02.用意周到な夫
出張の予定を聞いてからというもの、ノエルは本当に仕事以外の時間は私から全く離れようとしなかった。
そうしてついに、出張の日を迎えた。
ちょうど休日だから、私はノエルが出発するギリギリまで一緒にいた。
「もっと早くにこうなるとわかっていたら、長距離転移魔法を習得していたのに。そうすれば出張があっても、毎日家と出張先を往復できたはずだ」
「国境を越える転移魔法は非常時ではない限り禁止されているのよ。習得しても、私的な利用はできないわ。魔術省の人間ならわかりきっているでしょう?」
黒を基調としたシャツと上着にトラウザーズを合わせ、魔術省の制服である紫紺色のローブを羽織ったノエルはしゃんとしていてカッコいい。
だけど、私を見つめる表情は、訴えかけてくる仔犬のそれで。
その絶妙なギャップに、何とも言えなくなる。
思わずよしよしと頭を撫でると、大きな仔犬は私の頭に小さくキスを繰り返してきた。
「レティ、いいかい? 見たこともない薬草を見つけても、不用心に近づいてはならないよ?」
「わかっているわよ。ジルが安全を確認してから近づくから、安心して」
「忙しい時期だけど、帰りが遅くならないようにね。念のため、御者には決まった時間に迎えに行くよう言っているから」
「はいはい。残業はほどほどにするわ」
「それと、私の知り合いを名乗る者が現れてもついて行かないように――」
ノエルの不安は尽きないようで、次から次へと注意を受ける。
私はノエルの子どもか、と思わず突っ込みを入れたくなるほどだ。
このままでは日が暮れてしまうと思っていたその時、見かねた御者がノエルに声をかけてくれた。
「ご主人様、もうお時間ですよ」
「ああ、わかっている。……レティ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい。ノエルの帰りを待っているわ」
「レティ……、早く帰ってくるからね」
ノエルは切なげな表情を浮かべると、私を更に抱き寄せて啄むようなキスをした。
心の底から愛してくれているのだと実感するほどの優しくて甘い感覚に、胸がきゅっと軋む。
私は両手でノエルの頬を包み込み、キスを返した。
「無理をしないでね。ジルを通して連絡をちょうだい」
「ああ。絶対に連絡する。レティも、体に気をつけて」
ノエルは名残惜しそうにゆっくりと体を離すと、馬車に乗り込んだ。
程なくして馬車が走り出すと、窓から身を乗り出して手を振ってくれる。
(とても悲しそうな顔をしているわね。哀愁を漂わせているわ)
そんなノエルを見ていると、売られていく仔牛の歌が思い出され、頭の中で繰り返して流れるのだった。
***
――その翌日の放課後。
魔法薬学準備室で試験問題の作成を終えると、ちょうど帰宅する時間が差し迫っている事に気づいた。
「さて、御者が迎えに来るまでに帰りの準備をしないといけないわね」
扉を叩く音が聞こえてきた。
返事をすると扉が開き、見覚えのある人物が入ってきた。
「レティシアー! 久しぶりー!」
「ミラ?!」
前ウンディーネことミラだ。
ミラは部屋の中に入ってくるなり一目散に駆け寄って、私に抱きつく。
よろめきそうになりながら受けとめていると、彼女の背中越しにもう一人の訪問客が見えた。
刈り上げた赤色の髪が印象的な、仏頂面の男性。
銀縁メガネをかけており、几帳面そうな印象を受ける。
(誰?!)
すぐには正体がわからなかった。
ただ、ミラと一緒にいる赤色の髪の男性と言えば、あの人しかいない。
「もしかして、ダルシアクさん……ですか?」
「ええ、そうですよ。幽霊でも見たような顔をしないでください」
「そのようなつもりは……髪が短くなったので、誰なのかわからなかったんです」
「はぁ……、魔力で判断できない人間はこれだから嫌なんです。私の固有魔力を見ればすぐにわかるでしょうに」
「ごく一部の人間しかできない事を、当たり前のように言わないでください!」
この世界では、魔力が高く特別な鍛錬を積んだ人は、自分より魔力が低い人の魔力を識別できる。
魔術省で働く人たちはみんなできるらしいけれど、それは彼らが高い魔力を持っているからできるのであって、大抵の人はできない芸当だ。
(久しぶりに会ったのに、十秒も経たないうちに嫌味を言ってくるなんて相変わらずだわ)
見た目は百八十度変わったけれど、中身はそのままのようで。
この人は顔を合わせると嫌味の一つは言わないと気が済まないらしい。
「ところで、どうして二人がここに? しばらくはノックスから離れると言っていましたよね?」
「主からの命を受けてきたんです。どこぞの魔法薬学教師が無謀な真似をしないように、見張っておくようにと」
「えっ?」
「全く……あのお方のご命令ではなかったら、わざわざ子守の為に国境を越えませんよ」
「子守って……私、もうとっくの昔に成人しているんですけど?!」
そこは護衛と言えばいいだろうに敢えて子守と言うなんて、つくづく失礼な人だと思う。
結婚したらダルシアクさんのこの性格も変わるかもしれないと思ったけれど、どうやらそう簡単には変われないらしい。
嫌味を言う癖は筋金入りのようだ。
「まぁ、もう一つ気になる事がありましてね。調べる必要があるから赴いたんですよ。――おや、私が探す前に、あちらから来てくれたようですね」
「ええと……誰が?」
私の問いにダルシアクさんが答える前に、トントンと扉を叩く音が聞こえてきた。
「ひいっ!」
「も~、レティシアったら、怯え過ぎ」
「だって、この話の流れで誰か来たら怖いわよ!」
ホラー映画さながらのタイミングの良さに、誰だって心臓が跳ねて口から飛び出しそうになるはずだ。
そもそも、二人は相手の予想がついているから怖くないのであって、初めて聞かされた私が怯えるのは当然の事だろう。
「あ、あの~、どちら様でしょうか?」
震える声で、扉の外にいる人物に呼びかける。
返事はすぐに来た。
「ファビウス先生、少しお話があるのですが、中に入ってもよろしいでしょうか?」
「セルラノ……先生……?」
声の主はセルラノ先生だった。
まさかと思ってダルシアクさんの顔を見ると、彼は眼差しを険しくして扉を睨んでいる。
「呼び入れて構いません。ちょうど、彼に用がありますので」
「え、ええ~っ?!」
ダルシアクさんの声は緊張感を孕んでいて。
穏やかならざる空気のせいで、冷や汗がたらりと背中を伝った。
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