第四話 君の名前は
名を呼べることは幸せだ
「今更になってしまったけど、私、みんなのことをなんて呼べばいいの?」
クッキーと紅茶を食べ終え、うさぎ姉弟の家を出る際に、「そういえば」とモモが声を掛ける。
モモと少年を除いた3人は、少し不思議そうに首を傾げたが、やがて、うさぎ姉が両手をぱんっと叩いて「そっか」と呟いた。
「私は菜の花のうさぎよ」
「ナノハナノウサギ……?それが名前?」
「ええ」
当然、とでも言うように、うさぎ姉――ナノハナ姉が答える。
(それは、種類の名前であって、あなたの名前ではないのでは?)
モモはそう思ったが、一方で、どこか心に引っかかりを覚える。
「菜の花のうさぎの子だよ」
うさぎ弟――ナノハナ弟が続けて答える。
種族としての呼び名とは別に、個を識別するために必要なはずの名前がない。その奇妙さに馴染めないという理性と、それをすんなりと受け入れようとしている感情が並存し、モモは困惑する
「……サルビアの猫よ」
最後に、猫の少女が名を告げた。それと同時に、モモには猫の少女の背後に、ふと白くぼんやりとした人影が見えた気がした。
名前の引っかかりと共に、何かが欠けているような、不思議な感覚だった。
これが「忘れ物」なのだろうか、とモモは絡み合っていく思考の中でぼんやりと思う。
何か脳裏にもやがかかっているような、霧の中にいるような、そんな感覚が強くなる。
それは、まるで目眩みのようになり、モモが思わずふらつきそうになったところを、猫の少女が肩に手を当てて支えた
「大丈夫?」
猫の少女――サルビアが心配そうにモモの顔を覗き込みながら背中をさする。そのうちに、脳裏にあったもやのような何かは薄れ、意識がはっきりと戻ってきた。
「ん。大丈夫、ありがとう」
モモがサルビアの肩を借り、まっすぐ立ち直す。
「どういたしまして」
サルビアはそう言うと、最後にもう一度、モモの背中を軽く撫でてにこりと笑った。
「あなたの名前も聞いてない」
彼女たちのやりとりを少し離れた場所で見ていた少年は、その言葉は想定外だ、とでも言うように、これまで浮かべた笑みを消して、目を見開いた。
「僕?」
「……え?聞いてないよね?」
少年の反応に、まさか、聞いておいて忘れたのだろうか、とモモは不安になったが、彼が「うーん」と唸り始めたので、どうやら忘れたわけではないらしい、とほっとする。
「イツキ、と呼んでくれればいいよ」
「……イツキ」
モモはその名を口の中で小さく呼び直すが、他の子たちとは違い、何か引っかかりを感じることはなかった。それが何を意味しているのか、そもそも先ほどの引っかかりにも意味があるのか、彼女には判断できない。
ただ、本当の名前ではないのだろうな、と、なんとなくそう思った。
▽▲▽▲
「この季節だと、森にはきのことか、木の実とか、おいしいものがたくさんあるのよ。みんなで良く採りに来たんだから」
「みんな?」
「お父さんとか、お母さんとか。白樺の鹿ちゃんとか」
▽▲▽▲
「夏だと、この先の湖畔で水遊びしたりとか、大きな白鳥のボートに乗って遊ぶんだよ」
「湖畔で遊ぶときは、サルビアの猫ちゃんも良く一緒だったよね」
「水は苦手だから、ボートに乗るぐらいだったけど」
「水苦手ならどうして遊びに来たの?」
「白鳥のボートが来るときは、アイスクリームを乗せたワゴンも一緒に来てくれるんだよ。いろんな味があって美味しくて、サルビアの猫のお姉ちゃんもよく食べてたよね」
「……そういうこと?」
「……違うわよ」
▽▲▽▲
ナノハナ姉弟が森や湖を案内しながら思い出を語り、モモはそれを聞きながら周囲の景色を眺めていた。
思い出を聞いているうちに、時折意識にもやがかかったかのようになる時があったが、その違和感を察してくれたのか、ある時からはサルビアがモモの手をずっと握ってくれていた。
手の平から伝わる温もりが心地よく、人とは違う柔らかな感触に、つい指先で肉球のへりを沿わせてしまったりすると、くすぐったいのか、「ひやっ」と高い声を出して毛を逆立て、その様子がとても可愛く思えた。
暖かいはずの手が、時々冷たく感じる事もあった。だが、それは、肉球を面白がって触ている内に、他の、握っていなかった場所に触れたりすると感じるような冷たさでもあった。
ちなみに、肉球のヘリを触るいたずらが4度目にもなると「あんまりいたずらすると、怒るからね」と、サルビアが睨んだが、モモにはそんな表情すらも可愛く見えてしまい、あまり効果があったとは言えなかった。
道中、少年――イツキは、そんな四人の後ろを、少し離れてついてくるだけだった。モモに名前を名乗って以降は、特に何を話すでもなく、尋ねた名前を呼びかけることもなかった。
▽▲▽▲
「あれ?ワゴン?」
ナノハナ弟が急に立ち止まると、湖畔の脇の木々の一角を指さした。一行も立ち止まって、指先の示す方角を見るが、ワゴンらしき姿は見当たらない。
「もう夏も終わっているから、ワゴンは来ないわよ」
「……近づけばわかるんじゃない?」
ナノハナ姉に諭されて、少しふてくされた様子のナノハナ弟を見て、サルビアが弟の頭を撫でながら、そう提案した。
▽▲▽▲
「ほらっ、ワゴン!」
ナノハナ弟がワゴンを見つけた、と言ってからしばらく湖畔沿いを歩いていくと、木々に遮られていて見づらかった視界が少しずつ開けてくる。開けたその先には、ナノハナ弟が言うように、確かにワゴンらしき車が一台、止まっているのが見えた。
全体が緑色に塗られた車体は、木の陰でこげ茶色のような色をしており、一見すれば周囲の樹とほとんど見分けがつかなかった。
「……こんなの、良く見つけたわね」
ナノハナ姉が呆れたように呟くのを聞いて、弟が胸を張った。
そのワゴンは一般的なワゴン車とは違い、ショッピングモールの販売等で利用されるような、本格的なカスタムワゴンのように見えた。
先ほどまで居た民家とは、まるで時代感の違う乗り物が現れ、急に身近な存在に出会ったような感じがして、モモは苦笑する。
――そういえば、こんな世界観だっけ。
自分は持っていなかったが、遊具がやけに近代的だったり、幼稚園バスがあったり、森の中の村のはずなのに、時折場違いなほど近代的な設備があったりして、でも、あの頃はその事に何の疑いも持っていなかった事を思い出す。
自分が持っていたのは、菜の花のうさぎの少女の家と、森の遊具で、ワゴンとボートは持っていなかった。それを持っていたのは――で、一緒に遊ぶときには、良く持ってきてくれていた。
「どうかした?」
サルビアが突然立ち止まったモモを見て、心配そうに背中に手を添える。その声と感触に、モモは「はっ」とした。いつの間にか考え込んで立ち止まっていたらしかった。
「まだ体調が悪いの?」
「ううん、大丈夫。このワゴンを見ていたら、少し考え事をしてしまって」
「考え事?」
「うん。ワゴンって言えば――」
そう言いかけて、モモは言葉を止めた。
自分は今、何を「思い出して」いたのだろう。
それは確かに、この世界の記憶だったはずで、けれど、この世界ではない記憶だったような気がする。しかし、一度霧散してしまったその思考は、まるで糸が切れてしまったかのように、もう一度手繰り寄せることが出来なくなっていた。
イツキは、そんな二人の様子を眺めている内、ふと、視界の端に映る一本の木に気づく。
森の中にいる為に、常に薄暗く、木漏れ日の差し込む光だけが、柔らかく周囲を照らしている。その光も、少しずつ傾きを強くし、差し込む光もわずかではあるが、少なくなり始めていた。
そんな常緑樹の林の中に、時折白い光が、はらはらと舞うようになびいているのが、彼の目に留まった。
「もう少し、かな」
そう呟くと、彼は先を歩いている四人を追いかけるように、少し歩を早めた。
それは誰かと繋がる証だ




