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死の暦  作者: 雪未 桔尚
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第一部:海と月の暦 ⅰ二〇一八年一月十八日木曜日

 ♤十六夜

 昨日、初めて人を殺した。美代子という女が死んだ。苗字はわからない。どうでもいいことだ。彼女はハタチだった。僕は後悔していない。

 その後、家に帰り志穂が作った唐揚げを食べ、銭湯に行った。志穂は珍しいねと言ったが、なんと答えて良いかわからなかった。帰り道で唐揚げを吐いた。衣が多すぎたせいだった。布団でゲームをしていたら、歯を磨く前に寝ていた。

 起きると昼の十二時を回っていた。リビングで志穂が化粧台の前に座り、赤い口紅を塗っている。志穂は僕に気がつき、「(すい)、今日は大学に行かないの?」と訊いた。今日は休講だと言うと、「そっか」と言って、すぐに化粧台に向き直った。

 志穂は頬に濃いチークを塗ると立ち上がり、鼠色のセーターの上にクリームイエローのコートを羽織り、折り返しが黄色の赤いニット帽を被った。悪趣味に感じたが、口には出さなかった。僕には無関係だからだ。

「今からデートだから、出かけるんなら戸締りよろしく」

 扉は大きな音で閉まり、鍵のかかる音がした。冷凍されたパンをオーブンで焼き直し、コーヒーを沸かした。パンは冷凍焼けしていて不味かった。コーヒーカップを持つ手が震えた。コーヒーを一口飲み終えたとき、携帯が鳴った。木津からだった。

「もしもし、今、家?寝坊?」

「まあ、そんなところ」と僕は言った。

「午後授業ねえからさ、今から遊び行かね?」

「どこ?」

「とりあえずいつものベンチ。そこから決めようぜ」

 かじりかけのパンを捨て、歯を磨いてから外に出た。外の寒気がまだ寝ていた胃袋を起こしているような気分になった、とでも言えば普通の人間らしいのかもしれないが、僕にはそうは思えなかった。寝坊をして冷凍焼けしたパンを食べ、友人に外へと駆り出され、仕方なく凍えているだけだった。

 新京成線で新津田沼駅まで行き、総武線に乗り換えた。車内は混雑しておらず、座ることができた。優先席に座ると、杖をついた老婆に睨まれた。肌は煉瓦色で、顔はシワとシミまみれだった。腰が曲がり、白と銀の波打つ髪が顔に垂れ下がっていた。空席はあったが老婆は僕の前に立っていた。老婆は電車が揺れるたびによろけ、杖でバランスをとった。老婆が好き好んで立っているのだろうし、わざわざ席を譲って老婆に座るように仕向ける権利は自分にはないと思い、文庫本に目を通した。しばらくすると、「ニヤニヤしやがって!」と老婆は怒鳴った。僕に向かってかは知らない。船橋駅を通過したときに文庫本を閉じ、違う車両のドア付近に立った。場所を移ることなど、とるに足らないと思った。

 窓の外から太陽の光が射した。暖かさを感じなかった。ビルが太陽を隠し、車両の床が青みがかった灰色になった。灰色は青に最も近い色だと、誰かが言っていたが思い出せなかった。言葉だけが頭の中に居座り、思考を支配されているような気分になった。ほかのことを考えようとしたとき、靴の先に少し土がついていることに気がついた。そのままにしておいた。土を払う理由がない、そう思った。


「ねえ!黒澤くんだよね?久しぶり!」

 四谷駅で降りた時、電車を待っていた茶髪の女に声をかけられた。「誰かわからない」と言うと、彼女は笑った。「ベンチに座って少し話そうよ」と、彼女は言った。

 プラスチック製の椅子は冷たく硬かった。濃紺のスーツを着た背の低いサラリーマンが、自販機でコーヒーを買っている。その横を、全身黒いコーデの金髪の女が早足で通り過ぎる。空気は冷たく、喉を締められているような気分になった。

 彼女は美弥の友達で、木津とも仲が良いのだと言った。名前はマナミだという。彼女からは甘ったるい匂いがした。美弥と別れたことについて訊いてきた。僕は、もう終わったことだし、これ以上興味を持つことが難しい、と言おうと思ったがやめた。マナミには関係がないことだからだ。僕は無視して彼女に尋ねた。

「それで、何か用?」

 マナミはカラコンで不自然に大きくなっている瞳で僕を見つめた。僕はその視線から逃れたいと思ったが、少しだけマナミに欲情しているのを感じた。

「別に用ってわけじゃないけど、私も今フリーだから。暇なときにでもご飯行かない?」

 桜色のメモ紙に連絡先を書いて渡してきた。それをポケットに突っ込んだ。

「それとも今から暇?」

 欲情はおさまり、これ以上彼女に興味が持てず「今は急いでいるから」と言って、改札に向かった。


 駅を出ると、空には雲一つなく晴れていた。くすんだ銀杏の葉が風で転がった。公園の中では銀杏の木が太陽に照らされ、葉のない枝を空に向け広げていた。その中で一本だけグロテスクな表皮から伸びた枝が垂れ下がった桜の木があった。その根元にある古い木製のベンチに木津は腰掛け、タバコを吹かしていた。

「何してたんだよ。結構待ったんだぞ。腹ペコだわ」

 差し出されたハイライトに火をつけ、赤い箱からマルボロを一本出し、木津に手渡す。ハイライトの煙は重く、肺が少しきしむように痛んだ。

「また、タバコ変えたんかよ」

「メンソールに飽きた。ここまで来るのに一時間はかかるんだから仕方ないだろ」

「エビフライでも食いに行くか。お前好きだろ?」

 タバコを深々と吸うと甘い香りと苦味が喉を通りひりついた。胸が苦しくなった。

「聞いてんのかよ。大丈夫か?」

「ああ。腹減ったな」

 アスファルトの上でカラスが一羽、赤い缶をつついていた。脚の力だけで自分の身長よりも高く飛び跳ねた。しばらくして缶を咥えて飛んでいった。


 ♤立待月

 エビフライを少し齧ると、衣が胃の中に貼りつき吐き気がした。

 木津は、美弥が僕に会いたいと言っていたと言った。未練がましいと思ったし、そう口にも出していた。

「まあ、そう言うなって。じゃあ俺が美弥ちゃんいただいちゃうぞ」

 別に構わない、と言った。実際、僕にはもう何も関係がない。

「でもなあ美弥ちゃん、顔はいいんだけど、胸ないからなあ」

 水を飲み、木津の奥に置いてある海老の形をした模型を見つめた。何を思ったわけでもなかった。ただ見るということに集中し、何も考えていなかった。

「冗談だよ。あんまり興味ないよ。そっちの大学に良さそうな子はいないの?」

 模型に時計の針が付いていることに気がついた時、木津の「おい」と呼ぶ声がした。

「お前が好きそうな巨乳はいない」

「違うよ。俺じゃなくてお前だよ」

 サラダと味噌汁にだけ手をつけ、箸を置いた。

「全然食わねえじゃん。大丈夫かよ」

「そういや、さっき朝飯食ったばっかだ」

「さっきだったら朝じゃねえじゃん」

 木津に残りのエビフライを食わせ、店を出た。

 傾きかけた太陽が橙に光っていた。しばらくすると雲が太陽に重なり、ビルが鈍色になった。暗くなった道を制服の男女や、大きな鞄を持った中年男性などが歩いていた。太陽を隠した雲はダブグレイと菫色の混ざった色をしていた。自分が空を眺めていることに気がつき、驚いた。僕には空を眺めたり、他人に注意を払う習慣はなかったからだ。

 木津は本当はボウリングがしたかったが、僕のせいで腹がいっぱいだから動かずにすむダーツをするのはどうか、と提案してきた。「考えるのが面倒だから、どこでもいい」と言うと、木津は僕の肩に腕をまわし笑った。


 中央線に乗り吉祥寺駅へ行き、ダーツバーに入った。さっぱりしたものが飲みたくなり、モヒートを頼んだ。木津は年齢確認をされたため、諦めてスプライトを注文した。僕は酒でなくてもよかった。ただ喉を潤わせられるなら、なんでもよかった。

「早生まれってほんと損だよな。お前と学年は一緒でも、数ヶ月間お前は大人で俺は子供かよ。身長ならお前に勝ってるのにな」

 隣のテーブルには、ワイドパンツを履いた女と、ショートパンツを履いた女が座っていた。黒いショートパンツから伸びる脚には鳥肌が立っていた。二人は頻繁にきょろきょろしていた。ショートパンツの方は三回ほどライターを鳴らし、タバコに火をつけた。女はむせた。薄い赤紫のカクテルを飲んでいた。女の髪はカクテルと同じ色をしていた。人差し指にはめられた太い銀色の指輪が浮いて見えた。

 僕はしばらくしてからタバコをとりだし、火をつけた。硬い煙が喉を通り、思わず嗚咽がこみ上げ、堪えると少し目が潤んだ。

 木津はクリケットではボロボロだったので、カウントアップを選択した。

「なんかさ、大学生ってもっと楽しいと思ってたんだけど、黒澤はそんなこと思わねえか」

 ダーツ盤の上のディスプレイにスコアが表示される。7。13。大きく外れた。13。木津は急いで刺さったダーツを取りに行った。

 大学は面白くないし、高校の方がマシだったと言った。38。木津は嬉しそうにパッとこちらを見た。40。43。

「でもさ、高校行ってたときは早く大学行きてえってずっと思ってたじゃん?」33。

「大学行けば、彼女ができて遊んだり、色んな子と寝たりして充実するんだろうなって。旅行とか行ったり、もっと自由になるのかなって思ってたわ」

 51。63。

 きっと何も知らない方が楽しい、余計なことを知れば知るほど、余計なことに気を取られて、それにうんざりしてくるんだ、と言った。43。59。それは本心だった。64。

「高校のときは馬鹿だったなって思うよ。けど、あの馬鹿な時期が一番楽しかったんだって後からわかるんだよな。大学生になってもさ、サークルの先輩が一年の時に好きな子としてたり、同じクラスの子だって可愛いなって思っても、誰とでも寝る子だったり、うんざりするよ」

 65。78。129。僕は言った。

「見えてた世界が狭かったんだよ。必死に背伸びして世界を見ようとすると…」

 84。99。110。木津は黙って眉をひそめた。130。138。僕はこういう木津の純朴な態度を気に入っていた。165。三本目を投げ、木津は口を開いた。

「見ようとすると、なんだよ?」

 140。143。144。僕は木津の言葉を無視した。165。167。木津が三本目を投げる前に答えた。

「アキレス腱が切れる」

 木津は笑った。167。その時、隣でショートパンツの女とワイドパンツの女も笑っていた。おそらく僕たちの会話は聞こえていなかったから偶然だろうが、彼女たちの笑顔になぜか喜びを覚えた。そして、木津の笑顔をなんとも思わないのは、木津の存在が僕に染みついているからなのだろう、とも思った。

「なんだそれ?ふざけてんのかよ。変にためるから哲学っぽいこと言うのかと思ったわ。俺は結構真面目に言ってるんだぜ?俺たちは魚みたいなもんでさ、必死に太陽の方へ泳いでいくんだけど、結局水の上に出ても、水の中でしか息ができないから苦しいだけなんじゃないかって。しかもそれは海じゃなくて水槽なんだよ」

 木津がそんなことを言うのが、意外に思え「詩人にでもなれば良い」と茶化した。

 174。189。205。

「笑うんじゃねえよ!あー恥ず。中学の時から志穂さんのことずっと好きだったんだよ。高嶺の花だった。あの時はまだ純粋だった気がするんだよな。セックスとかそんなんは置いといて、遠くから笑顔を見てるだけで自分も嬉しかった気がした」

 167。189。219。

 気づいていたが、そういう感情は大人になったら若気の至りなのだと否定される、と言った。へらへらした木津の顔から表情が消える。木津はこの表情の方が良い、と思った。239。君の顔が浮かんだ。247。247。

「大人になったら川の石ころみたいに、自分の抱いていた尖った愛が削られて、愛イコールセックスって丸く矯正されちまうのかな」

 234。284。304。

 染まって流されながら生きていく方が楽だから、そうせざるを得なくなる。人間は自由を目の前にぶら下げられて、選ばざるを得ない選択肢しか用意されない。297。それを選ぶとどんどん首を絞められる345。君の顔が浮かんだ。振り払うようにダーツを投げ、しかも、異端は淘汰される。下らない、と言った。345。

「ほんと死にたくなるよな。俺たち、今クッキーだったら生地だぜ。今は練られてる最中で、練られて練られて型で大穴開けられるんだよ。来年には就活して、就職したら結婚、子供。ああぁ、テンプレートじゃない人生が良いよ」

 338。378。404。

 歳をとって、ボケようが病気になろうが意識不明になろうが、死ぬという選択もできない、と言おうとしたが、やめた。

 353。403。

「あ、そういや本橋が自殺したらしい」

 403。

 本橋は付き合っていた女が結婚していたことを知り、そのあと首を吊ったと木津は言った。

 木津が本橋はドリブルがうまかったと言っていたが、サッカーなのかバスケなのかはわからなかった。いずれにせよ本橋の顔は思い出せなかった。グラスの中の氷が溶け、薄いアルコールの苦味が口の中に残った。お前はどうして俺以外の高校の友人に会わないのかと、木津が訊いてきた。あの時の自分の真似をするのが疲れるからだと言った。


 ♤居待月

 その後カウントアップで木津が二回連続で負け、飯に行こうか迷っていた。

 ワイドパンツの女が木津に話しかけてきた。ダーツのルールがわからないから、教えて欲しいと言った。ミディアムカットの髪はセピアで内側がライムグリーンの色をしていた。胸の所がブイの字になったベージュの服の下に、黒いセーターを着ていた。ワイドパンツの下から、かかとのすり減った白いコンバースのスニーカーが見えた。笑うと八重歯が見えた。

「ちょっと、ミウ。やめなよ」

 ショートパンツの女が言う。

「別にいいよ。一緒にやろう。教えるからさ」

 僕は席を外し、酒を頼みにカウンターに行った。トイレの横に円筒型の自立している灰皿があり、ジントニックを飲みながら、タバコに火をつけるために俯いていると、声がした。「すみません、なんか」顔を上げると、ショートパンツの方が立っていた。黒いパンプスは真新しかった。赤紫に染まった短い髪を結んでいた。小ぶりな耳には、銀色のピアスが付いていた。ピアスの穴の周りが赤かった。前髪の隙間から見えるツリ目と、尖った鼻が挑発的だった。瞼に塗られたミントグリーンのアイシャドウは女の肌を白く見せ、目尻に塗られたベビーピンクのファンデーションと合わさり、彼女の目は泣いた後のような儚げで妖しい魅力を放っていた。「木津は教えるのが好きだから、気にする必要はない」と僕は言った。

「そうじゃなくて。せっかく友達と来てるのに邪魔する感じになっちゃって」

 何も答えなかった。こういう時に何を言えば良いか、適切な言葉が浮かばなかったからだ。

「言いづらいんですけど、あの、タバコ切らしちゃってて、一本もらえますか?」

 無言でライターと箱ごとタバコを差し出した。女は少しむせながら礼を言った。気にするなと言うと、彼女は笑った。

「わたし、カナって言います。わたしもミウもドタキャンされて暇してて、よかったらこの後四人でご飯でも行きませんか?」

 どのみち、このあと木津と飯に行くつもりだったため、人数が二人増えようが変わらないと言った。また、笑った。

 二人は近くの美大に通う一年生で、彼女も連れのミウという女も十九歳だという。カナが苦々しい顔をしながらタバコを吸い終わるのを待ち、テーブルに向かった。

「俺らがさっきやってたのがカウントアップで、これは単純に点数を合計していって高い方の勝ち。さっきは俺の勝ちだったけど、大体は黒澤が勝ってるかな。そんでクリケットは決まった陣地を奪い合う陣地取りゲームみたいな感じ」

 カナが木津の話に割って入り、先程僕に言ったような誘い文句を言い、僕が承諾していることも付け加えた。木津は一瞬戸惑った様子を見せたが、僕が上着を羽織ったのを見て支度を始めた。ミウという女は、ためらう様子もなくカナと店を出ていった。先に行ってタバコを買うと言っていた。木津は薄暗いバーの階段を下りる時、あとでコンドームを買うからコンビニに寄らせてくれと耳打ちをしてきた。ゴムアレルギーだからホテルのではだめだと以前言っていた。勝手にすればいいと言ったが、木津は返事をしなかった。

 日が沈み、空に黒い雲が浮かんでいた。満月は雲で隠れ、左側が膨らんだ半月に見えた。月は街灯より鈍く湿った色をしていた。暫くすると黄色い月は黒い雲に覆われ、鉛色の輪郭を帯びた白色の穴になった。

 季節外れの湿気を含んだ暖かい風が吹いていた。木津は一雨来るかもしれないと言ったが、僕は海岸に座っていたときのことを思い出し、返事をしなかった。夏の夜の海岸だ。

 木津の隣をミウが歩き、僕の隣をカナが歩いた。木津は僕といる時よりもさらにおどけて冗談を言ってミウを笑わせていた。カナは先程のお返しだと言って、新品のアメスピライトメンソールを一本渡してきた。メンソールは吸わないと言ったが、一応もらっておくと言い、マルボロの箱に入れた。

 線路沿いにあるスペインバルに行くことになった。壁と床が石造りで、木製の椅子を引くとキイッと耳をつんざく音がした。海産物を炒める匂いがし、空気が鉄板で温められて湿っているような感じがした。メニューが多すぎて迷い、飲み放題付きのコース料理にした。美大生二人はアルコールを飲むと饒舌になった。

「カナなんてさ、女子校出身でこの前初めて彼氏できたのに、振られたの。こんなにかわいいのに!」

「やめてよ。言わないでよ」

「だからさ、今日はカナのために合コンセッティングしたんだけど、なんか用事できたとかで断られちゃったの」

 巨大なパエリアが届いたとき、ミウのカシスオレンジはおそらく五杯目だった。

「合コンかぁ。俺らの上の世代までの都市伝説だと思ってたわ。サークルとかは入ってないの?」

「うーん、なんか美大だとやっぱ課題とか多くてサークル入ってる余裕ないんだよね。まあ合コンって言っても、あたしの知り合いの人とその友達と四人でってことだったの。二人は同じ大学?」

 中高一貫の男子校に通っていたときからの付き合いで、大学は違うのだと、木津は説明した。僕らの母校は北海道にあり、生徒の大半が寮で暮らしていた。寮生にはそれぞれ番号が振られ、その番号で六年間呼び出しを受けた。僕がA27で木津がA25だった。寮で携帯電話やゲーム、動画再生機能が付いているものは全て禁止だった。

 ミウが特に気に入った話は、高校二年の時に木津が聖書の中をくり抜いて、その中にスマホを隠していた話だ。結局それがバレて、トンカチでスマホを叩き割らされた。

「もっとマシな隠し方なかったの?」

「いやぁ、あれが最善だったんだよ。寮教諭の奴らはさ、俺らが学校行くと部屋のチェックしにくるんだよ。前科があるやつはめっちゃ漁られるけど、一回もそんなことしてなきゃバレないんだよ」

「なんでバレちゃったんですか?」

「当時、俺と同じ部屋のやつがめっちゃマークされてて、寮教諭が漁ってる時、俺の聖書がバイブしちまったんだよ」

 カナは手を叩いて大笑いした。

「たしか、敬老の日だったかな。でも、学校はあったんだよ。んで、ばあちゃんがかけてきたみたいでずっとバイブしてたらしい」

「シュールすぎて無理」

 しばらく四人で笑っていた。

「わたしは二人が七年も一緒なことに驚きです。あの、黒澤さんはあんまり楽しくないですか?さっきからあんまり喋んないから」

「カナちゃん、こいつ人見知りなだけだから。こいつと最初に会った時に比べたらまだマシだよ」

 二人はその当時の話を聞きたがった。僕は木津がこの話をするのを止めなかった。

「こいつ、中一の時は薄気味悪い笑顔ばっか浮かべてさ。何されてもヘラヘラしてたんだよ。あの時はこいつのこと、本気でヤバいやつだと思ってた。だから、同じクラスだったんだけど、あんまり関わらないようにしてたんだ。実際、人当たりは良いんだけど、自分のことは全然話さないし、一人でいることも多かったんだ。やっぱ何されてもヘラヘラしてるやつがいたらさ、どうしたら怒るかとか、それ以外の感情を面白がって引き出してやろうみたいな奴がちょっかいかけるんだよ。最初は座ろうとした椅子をひいてこけさせたり、体をつねったり、まあありがちなイタズラだったんだ。そこから、次第にエスカレートして、夏休み前くらいだから、確か七月くらいだったかな。その時にはイタズラはイジメって言っていいレベルになってた。誰も止めなかったんだ。担任でさえ、ヘラヘラしてる黒澤を面白がっている節もあったし、忘れ物とかしてヘラヘラしてるこいつを執拗に見せしめみたいに叱ってた。そんで、ある日我慢できなくなってこいつに直接言ったんだよ。確か、夕飯の時だったかな。一人でテーブルの端っこで食ってるから、わざわざ正面に座ってさ。嫌なら嫌って言えよ、ヘラヘラしてるだけじゃなんも解決しねえぞ、自分の感情に嘘つくなって言ったんだよ。そしたらこいつ、ヘラヘラするのをやめて木津くんは嫌じゃない、だから一緒に飯食べよって言うんだよ。普通なら不気味に思うとこなんだろうけどさ、こいつの冷めた目見たら、こいつはこっちのが自然体なんだなって納得して、そっちの方がいいじゃんってなってさ。そっからこいつが意外と面白くて仲良くなってさ。夏休みも家がそこまで遠くなかったから遊んだりしてたんだ。そんで次第に、無理に笑わなくなって、今こんな感じ」

 木津は鼻を指で拭った。最初にちょっかいをかけていたのはお前だろと僕は言った。

 女子二人は眉間にしわを寄せ、僕の方を見た。

 木津はひどいことはしなかったし、木津よりも周りで嘲笑っているやつらがストレスだったのだと言った。

「こいつはストレス過多になると、笑っちゃってただけだったんだよ。最初ヘラヘラしてたのは人見知りすぎてヘラヘラしてたみたいなんだよ」

 僕は訂正しなかった。そんなものは後付けでしかなかった。

 カナは僕が木津を擁護するから安心したと言って、口元を緩めた。そして、「本当に仲良しなんですね」と言った。

「仲良しとかじゃなくて、ただ楽なだけだ」と言った。

「黒澤はツンデレだから」

「わかる。普段はツンツンしてるけど、彼女とかには尽くすタイプでしょ」

「そうそう!こいつマメに毎年誕生日プレゼントくれるからな」

 ミウにそんなことはないと言ったが、信じてもらえなかった。

 店員は空になったパエリアの皿を下げ、デザートを注文するか尋ねたが全員断った。

 僕と木津はタバコを吹かしていた。僕はダーツバーでの会話を思い出した。クッキーの生地も、水槽の魚たちも全部まとめて凍らせることができれば良いと思った。それを今言うのは気が引けたし、ただの逃避行為でしかないと思った。僕はいずれいなくなるのだから。


 ♤寝待月

 スペインバルを出て、木津は腹が痛くなったと言ってコンビニに寄り、三人でコンビニの外で待った後に、二手に分かれてホテルに行く流れになった。バルのすぐ近くにホテルが二つ並んで建っていた。木津とミウは先に左のホテルに入り、仕方なく僕はカナと右のホテルに入った。

 休憩二時間分の料金を払い、ホテルの鍵を受け取った。部屋に入ると、玄関の白い大理石の床が眩しかった。天井や壁はクリーム色で統一され、ソファも高級感のある革張りで同じ色をしていた。シワひとつ無く整えられたベッドの横には絵画が掛かっていた。絵はルネサンスや中世に描かれた奥行きのある絵と違い、のっぺりとしたタッチのレモンイエローとアンティックゴールドの煉瓦造りの建物が描かれており、窓には鉄格子らしきものがついている。右の大きな扉には格子がついていたが、左の細い扉にはなかった。扉にドアノブはない。二つの扉と窓枠はホーリーグリーンだった。扉の鉄格子の奥には闇の中にうっすらと人の横顔が見える。大きな扉の前ではライオンが一匹右に俯いている。ライオンの背後には、建物の影から建物と同じ色に染まった、体の透けた従業員らしき男が向かってきていた。男の後ろの道は細く、奥には小さな灯台が見えた。灯台の奥には小さく海が広がり、海沿いを機関車が走っていた。空は快晴だった。

 ホテルの部屋を決めた時から、彼女と僕は一言も会話をしていなかった。沈黙を破るために絵のことを訊いてみたが、知らないという。

「多分、ピカソの時代かそのあとの時代の人だと思います。わたしの専攻は日本画なんでちょっとよくわかんないんですけど、元カレがこういうの好きだったからなんとなく。キリコとかそこら辺あたりなんじゃないかなって思います」

 元カレのことを聞くと、同じ大学だという。

「油絵専攻の一年生で、一年生だけど二十五才の人でした。美大は浪人が当たり前みたいなとこあるんです。まあ、結構ひどい人でした。最初はデッサンのモデルをして欲しいって言われて。最初は二時間ずっと座ってたんです。あれって不思議で、ずっと一方的に見られてるじゃないですか?だから、なんていうか丸裸にされてる気分になってくるんです。ただあっちは見てるだけなんですよ。けど、なぜかわたしのことを相手は全部知ってるんだって思ってきちゃうんです。ただ見てるだけなのに。三回目には彼のことが好きになってました」

 カナはじっと僕の目を見た。

「そういえば、黒澤さんは全然目を合わせてくれませんね」

 僕達はソファに座っていた。苦手なんだと言った。

 会話を続けないで気まずくなるのが面倒だったので、その男が結局どうしたのか聞いた。少しの沈黙の後にポツリポツリと喋り出した。

「わたしの方から告白したんです。そしたら付き合うことになって、ヌードのデッサンを頼まれるようになりました。最初はもちろん抵抗があったんですけれど、裸だとさらに自分の奥を覗かれている気分になって、許してしまったんです。自分ですら知らない自分を見られている感じがしました。だから、彼が一層わたしを理解してくれているように錯覚したんです。馬鹿ですよね。それでもまだ、そこまでは良かったんです。その後、彼の要求は過激になりました。外でヌードデッサンしたり、挙げ句の果てに私を他の人に貸すようになったんです。一番酷かったのはあれかな。公園のラッコの遊具あるじゃないですか?ドラえもんみたいなやつ。まずあれとおんなじ色に塗られて。そうです、あの頭と体の周りが青でお腹は白のやつです。それで、その遊具の上で同じポーズをとらされたんです。もちろん裸で。最低ですよね。しかも、十一月だったんで寒くて。もっと最悪だったのが、絵だけじゃなかったんです。彼の友達が映像学科で、カメラで撮られてたんです。その後は…まあ。彼の友達は女子ばっかだったんですけど、ばらまかれちゃいました。ネットにも貼られてるみたいです。だから今は大学に行ってないんです」

 僕は何も言わなかった。僕の言葉にはなんの意味もないからだ。

「それに、あの人はわたしとエッチしてくれなかったんです。自分の魅力がないんだって思って、髪も長く伸ばして染めて、ピアスも開けました。彼の好みの女になろうとがんばりました。彼の周りにいるのはそんな子ばっかだったから。でも、彼がわたしのことを見てくれるのはキャンバスの前に立っている時だけだったんです。彼がよく吸ってたタバコを吸ったりしたけどダメでした」

 自分のしたい格好をすれば十分だし、無理にタバコを吸う必要もないと言った。カナは視線を落とし、言った。

「あの人のことをこんなに言うけど、わたしも最低なんです。ミウに相談したら、気晴らしした方がいいって、あの子が誘ってくれて、全然知らない男の人とエッチしたんです。しかも、あの人とまだ付き合ってるときです。最初は遊んでそうな感じの大学生でした。彼氏がいることは伝えてたんですけど、初めてだって言わなかったんです。そしたら血が出た時に、びっくりされて止められて、そのまま帰りました。その後、出会い系で会った人とまともにエッチしました。冴えないメガネの四十才くらいの人でした。快感とかじゃなくて、名前も素性も捨てて女として求められていることに幸福を感じました。わたしをわたしの持っている持ち物で判断して求めてくれるんじゃなくて、わたしの存在そのものを肯定されている気がしたんです。病んでますよね。誰にでも股を開くわたしなんて最低ですよね。でも、初めて自分の存在を肯定された気がしたんです。世間の普通では、初めて恋に落ちた人を十数年好きで結婚して、って方がいいってされてますよね?でも恋愛とか愛だとかは、メリットとデメリットに分けてデメリットが多かったらなくなっていくものなんじゃないかなって。体の関係となんにも変わらないんじゃないかなって思ってしまうんです。だから、わたしは現実的な方を選ぼうと思ってます。今はそんな感じでいい気がするんです。ワインで酔おうが缶チューハイで酔おうが変わんないじゃないですか。好みの違いですよ。ワインの方がおしゃれで格好つくかもしれないですけど、飲み過ぎると二日酔いがなかなか治らないじゃないですか」

 彼女は自分の話を一方的に喋りすぎたと詫びた。

 僕は彼女に同意し、愛など依存と同情と性欲でてきていて、恋人や配偶者が死んで泣いたりするのは、ただの依存か喪失感に自分が浸りたいだけだと云った。

 彼女は僕の手を握り、僕の目を見た。彼女の手はさらりとして少し冷たかった。僕は目を瞑った。君の姿が浮かんだ。「今日はセックスしたい気分じゃない」と言うと彼女は少し落胆したように見えた。タバコに手を伸ばし、箱から伸びた一本を無作為に取り火をつけた。さっき彼女がくれたアメスピライトメンソールだった。

「どうして笑ってるんですか?」

 タバコが目に染みて顔が引きつっただけだと云った。彼女は何も言わず僕を抱きしめた。「なんかすみません」どうして謝る必要があるのか、と訊いた。「なんとなくです」

 なんとなくでしかわからないものの、責任を負うのは馬鹿げていると言おうと思ったが、やめた。彼女を傷つける必要性もないし、面倒を背負い込みたくなかったからだ。クリーム色の部屋を窮屈に感じたため、彼女の腕をほどいて窓を開けた。満月が地平線の近くで肥大し、奥行きがなく空に貼りついているのが見えた。色は黄赤色だった。なぜだか笑えた。


 ♤更待月

 退出時間ぎりぎりまで、タバコを吸いながら、カナがおすすめだと言った映画をVODで観た。映画は九十五分だったため、ちょうどよかった。

 主人公の男は、ヒロインに一目惚れをするが、恋愛によって自分を損ないたくないというヒロインに振り回され、恋人とは言えず友人とも言えない関係を維持し、最終的に恋は終わりを迎えた。カナは理想的な恋だと言った。これは作り物で、欺瞞なのだと言いそうになったが、言わなかった。

 ホテルから出てすぐ見覚えのある後ろ姿が見えた。黄色と赤のニット帽をかぶっている女がスーツの男と歩いていた。やっぱり悪趣味なニット帽だと思った。前の男と女が右に曲がる。女の隣にいるのは五十代くらいのくたびれたスーツ姿の男だった。痩せ細った頬には無精髭が生えており、男の顔にある大きな眼鏡は黄ばんでいた。頭髪は薄くなっていたが、惨めったらしく伸びた髪でハゲを隠そうとしているらしかった。男は意気揚々と、さも自信ありげに女に話かけていた。男と女は半人分程の隙間を空けて歩いていた。男が車道側に立っていた。男はしきりに話しかけ、女が取り繕った笑いをしていた。彼らが隣のホテルの前を通った時に、木津とミウがホテルから出てきた。木津はちょうどその醜男と志穂の横顔を見ていた。

 ミウがこちらに気づき、軽く手を振った。一緒に駅まで行こうと言ってきたが、木津は僕と二人で話がしたいと言って断った。

 ミウとカナと連絡先を交換した。カナは漢字で香奈と書くのだとわかったが、ミウはMiuとなっていたためわからなかった。二人とは別れ、僕と木津は駅の通りにある喫茶店に入った。円形の机には花柄のテーブルクロスがかかっており、色褪せていた。店の中では時間が固まっているようだった。薄暗い店内に馴染んだ籐椅子は少し硬かったが、不思議と体が楽だった。木津はクリームソーダを頼み、僕はコーヒーを頼んだ。飲み物が来るまで僕達は一言も会話をしなかった。もっと言えば、カナたちと分かれてから一言も口を聞いていなかった。

「なあ、黒澤。俺が今日抱いた子もさ、誰かにとって大切な人だったのかな」

 木津は青いクリームソーダを一口飲んだ後に言った。クリームソーダはアイスが溶け、水色に泡立っていた。僕は何も言わず、タバコに火をつけ深々と吸った。

「俺の少し魔が刺した欲望で、誰かを傷つけてるのかもしれないって思ってさ。黒澤はさ、セックスってどう思う?好きか?」

 僕は少しの間考え、好きとかそういう類のものではなく、寝たり食べたりするのと変わらず、好きかどうかはそれを誰とするかによる、と云った。

「俺は嫌いだよ。寝るのも食うのも一人でできるだろ?セックスは誰かとじゃなきゃできない。それに性欲と精神が同じとは限らない。心の中でサラダを食べようと決めていても、結局俺たちは食欲に負けてラーメンを食べることだってあるだろ?それと一緒でいくら愛情を持っていても思い通りにいかなくて、体は心を待たずに自分の中の空白を埋めようとするんだ。それにこれは俺一人だけじゃない。俺以外の誰かが仕方なく俺の大切な人とセックスしてるかもしれない。俺たちは心でなら、自分のことは何でもできるって思い込みすぎなのかもしれない。本当は欲望に操られているのに」

 ああそうだな、と言った。

「何かがちょっとうまくいくからいけないのかな?ちょっとでもうまくいくとさ、何でもうまくいって、世界を思い通りに動かせるような気になるんだよ。実際は何にもうまくいかないのにさ」

 何も期待しなければいいが、それが難しいと言うと木津は頷いた。

「そうそう、誰かが教えてくれりゃいいのにさ。どれに期待して、こういうことには期待しない方がいい、とかさ」

 極端だったら楽だ、全くうまくいかなきゃ諦めもつく。でも。現実は違う。僕はそう言った。

「何て言うかさ、世界はカラフルなのに俺たちは白と黒でしか見えないんだよな。だから微妙な色も全部白か黒に振り分けようとしちまう」

 木津はタバコに火をつけ、水色の液体を一気に飲み込んで、ニヤリと笑った。

「黒澤はさ、俺が暗い話始めてもさ、一緒に暗い話してドン底まで一緒に落ちてくれるから楽だよ」

 木津は鼻を拭いながら言った。僕は何も言わない代わりに、木津のタバコを一本抜き取り火をつけた。甘さと苦味が口から肺を通り鼻に抜けた。僕もコーヒーを一息で飲み干し、笑った。

 喫茶店を出て吉祥寺駅に行くと、終電の新京成線に間に合う中央線の電車が来ていた。僕達は軽く手を上げ「じゃあ日曜日な」と言って別れ、僕はギリギリ電車に乗り込むことができた。窓から反対のホームが見えた。ホームに立っていた木津は笑っているように見えた。もしかしたら泣いていたのかもしれない。どちらでもいい。窓から西の空を見ると月は沈んでいた。

 同じ車両にはショッキングピンクのタイトスカートを履いた女と、それをチラチラ横目に見ている中年の男しかいなかった。座って目を閉じながら、君が言っていたことを思い出した。


 ☆ベガとアルタイル

「涙が流れないからって泣いてないとは限らないよ」

 雲一つない暑い夏だった。

「逆もそう。みんな表面しか見てくれないもん」

 照れ臭そうにはにかみ、何でもないことのように言った。強い口調ではなかった。

「スイは強いよ。でも、とっても弱い。いっつも笑ってる泣き虫くん」

 君は夏でもスキニーのデニムを履いていた。決まって上はラフなTシャツだった。Tシャツは長すぎず、かといって体のラインが強調されているわけでもなく、袖からは君の乳白色の上腕が少しだけ覗いていた。冬になればTシャツがチェックのネルシャツやパーカーに代わった。野暮ったく見えてしまいそうな格好だが、それは君によく似合っていた。Tシャツから伸びた細い前腕には、角ばった白い時計が不釣り合いだった。

「みんながみんな体で心を表すわけじゃないのにね」

 簡素な格好が、腰まで伸びたほつれのない美しい髪を際立たせた。君の髪は室内だと黒く、外だと薄く茶色がかって見えた。風が吹くと髪は流れに逆らわず、ふわりとなびいた。なびいた髪に光が当たり、黄金色に輝いた。

「さようなら」

 君の声は震えていた。

 目鼻立ちがはっきりしているわけではなかったが、君の目は大きく印象的だった。

 大きな目から涙も流してもいなかったし、控えめでちいさな口の端は上がっていたが、君は泣いていた。僕も一緒だった。


 ♤下弦の月

 少し眠っていたらしく、御茶ノ水駅に着いた時に、乗り換え案内のアナウンスで目を覚ました。ピンク色のスカートを履いた女も中年の男もいなくなっていた。

 総武線に乗り、西船橋駅に着くまで眠っていた。巡回していた駅員に促されて、電車を降り、二番線から五番線へと乗り換え、東葉高速線に乗った。

 東海神駅を通過した時に雨が激しく降り始め、北習志野駅から家に向かう時にずぶ濡れになった。分厚く黒い雲は、天井の壁紙みたいに空に張り付いていた。

 家に着くと誰かがシャワーを浴びている音がした。タオルで頭を拭きながら、志穂の部屋に入った。部屋に入ると、大きなクッションに黄色と赤のニット帽とクリーム色のコートが無造作に脱ぎ捨てられていた。部屋の窓際にはサーモンピンクのシーツに覆われたベッドがあり、その横には学習机があった。学習机の下には肩掛け鞄が置いてあった。その中から分厚い茶封筒がはみ出していた。少し湿った茶封筒には「あやなさんへ」と汚い字で書かれ、中には一万円札が十六枚と紙が入っていた。『三ヶ月分+ピル代』と書かれていた。志穂が風呂から上がる前に、部屋を出て自分の部屋に入った。自室でキャスター付きの椅子に座り、チュッパチャップスを舐めた。気づくとプラスチックの棒がねじ曲がるまで噛んでいた。風呂場からはえずく声が聞こえた。

 電車で読めなかった文庫本を開いた。小説の中では、主人公の初体験の相手が飛び降り自殺をし、彼の初恋は終わりを迎えていた。志穂が部屋のドアを閉める音が聞こえた。本を閉じた。手作りのフレンチグレイの栞は分厚く、読んでいた文庫本が歪んだ。僕はシャワーを浴びた。風呂場は少し吐瀉物特有の酸っぱい匂いがした。僕は笑い声が外に漏れないようにするのに必死だった。コーヒーのせいでなかなか寝つけなかった。


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