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死の暦  作者: 雪未 桔尚
11/16

第三部:闇と星の暦 ⅰ二〇一八年 五月~

さなり!おん身かくならん、おお、わが艶美の女王、息たえて、草葉のかげの白骨と朽ちん時。

その時よ、おお、わが麗しの君よ!告げよ、口つけておん身むしばむ蛆たちに、

この我の、世に生きて、今は空しきわが恋の 

美しきありし日のありがたち、忘れじの末かけて、記したりと!

                                「腐肉」『悪の華』ボードレール

♤薄闇

朝だ。ノックの音が聞こえた。幻聴だった。起床のチャイムが鳴る。拘置所内が騒々しくなる。衛生夫が朝食を運びにきた。少ない量の米に味噌汁、納豆、目玉焼き、酢漬けの野菜。箸がすすまない。

 胸から込み上げる異物を必死に堪えた。喉に酸っぱいものが溜まる。目が潤んだ。トレイに嘔吐した。胃液と米の混ざったものを吐くと、吐瀉物の勢いでプラスチック製のスプーンが畳に落ちた。衛生夫が看守を呼び、僕は手錠をされ、便器と向かいあった。衛生夫はトレイを下げ、吐瀉物を拭き取り、次亜塩素酸溶液を撒いた。窓から便器に日の光が注がれていた。日の光は吐瀉物を温めた。酸っぱい匂いが部屋の中に満ちる。看守に、教誨室に行きたいと言った。今月はまだ行っていなかったため、行くことができた。

 看守は黙って僕に腰縄をつけ、教誨室に連れて行った。腰縄と手錠を解かれ、座った。看守は外に出て行った。教誨師は蝋燭に火をつけ、CDラジカセで賛美歌を流した。何も言わず、僕が口を開くのを待っていた。僕は罪とはなにかと訊いた。神父の眼窩は、シワが吸い寄せられるように窪み、無機質な黒目を際立たせていた。

「私はキリスト教信者としての意見しか言えません。罪には三つ種類があります。まず、罪とは『的外れ』のことです。なにが『的外れ』かと言うと、創造主の存在を忘れたり、離れたりすることです。次は神の教えに背くことです。神の教えは『十戒』や『山上の垂訓』などのことです。最後は内面と外面の不一致です」

 モーセの十戒は『出エジプト紀』二十章か『申命記』五章にあり、山上の垂訓は『ルカによる福音書』の第六章か『マタイによる福音書』の第五章から七章にあると言った。

 僕は『出エジプト紀』を読み、『ルカによる福音書』に目を通した。モーセの十戒によれば、人を殺してはいけないという掟に背いた罪と姦淫だということらしい。『山上の垂訓』は、これを守れば神の国に行けると書いてあるようなものだった。現世で満たされている者ほど、神の国にいけないため、災いだと書いてある。敵を愛し、憎むものには親切にし、人を裁くなと書いてある。求めるものには与え、奪われることを拒むな、と。自分を愛してくれる者を愛したとて、手柄にはならない。盲人が盲人の手を引けないように、他の人が見えていないということを指摘する前に、まず自分の目を晴らせと書いてある。あなたはそれを守っているのか、と教誨師に聞いた。単純な興味からだった。

「私もあなたと同じく罪人だと思います。これを守れている人は、ほとんどいないでしょう。ですが、この部分は隣人愛に通ずる部分でしょう。これを遵守せずとも、念頭に置くことが信仰というものです」

「そうですか」と僕は言った。教誨師と僕の違いは、直接人を殺したか、殺していないかだけということだ。そう思ったが言わなかった。そして、こう聞いた。

「キリスト教の教えでは、隣人が苦しみ悶えてどうしようもないとき、どうしたら良いと書いてありますか?苦しみ抜けば、その人は神の国に行けるんだって、見殺しにすればいいんですか?無能な神のいる国に行って、何になるんですか?」

 蝋燭の火が消えた。神父は何も言わなかった。教誨室の網戸の外側には、アシナガバチがとまっていた。蜂は下半身がなく、長い脚を引きずりながら上へと進んでいた。脚は、透けた茶色の翅に当たり、硬直した。真ん中の脚で体を支え、前脚で触覚をさすっていた。口をもごもごと動かしているのが見えた。やがて蜂の動きは止まった。僕は神父に蝋燭の火をつけて欲しいと言った。タバコが吸いたくなった。風が吹き、後脚だけが引っ掛かり、蜂は宙吊りになった。網戸を叩くと蜂は落ち、後脚だけが一本残った。僕は教誨室を出て、廊下で嘔吐した。胃液だけが出た。


 死刑確定から三ヶ月が経った。朝のノックの予感に怯えることもなくなった。次第に慣れた。何通か手紙が届いたが、僕は開けることなく捨てていた。それを繰り返していると手紙はこなくなった。立ち上がるのが辛くなり、座っていることが増えた。座っているせいで腰が痛くなった。教誨室の神父が変わったこと以外は、三ヶ月の間変わったことはなかった。変わったことがなかった分、時が固まり永遠にこのままなのではないかと思った。時間が遅く流れるときは、いつも苦痛があるときだ。世界はなんて残酷なのだろうか、と思った。僕は熱心に本を読むようになった。一週間の上限の三冊を必ず購入し、三日以内に読み切った。

 

♤ディオスクーロイ

九月五日のことだった。スタンダールの『赤と黒』を読んでいた。志穂が面会に来た。面会室は、面会者と死刑囚との間に透明の板で遮られ、向かい合わせにパイプ椅子が並んでいた。部屋の隅には監視カメラがついていた。志穂は頬がこけ、目の下には深い隈が染みついていた。

「誕生日おめでとう」

 志穂は笑って言った。

「ああ。二十二歳だな」

「彗と離れていた一年は、すごく長く感じたよ」

「中学と高校の時も離れてただろ」

「そうだけど、長く感じたよ」

「私たちは二卵性だから、一卵性と違って繋がってる感覚とかはないけれど、それでも自分の一部を失った気がする」

「それならどうして黙ってた?」

志穂はしばらくすると泣き始めた。母の自殺を隠したことについてだとわかったのだろう。

「ごめんね。あの時、お父さんに私が彗は繊細だから私が時期を見て伝えるって言ったの。本当はもっと早くに伝えるべきだった」

 僕は父を殺して良かったと思った。無責任に逃げ続けて、母の自死をぼくに伝えるという責務を志穂に押し付けた。そんな父のせいで母は自殺した。ようやく憎しみが湧いた。

「それに、失ったって言うけど俺はまだ生きてる」

「そうだけど」

「そうだけど?」

「私のせいで死んじゃう」

「なんで、お前のせいなんだ」

「私が体を売ってたのを知ってたんでしょ?だから、裁判のとき私のことを殺すって言ったんでしょ!自分が不利になるのに、ほんとバカだよ!私がお金に困ってたから、お父さんを殺したんでしょ?黙ってそんなことするんじゃなくて、どうして相談してくれなかったの?」

「バカはお前だ。黙って体売って、その金で大学行ってる俺の気持ちは考えなかったのか?お前が汚えオヤジに抱かれて稼いだ金で、飯を食う俺の気持ちはどうなる?それこそ言ってくれれば、行きたくもない大学なんか辞めて、働いてたさ」

 志穂はさらに泣き嗚咽した。僕が興奮状態になったため、看守が入ってきた。次に声を荒らげれば、僕は独房に連れて行かれる。

「なんで私たち(きょう)(だい)なのに、こんなにすれ違っちゃうんだろう。彗は覚えてるかな?私たちが小さい時、二人で迷子になった時のこと。確か五歳の時だよね。今でも覚えてるし、未だにららぽーとに行くと思い出すよ。私はその場から動かない方がいいって言い張って、そこで待ってた。けど彗は、父さんと母さんを探した方が早いって言って、私を置いて歩き回った。彗が父さんと母さんを見つけて、私のいるところに戻った時には、私は知らない人に迷子センターまで連れてかれてた。そんなのしょっちゅうで、彗が私に気を使って、よく二人きりにしてくれてたユウトくんっていたじゃない?私ね、ユウトくんのことはなんとも思ってなかったよ。私はずっと木津くんが好きだったよ。彗が苦手だと思ってたエビは、本当は彗の好物だったし。どうして私たちは一番近くて遠いんだろうね」

 何も言わなかった。

「私は彗が幸せになるんなら、自分が不幸でも構わないって思ってた。それが弟にしてあげられる最上の愛だと信じてた。だから、自分の身を削ってボロボロになっても、彗が楽しそうに笑えるんなら構わなかった。私一人が我慢すればいいんだと思ってた。ごめんね。私は結局、自分のことしか考えてなかったんだ。彗の気持ちを無視してた。彗は優しくて、人のことを見ていないようにみえるけど、本当は奥深くまでよく見てる。だから、私が笑えなくなったら、彗は私のことを気にして笑えなくなるんだって考えられなかった。私が彗だったら、自分の姉が自分のためにボロボロになってるのに気付いたら、嫌だよね」

 僕はしばらく志穂の後ろに焦点が合い、瞬きもせずにいた。瞬いた時にやっと言葉が出た。

「木津は俺に遺書を残していった。あいつはきっと、俺がしたことに気がついていた。それでも、俺に死ぬなと書いた。俺に志穂を幸せにして欲しいとも書いた。初めは、あいつの遺書なんかに従ってやるもんかと思ったさ。俺は志穂が幸せになるために、親父の存在は負担でしかないと思った。だから、親父を殺したんだ。そうすりゃ、もう体を売らずに済むだろ。それに、同時に俺もいなくなればいいと思った。名前も変えて、俺との関係も断ち切って、違う人生を歩んで欲しいと思ってる」

「いい加減にして!それは結局、私が彗にしたことと一緒だよ!そんなの私は望んでない!なんで勝手に幸せを押しつけるの!私の幸せはみんながいないとダメなのに。なんでよ!なんで…」

 僕は独房に連れて行かれた。志穂はそこからしばらく来ることはなかった。


母は言った。

「人生に無駄なことなんてないの。だって、人生に意味なんてないから。だから、やりたいと思ったことはなんでもやりな」

 一週間後、母は死んだ。

 母は昔からよく家を空けた。小学校から帰ると弁当が用意されていて、それを持って僕は塾に通った。毎日、志穂はヘッドホンをつけて黙々とピアノを練習していた。志穂は火曜日と金曜日にピアノの教室に通い、月曜日と水曜日は絵画教室に通っていた。僕は週の四回塾に通い、残りの二回は志穂と同じ絵画教室に通った。僕はどちらもやめたいと言っていたが、「最初にやりたいと言ったのは彗でしょ?」と母は言い、やめさせてはくれなかった。

 僕は油絵が得意だった。林檎や葡萄などを、自分の目で感じた色で描いた。紫の林檎も、青い葡萄も、僕の目に映った色をそのまま投影した。それで先生は褒めてくれた。

志穂は抽象画が得意だった。水彩絵具を使い、水で様々なうねりを描いた。志穂は感情を描くのが得意だった。

 志穂は絵画よりも音楽の方が好きだった。一年に一回発表会にも出ていた。リズムはバラバラで、アクセントも普通ではなかったが、軽やかに空気の上を跳ねるような志穂の音は、聴く者の顔をほころばせた。技術的にうまい訳ではなかったが、『キラキラ星』でさえ、聴き惚れさせる不思議な力があった。

 僕と志穂は小学校五・六年の時に同じクラスだった。五年生の秋、合唱コンクールの時に志穂はピアノの伴奏を任された。志穂しかピアノを弾ける生徒がいなかったからだ。志穂は家で必死になって練習をした。しかし、歌の合わせづらいリズムのちぐはぐな伴奏しか弾けなかった。志穂の伴奏が不完全なせいで、音楽の授業はなかなか進まなかった。

 結局、合唱コンクール当日は音楽の先生がピアノを弾いた。志穂はそのせいで女子のグループからハブられ、いじめを受けた。それに気づいた男子が志穂の上履きを捨てたり、提出物を教室に持っていく途中で捨てたりした。僕はなにもできずにいた。いじめられっ子の弟は、クラスメイトには姿も見えなければ、声も聞こえないらしかった。母は呼び出され、教師は志穂の忘れ物を注意した。

 冬の日だった。志穂は石澤という男子から、手紙をもらった。イジメをとめたいのと、伝えたいことがあるから、放課後近くの公園で待っていると書いてあった。僕は志穂の机の上にあったその手紙を読み、公園へと急いだ。石澤と中学生らしき男子三人と自転車ですれ違った。志穂は公園にはいなかった。公園から少し離れた橋の下にいた。志穂は汚い川で口をゆすいでいた。クリーム色のセーターは引っ張られ伸びきっていた。パンツには赤黒いシミがベットリとついていた。

「なにされたんだ?」

「何にもされてないよ。大丈夫だから」

「大丈夫じゃないだろ!」

「お母さんには、河原でこけて川に落ちたって言って。服はその時に引っかかって伸びちゃったって。パンツは汚れたから脱いで捨てちゃったって」

 志穂は微笑んで、ジーンズを履いた。そして川に足から飛び込んで、笑顔で「帰ろっか」と言った。僕は何も言えなかった。僕は泣いていた。少なくとも、悲しくて泣いているのではないことだけはわかった。

 母は志穂を叱らなかった。珍しく父も帰ってきたが、風邪をひいていないか気にした。志穂は次の日、熱を出し寝込んだ。

僕は学校に早めに行き、石澤の机の前に立った。石澤はいつも早く学校に来ていたからだ。僕は志穂に何をしたのか訊いた。

「何って、あ、そうだ!みんな聞けよ。志穂のやつ、あいつ意外とおっぱいあるんだぜ」

 石澤の周りに五人くらいが集まった。僕は笑った。顔の筋肉が横に引っ張られ、固まった。僕は笑いながら石澤を机ごと蹴り飛ばした。石澤は驚きと痛みで、すぐには立ち上がれなかった。すかさず、馬乗りになり、三発殴った。僕は笑っていた。机の中身が床に散らばっていた。

 笑いに耐えきれず、手足が震えた。石澤はごめんと何度も言ったが、僕は面白いねと言って笑った。やめようとは思えなかった。実際、面白いと思ったからだ。「ごめん」だけでそれを許して貰えるなんて、面白い考えだと思った。僕は落ちていたホッチキスで、石澤の左手人差し指をガチャンと刺したらしい。あまり記憶にない。誰も僕を止めなかった。僕はいないものとされていたから。震えはおさまらなかった。寒さを感じた。自分が自分でないような気分だった。覚えているのは、震えているのに良い心地だったことだった。石澤は手の傷を隠して早退し、次の週には転校した。

 それ以来、志穂は誰からもいじめられることはなかった。僕は引きつった笑顔を引き剥がせなくなった。母親は前より明るくなったと喜んだ。志穂の顔からは表情が消え、笑うべき時に泣くようになった。


♢アルカブ

産まれてこなくてよかったのにと、よく母に言われた。私は子供が好きだから、志穂が大人になって孫ができたら嬉しい。今時の男は結婚すらしないから、お前など不要なのだ、と。お前が志穂にくっついて産まれてきたから、父さんは会社から帰れなくなったのだ、と言った。志穂が病気になったり、怪我で死にかけたら、あんたが代わりに死ぬの、とも言った。僕の存在価値は志穂の代用品なのだ、彗は枯れた穂を集めた(ほうき)という意味だ、と言った。

 僕は女に産まれていれば良かったと思った。そうすれば、志穂のことも守れたし、代わりに体を売ることも簡単だっただろう。誰にも見えないところで、志穂は損ない続けることもなかったはずだ。

 僕は志穂のためなら、イジメを受けようが、傷つこうが、死んでも構わないと思っていた。だが、それはただの綺麗事だった。中学一年の夏休み明け、木津はしつこく僕に構うようになった。当時もまだ、自分のことを志穂の代用品だと思っていた。僕は極力、独りでいたかった。土曜日の夜、畳んだ布団の上に寝そべって、本を読んでいた時だった。通常は十九時二十分から二十二時の間は「義務自習」という強制勉強の時間があったが、土曜日だけは例外だった。寮の部屋は二段ベッドとロッカーがずらりと並び、同学年全員同じ八十人部屋だった。僕はサッカー部の木村というやつの下のベッドだった。

「黒澤、何読んでるの?」

 木津の声に驚き、じっと木津を見つめてから答えた。

『銀河鉄道の夜』だと言った。木津に話しかけられた時、ジョバンニとカムパネルラは、銀河鉄道からさそりの火を見ているところだった。

「おもしろい?」

「うん、多分」

「多分って何だよ。自分でもわからないのかよ」

「わからない。だって、俺のおもしろいと思うことは、木津くんのおもしろいこととは限らないし、もし俺一人だけしかおもしろいって思わなかったら、それはおもしろくないんじゃないかなって。それに、志穂は本を読まないから」

 木津は黙り、考えこんだ。

「黒澤、もっと自分を信じろよ。お前の感覚とか、感想とかが大事だろ?普通がどうとかじゃなくてさ、お前がどうかを訊いてんだよ」

 木津は笑いながら言った。

「それ、読み終わったら貸してよ」

 僕は頷いた。

「なあ、黒澤。その顔やめられないか?」

「できない」

「いいから、やめろ。楽しくもないのに笑うなよ」

「それの何がダメ?」

「何がダメって…お前が本当に笑った時、わかんないじゃん。困るだろ」

 何が困るのかよくわからなかった。僕は最大限、頬の力を緩めて笑わないように努めたが、木津は首を横に振った。

 その一週間後、僕の誕生日に、木津は三千円分の図書カードをくれた。母は、スペインから絵葉書と現地で買った石を送ってきた。僕はそれを捨てた。必要性を感じなかったからだ。

「お姉さんにはさ、なにあげたらいいかわかんなかったから、手紙にクオカードを添えて出したんだけど、どうかな?」

 きっと喜ぶと思うと言った。

「これは俺にはよくわかんない所も多いけど、絵画みたいって言ったらいいのかな。なんか表現が独特で、見たことない風景が頭に浮かぶみたいでおもしろかったよ」

 そう言って『銀河鉄道の夜』を返してきた。僕は木津に言った。

「この前、木津くんが言ってた『自分を信じろ』ってやつ」

「うん?」

「俺は自分がこのままじゃダメだって思ってるし、自分のことが信じられてないんだと思う。どうやったら自分を信じられるかな?」

 まだ僕はヘラヘラと笑っていた。

「簡単だよ。自分を王様だと思えば良いんだ。王様ってさ、自分がチョコが不味いって言えば、チョコをまずい食べ物にできる。黒いものを白だって言い張れる。例えばさ、俺たちがつらいなって思ったり、地獄だなって思ったとき、貧しい生活をしている国の人よりマシだとか、俺よりつらい思いをしてる人はたくさんいるとか、思っちゃダメなんだ。それは、自分を信じないで誰かと比べて、自分のことから目を逸らしてるだけなんだ。本当は比べられないだろ?だって、俺たちは他人の内面なんて見れやしない。わかったフリしかできない。だから、黒澤、お前が地獄だと感じたら、それは紛れもなく地獄なんだ」

 僕はこの時、木津と仲良くなりたいと思った。

「ただ、これにはルールがあってさ、王様だからってボウギャクブジンに振る舞って良いわけじゃない。誰かが不幸せになることを言ったり、やったりしちゃダメなんだ」

 木津は人差し指で鼻の下を擦った。

「なんか難しいね。全員を不幸せにさせないように言ったり、やらなきゃいけないのは」

「いや、その誰かには優先順位があって、大切な人を優先すれば良いんじゃないかな?それ以外は自由だと思えば良いだろ?だからさ、お前の母さんの言うことが絶対正しいわけじゃないからな」

 僕はその時、母を殺したいと思った。裸で抱き合う父と母を、巨大なホッチキスの針で貫いて、愛の模型として美術館に展示されている様を思い浮かべた。志穂は母の腹の中で一緒に貫かれている。僕はそれを見て笑う。それが自由なのだと認識した。僕は顔の緊張が解け、口元が楽になった気がした。その一週間後、僕はラグビー部に入部届を出した。自由な振りをしたかったからだ。

 母は部活に入ることを止めなかった。冬休みに入り、空港の駐車場で車に乗り込んだ時、打たれた。気味の悪い表情をするな、と言った。僕はもう以前のように笑わなかった。

 ラグビー部では、真面目で明るいふりをした。自分の本質と、表面についた仮面のズレに戸惑い、手首を深く傷つけたりもした。仮面の下の自分を確認したかったからだ。その上をテーピングで覆い、見えなくした。木津のおかげか、僕は我が強く冷たいと言われるようになった。それでも周囲にいてくれた人間と仲良くなった。高校に入ると、木津とは疎遠になった。連休中に数回会うことはあったが、寮にいる時に、とりとめてベタベタするわけではなかった。気がつくと、志穂は素直に笑っていた。母が死んだ時も、決して実家から近くはなかったはずだが、木津は頻繁に家まで来た。志穂は、木津に料理を作るのを楽しみにしていた。僕には志穂がどうでもいい存在になっていた。

 高校を卒業してから、僕の誕生日の一週間前までは木津に会わなかった。木津に割く時間を確保する余裕がなかったのだ。木津は久々に会おう、と連絡をくれた。君のことを話すと、木津は嬉しそうに話を訊いた。僕の抱いている感情は失くしてはいけないものだといった。良い結果になるといいな、と言った。

 木津も母も骨になっているのだと思うと、自分の記憶が嘘のような気がした。少し悲しいような気もした。ただ、本当に悲しいかどうかはわからない。俺も木津のように最期に演技はもうしたくない。無意味だからだ。

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