第二話 不思議の森のうさぎと猫
最初はどこだって見知らぬ世界だ
少女の身長は160cm程度だが、目の前の人型の猫も同じくらいの背丈に見えた。頭の上にピンと立った2つの大きな耳を加えれば、少女よりも頭一つ高いくらいで、それはちょうど少年と同じくらいの高さに見えた。
全身を覆うアッシュグレイにわずかに白がかった短めの毛並みは、艶やかで、木漏れ日の光を受けた部分は、まるでシルバーネックレスのように鈍く輝いて見える。
紫を基調に、黒のチェックが入ったワンピースが愛らしい。
いつの間に自分は夢の国に入り込んだのか。
その夢の国に少女を連れ込んだ張本人は、少女の様子を見てにこやかに微笑んでいる。
「ねぇ、これって……」
少女が人型の猫を指さし、少年に問いかけようとしたタイミングで、民家から更に別の人影が見えた。猫の少女よりも細長い耳がピンと立ったそれは、どう見てもウサギのそれだ。新しく現れた人影は二人。姿形を見る限り、うさぎの姉弟のように見えた。
人型の猫と同じぐらいの大きさをしていて、白のブラウスに赤のチェックのスカートを履いている方が姉。その姉の胸元ぐらいまでの大きさで、紺に白と灰のストライプのシャツ、こげ茶色のジーンズを履いているのが弟だろう。
猫が出てきたときは、夢の国かと思ったが、そこにはウサギのキャラクターはいないはずだ。それよりは……。
「モモちゃんだ!」
少女の脳裏に何かが引っかかりそうになっていたところに、うさぎ弟(仮)が飛びついてきて、もう少しで手にできそうだった何かが霧散する。
(モモちゃん?)
それは少女の呼び名だった。
しかし、それを何故、この子が知っているのか。
小さいながらも、うさぎだからか、勢いのある突進に、少女――モモは思わず後ろに倒れそうになる。それに気づいた少年が、咄嗟に彼女を支えるように受け止めた。
「ありがとう」
見上げるような形で少年と目が合い、また頬が熱くなる。
思わず、抱きとめるような形になったうさぎ弟(仮)は、嬉しそうにぎゅっと彼女に抱きついていて、無下に振りほどくのは躊躇われた。
とは言えこのまま、少年の腕にもたれかかっているわけにもいかず、モモはとにかく体勢を立て直す。こんなわけもわからない状況だと言うのに、うさぎ弟(仮)のふわふわの肌ざわりが気持ちよく、ついきゅっと抱きしめてしまう。すると、数秒後に、うさぎ弟(仮)は突然、モモの背中をぱんぱんと叩き始めた。
「あ、ごめん」
なんとなく察して、モモは腕の力を緩めた。すると、その胸元から覗き込むように、うさぎ弟(仮)が顔を覗かせる。白い毛並みで覆われていて分かりづらいが、心なしか、肌が少し赤くなっていた。
「死ぬかと思った」
「ごめんね」
人と違って毛並みがある分、力の加減が難しい、とモモは苦笑する。
「遊びに来てくれたの?」
うさぎ弟(仮)の嬉しそうな声が、彼女の思考を現実に呼び戻す。
まるで、少女がここに来たことがあるかのような言動。少女の呼び名。けれど、ただ少女――モモをからかうにしては、今腕の中にある手触りは、あまりにも生き物そのものであり、とても着ぐるみとは思えなかった。
「ごめんね。遊びに来たわけじゃないんだ」
モモはそう言って、うさぎ弟(仮)をそっと離すと、少年の方を向き直る。
「あの……、ここはどこですか?それから、忘れ物って何ですか?私、バスに乗って帰りたいんですけど」
事情も状況もよく分からない。それでも、彼女には今のこの状況が悪意によってもたらされているものだとはどうしても思えなかった。
そうであるなら、そもそもの発端である少年に、今の状況を聞いてみよう、そう思って尋ねたのだが――
「……私たちのこと、忘れちゃったんですか?」
モモの質問は、更なる質問となって、猫の少女から返ってくることになった。どこか、悲しげな表情に見えるのは、単なる思い込みだろうか。
「あの――」
猫の少女にかけるべき言葉が見つけられず、立ち尽くしたモモに、今度はうさぎ姉(仮)が声を掛ける。
「とりあえず、座ってお話しませんか?おいしいお茶とお菓子があるんです」
「おいしいお茶とお菓子をどうぞ」、不意にモモの脳裏にそんな声がよぎった気がしたが、それが幻聴なのかなんなのか、彼女には分からなかった。
▽▲▽▲
うさぎ姉(仮)に招かれ、民家の玄関を抜けると、そこにはカントリー風の装飾のリビングが広がっていた。右手奥にはカウンターキッチン、左手奥には暖炉があり、その手前には3人掛けぐらいのソファが置かれている。そして、脇にはロッキングチェアが1台。
また、左手前には螺旋階段があり、階段に沿って上を見上げてみると、天井は吹き抜けになっていて、下から2階の廊下が見えた。廊下に沿うように扉が2つ並んでいて、その奥にはおそらく寝室があるのだろう。
大人の寝室は広いダブルベッドで子供の寝室は二段ベッドだったような気がする。
ひと昔かふた昔前の作りの家のように見えたが、壁も、柱も綺麗なままで、一瞥しただけなら新築と言っても良いほどだった。
キッチンの手前、玄関を入ってすぐ右手側には、大きなダイニングテーブルがあり、モモはそこにある椅子の1つに座るよう案内された。
彼女は未だ現状を掴めず、頭は混乱の最中にあった。しかし、一方で、おとぎ話にでも出てきそうなこの光景に、少し心踊っているのも、また事実だった。
うさぎ姉(仮)が綺麗なティーカップに、薄い紅色の液体を注いでいく。テーブルの上には、手作りと思われるクッキーが数枚、各人の皿の上に盛り付けられていた。
「ありがとうございます」
ティーソーサーにカップがそっと置かれるのを見て、モモはうさぎ姉(仮)に礼を伝えるが、流石にすぐに手を付ける気持ちにはなれなかった。そうして、うさぎ姉(仮)が席に着くのを待って、少年に問いかける。
「それで、ここはどこなんですか?彼女たちはどういった人たちで、私の忘れ物って何のことですか?」
モモは、出来る限り問い詰める感じに聞こえないよう、1つ1つの質問を区切るようにして伝えた。責めたいわけではないのだ。
彼女の質問を聞き終えた少年は、彼女が口にすることを躊躇った飲み物を、気にする必要はない、とでも言うように、口にした。
「ここには、君の忘れ物を探しに来たんだよ」
ティーカップをソーサーに戻して、答える。
「……その忘れ物って何ですか?」
「それは、君が思い出すんだよ」
「意味がっ――」
質問をはぐらかすように答える少年に、モモは徐々に苛立ちを覚え、声を荒げそうになったところで、少年が右の手のひらを向けた。
「君は、どうしてここにいるんだい?」
「……あなたがここに連れてきたから」
少年に手のひらを向けられ、モモは一度息を吐き出す。
誤魔化されてはならない、とは思うが、一方で、冷静でなければならない、とも思う。
彼が手のひらを見せた行為は、その意味ではありがたかった。
「では、その前は?」
「その前?」
少女の聞きたいことは、「ここはどこなのか」であり、「自分はどこから来たのか」ではない、と、そう少年に伝えようとして、言い淀む。どうして、少年はそんなことを気にするのか。
「君はバスに乗って、あのバス停まで来た。では、その前は?君は、どこにいたんだい?」
少年の手の平が次第にモモの視界を覆いつくすように感じる。彼は椅子から少しも動いていないのに、だ。それは錯覚なのか、幻覚なのか。
だが、今はそれはどうでもいいことだった。
(バス停で降りる前は、バスに乗った。どこで。学校の――。学校の?
あれ?私、バス――)
モモの記憶に白いもやがかかったかのようになり、それに合わせて、どんどん意識を薄れていくかのような感覚に襲われる。そうして、ふっと意識が途切れそうになったその時
――ぱんっ
少年が両の手の平を叩いた。その音に引きずられるように、モモの意識も呼び戻される。周りを見渡せば、うさぎ姉弟(仮)と猫の少女が心配そうに彼女を見つめていた。
「ここには、君の忘れ物を探しに来たんだよ」
少年は、先ほどの言葉を繰り返した。だが、同じ言葉が今度はまるで違って聞こえた。
「でも、何を忘れたかも忘れてしまっている。だから、一緒に探すんだ」
遠回りのようではあったが、それは確かにモモの質問に対する答えの1つだった。
「モモちゃん、何を忘れたのかも忘れちゃったの?」
うさぎ弟(仮)が少年に問いかける。
「そうだよ。だから、君たちのことも忘れてしまってるだろ?」
「そうなの?」
くりんとしたつぶらな瞳がモモに向けられる。
(この子達は私を知っているのに、私はこの子達を知らない。でも、それは、知らないのではなく、忘れているのだとしたら。確かに私は「忘れ物」も忘れているのかもしれない)
「ごめんね」
真実はまだ分からない。でも、モモが何かを忘れていることが確かになった今、少年やこの不思議な子達の言葉が嘘であるとは言えなかった。
「でも――」
仮に少年の言葉が事実だったとして、彼女が何かを忘れているのだとして。
「どうすれば、「忘れ物」を探せるの?」
「忘れ物」とは何か、それを思い出すことが出来るのは彼女自身だと、少年は言った。それは、少年が彼女の「忘れ物」を、本当は知っているのではないからだろうか。だったら、その探し方も……
「本当は、私の「忘れ物」が何か、知っているんじゃないの?」
「そうなの?」
モモの言葉に、うさぎ弟(仮)が少年の方を振り向く。先ほどから、少年を見たり、モモを見たりと忙しい。
うさぎ姉(仮)も、猫の少女も、その言葉を待つように、少年の方をじっと見ていた。
「君が「忘れ物」をしたことは知っている。でも、何を忘れたのかは、本当に知らない」
少年の笑みは崩れない。これまでは自然の笑みに見えていたものが、不意に作り物の笑みに見えた。それは、少年の表情があまりにも変化しなかったからかもしれなかった。
作り物の笑みには見えない、自然なはずの微笑みが、なぜか作り物に見える。少女はそれを恐ろしく感じながらも、どこかそれを受け入れてもいた。作り物、というならば、この空間自体が作り物のようだからだ。
作り物には感じられない、存在しないはずの生き物、表情を変えないままの少年、どこかから切り取られたかのように突然現れた広場、ある時代の家を思い起こさせるショールームのような家。
それも命の息吹を感じさせるのに、どれもが違っているような、そんな違和感を感じる。
「どうすれば、「忘れ物」を思い出せるのかも、はっきりとは分からない」
少年はモモの心の動きに気づいているのだろうか。先ほどから変わることのないその表情から、それを読み取ることは出来ない。
「ただ、みんながいつも通りにしてくれれば、思い出せるんじゃないかな、ってそう思っているよ」
最後はどこだって見慣れた世界だ