第三部:闇と星の暦 ⅱ二〇一九年~二〇二〇年
♤よつぼし
目の前の闇から手が、僕の喉元まで伸びる。その指は細い。しかし、力は凄まじく、首に爪が食い込む感触がする。腕の主は甲高い声で笑う。闇から現れたのは、母の顔だった。母は力を緩め、僕を胸に抱きしめる。視界は赤くぼやけ、その中で裸の志穂が見えた。志穂は笑いながら、中年の男に抱かれていた。志穂の顔は次第に、君の顔へと変わっていった。男が体を痙攣させ、快感に溺れた時、首に生暖かい感触がした。触ると、手には赤黒い血がべっとりとついていた。顔を上げると、僕の右脚に裸の女がしがみついていた。僕は女を振り払うために腕を動かそうとしたが、腕はゆっくりとしか動かなかった。君の姿は消え、暗闇から四本の腕が僕の喉元を絞めていた。息ができなかった。上を見上げると月が見えた。月の中心は黒く、くり抜かれたように外側しか光っていなかった。爪が首に食い込み、血が流れた感覚がした。木津の笑い声が聴こえた。僕は目を覚まし、必死に息をした。
布団は汗で湿り、すえた臭いが鼻腔をつく。辺りはまだ暗かった。食事の時にくすねていたフォークを手首に刺してみたが、紙製のフォークは力なく曲がった。今日は年に一回の独房の引っ越しの日だった。もう二回目だったから、感慨も何もなかった。
激しい喉の痛みと関節痛を感じた。僕は体調不良を隠そうと思った。また、激しい性欲の波に襲われた。女性というものをしばらく近くに感じなかったため、僕はふと勃起をした。だが、君の姿を思い浮かべることはなかった。僕は最後に寝たときのことを思い出した。タバコ臭い部屋。胸の痣。塩辛い口づけ。真波の体温を感じたような気がした。俺は便器に射精をしていた。なぜだか手の震えが止まらなくなった。もう二度としたい気持ちにはなれなかった。
朝日がさし込み、部屋を明るくした。しかし、部屋は暖まらなかった。七時のチャイムが鳴り、微かな音が動き出した。七時二十五分ぴったりに朝食が運ばれてきた。衛生夫は俺のことを番号で呼んだ。
「二百七番、今日は食べられそうですか?」
衛生夫は本当に心配しているかのように、怪訝な顔つきをしていた。僕は頷いた。僕はロールパンにだけ手をつけた。
「いつもすまない」
トレイを下げにきた衛生夫に言ったが、声がうまく出ずに、衛生夫の耳に届いているかわからなかった。
「私に謝っても仕方ないですよ。作ってくれた人に謝ってください。まあ、私は運よくそっちにいないだけです。だからもし、あなたの状況に置かれたら、私もそうなるでしょう。きちんと眠れていますか?」
僕は首を横に振った。
「殺されることが生きる意味だから」
衛生夫は何も言わず、立ち去った。今日は風呂に入れる日だったので、運動がしたいと看守に告げた。十一時に、看守に手錠と腰縄をされ、屋上に上がった。三月下旬の風は冷たく、精液にも似た新緑の香りがした。金網に囲まれた狭い空は薄い色をしていた。カラスが一羽飛んでいるのが見えた。
☆
「この前初めてきちんとカラスを見たんだけど、カラスってよく見ると青くて綺麗なんだよ」と君は言った。
「紺色ってことか?」
「紺って言うより、紫と青色に近いかな」
「群青色?」
「そうそれ!綺麗なの」
後に、色の辞典で確認すると、群青色はカラスよりも明るい青だと気がついた。次のページには濡れ烏や紫烏色というカラスの色を表した名称があった。それに、どちらかというと、僕の目には紺青色に見えた。だが、それを君に言いはしなかった。
「スイはカラスみたい」
「そんなに群れてない」
「違うよ、バカ!」
「カラスはさ、カモメとかの方が獰猛なのに、人に嫌われてるじゃん?」
「俺がそんな嫌われ者だって言いたいのか?」
「もう!最後まで聞いてよ!」
君はむくれて頬を膨らませた。
「冗談だよ。それで?」
「本当は優しくて、誰よりも愛情が深いのに、それを認めないし、認められようとも思ってない。スイにはスイの世界があって、社会とか、そういう大きなものに認められようとも思ってない。世間からみたらスイは真っ黒に見えて、怖いものかもしれないけれど、私はスイの世界が見える。私はスイの純粋さも弱さもわかってる。感謝してよね」
「絶対それだけじゃないだろ?」
「バレた?生命力が強くてしぶとそう」
君は歯を見せて、いたずらっぽい笑みを浮かべた。その時の笑顔は、僕の脳裏に写真のように焼き付いていた。
♤
金網に囲まれた狭い空に飛んでいたカラスは、群青色だった。気がつくと泣いていた。僕はようやく、君が見ていた世界を見ているのだと思った。自分の遥か高くを飛ぶカラスに、嫉妬の念を覚えた。凍てついた太陽の光は刺々しく、目が眩んだ。日陰に目を向けると、網膜に太陽が焼きつき、緑の影に見えた。昼食を告げるチャイムとともに、僕は独房に戻った。
♤ザウラク
面会があった。
「久しぶり。うちのことなんか忘れちゃった?」
僕は昼食後、横になって寝ようとしている時だった。
「この前、卒業式があったんだ。タカシとシュンスケは半年留年になっちゃったけど、みんな元気だよ」
僕は何も言えなかった。サヤはニコニコと笑ったが、すぐに口角を落とし、まっすぐ僕を見つめていた。死刑確定時、親族以外に面会ができる人は、僕が申請を出した五人に限ると言われた。サヤはそのうちの一人だった。
「黙ってて悪かった。すまない」
「何が?ミヨコが死んじゃってたこと?それともスイが殺したってこと?」
僕はどっちもだといった。
「スイが急にミヨコのこと殺したんだ、とか言い出しても、うち絶対信じなかったよ。頭わいてること言い始めたって思うよ。人殺した人がそんなん言ったら、マヌケじゃん。うち的にはもっと捕まらないように逃げりゃよかったのに、って思うよ」
そう言って笑った。僕も気がつくと笑い声を立てていた。
「むしろうち、ずっと謝らなきゃって思ってたのがさ。一年の初め覚えてる?ミヨコとうちと三人でご飯行ったじゃん?あん時、全く気づいてなかったのもあるけど、どんだけうち鈍感なんだよ、って後々思ってさ。あたしがなんか理由つけて二人っきりにすべきだったよね。うち空気読めなさすぎて、昔の自分殺したいもん。うちみたいなブスにミヨコとのデート邪魔されたなんて、スイの経歴に傷つけたって猛省したわ。本当ごめん」
全く気にもしていなかったことを謝られ僕はさらに笑った。笑いすぎて涙が出るのは久しぶりだった。
☆
クラスメイトが少し仲良くなり始めた時、サヤはしきりに君をご飯に連れて行きたいのだと言った。
「もうミヨコかわいすぎかよ。もうあたしダメだわ。ミヨコの前だと緊張して汗とかヤバいし、顔真っ赤でデブだし、ほんとあたしキモいよね。自分キモすぎて、『うちの分際でこの子と話してていいのかな?』みたいになっちゃう」
サヤは体が太っているわけではなかったが、頬に少し肉がついていて丸顔だった。本人が言う通り地味な顔だったが、笑うと目が細くなり、話してる相手は自然と同じ顔になった。サヤは大体ショートパンツにスパッツという組み合わせで、長すぎず短すぎない脚は細く、よく他の女子に褒められていた。だが、当人は決まって、「脚しか褒めるところがないんだ」とか、「顔は見たくないってことなんだ」と、言っていた。サヤのそういった姿勢は、気分を害するようなものではなく、本人はみんなに嫌われていると言っていたが、僕の知る限り嫌っている人間はいなかった。
「考えすぎだろ。ラインとかはしてるんだろ?」
「してるけど、うちがクズすぎてなんか会話終わっちゃう」
なんだそれと言って、僕とコウタロウは笑ったが、サヤはとぼけた顔をしていた。僕もキミとラインのやりとりをしていたけれど、君はすぐに既読をつけずに、一日か二日置いてからまとめて返事をした。いつも僕たちのやりとりは複数のことについて、それぞれメッセージを交わした。会話のキャッチボールは途切れることがなく、二週間続いていた。
「だって、ミヨコなんてモテモテでしょ。女子にも男子にも大人気でしょ。あの子にうちに構ってる時間はないのよ。多分、ミヨコが朝バスに乗るだけで、毎日二人は一目惚れさせてるよ。うちなんかミヨコに毎日一目惚れしてるし」
「たしかにかわいいかもしんねえけど、大袈裟だろ。スイがムッとするからあんま言わねえけど、俺は大人しい奴は好みじゃないし、正直何考えてるかよくわからん」
サヤは細い目を見開いて、コウタロウを睨んだ。
「コウタロウは人生損してるよ。ミヨコがかわいくないなんて、かわいそうに」
「うるせえな。もうあれだよ、だったらお前ら二人でミヨコを飯に誘えよ」
「なんで俺もなんだよ」
「いいから行ってこいよ。バレバレだし」
僕はそれとなく否定し、未読にしてた君のメッセージを開き、三つメッセージを返し、サヤと三人で授業後にご飯でも行かない?と送った。君は、ブリティッシュヒルズに行く前の水曜日なら、空いていると返信した。サヤと僕はその日の四限終わりに、夕飯を食べに行くことになった。
フレッシュマンイングリッシュの授業を終え、僕達は海浜幕張のイオンのイタリアンに入った。道中は、サヤがひょうきんなことを言い、二人でそれについて笑った。君に訊きたいことは山ほどあったが、口に出せなかった。店内は明るく、軽快なクラシックが流れていた。僕たちは窓際のソファ席に案内され、僕の正面に二人が座った。
僕たちは、それぞれパスタと飲み物を頼んだ。
「ねえ、スイって双子なんでしょ?」
しばらくして君が訊いた。
「うん。姉がいるよ」
「絶対美人でしょ。うちに紹介してよ」
サヤは言った。
二卵性だから顔も性格も似てないし、あんまり仲が良くないと言った。
「私、一人っ子だから羨ましいな。一人だと喧嘩とかもないし、結構寂しかったな」
後に君が片親で育ったことを知ると納得した。僕はその時、こう答えた。
「姉弟はいたらいたで、めんどくさいよ?俺はむしろ一人っ子に憧れるな」
「うちも弟と仲悪いからよくわかるわ。うちと違ってイケイケだし、多分こんな地味な姉、いやだろうし」
もっと君のことを聞きたかったが、僕は気持ち悪い奴だと思われるのを恐れて、サヤに質問をしたり、自分の高校の時のエピソードなどを喋った。君の笑顔を見たくて、似合わない冗談を言ったりもした。頬の肉が少し上がり、二重まぶたは細くキュッとしぼみ、歯が覗いた。君の笑顔に夢中で、パスタの味もサヤの話もそんなに覚えていない。僕はまだ、自分が抱いていた感情の説明ができなかった。煩わしく、もどかしく、そしてむず痒さを感じた。
♤
あの時にサヤがいなかったら、場がもたなかっただろうと言った。
「えー絶対それ嘘だわ。スイのあの時の睨んだ顔、今でも覚えてるし」
そんなことはしていないと言ったが、聞く耳を持ってはくれなかった。
「元気そうで良かったよ。そういえば恋人はできた?」
「そう、聞いてよ!ついこの間だよ。大学の後輩で、一つ下の子。もうめっちゃかわいいから。ミヨコなんて目じゃないくらい」
僕は、サヤとミヨコが付き合うのではないかと思っていたこともあった、と言った。だが、サヤは気が多く、様々な男女を好きになった。その中でも二年の時に、サヤは遠くから見ることしかできず、名前も知らず、ヘンテコなあだ名で呼んでいた眼鏡の地味な男子を思い出した。結局、どうなったのか訊いた。
「ピオン様でしょ?ダメだった。結局話しかけることすらできなかったもん。てか、うちがスイにかなうわけないじゃん」
ここで少し沈黙が流れた。何かお互い気に触ることがあったわけではなく、予定調和のように押し黙ってしまった。沈黙を破ったのはサヤだった。
「あたしの初デートは、ミヨコとスイだから」
僕もそうだと言った。サヤはさようならと言って立ち去った。最後の別れとなった。