」

「ラインしてるんでしょ?」

「まあね」

 携帯が振動した。携帯をポケットから取り出すと、メッセージがきていた。フミカが目の前で、こっそりとスタンプを送ったようだった。フミカは僕の携帯の画面を見た。

「確認するの早いなあ。ミヨコからメッセージ来てるのに返事してないじゃん。返事返さないの?」

 首を傾け、僕の顔を覗き込むように訊いた。あざとい動作かもしれないが、わざとらしさを感じさせなかった。フミカの動作はそういうものが多かった。四人で幕張の海を見に行った時には、飛び跳ねてはしゃいでいた。

 僕はフミカに、あまり早く返信するのは嫌だから考えてから返事をしているのだと言った。

 あの時の君とのやり取りは家族についてだった。君は両親が離婚していて、片親だと教えてくれた。僕も母親が死んで片親だといった。

「あたしのは即返すのに」

「何も考えなくていいからな」

「何それ!あたしは頭からっぽって言いたいの?」

 そう言って笑いながら睨んだ。フミカの悪戯っぽい笑みを気に入っていた。また、フミカをからかうのも気に入っていた。

「ねえ、ミヨコのどこが好きなの?」

 僕はおそらく一目惚れだと言った。僕のこの感情は、一般的に一目惚れに値するものなのだと、ジュンヤが言っていたからだ。また、「ミヨコの笑顔が好きで、振る舞いとかがフミカと違って大人しいところ」と言った。フミカはひどいと言って、怒ったそぶりをした。それを言った時、僕は君の表面しか見えていないのだと気づき、絶望感に襲われた。

「一目惚れかぁ。男子の一目惚れはうまくいくらしいね。なんか、男の人は一瞬で判断しちゃうから、一目惚れでピンと来た人は逃さない方がいいみたいだよ」

 その後、フミカが何か言っていたが、頭に入らなかった。

 僕は、自分の抱く感情を愛と呼ばれる純粋なものだと思い込んでいた。自分を、純粋な恋愛感情を抱く、健全な精神の持ち主だとも思っていた。僕が愛したのは、君の美しさであり、君の顔であり、君の肌であり、君の体だった。君を思う時、僕は自分の中に熱いものを感じた。愛という仮面を被った欲情だった。僕はそれに騙され、陶酔し、判断力を失っていた。君が美しさを損なった時、きっと僕は君を愛さなくなる。結局、僕は自分に何か見返りや利益がなければ、人を愛せない。そう思うと、自分を汚れた結晶のように感じた。家に帰り、三年ぶりにカッターを手首に押し付けた。僕は純粋を信じて、汚れた仮面を剥ぐように刺した。手首は深々と切れ、傷痕から赤い血がじわっと滲んだ。血は真紅から赤黒く変色した。僕の抱くこの想いが、君を無条件に愛せるものなのか試したかった。仮に、君が事故に遭い顔面がグチャグチャになろうと、カルト宗教にハマっていようが、そんなことに関係なく愛せなくては、誠実さに欠けると思った。僕はそうしなくては、世間が定める愛に該当しないのだろう、と考えていたが、仮面の奥底では、激しい欲情を君に感じていた。僕は君に恋愛対象としてなど見られなくて良いと思った。君と裸で抱き合っていることを想像すると、息が苦しくなった。とてもそれはおぞましいことのように思えたからだ。欲望によって君を傷つけることはしたくなかった。君を深く理解し、君が幸せになるために、自分を犠牲にできれば良いと考えた。僕は、君と誰かが激しく愛しあっている様を脳裏に浮かべた。君が誰に抱かれていようが、幸せならそれで構わないと考えた。それが愛の形なのだ、と。僕は自分の体が君の体を求めていることを感じ、それに委ねてしまいたいとも思った。身を捧げて愛を実行するのだ、と心に誓った。気持ちがよかった。

 今思えば、自分を欺く嘘ほど醜いものはない。


♤カインが塗った月

 教誨師はカインとアベルの章を読み上げた。カインは神に供物を受け取ってもらえず、供物を受け取ってもらった弟アベルを殺した。人類最初の殺人だと言われている。

 愛とはなにか?カインの殺人は怒り、または嫉妬によるものだ。神は愛による殺人は認めているのか、と僕は訊いた。

 教誨師は椅子から立ち上がり、しばらく辺りを歩いた。息を吐く音が聞こえ、深く息を吸い、話しはじめた。

「キリスト教の観点から言えば、愛には四種類あります。まず、エロースというものがあります。エロースは日本語で言えば性愛、つまり異性を愛おしく想い、最終的にその相手と結ばれることを求めるものです。そして、フィリアというものがあります。こちらは兄弟愛と訳しますが、正確な意味では血のつながりは関係ないものなので、一番近いのは友情でしょう。次に、家族愛。これはストルゲーと言います。最後に、最上の愛とされているアガペーというものがあります。アガペーは、もともと神が人類を慈しんで幸福を与えるという意味でしたが、これは人間にも当てはまります。強いて訳すならば無条件の愛でしょう。アガペーを最も実践した人物こそ、イエス・キリストです。イエスは人類を愛し、アガペーのために十字架にかけられました。また、イエスも愛とは何か教えてくれています。善きサマリア人のたとえはご存知ですか?」

 中学の宗教の授業で習ったような記憶もあったが、僕は首を横に振った。教誨師はルカによる福音書の十章を読みはじめた。イエスは律法学者に、何をしたら永遠の生命を得られるのかを訊かれた。するとイエスは、隣人を愛せと言った。律法学者が隣人とは誰を指すかと聞くと、あるサマリア人の話をし始める。追い剥ぎにあい、半殺しになっていた人を様々な人が見過ごす中、サマリア人はその人物の手当てをして、宿屋にまで泊めた。イエスは強盗にあった人にとって誰が隣人かと訊いた。律法学者は「その慈悲深い行為をした人だ」と言った。そしてイエスは、あなたも同じようにしなさいと言った。

 そういう話だった。当時、サマリア人はユダヤ人によって強烈な差別を受けており、強盗にあった人はおそらくユダヤ人だったのだと、教誨師は補足した。僕は教誨師に、この話を信じているのか訊いた。そして、本当に実践できているのか訊いた。

 教誨師は黙っていた。僕は言った。

イエスは永遠の命を授かる方法なんてないから、絶対に無理なことを提示したようにしか思えない。それに、仮にそれで永遠の命が得られるとしても、そんな行いをし続けていたら、人間の醜さに憤って、自殺する羽目になる。神は全ての人間に死刑を宣告してるんだから。隣人を愛すのは立派な行為かもしれないが、それは奪われ続けることに他ならないだろう。キリスト教徒が聖地を奪われた時、武力で解決したのは何なんだ?それに、無条件の愛はまだ納得がいくが、強盗の隣人は誰だ?隣人が存在しない人はいないのではないか?その理論だと、強盗にあった人なのか?カインの隣人は誰だ?アベルか?

 教誨師は咳払いをした。

「強盗の隣人はこの話だけではわかりません。もしかしたら、家族や仲間が隣人かもしれません。誤った道を選んだ強盗を正す道に導く存在でしょう」

カインはアベルを殺したが、神はカインを殺そうとするものには七倍の復讐を課すと言ったのは、人が人を裁くべきではないということとは違うのか?と言った。

「あなたの指摘は正しいと私も思います。ですが、残念ながら全てのキリスト教徒がイエスの教えを忠実に守っているわけではありません。もしかしたらあなたは学校で、イエスの復活を信じる者がキリスト教徒だと教わったかもしれません。間違いではありませんが、洗礼が必須の宗派だったり、極端に言えばイエス・キリストを知らなくてもキリスト教徒になれます。また、プロテスタントとカトリックで大きく異なることもあります。『汝、殺すなかれ』、『汝、敵を愛せよ』と聖書には書かれていますが、様々な宗教戦争がありましたし、キリスト教を国教としている国が戦争を起こさないわけではありません。現代のキリスト教は、絶対的な唯一神宗教というわけではなくなっています。様々な形があり、聖書をルールとして様々なスタンスをとっている、というニュアンスに近いです。日本もそうでしょう。仏教の教えや神道の教えに強制力はないですからね。ただ私が言えるのは、キリスト教はあなたのような悩める仔羊を導くための宗教だということです」

 また、咳払いが聞こえた。僕は納得した振りをして独房に戻った。二度と行くものかと思ったが、退屈に耐えきれず、次の月も仕方なく話を聞きに行った。


♡アルキバ

 一年生の前期全ての授業を終え、花火とバケツを買った僕ら四人グループは浜辺に行った。海の風は涼しく心地よかった。海は汚く、茶色に濁っていた。だが、それでもミリとフミカは喜んだ。タケルと僕は、手持ち花火を持ってしゃがんだ。ミリはその様子を動画に撮っていた。僕たちが同時にしゃがむ様子がかわいい、と笑っていた。フミカも笑っていた。もし、過去に戻ってそこに居続けられるのなら、僕は四人で過ごしたあの夏に戻りたい。それくらい純粋に、楽しいという気分に浸っていた。友情で結ばれただけの関係では、僕は仮面を被る必要も、嘘をつく必要もなかったからだ。しかし、それが壊れるのは早かった。

 僕たちは花火をした後、ミリの家でたこ焼きパーティをすることになった。ミリは上京していて一人暮らしをしていた。ワンルームマンションの部屋は簡素だったが、好きなバンドのグッズやかわいいキャラクターの小物がたくさん置いてあった。玄関のすぐ横にキッチンがあり、ベッドが左側に縦に置かれ、右側はテーブルとテレビが置いてあった。ミリはたこ焼き機を出し、フミカは具材を混ぜた。ウインナーを入れたり、チーズを入れたり、色んな具材を入れて楽しんだ。フミカは次の日に予定があると言って、二十時に帰った。三人だけになった。僕たちは外に酒を買いに行った。たこ焼きをつまみに酒を飲んでいると、僕は寝てしまっていた。

 ふとした拍子に僕は目を覚ました。電気は消えていて、タオルケットがかけられていた。窓は開いていた。僕はトイレに行こうかと思って体を起こしたが、やめた。夏の朝に似合わない、肌寒い風が部屋に流れ込んだ。ベッドを見るとタケルとミリが幸福そうに寝ていた。僕は、この男女の友情を保っていられる気質でないことを悟った。

 僕は朝を待ち、始発の電車で帰った。憂鬱な気分で夏休みを迎えた。駅から家までの道で、ドブネズミが死んで腐っていた。蠅が集り、ピンクの内臓の上を白い蛆虫たちがウネウネと蠢いていた。

それからの夏休み期間は本を読んだり、ゲームをして、必要最低限の外出はしないようにした。メッセージが来ても、全て無視をした。君とのやり取りもここで途絶えた。僕は今までの君とのメッセージを見て、君への好意が自分にまだあることを確認した。だが、同時に苦痛を覚えた。君の言葉は凶器に変わり、僕の胸に深々と刺さった。君には、僕が知らない君の世界があり、僕はそこに干渉できない、絶対に触れてはいけないものなのだ、と自分に言い聞かせた。僕には君の存在が大きすぎた。

 僕は漠然とした大きな感情に支配されつつも、自我を保つことを心がけた。ある時は、君のことを尊いと思いつつ、それが僕に何の関係があるのかよくわからなくなった。ある時は、自分への痛みが憎悪に近い感情となり、混沌が心に蔓延した。

 父は昔、作家を目指していた。安部公房やカフカなどの実存主義に傾倒したらしい。父はいまだに書斎を持っていた。外に出ないと不健康だ、と言う志穂を無視して、父がいない間に、本棚から汚れていないものを一冊抜いて読んだ。

 ウエルベックの『地図と領土』だった。過激な内容に衝撃を受け、父の書斎を漁った。他に同じ作者のものはないか探したが、見当たらなかった。オースターの『ムーン・パレス』を読んだ。ジッドの『狭き門』を読んだ。エイメの『壁抜け男』を読んだ。赤い装丁が印象的で手にとった、ブランシャールの『泥棒の形の少年』を読んだ。小説内にはびこる憂鬱な雰囲気が印象的で、この本がきっかけで小説に不条理な結末を求め始めた。テッド・デッサルボの『フォーカス・オン・ファティ』を読んだ。ドストエフスキーの『白痴』を読んだ。カフカの『審判』を読んだ。夏休みの最後に読んだのは、トーマス・ベルンハルトの『消去』だった。

『泥棒の形の少年』で、ヴィクトルがエマを探す道中に出会った老人が言った言葉が、印象的だった。「人間の役割とは、表面に張り付いた仮面を演じ切ることだ」と。だが、結局ヴィクトルは、顔のほうが仮面に合うように変化してしまった。

 

♡コウモリと月への届け物

僕は自暴自棄になった。ちょうどあの時、ウエルベックを読んでいた。ウエルベックの小説みたいに性に奔放になれば解放されるのではないかとも思った。僕は薄暗い自分の部屋で、急激な虚無感と孤独に苛まれた。何もかもがどうでもよく感じた。自分の体も、精神も壊れようが、まっ黒になろうが、どうでもよかった。精神とは裏腹に、肉体は渇望していた。食欲は増え、よく眠った。性欲も増し、何でも良いから発散してしまいたかった。僕は出会い系サイトに登録した。顔写真も登録していないのに、何通かメッセージが来ていた。そのメッセージは怪しいと思い、削除し、簡単なプロフィールと顔写真を載せた。僕は気になる写真に手当たり次第、メッセージを送ったが、返事がないか、体の関係と引き換えに金銭を要求する内容のものだった。僕は面倒になり、一番上のメッセージを開き、返事をした。二日後の昼二時、神泉駅で会うことになった。神泉とはどこかと聞くと、渋谷の近くだと言う。女はホ別で三万だと言っていた。僕は「ホ別」の意味が分からず、ネット検索すると「ホテル代とは別」という意味だった。金のことなどどうでもよかった。僕は待ち合わせの三十分前には着いてしまった。

 二時十五分に、プロフィールの写真とは似ても似つかない太った女がきた。三十歳は超えているように見えた。つけまつ毛の黒さと太いアイライナーのせいで、目が潰されているみたいだと思った。僕以外に神泉で誰かを待っている人はいなかった。女は僕に、ネット上の名前を尋ねた。そうだと言った。女は「こっち」と言ってホテルに案内した。渋谷方面に歩いた。何故渋谷で待ち合わせしなかったのか訊いた。女は人通りの少ない駅の方が良く、神泉は穴場なのだと言った。入り組んだ道にあるホテルは、古い建物に思えた。隣にもホテルがあり、女は「ここら辺はホテル街なの」と言った。受付は薄暗く、赤いカーペットが不潔に感じた。僕はホテル代を払い、部屋に入り、女に金を払った。女はシャワーを浴びてくると言った。バスタオル一枚で出てきた女と交代で、僕もシャワーを浴びた。僕は震えていた。今すぐ逃げ出したい気持ちになった。しかし、脱いだズボンに財布を入れたままなのを思い出し、急いで出た。ズボンを畳むフリをして、財布を確認すると無事だった。女はベッドにいた。女は僕を寝かせ、上に覆いかぶさった。脂肪で僕は包まれた。女は胸に触るか聞き、僕は頷き触った。すると、僕は勃起し、女はゴムを被せ、それに跨がった。僕は童貞を捨てた。快感などなかった。ただ、出し入れをしただけだった。だが、ただそれだけで、自分が完全に汚れた存在になったことを確信した。

 女と交代でシャワーを浴び、ホテルを出ようとすると、女はホテルの受付でさようならと言い、手を握ってきた。汗でじっとりと湿っていた。女の薬指には、指輪の跡が残っていた。僕は外に出て、電信柱に胃液を吐いた。僕は少し笑った。僕はタバコを買って喫茶店に入り、カフェオレを頼んだ。飲み終わって気がつくと、ストローをねじ曲がるまで噛んでいた。

 

♡マルカブ

ジッドを読んでいる時に電話があり、ジュンヤに家まで呼び出された。

「スイ、なんでライン全部無視してんだよ」

 ジュンヤとコウタロウは言った。二人は床に座って、必死にダークソウルをやりながらテレビにかじりついていた。机の上には、エナジードリンクとポテチが開けっ放しで放置されていた。酒の空き缶を踏みそうになった。「いろいろ面倒くさくて、携帯を放置してた」と言った。僕はコウキの横の椅子にかけた。コウキは俯いてスマホを見ていた。

「お前にもてっきり彼女ができたのかと思ったぜ」

 ジュンヤはそう言って肩を組んできた。

「とうとう彼女いないのは、俺とお前だけだからな」

「コウキは?」

「こいつチャッカリしてんだよ。無口のくせになあ」

 コウタロウとジュンヤはここでクイズだと言って、僕にコウキの彼女が誰なのかを当てさせた。僕の知っている人らしい。僕は君なんじゃないかと一瞬不安になったが、そんなことは僕に関係がないことだと思うようにした。

「アイか?」

 コウキは無言でうなずいた。

「コウキは初めての彼女なんだろ?色々スイに教えてやれよ」

 ジュンヤは冷やかすように言った。

「ジュンヤも聞いたほうがいいんじゃないか?」

 僕は言った。

「俺は作ろうと思えば彼女できるから。あえて一人を選んでるだけだから」

 僕とコウタロウは、ジュンヤは羨ましいだけなんだろうと言って笑った。ジュンヤは不貞腐れて、再びゲームをし始め、コウタロウも一緒になってやった。

「どっちから告白したんだ?」

「俺から」

「アイのこと気になってたのか?」

「うん」

「ゴールデンウィーク明けのグループワークで一緒になってから」

 コウキは息継ぎをして、宙に浮いている言葉を、一つ一つ確かめて選ぶように、慎重に話した。

「アイは俺があんまり喋らないのを心配してくれて…最初は、どうして俺なんかに構うんだろうって思ったんだけど、気づいたら好きになってた」

 コウキは話しているうちに口角が上がり、笑顔になった。僕は訊いた。

「好きってどういう感じだ?俺はまだよく分からなくて」

 コウキは黙りこんでしまった。会話を聞いていたジュンヤが言った。

「あんま深く考えねえほうがいいぜ。俺とかはさ、キスとかセックスとか全部、そうするのが普通だからしてた。そしたら疲れて面倒になった。俺はさ、物に対するこれいいなって感情と、人に対するいいなって感情が同じなんだよ。俺みたいなやつは、アセクシャルっていうらしいぜ。お前もそれかもよ」

 なんとなく違う気はした。コウタロウは振り向き言った。

「ジュンヤみたいな奴もいるけどさ、俺もあんま深く考えすぎはよくねえと思うぞ。言葉で説明できねえもんだけど、一緒にいて楽とか、楽しいとか、幸せを感じるとかそういうことなんじゃねえか?」

 コウキも頷いていた。僕は机の上のエナジードリンクを飲みながら、論理的に誰が好きなのかを考えた。

 僕は立ち上がり、すぐさまメッセージを送り、「告白してくる」と言って、ジュンヤの家を出た。この時、余計なことを考えず頭が空っぽになった。心地よかった。


「急に呼び出して悪かった」僕は言った。

 首を横に振って平気だと言った。僕はもう三時間も待っていた。東浦和駅には暇をつぶせるようなところが見たところなく、僕は駅前の広場に座ったり、辺りをほっつき歩いていた。うだるような熱気に頭がぼうっとした。僕は待っている間に二回自販機で水を買い、三回トイレに行った。

「びっくりした。ごめんね。バイトしてたから、メッセージに気づかなかった。待たせて、ごめんね」

「いや、俺が勝手に呼び出しただけだから」

 僕は緊張で声が震え、手のひらにじんわりと汗が滲むのがわかった。

 僕たちは線路沿いの公園まで歩いた。公園に着くまで、僕たちの間に会話はなかった。

 ひらけたところにあり、決して小さくはない公園だったが、ブランコと滑り台、子供が乗るウサギやパンダの遊具しかなかった。僕たちは自然と、大きな木の下で向かいあって立った。

「それで、話ってなに?」

 頭を少しだけ傾けて優しい声で訊いてきた。僕は言葉が出てこず、唇が震えた。五分以上は、口を開けることもできずにいたんじゃないかと思う。僕は何度か息を吸い、言った。

「フミカ、俺はフミカが好きだ。一緒にいて欲しいと思う。だから、俺と付き合って欲しい」

 フミカに驚く様子はなかった。その日の僕の振る舞いで、全てを察していたんだろう。

「ごめんなさい。スイとは付き合えない。でも、勇気を出して、告白してくれてありがとう」

 僕は振られた瞬間、フミカと僕の世界には大きな隔たりがあり、それを埋めるのは困難で、尚且つ、僕はそれを埋めることを決して望んでいないと気づいた。僕は、今のフミカとの関係のまま、それを失いたくないと思っていただけだった。だが、僕はこの時、それを自分の手で粉々にした。


☆アルタイル

 木津に会った後に、二学期が始まった。僕は木津に全てを話した。ミヨコのことを思うと神聖な気持ちになるが、同時に、火で焼かれるような苦しみを感じること。それを感じない、無関心な自分もいること。夏休みの自暴自棄によって、売春婦相手に童貞を捨てたこと。フミカに告白をして振られたこと。全てを話したが、木津は口を挟まずに黙って聞き、言った。

「仮に、ミヨコちゃんの見た目がきっかけで相手のことを好きなら、それは立派な愛情だと思うぜ。だってさ、人間全員、同じ顔してたら恋愛できねえんじゃねえか?自分とおんなじ顔のやつとキスとか嫌じゃね?」

 木津は人差し指の関節で鼻を拭った。木津は気付いていなかったかもしれないが、あいつが嘘をついたり、思ってもないことを言う時は、必ず鼻を触る癖があった。

「それにさ、愛情って変化してくもんだろ、きっと。向こうから返ってこなくてもいいじゃんか。もちろん、愛し合うのって素晴らしいことなんだろうけどさ、お前がその想いを持ち続けることの方が大事な気がするよ」

 自分に言い聞かせるように言っていたのだと、今なら理解できる。しかし、当時の僕は気づかなかった。

 二学期になって、君の姿を見ると僕はすぐさま、自分の想いを告白したい衝動に突き動かされそうになった。自分が抱えているこの大きな塊を、吐き出してしまいたかったからだ。だが、僕は君の姿を直視できなかった。自分は汚れた存在で、消えたいのだという想いと、苦しみを与える君に対しての憎悪に近い想い、君の苦しみが消えてほしいという想いが、僕の中で矛盾し引き裂かれるようだった。今思えば、この衝動的な告白への欲求は、告白するという行為に純愛の象徴性を感じ、ただそれに自分が参加したかっただけなのだと思う。

 僕は休み前以上に君を避けた。だが、また僕は君にラインでメッセージを送った。やりとりがまた始まった。君はラインで僕に質問をしなくなった。僕たちはお互いの趣味や家庭環境も、どういう価値観を持っているかも、ざっくりだが知っていた。ただ表面的だった。君がバイクのレースとKポップが好きなことも知っていた。僕の父は韓国好きは在日で、日本にとって売国奴だと言っていたことを聞いたことがあった。そんなことは僕にはどうでもよかった。別に韓国なんて好きでも嫌いでもない。僕は基本的に、自分の知らない人間以外に関心が持てなかった。顔を見たことない人間を憎めるほど、熱心に生きられなかった。僕はただ単純に、君が好きなだけだ。それだけだった。

 僕は君の好きなアイドルグループの曲を聴き、バイクの選手の名前を覚えた。そのアイドルグループの何曲かは悪くないと思ったが、気が付くと慣れ親しんだロックバンドの曲に変えてしまっていた。バイクの方は、マシンにも興味を持ち、ヴァレンティーノ・ロッシはすごいと思ったが、自分の時間を消費してまで見続ける熱意はなかった。君が好きだったから、好きになろうと無理をしただけだった。

 僕は君の表面のことならなんでも知っていた。高校の時はバドミントンをやっていたこと、化粧はあまりしないこと、ハイカットのスニーカーの底にインソールを入れてること、恥ずかしいと下唇を噛む癖があること、慣れていない人と目を合わせるのは怖いこと、自分のことが嫌いなこと、生きるのが苦しいと感じていること、その他いろいろだ。

 フレッシュマンイングリッシュの授業で、サムは生徒に愛と金のどちらが大切か、手をあげさせた。金に手をあげたのは僕と君だけだった。サムは苦笑し、愛を選んだ人はロマンティストで、僕たちはリアリストだと言った。僕はリアリストという定義が、君と僕だけの世界のような気がし、嬉しいと思った。

 僕はクラスで道化を演じることは控え、内向的な学生になった。いや、もしかしたら、他の人には躁鬱患者のように写っていたかもしれない。もしくは、フミカに振られたショックで落ち込んでいる、と思われたかもしれない。ただ、そんな様子を気にせず、君は僕に普段通り接した。僕が久しぶりにバスに乗ると、君は嬉しそうに笑った。僕は君の笑みに幸福を感じるとともに、傷ついた。自分の醜さが鬱陶しく、家に帰って手首にカッターを押し当てた。袖がめくれて傷が見えないように、長袖の下着の下にリストバンドをした。

 十月の終わり頃、僕は君に、明日の授業後に駅前のカフェに行こうと言った。僕は口実として、英語学概論の予習をしたいのだと言った。君はためらわずにいいよと言った。君がためらわなかったことが、君にとっては異性と二人で出かけることはたいしたことではないのかもしれないと思わせられ、君との距離が開いたように感じた。

 僕たちは歩いて海浜幕張駅まで行った。君は僕の左を歩いた。君は最近、元気がないように見えるけれど大丈夫かと訊いてきた。僕が答えようとした時、コウタロウがスケボーで通りかかり、いいねぇと言って冷やかした。僕たちの間には沈黙が流れ、気まずかった。

「スイは、どこか行きたい国とかあるの?」

 君は沈黙に耐えられなかったのか、そう訊いた。語学系の学校だから、みんなどこかしら海外に行きたい人が多いから気になったのだと、君はみんなに訊いているかのように言った。

 僕はこの日初めて、まともに君を見た。君は腰まである長い髪を、右側でサイドテールにしていた。真っ赤なリップをつけていた。君の横顔は美しいと思った。小さな顔、少し低い鼻、左右で少しだけ大きさの違う目、それを自然と目立たなくさせている大きな涙袋、細くも濃くもないこげ茶の眉、小ぶりな唇、白いうなじ、腹部まで垂れた黒茶色の髪、全てが絵画のように完璧だった。君に手を伸ばすことはできても、君のいる場所には入り込めないのだと感じた。僕は涙が流れるのを感じ、必死にあくびをした。

「アルジェリアとかモロッコかな。北アフリカあたり」

「だから、アラビア語選んだの?」

 君は好奇心に満ちた目で訊いた。

 僕は第二言語に変わった言語を取ろうと思って、アラビア語を選択した。しかし、授業内容は読み書きのみで、会話は一年じゃ修得は無理なのだ、と教師は言っていた。前期は文字を覚えることで終わり、後期はコーランの一節を少し読めるようにするだけだった。それにアラビア語は、基本的に子音のみで書かれており、漢文のレ点や返り点などと同じように、母音を示す点が振られていなければ読むことすらできなかった。

「多分、俺が習ってるアラビア語じゃ海外で通じないよ。でも、イギリスもアメリカも、フランスも行ったし、北アフリカに行ってみたいなってふと思っただけ」

「いいなあ、イギリスとかフランス行ってみたいな」

「フランスは小さい頃だからあんまり覚えてないけど、ご飯が美味かったのは覚えてる。イギリスは短期だけど、ホームステイをしたからすごく居心地は良かった。ずっとあっちに住んでたいって思うくらい」

「イギリスのどこ行ってたの?」

「ウェールズのカーディフ。水道水だって飲めるし、ゴチャゴチャしてなくて綺麗な街だったよ」

 君はじっと僕を見ていた。僕は人と目を合わすのが嫌いだったが、君からは目を離せないことに気がついた。

「ミヨコは?」

「私はイギリスもいいし、イタリアもいいし、ニュージーランドもいいなって」

「韓国は?」

「韓国は結構行ったから、次はいいかなって感じ」

 カフェにつき、僕はカフェオレを注文し、君はハロウィン限定の甘いクリームの乗ったホットコーヒーを注文した。

 僕たちはテキストとノートを開き、無言で向かい合って座った。僕は下を向き、髪をかきあげる君の動作を見て、心臓が激しく鳴るのがわかった。僕は、テキストを見る君を見ていた。君は僕の視線に気が付き、微笑んで、「予習しないの?」と言った。僕は、その笑顔が他の誰かにも向けられているのだと思うと、胃が痙攣するような感覚に陥り、手が震えた。寒かった。真っ黒に汚れた自分には、この椅子に座る権利すらないのではないかとさえ思えた。それくらい君は美しかった。僕たちは授業のことや休みに何をしているか話した。一人暮らしには慣れたかと聞くと、君は「一人暮らしは寂しい」と言っていた。

「ペットはダメなの?」

「うーん、多分ダメ」

「まぁそうか」

「それに」

 君は下唇を噛んでから言った。

「ペットロスが怖い」

「まあ、やだよな」

「私、何かを失うのが一番怖い」

 僕は肯き、黙っていた。君は「こんな話してごめん」と言った。僕は全然構わないと言ったが、本当はもっと話を聞きたかった。僕はあの時、君に選ばれなかったのだと思った。壁を乗り越える資格が僕にはなかった。


♤黒闇

暗闇から覗く死の影は、母親の形をしていた。暗闇から僕の喉元へとゆっくり手を伸ばしているのだ。僕は自分が眠って夢を見ているのか、暗闇の中の幻影を見ているのかわからなかった。死にたくない。苦しい。そう思った。君も似たような苦しみを味わっていたのかと思うと、何故だか少し楽に思えた。君が見た暗闇。君が味わった苦しみ。君を少しでも感じられるなら、僕は幸福だった。

 僕は今の何も見えない状態で君と出会ったら、同じ感情を抱くのか考えた。おそらく、違うだろう。視覚が伴わないなら、そんなことは決してないだろう。全て暗闇なのだから。ひょっとしたら、君の香りに胸が締め付けられ、歌うような甘い声を聴いて、顔を赤く染めるかもしれない。過去の仮定を考えるのは、全く無意味な行為だ。僕の目が、君の美しさを捕えたことはもう変更しようがない。君の一挙手一投足に溜め息が漏れた。君の美しい顔は、僕の視線を君へと向けた。その美しい顔は蜂を寄せ付ける鮮やかな花びらのように僕を君の内面へと導いた。君は控えめな性格だったが、芯を持っていた。譲れないものがあり、それを失うまいとした。君の心が美しいかどうかなど、僕は知らない。世間が評価する美ではなくとも、僕は君の心が美しいものだと感じた。そして僕はただ、君の性格が好きだった。君が骨になってもこの感情は色褪せない。もちろん、僕が骨になってもだ。骨でもいいから、君が笑ってくれればいいと思う。


☆シリウス

「星、好きなんだ。よくお父さんにバイクで連れてってもらって、星見てたんだ。こっちは星があんまり見えなくて寂しいよね」

 君は少し気鬱な様子で言った。放課後、君との三度目のデートだった。

「星が綺麗に見えるとこなんて、あんまりないからな」

 フードコートに人はまばらにしかいなかった。

「スイは?」

「好きだよ。星が見えるとこに行ってみてえな」

 僕はまた君に合わせた。星を見ても何とも思えなかった。美しい景色は美しいという言葉が一人歩きをして、僕に美しいと思えと強いているようで、美しいとは思えなかった。

「ねえ、なんで喋り方とか変わったの?前はもっと柔らかい感じというか」

 僕は返答に窮した。君はおそらく僕を心配していたのだろう。君は、決して積極的ではないが、優しかった。いや、優しいという言葉は的確ではない。温和も柔和も温厚という言葉も相応しくない。強いていうなら慈悲深かった。ただ、僕へ注がれる慈悲は、他の誰かにも注がれる慈悲なのだ、と思うと僕の醜い心は煤けて黒くなり、陰鬱になった。

「自分を偽るのをやめただけ。ただそれだけ」

「スイは強いね」と言ってくれた。

ショッピングモール内のクリスマスの飾りを見て、気が早いなと思った。僕たちはビビンバを完食してトレイを下げ、喋っていた。

「ねえ、今から星、見に行かない?」

 君は突然言った。見れなかったら怒っていいよと言って、君は嬉しそうに立ち上がり笑った。

 君に連れられ僕は、ビル街を抜け、アスファルトの地面に覆われた公園まで歩いた。そして、その公園を抜け、駐車場についた。駐車場の奥の林の間に、フェンスで仕切られた道があった。ここは夜暗いから、一人ではなかなか来ることができないと君は言った。たしかに暗かった。そして、暗いというよりは黒かった。時折靡(なび)く北風が枝を揺すり、カサカサと音を立てた。君は怯え、僕の手をとった。冷たくスベスベしていた。寒さのせいか、怖いのか震えていた。ハッキリと顔は見えなかったが、「スイの手は温かいね」と言って、君は僕に笑いかけた。その道を抜けると、道路を挟んで、砂浜が見えた。ガードレールの高さにまで砂が積もっていた。ガードレールを越え、海に向かって歩いた。靴の中に砂が入り不快だった。

 波打ち際に君は座った。僕はその左に座った。君は、できるだけ外灯や遠くの町の灯りを見ずに空を見て欲しい、と言った。空を見上げると、特に明るい光が三つ見えた。君は、そのままずっと見ていると目が慣れて、次第にくっきり見えると言った。僕の眼は暗闇に慣れ、目の端に小さな星の光が点滅しているのを感じ、もう一度大きな星を見ると、鮮やかに見えた。だが、それ以上はなにも見えなかった。

「ごめんね」と君は言った。僕は星が見えようが見えなかろうがどうでもよかった。君とここに来れたことだけで満足だった。「あの三つの星だけでも十分だ」と僕は言った。本当は、気の利く奴なら「じゃあ今度星がよく見えるところに行こう」とでも言うのだろうが、僕には言えないと思った。そして、しばらくしてから、僕は君に好きな星座はあるのかと訊いた。

「形だけなら牡牛座かな。けど、話で好きというか同情しちゃうのが、からす座かな」

「からす座?」

 君の方を向いたときに、東京方面の陸地が、電気によって光っているのが見え、空は真っ暗闇に戻った。

「うん。乙女座の下の方にいるんだけど、元々カラスは真っ白でえらい神様の使いだったの。でもカラスは間違ったことを伝えて、そのせいで神様は矢で恋人を殺してしまうの。それで、その神様は怒ってカラスを真っ黒に染めて、空に杭で留めちゃったの。カラスが嘘つきだったか、うっかり者だったかはわからないんだって。お父さんから聞いたの。あんまりせっかちになるなよって言ってた」そう言って、最初に見えた三つの星の一番左あたりを差し、その下にいるのだと言った。僕には見えなかった。

 僕の好きな星座を君は訊いた。

 特に好きな星座はない、でも、あの明るい青白い星は綺麗だと思う、と言った。話はそこで終わってしまった。

 君は両手を地面について、空を見ていた。街のあかりが君の目にきらきらと映り込んでいた。僕は君に触れたいと思った。不可侵な領域を侵したい、それができなければ僕は失格なのだ、と自分に言い聞かせた。高鳴る心臓の音を聞きながら、君に手を伸ばす。空を見上げる君の頭を僕は撫でた。つややかな髪は柔らかく、指の間をするすると抜けた。僕はあのとき君に初めて触れた、そう思った。君は甘い声で「なに?」と言って微笑んだ。君は何でもないことのように、気にしなかった。だから、いっそう僕の傷口は深くなった。チクリと痛む胸の感触を無視して、僕は「そろそろ帰ろうか」と言った。


☆アルデバラン

バスの車内で僕たちは他愛のない会話をした。隣り合って座り、僕はスマホを見つめる君を見ていた。幕張本郷駅に着いた。

 改札前で僕たちは分かれた。だが、僕は自分の衝動を抑えることができなかった。僕は改札から出て、君を追いかけた。

「ミヨコ!」

 君は振り向く。僕は頭が真っ白になった。君の後ろのガードレールに目が行き、その奥で走る車たちに意識がいった。柔らかな寒さは息を吸う度、肺を刺した。

「どうしたの?」

 君は困ったような笑みで僕を見る。僕は息を吐いて、空を見た。息は白かった。空は明るく、仄かに白んだ黒だった。どうして空を見たのかはよくわからない。

「聞いてほしいことがある」

 きっと君はこの一言で予感したんだろう。同情するような目で僕を見た。

「俺はミヨコのことが好きだ。けど、俺はミヨコと付き合いたいとかじゃない。俺はきっとミヨコを不幸にする。付き合うとかそんなんはどうでも良くて、俺はただ、ミヨコが好きで、幸せになってほしいって思ってる。だから、返事が欲しいとかじゃなくて、ただこれを伝えたかっただけだ」

 君は肯き、伏し目がちに哀しく微笑んだ。

「うん。わかった。ありがとう」

「突然、ごめん」

 君は首を横に振る。僕たちの周りを通行人が歩いていることに気づき、君から逃げるようにして帰った。

 僕は後悔をした。君にあんな哀しい顔をさせたことを。僕は君に彼氏ができたことをアイから聞いて知っていた。だから、あの告白はただの自己満足だった。自分が吐き出して、スッキリしたいだけだった。もしかしたら、告白は素晴らしいものなのだと、誰かは言うかもしれない。自分の想いを伝えることは美しいことだと、ポップ歌手は歌っている。そんなもの、くだらない。君を苦しめることになるとわかっていたのに、僕は自分の苦痛が和らぐ方を選んだだけだった。


♤布良星

雪のない冬は灰色だった。北海道に長くいたせいか、違和感があった。あっちで外に出る時は、雪の溶け具合や、雪によって色のついた風の角度を見て、外の気温の大まかな予想ができた。こっちは常に同じ色で、わかりづらく不便だった。北海道よりも千葉の方が寒く感じた。特に晴れた日は、千葉の方が寒かった。

 僕は大学で、再び道化を演じることになった。僕がなんとも思ってない、と君に思わせるためだった。僕が軽い男なら君も楽だろうと思った。もしかしたら、僕には彼女がいて別れることができないから、あんな告白をしたのだ、と君は思ったのかもしれない。君がどう思っていようが、どうでもよかった。君は僕の顔を見ると少し、苦い顔をして苦しそうに笑顔を作った。僕はもう、君の視界に入りたくなかった。君の影になりたいと思った。足元の黒い影になってしまえば、君は僕を見ずに済むし、僕は君のそばにいられるのにと思った。だが、すぐに気持ち悪い考えだと思った。

 冬休みに入る直前に、父が愛人と車で事故にあった。愛人は死に、父は意識不明の重体になった。僕は積極的な治療はやめて欲しいと言ったが、医者は受け入れなかった。僕は父の保険の手続きをし、パリに旅行中の志穂を呼び戻した。志穂は泣いた。僕は泣こうとしたが、涙は出なかった。僕たちは愛人の遺族に対して、慰謝料を払うことになった。志穂はデイサービスで働き、僕は近所のレンタルビデオ店でアルバイトを始めた。志穂はほとんど休むことなく、月に五回は夜勤で仕事をした。夜は、併設されている特別養護老人ホームで働いていた。僕は冬休みに、フルタイムで週五日働いた。

 台所の換気扇の下に残っていたタバコを吸った。僕はタバコがなくなると、コンビニに置いてあるタバコを、数字の1から順に買った。あるタバコは辛く、あるタバコは臭く、あるタバコは甘ったるく、あるタバコは驚くほど不味かった。

 一月に大学が始まると、週三日で授業終わりから八時間働いた。バイトが終わるのは、夜中の二時か三時だった。

 志穂は休日になるとずっと寝ていた。だが、たまにオシャレをしてどこかへ出かけて行った。デートかと聞くと、笑ってごまかした。僕が焦がした料理を美味しいと言って、次の日の弁当箱につめた。自分に言い聞かせるように、充実していて幸せだと言うのが口癖になった。それは、鬱陶しいものだった。


♤アンタレス

 教誨師はノアの家系の話をした後、あのサマリヤ人の章を読んだ。教誨師は、あれからこの話の感じ方は変わったかと訊いた。僕は特に前と変わらないと言った。

「何か悩んでいることはおありですか?あなたとこうして話すのはもう十回目ですから、何か私の力になれることがあるなら、お力添えしますよ」

 仮にキリスト教がこの世になかったら、愛や罪などの概念は存在しなかったのではないかと思うが、どう思うかと訊いた。

「うーん、そうですね。たしかに、愛や罪はキリスト教に深く根付いている考えだと思います。でも、それが概念上なくても、存在はしてたと思いますよ。動物が良い例です。犬が親のいない猫の世話をするとか、ペットが赤ん坊の面倒を見るとか、動物たちは言葉も概念も持ってはいませんが、愛を知っているでしょう」

 罪はどうか?動物は罪悪感を感じながら、共食いはしないのではないか。欲望を満たせれば何でも良いのではないか、と訊いた。

「動物に欠けているものがあります。それは道徳や倫理です。人間は道徳に基づいて、その範疇を超えた行為を法で裁いています。もし法律やそう言った概念がない状態で、あなたの大切な人が奪われたらどうします?」

 そいつを殺すか、徹底的に苦しめるだろうと言った。そこまでできるほど、大切な人間とやらがいればの話だが。

「そうですね。誰でもそう思うでしょう。しかしですね、前にあなたが仰ったように、人が人を裁く行為の多くは、良い結果にはならないです。だから、現代では法があり、裁判をして罪を確定させているのです」

「それは結局、人数が増えたのと基準があるだけで、人が人を裁いてるのと変わらない気がするけど」

「だから、『敵を愛せよ』が大事なんです。これを世界中の人間が実践できたのなら、法律や裁判などというものはなくなりますよ」


♤カストルとポリュデウケス

最初は声だけなので、誰かはわからなかった。女の声だ。

「あなたに謝りたくてきました」と言ったきり黙ってしまった。僕はどうしているのか聞いた。震える声で、アムネスティインターナショナルで死刑制度の撤廃を求める活動をしているのだ、と言った。手紙に返事をくれなかったから、怒っているのかと思ったと言った。相手が真波だと気が付いた。僕は定型文で答えた。

「ありがとう。俺は、あんたに俺への罪悪感で自分の人生を台無しにして欲しくない。俺は実際に二人の人間を殺した。それは揺るぎようのない事実だ。それに、あんたは何も悪くないし、あんたが裁判で証言していようがいまいが結果は同じだ。むしろ俺の方こそ悪かった」

「そんなことない。あの時、本当は嬉しかった。美弥と喧嘩して思ってもないことを言って、あなたを傷つけたけど、私は本気で黒澤くんと付き合っても良いと思った。あなたは病気だからって拒んだけれど、私はそれでも愛して欲しいと思ったから、後悔はしてない。だからもし私と寝たことで後悔していたら、その後悔を、私と付き合わなかった後悔に変えてよ」

 調子が出てきたのか彼女は声に張りが出てきた。彼女の声は少し掠れていて綺麗な声だと気が付いた。

「美弥はどうしてるんだ?」

「気になるの?」

 僕はどうでもよかったが、首を縦に振った。

「美弥はとっても後悔してた。感情に任せて嘘の証言をしたことを、後悔してた。最初はあなたが、美代子さんの代わりとして、あの子を選んだって思ったみたいよ。女としてのプライドをズタズタにされたの。だから、感情的に嘘をついたの。もちろん許されるべきではないけどね。あなたの死刑が確定してから、あの子は自分のせいだって言ってたわ。罪悪感や良心の呵責に悩まされてた。あの後、美弥はネットで知り合った人と付き合ったわ。いかに黒澤くんが自分を大切にしてくれてたか思い知ったみたい。そいつと婚約までしてたけど、美弥は自殺したわ。飛び降りだったって」

 僕はそうか、とだけ言った。

「あとね、私は罪悪感でなんか動かない。意外と泥臭い女なの。あなたと一緒になるにはこうするしかないの」

「俺はいずれ死ぬし、もう目も見えない」

「そんなのみんな一緒じゃない?誰も永遠に生きないし、誰もきちんと何も見てないよ」

「寿司を食いに行きたい」と言うと、彼女は気が抜けたのか、大笑いした。

「じゃあ、あそこ行こ!葛西臨海水族園!あそこでマグロ見てマグロ食べようよ」

 僕は笑った。乾いた音がした。

「約束だよ」

「わかった」

「あなたの服は、まだ家に残ってるから」

 その後、僕は嘔吐した。吐いたのは血だった。見えない状態では、嘔吐か喀血か判別しづらかったが、匂いですぐ分かった。もう、血を吐くのにも慣れきっていた。

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